8.練習
「夕陽ちゃーん!いくよー!!」
「はーい」
快晴の中、レイちゃんの声がテニスコートに響く。レイちゃんは軽くボールを放ると、反対側のコートの対角線上、つまり私が立っているコートをめがけて勢いよくラケットを振った。ほぼ直角に折れたボールの軌道に、私は咄嗟に持っていたラケットと盾にしてガードする。強い衝撃に、さらにボールに対する恐怖が増えていく。
「うわ!」
「夕陽ちゃんー、それじゃこっち帰ってこないよー。大丈夫、ボールは友達だから!」
今、学校では球技大会に向けて絶賛練習中だ。この学校では毎年この時期に開催される、学校上げての一大行事らしく、学年関係なく全クラスが燃えるらしい。やっぱり体格差があるのか、各競技の優勝は3年生が持って行ってしまうけど、その分下級生が決勝まで進んだ場合、非常に盛り上がる、とレイちゃんが教えてくれた。クラス全員の競技の順位を数字に換算して優勝を決める総合優勝もあるらしく、どの競技も順位が高いと総合優勝の可能性はあるらしい。
といっても授業の時間割にこの時期だけ体育が増えるというわけではないので、私たちは体育の時間を重宝しなくてはならない。グラウンドとは少し離れた所にあるテニスコートで、私とレイちゃん、塩味君と森林君はとにかくラリーの練習をしていた。男子の方は流石の運動神経で、もうラリーが出来上がっている。
青い空が眩しいし、風も少しある。運動は夕方のお散歩しかしてない私にとっては、だいぶ体力を消耗する天候だ。日差しに慣れていないときつい。まだ夏じゃないのに滴り落ちてくる汗に、私はふう、と大きく息を吐いて体の中の熱を逃がした。
「夕陽ちゃん大丈夫?少し休む?」
レイちゃんが中央に張ってあるネットの向こうから話しかけてくれる。私はぶんぶんと首を振って、ラケットを持ち直した。せっかくこうして一緒に練習してくれるのに、足を引っ張るわけにはいかない。せめてラリーができるようになりたい、と私は足を肩幅まで開いた。
「大丈夫。あと一回、お願いします」
「声が元気じゃない割には、体育会系だね・・・・・・もう、無理はだめだよ。じゃあ・・・・・・よいしょっと!」
レイちゃんが打ったボールの軌道を見て、真正面に立つよう移動する。ブン、とラケットを振ったけど、手ごたえも何もなく空ぶってしまった。膝に手をついて、テニスの難しさを実感する。
「あっはははは!フルスイングしたのに空ぶるって、ださすぎるだろおめえ、笑えるわ!!」
「・・・・・・・うるさい、タンギン」
横でこちらに指を指しながら大爆笑しているタンギンを睨みつけ、転がっていったボールを拾い上げる。何個も落ちているので、ため息とともにポケットに詰めていく。ここから上手くなれるのだろうか、と不安が込み上げる。
「苦戦してるみたいだね、椿さん!」
顔を上げると、塩味君と森林君がこちらのコートに入ってきていた。にこっと笑う塩味君に対し、向こうから近づいてくるレイちゃんを心底嫌そうな目で睨む彼は、悪意関係なく黒いオーラが立ち込めている気がする。
「二人とも、来たんだ!いやー、テニスって難しいね」
「碁色ってそんな運動ダメだったっけ?なんかなんでも適当にこなせそうなイメージがあるんだけど」
「それ褒めてるー?できればスポーツは応援する専門がいいんだよね、焼けるし」
「日焼けなんてどうでもいいじゃん。今日は風もあるし、だいぶ楽だと思うけどなー」
楽しそうに話す二人を横目に、私はじっとラケットを観察する。どこに当たれば上手く飛んでいくのだろうか。バドミントンは割と好きなので、テニスも同じようなものだと思っていたけど、ラケットの重さもボールを打った時の軌道も全く違う。たかをくくっていた自分が恥ずかしい、とため息をついた時、ふと太陽の光が遮られた。
見上げると、森林君が私をじっと見降ろしていた。逆光も相まって、申し訳ないけど怖い。ラケットもこんな気持ちなのかな、もう少し優しい目で見てあげればよかったな、と変な後悔をしていると、彼が不意に口を開いた気がした。運動中でもマスクを外してないから、気がするだけだけど。
