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その男、《赤獅子》。

 

 そこも、貧民のための場所だった。

 ただし、オークリーたちが暮らしていた区域とは雰囲気がまるで違う。


 病で身体を横たえている者。骨と皮だけのように痩せ、飢餓寸前まで追い込まれた者。そして、すでに息絶えた者。

 狭い道の両側に、肩を寄せ合うようにして並んでいる。光を失った目。やつれた頬。衣服から覗く骨ばった腕と脚。

 汗と排泄物、古い血、腐りかけた食べ物が混ざったような異臭が鼻についた。


 こちらを見ている者もいる。だが、何かを求めて声を掛けてくる者はいない。ただ、じっと見ていた。気軽に話しかけられる雰囲気ではなかった。

 黒い外套の男が通り掛からなかったかを尋ねたかったが、まともに会話ができそうな人族を探しても、それらしい者は見当たらない。


 商店区域へ戻って聞いて回った方がいいかもしれない。レインが踵を返そうとした、その時。


「きゃっ——!」

 近くで、女の悲鳴が聞こえた。よく知っている声だった。

「セレナ」

 心臓が嫌な鳴り方をした。


 迂闊だった。自分を追って来てしまったのだろう。声がした方へ走る。

 先ほどまで黒い外套の男を追いかけていた時より、なぜか呼吸が苦しく感じた。


 路地を曲がる。そして、いた。十数人の人影に囲まれた、その中。

 セレナは見知らぬ男の腕の中で、身体を捻りながら抵抗していた。


「レインさん……っ」

 こちらに気づいた彼女が、泣きそうな声を上げた。


 レインは立ち止まり、周囲を見る。どいつも賊のような軽装備だった。

 年頃も自分と大して変わらない者が多く、ざっと見ただけでも十四、五人はいる。人間だけではなく、耳や肌の色、体格の違う、これまで見たことのない種族も混じっていた。


 一人が口元を歪める。

「おや、おやあ。英雄(ヒーロー)登場ってかぁ?」

「……彼女を、放せ」


「聞こえねぇなあ!」

 男たちの間から笑い声が上がった。


 さすがに数が多い。だが、見捨てるという選択肢は、最初からなかった。


 背後から、足音が迫る。レインは咄嗟に身体の向きを変えた。

 横から伸びてきた腕を避け、その手首を掴む。

 腰を落とし、相手の勢いを殺さず、そのまま地面へ身体を叩きつけた。


「ぐぇっ」

 間抜けな声が響く。


「こ、こいつ!」

 別の男が声を上げた。

「やっちまえ!」

 一斉に動き始める。


 魔物より、人族の方が恐ろしい。

 鍛錬すれば、誰であってもある程度までは強くなれる。相手の動きを学習し、それに合わせて連携まで変えてくる。


 連携という意味ではゴブリンも厄介だった。だが、人族はそれを大きく上回る。

 最初に一人。次に二人。正面から来た拳を避け、脇へ抜ける。そこへ別の男の蹴りが伸びてきたため、身体を低くして躱した。

 さらにもう一人。——右から。

 勘のいい奴なのだろう。嫌なくらい、右手側へ入り込もうとしてくる。


 幸い、商店街の雑踏からは少し離れている。人の声や荷車の音が少ない分、足音を頼りに位置関係は把握できた。

 一人一人は、大して強くない。息を合わせて攻撃を仕掛けられても、それ自体には対応できる。


 ただし、人数が多い。それなりに頑丈で、身のこなしも悪くない。一人を地面へ沈めても、別の奴が来る。

 相対者を退けているうちに、さきほど倒した一人がまた起き上がる。

 やはり、体術だけでは決め手に欠ける。倒しても倒しても、少し経てば立ち上がってくる。


 徐々に呼吸が荒くなる。肩がいつもより上下する。

「はっ……」

 駄目だ。息が——。


 その瞬間、右頬に重い衝撃が入った。

「っ!」


 視界が揺れる。身体の芯まで衝撃が伝わり、殴られた方向へ数歩よろめいた。口の中に、鉄のような味が広がる。


「お? 入った」

 男が嬉しそうに言った。


 レインは口元を手の甲で拭った。

 血が付いている。視線を上げた。


 ……このままだと、セレナが連れ去られる。

 どうする。 短剣を抜くか?

