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-ウシナウ-(2)

 朝は来なかった。


 正確には、夜が終わる前に、街が目を覚ましてしまった。


 最初は遠い雷のような音だった。海の方ではない。北だ。乾いた大地の向こうから、腹の底を叩くような重い音が何度も響いた。窓枠が震え、棚の上の紙包みが小さく滑る。窯の火はまだ赤かったが、その赤さが急に頼りなく見えた。


 エヴァンは作業台の前で手を止めた。

 硬焼きパンは、まだ半分も焼き上がっていない。

 シャルルも、粉の器を持ったまま動かなかった。


「エヴァン」

「ああ」


 それだけで足りた。


 次の音は、もっと近かった。

 破裂音。空気が膨らみ、壁が鳴る。店の表の方で、誰かが走った。ひとりではない。二人、三人、もっと多い。石畳を蹴る足音が、ばらばらに重なっていく。

 外で鐘が鳴った。

 教会の鐘ではない。市庁舎の警鐘だった。短く、速く、乱暴に鳴らされる。火事の時の鳴らし方とも違う。エヴァンはその音を聞いたことがあった。訓練の時に一度だけ。街の北側が攻撃を受けた場合、市民を港へ誘導するための合図。

 訓練では、誰も真面目に走らなかった。

 今日は違った。


 表通りから女の悲鳴が聞こえた。続いて、馬車の車輪が跳ねる音。男の怒鳴り声。どこかで硝子が割れた。


「何が起きているのですか」

「攻撃だ」

「誰が」

「北から来た連中だろうな」


 エヴァンは作業台の下に置いた拳銃を取った。

 昨夜と同じ重さだった。だが、今朝は嫌がっている暇がなかった。

 店の奥へ行き、古い鞄を引っ張り出す。財布。水筒。乾いたパン。包帯。弾薬。戸棚の奥に隠していた小さな缶詰を二つ。

 それから、一度だけ手が止まった。


 帳簿があった。


 煤けた表紙の、ただの帳簿だった。

 半年前からの売上、仕入れ、借り、貸し。魚屋の親父に安く売った分も、老婆に値引きした分も、軍への納品予定も、全部そこに書いてある。

 持っていく意味はない。

 エヴァンは帳簿を置いた。


「シャルル、上着を着ろ。靴も」

「はい」

「荷物は持ちすぎるな。走れなくなる」

「どこへ行くのですか」

「港だ。市の避難指示に従う」


 シャルルは一瞬だけ店の中を見回した。

 窯。作業台。粉袋。客用の棚。

 昨日まで、そこにあるのが当たり前だったもの。


「パンは」

「置いていく」

「でも」

「置いていく」


 エヴァンの声が硬くなった。

 シャルルは黙った。

 その沈黙が、妙に痛かった。


 エヴァンは窯の前へ行き、火を落とした。完全には消えない。赤い炭は残る。だが、今できるのはそこまでだった。

 店を出る前に、彼は棚の上の紙包みを見た。

 昨夜、榊原俊が置いていったもの。茶葉だと言っていた。

 エヴァンは一瞬迷い、それを鞄に入れた。

 理由は分からない。ただ、置いていく気にはなれなかった。


 表の戸を開けると、街はすでに変わっていた。

 朝焼けはまだ遠い。けれど北の空だけが赤い。

 火事の赤ではない。

 砲火の赤だった。


 アレフの北郊には、米軍の前進陣地がある。土嚢と木材と浅い塹壕で組まれた、防衛線と呼ぶには少し頼りない線だ。街の誰もが、あれで時間を稼げると思っていた。

 今、その方角から火柱が上がっている。


 砲声が続いた。

 重いものと、軽いものが混じっている。野砲。機関銃。小銃。さらに低く唸る音。

 エヴァンはその音を聞いた瞬間、顔を上げた。

 空だ。

 夜明け前の薄暗い空を、黒い影が横切った。一機。いや、二機。

 古い複葉機ではない。もっと重く、速い。機体の腹が街の灯を受けて鈍く光り、次の瞬間、北郊で爆発が起きた。


 燃料を使っている。


