一章〜非望〜 六百四十七話 気付けない想いから目を背けて
脳が焼け付くとは、こういう状態の事を指すのかとアレルは初めての感覚に戸惑ってしまう。どういう訳か、先程の目の前でのアリシアの言動にアレルは完全に振り回されてしまっている。更に良くないのが、その理由までもが解らない事でアレルの思考の悉くを、脳の神経を焼くみたいにして阻害までしてしまう。
そして、辛うじて自身の事ならば判っているが今何をすれば良いのか、何をしようとしていたのかが思い出せない。そんな不思議な感覚に惑わされていると、そこへ瑠璃が声を掛けてきてくれる。
──主様、どうかしましたか?
(いや······その、今どれくらいボーっとしてた?)
──えっ? えっ〜と、ほんの十数秒くらいだと思いますけど?
精神感知を用いた受け答えで、アレルは自らの時間間隔まで狂わされていた事に気が付く。それなりに、少なくとも数分は惚けていた様な感覚であったのに、瑠璃によるとそれはほんの十数秒にしか過ぎなかった。
その事実に、アレルは自身が感じたものの正体に妙な恐れを抱くも、その正体は霞の様に不確かなので頭と気持ちを切り替えて調理の続きをしてしまおうと考える。
(変な事訊いてごめんな、瑠璃。もう大丈夫だから、ありがとな)
──いえいえ、ルリは主様の助けになれたならそれで良いんですよ。
アレルの肩に止まる瑠璃は、アレルの謝意に調理中である事を気にしてか、いつもの様にパタタと羽を動かすもどこか控えめに返してくる。
だが、そうしてアレルが必要な食材を探そうとした瞬間に、バッと勢い良く幌が捲られ何者かが荷台へと侵入してくる。
「アレルッ! 外の、どうなってるの?」
侵入者の正体はアリシアで、荷台の外を指差しながら血相を変えてアレルへ訊ねてくる。それで、荷台の外には何があるのか考えたアレルは、メリルがミリアに対して説教している事を思い出す。
「ああ、そういえばつまみ食いをしようとした奴をイバレラが説教中だったな」
「もうっ、何でそういう事を教えてくれないかなっ!」
むぅと、憤りを内包したアリシアの表情はどこか子供っぽくて、アレルはそれを見て先程の理解出来ない感覚は気の所為だったのかもしれないと思い直す。しかし、そのまま何も言わないでいるとアリシアの更なる怒りを買ってしまいそうだったので、アレルは取り敢えず適当な言葉で茶を濁す。
「まあ、離れていれば飛び火する事もないだろうし、適当に距離取ってれば良いんじやないか?」
「良くないのッ! 偶にだけど、目の届く所にいると思い出したみたいに私の事まで怒り始める事があるのっ!」
その必死さに、これまで何度もそんな目にあった事があるのだろうとアレルは考える。ただ、それなら答えは簡単だとアレルは肩を竦める。
「それなら、俺と一緒に荷台にいれば良いだろ? 流石に、俺の事まで怒りはしないだろうし」
「えっ······そ、それはそうかもしれないけど」
アレルの提案に、アリシアは両手の指先を合わせてどこか恥ずかしそうにし始める。だが、アリシアは荷台の外とアレルとを見比べると、渋々といった様子でアレルへ頷いてみせる。
「じ、じゃあ······私も、中にいて良いかな?」
「ああ、それなら俺は作業をしているから適当に寛いでいてくれ」
「うん······」
そうして、アリシアが荷台の奥の敷物がある所へ座るのを見届けてから、アレルは食材の中から玉ねぎとオリーブ油を手に取る。
続けて、アレルは玉ねぎを粗めのみじん切りにしてから、ボウルの中でオリーブ油と和えて軽く塩を振る。そして、それをフライパンに移してからボウルだけをその場に残して、アレルはフライパンを持って外へと足を向けつつアリシアに首だけで振り返る。
「今から、少し外で軽く火を使ってくるから待っててくれ」
「えっ?」
急な事に、戸惑いを見せるアリシアだったが、そこへアレルの肩からヒラヒラと瑠璃がアリシアの方へと飛んでいく。
──アリシア様の事は、ルリがお世話しておきます。
(ああ、頼むな)
アレルが言う前に、速やかに動いた瑠璃に対して精神感知で一言残すと、アレルはそのまま荷台を降りて外に出る。