 幸い、この貧民区域にも商店区域にも、衛兵の姿は見当たらなかった。

 殺しはしない。腕や脚の関節を切り、すぐに立ち上がれない程度に動きを奪う。正当防衛だ。何も問題はない。


 レインが借りたままの短剣の柄へ手を掛けた、その時だった。

 つい最近聞いたばかりの、大きな声が響いた。


「やや! 一人相手に大人数とは、卑劣であること極まりない! 武人たる者、如何なる時も対等であるべし!」


 その場にいた全員の視線が、一斉に声の方へ集まった。

 道の向こう側。昨日、道具屋で見掛けた大きな男が立っていた。


 赤茶色の髪を肩まで伸ばし、その下には分厚い首と肩がある。

 衣服から覗く腕も太く、背中には大剣と呼ぶにも幅が広すぎる、長大な得物を背負っていた。


 一人の軽装の男が顔をしかめる。

「誰だ、このおっさん」

「——儂か?」

 大男は待っていましたと言わんばかりに胸を張った。


「儂の名は、《赤獅子》のヴォルフガング! 引退して時は経ってしまったが、一度くらいは聞いた名だろう、若造たちよ!」


「はあ? 知らねーよ」

「なあ、おまえ、聞いたことあるか?」

「いやあ、初めて聞いたわー。そんな奴ぅ」

 周囲の男たちも口々に言ったが、反応はどれも同じだった。


 ヴォルフガングの表情が僅かに固まる。

 そして、ゆっくりと、こちらを見た。


「もしかして、貴様も、か?」

「……」


 できる限り、嘘はつきたくない。

 レインは無言で頷いた。


「な、なぬぅ……」

 ヴォルフガングは額を押さえ、巨体を震わせた。


「何なんだ、このおっさん」

「めんどくせえわ。やっちまえ」


 軽装の男たちは、いつの間にか標的を変えていた。

 数人が一斉にヴォルフガングへ向かう。


「言ってる側から——だが、笑止!」

 声と同時に、男の雰囲気が変わった。

 さきほどまでの大仰で騒がしい男が、突然鎮まったかのように見えた。巨体にもかかわらず、無駄な動きがない。


 一人目が拳を振り上げる。

 ヴォルフガングは腕ごと掴むと、その勢いを流すように身体を回し、軽々と投げ飛ばした。


 次も掴み、投げる。

 また一人、同じように投げる。

 赤子の手をひねるというのは、こういうことを言うのだろう。

 少なくとも、ヴォルフガング本人にとってはその程度にしか思えない。


 そこへ、リーダー格らしい男が向かった。手には刃物が握られている。

 男が踏み込んだ。だが次の瞬間には、ヴォルフガングの姿が一瞬消えたように見えた。


 大きな影が懐へ入っていた。低く踏み込み、掌底を男の胴へ突き込んだ。

 リーダー格の身体が、地面から浮いた。そのまま後方へ吹き飛び、路上へ仰向けに転がる。


 身体が一度だけ跳ね、そのまま動かなくなった。口元から泡を吹いている。


 なんとか起き上がろうとしていた者。

 投げられたまま地面に倒れていた者。

 ヴォルフガングへ向かう途中だった者。

 全員が、それを見ていた。いや。——あるいは、音だけでも充分だったのかもしれない。


 ヴォルフガングは、不思議そうに首を傾げた。


「む? かなーり手加減したつもりだったのだが、なかなか難しいものだなぁ……」

 少し考える。


「……いや、違うな。お主ら、鍛え方が全く足りんのではないか」

 軽装の男たちの表情が引きつった。


 ヴォルフガングは、何か閃いたように顔を上げる。

「——よし、わかった! 儂が、全員鍛えてやろう!」


 その言葉を境に、辺りが完全に静まり返った。


 誰かが呟く。

「……やべーぞ、このおっさん」

「女なんて言ってる場合じゃない! 逃げろ、逃げろ!」


 それが合図になった。男たちは一斉に踵を返し、蜘蛛の子を散らすように逃げていく。

 セレナを捕まえていた男まで手を放し、後ろも振り返らず走り去った。


 足音が遠ざかる。

 やがて、その場には三人だけが残された。

 レイン、セレナ。そして、《赤獅子》を名乗る大男。


 ——ヴォルフガングと目が合った。

 その男は、ニタリと笑った。

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