 エヴァンは奥歯を噛んだ。

 この世界で燃料は貴重だ。艦を動かすにも、発電するにも、輸送するにも足りない。米軍ですら航空機を容易には飛ばせない。

 なのに、ソビエト側はそれをここで切ってきた。

 見せ札ではない。

 本気で街を取りに来ている。


「エヴァン」


 シャルルが彼の袖を掴んだ。

 通りには人が溢れ始めていた。子を抱えた女。荷車を引く老人。袋を背負った商人。まだ寝間着のままの子供。誰もが港へ向かっている。

 泣き声、怒鳴り声、祈る声が混じり、通り全体がひとつの獣のように蠢いていた。


「エヴァン!」


 聞き覚えのある声がした。


 振り向くと、魚屋の親父がいた。

 額から血を流している。だが立っている。片手には、なぜか魚の入った小さな木箱を抱えていた。


「親父」

「生きてたか。嬢ちゃんも」

「その箱は何だ」

「分からん。気づいたら持ってた」


 親父は笑おうとした。

 今度は少しだけ笑えていた。


 だが、その笑みはすぐに消えた。

 港の上空を、また低い影が横切ったからだ。


 誰かが叫ぶ。


「伏せろ!」


 その声が届くより早く、機銃の音が降ってきた。


 細かな破裂音が連なり、桟橋の板が跳ね、石畳に白い欠片が散った。人の群れが一斉に崩れる。荷物が落ちる。泣き声が途切れる。誰かの帽子が風に転がった。


 エヴァンはシャルルを引き倒すようにして抱え込んだ。

 背中に熱い風が当たる。


 数秒だった。


 あるいは、もっと長かったのかもしれない。

 音が遠ざかり、駆逐艦の対空砲が遅れて吠えた。


 エヴァンは顔を上げた。


 魚屋の親父は、すぐ近くに倒れていた。


 抱えていた木箱は割れて、中の魚が石畳に散らばっている。銀色の腹が、港の火を受けてぬらりと光った。


 親父はまだ息をしていた。

 だが、それは助かる者の呼吸ではなかった。


「親父」


 エヴァンはシャルルから手を離し、膝をついた。


 親父の目が、ぼんやりとこちらを向いた。

 いつもの魚臭い冗談を言いそうな口が、何かを探すように動く。


「……箱」


「捨てろ、そんなもの」


「売りもん……だからよ」


「黙ってろ」


 エヴァンはそう言った。

 言いながら、自分の声が震えていることに気づいた。


 親父は笑おうとした。

 失敗した。


「嬢ちゃん……無事か」


 シャルルは立ち尽くしていた。


 彼女の顔から、色が抜けていた。

 目は開いている。けれど、見えているのか分からない。さっきまで自分に声をかけ、朝には奥さんだ何だとからかってきた男が、今は石畳の上に倒れている。


 その事実が、彼女の中で形になっていなかった。


「シャルル」


 エヴァンが呼んだ。


 返事はない。


「シャルル」


 もう一度呼ぶ。


 彼女はようやく瞬きをした。

 それから、ゆっくりと魚屋の親父の傍へ膝をついた。


「……親父さん」


 声が小さい。


「起きないのですか」


 誰も答えなかった。


 親父の目がわずかに動いた。

 シャルルを見ようとしていた。


「悪いな、嬢ちゃん

「何がですか」

「パン屋の……奥さんって……また、からかおうと」

「違います」


 シャルルは即座に言った。


 いつものように。


 だが、その声は途中で崩れた。


「違います。私は……奥さんではありません。だから、また言い直してください。ちゃんと、違うと返しますから」


 親父はかすかに笑った。


 今度は、少しだけ笑えた。


「そうかい」


 それが最後だった。


 親父の手から力が抜けた。

 石畳に、指先が落ちる。


 周りではまだ、人が走っていた。

 船に乗ろうと叫ぶ者がいた。兵士が怒鳴っていた。空では対空砲が吠え、北の街では砲声が続いていた。