すると、アリシアが言った通りメリルのお説教が続いており、鍋を吊るした三脚を倒さない為か少し離れた場所で二人立ったままでくどくどとメリルが説教をしている。それを横目に、アレルは燃え続けている焚き火の上でフライパンに入っている玉ねぎを炒め始める。
そうは言っても、玉ねぎを少ししんなりさせる事と、短時間の加熱で辛味成分を多少は甘みに出来ればというのが目的なのでそこまでしっかりとは炒めない。そうして、大体の目安で程良い感じになった所でフライパンを火から離し、それを持ってアレルは再び荷台へと戻る。
「アレル、終わったの?」
「いや、あともう少しかな」
アリシアへ素っ気なく答えたアレルは、フライパンを作業台にしている木箱の上に濡れ布巾を挟んで置いた後に再び荷台から降りる。そして、その足で鍋まで歩くと蓋を開けて、中から腸詰めごと蒸籠を取り出す。
そこで、一瞬ミリアの視線がアレルへ──正確には、アレルの持つ腸詰めへと向けられるが、それはメリルの怒りの火に油を注ぐ結果となる。それには、ため息を吐くアレルではあったが、気を取り直して蒸籠を抱えたまま再度荷台へと戻る。
そうして、必要なものが揃ったところで、アレルは昨日ミッテドゥルムで買ったバゲットを取り出す。
「それ、今日のお昼なの?」
そこへ、昨日買い物に付き合っていたのも関係してるのか、バゲットを目にしたアリシアが訊ねてくる。
「ああ、まだ少し手を加えるけどな」
アレルはそう答えると、腸詰めと炒めた玉ねぎを作業台に置いてから、再度洗って水気を拭いた包丁で人数分のバゲットへ縦半分に切れ込みを入れる。次に、その切れ込みへ炒めた玉ねぎを詰めてから、その上に腸詰めを入れる。
普通は逆だと思うのだが、玉ねぎを上にすると齧った際に溢れて見た目が悪い。それを、ミリアはともかくアリシアとメリルが気にするだろうと思ったアレルは、重ねる順を逆にすれば多少は溢れにくくなると考えた。
そこから、アレルは更に食べやすくする為に出来上がったものを一口大に切り分けていく。最後に、それを木製の大皿に並べて今日の昼食が完成する。
「それじゃ、スープを温め直して昼食にするか」
「うんっ。でも、ルリちゃんのご飯忘れてない?」
「······」
言われて、完全に失念していた事を思い出したアレルは、こっそりと精神感知を使用する。
(瑠璃、ごめん。直ぐに作るから)
──いえ、ルリは別に気にしてないので大丈夫ですよ。
瑠璃はそう言うものの、バツの悪いアレルは即座に蜂蜜と水を手にして瑠璃の蜂蜜水をいつもより丁寧に且つ手早く仕上げる。そうして、出来上がったバゲットサンドと瑠璃の蜂蜜水を空の木箱の上に載せて、そこへ必要な食器なども載せた後で木箱ごと持ち上げてアレルは荷台から降りる。
「アレル、私も何か手伝おうか?」
すると、その後を追ってきたアリシアがそんな事を言ってくる。それでも、今は自分の手だけで足りていると、アレルは首を左右に振る。
「いや、別に大丈夫だ。······お〜い、イバレラも程々にして飯にしよう」
アレルが声を掛けると、メリルはハッとして髪を両手で軽く整えてからアレルへ答える。
「はい、分かりました」
そのメリルの後ろで、あからさまにホッとした様子のミリアへアレルは視線を向けてから持っていた木箱を静かに下ろす。その瞬間、普段の状態に戻ったメリルがアレルの後ろから付いてきていたアリシアに声を掛ける。
「アンネ、アタシ達で椅子代わりになるものを持ってきましょう」
「うん」
アリシアの返事で、荷台へと向かう二人を横目に見ながら、アレルは残ったミリアへ手招きする。
「おい、鍋を温め直すから三脚動かすのを手伝ってくれ」
「クッ!? ······昼食の為だからなッ! 仕方なく、アレルに手を貸してやる!」
はいはいと、ミリアからの説教を食らったのはお前の所為だという憤りを含んだ視線を無視して、鍋を温め直す為に三脚ごと再び焚焚き火の上に鍋を持ってくる。そうして、アリシア達の準備と鍋の温め直しが終わってから、アレル達はようやく昼食を取る事にした。