 だが、その一角だけが、妙に静かだった。


 シャルルは親父の顔を見ていた。


 瞬きもしない。

 泣きもしない。


 ただ、理解できないものを前にした子供のように、唇をわずかに開いていた。


「エヴァン」


 やがて、彼女は言った。


「今のは、何ですか」


 エヴァンは答えられなかった。


「さっきまで、話していました。朝も、店の前にいました。私のことを、からかっていました」

「ああ」

「では、なぜ返事をしないのですか」


 エヴァンは親父の瞼に手を伸ばしかけ、やめた。

 それをする時間も、場所も、彼には与えられていなかった。


「死んだ」


 短く言った。


 シャルルの目が揺れた。


「死んだ」


 彼女は同じ言葉を繰り返した。


 知らない言葉ではないはずだった。

 だが、今初めて意味を持ったように聞こえた。


「……こんなふうに?」

「そうだ」

「何か、理由があったのですか」


 エヴァンは答えなかった。


 シャルルは親父の傍に散らばった魚を見た。

 割れた木箱。泥のついた魚。踏まれて潰れた帽子。誰かが落とした子供用の靴。


「この人は、兵士ではありません」

「ああ」

「武器も持っていませんでした」

「ああ」

「なのに」


 そこで言葉が止まった。


 戦争だから。

 運が悪かったから。

 敵機が撃ったから。

 港が狙われたから。


 理由なら、いくつも並べられる。


 だが、そのどれを口にしても、魚屋の親父は起き上がらない。


 シャルルは両手を握りしめた。

 粉の残った指先が、白くなる。


「こんなものが、戦争なのですか」


 エヴァンは親父の木箱を見た。


 朝には魚を並べていた箱だ。

 昨日も、その前の日も、親父はそれを抱えていた。

 港町の朝にあって当然だったもの。


 それが今、割れている。


「そうだ」


 エヴァンは言った。


「これが戦争だ」


 シャルルは目を伏せた。


 涙は落ちなかった。

 けれど、その顔は泣くよりもずっと幼く見えた。


 遠くで汽笛が鳴る。

 避難船の出港を急かす音だった。


 エヴァンは立ち上がった。


「行くぞ」


 シャルルは動かなかった。


「シャルル」

「置いていくのですか」


 その問いは、ひどく静かだった。


 エヴァンは奥歯を噛んだ。


 置いていく。

 置いていくしかない。


 街も。店も。焼きかけのパンも。帳簿も。魚屋の親父も。


 全部、置いていく。


「……ああ」


 エヴァンは言った。


「置いていく」


 シャルルの肩が、小さく震えた。


 それでも彼女は立ち上がった。

 親父の木箱から、まだ形の残っている魚を一匹だけ拾い上げようとして、途中で手を止めた。


 持っていっても、どうにもならない。


 それが分かったのだろう。


 彼女は手を戻し、汚れた指先を握った。


「ごめんなさい」


 誰に向けた言葉なのか、エヴァンには分からなかった。


 魚屋の親父にか。

 何もできなかった自分にか。

 あるいは、ここに来てしまったことにか。


 エヴァンは何も言わず、シャルルの手を取った。


 その手は冷たかった。


 今度は、彼女も握り返した。


 強く。

 痛いほどに。


 港の上空を、また機影が横切る。

 駆逐艦の砲が吠える。

 海が震える。


 アレフの朝は、パンの匂いではなく、煙と燃料と恐怖の匂いで満たされていた。


 そしてその中に、魚の匂いが混じっていた。


 昨日までの日常の匂いが、戦争の中で、ひどく場違いに残っていた。

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