「椿さんは、ラケットぶん回しすぎ。ただここに当てるだけでいいんだよ」
「当てるだけ?でも、振らないと飛んでいかないんじゃない?」
私の疑問に、森林君は足元に転がっていたボールを拾い上げ、ラケットで器用にドリブルしていた。普段使っているバスケットボールよりも小さいから、扱いやすいのだろうか。
「硬式はボールも堅いし、ラケットも重いから、変に構えなくても大丈夫。球が飛んできた方向に移動して、金魚すくいみたいにポンって当てるだけで、十分飛んでいく」
「なるほど、金魚すくい・・・・・・」
無口で不愛想な彼が分かりやすく教えてくれたことに素直に嬉しくなる。さらに申し訳ないことに、私は金魚すくいはやったことがないけど、優しくポンッと当てればいい、らしい。早速実践してみようと、私はレイちゃんに声をかけようとした。
すると、いつの間にか森林君は向こうのコートに立って、今にもサーブを打ちそうな構えをした。私は急いでコートに走り、じっと彼を見据える。
金魚すくい、優しくポンっと当てるだけ。
そう唱えながら、私は綺麗に自分の方向に飛んできたボールを、あまり振りかぶらずに前に出した。
すると、綺麗な放物線を描いて、森林君がいたコートに収まっていった。彼は華麗にボールをキャッチすると、やったね、という風にぐっとラケットを前に突き出してきた。
「か、返せた・・・・・・・!」
喜びのあまり、つい自分で拍手してしまう。こんなに上手くボールを返せたのは初めてだ。私はつい、彼に向かって声を上げた。
「森林君、もう一回お願いしてもいい?」
彼は黙って頷くと、再放送かのように綺麗なサーブをしてくれる。私はさっきと同じように、金魚をすくう気持ちでラケットを振った。また、対角線上のコートに飛んでいく。今回はラインぎりぎりだったけど、バスケ部の性なのか、ラインを一瞬見ただけで丸、と反応を返してくれた。
「へえ。あいつ、ぶすっとしてるだけじゃねえんだな。問題は、おめえが金魚すくいをやったことがないだけだ」
「う、うるさいよタンギン。頑張ってるから、黙って見てて」
「へいへい」
式神のちょっかいに負けず、私たちは何回かサーブの練習をした。こんなに練習に付き合ってくれるなんて、優しい人だなと思う。百発百中というわけにはいかないけど、大分相手のコートに返せるようになってきた。
垂れてきた汗を拭いながら少し切れた息を整えていると、横から塩味君とレイちゃんの声が飛んできた。二人ともにやにやしながら、笑って手を振っている。
「がんばれー、森林!」
「夕陽ちゃんー、いい感じだよー!森林君も、頑張れー!」
私は軽く手を振ったけど、森林君はすごく微妙に顔をしかめてそちらを見ていた。もう止めよう、と言いたいけど、サーブの構えに入った彼に、私もボールに集中する。
「あぶなーい!!」
次の瞬間、背中から差し迫った声が飛んできた。思わず振り返ると、ガシャン、とサッカーのボールがテニスコートの金網に当たっていた。目の前には実体化したタンギンがいて、振り被っているポーズを取っている。彼がボールを蹴って軌道を変えてくれたのか、声のした方向と別の方向に当たったようだ。
そんなことを考えているのがいけなかった。後頭部に、打撃が走る。
「うっ!!」
「夕陽ちゃん!!」
「椿さん!!」
みんなが駆け寄って来てくれる足音がする。いきなり近づいた地面に若干目がちかちかする。私は頭を擦りながら、苦笑いをした。少しズキズキするけど、なんてことはない。
「大丈夫!?今頭に直で当たったよね!?」
「大丈夫だよ。ほら、この通り」
立ち上がって大丈夫なことを証明するけど、みんなの顔は晴れない。とん、と後ろに何か当たって見上げると、森林君が眉を下げながら、気まずそうに頭を下げていた。
「ごめん」
「いや、森林君のせいじゃないよ。私がよそ見したのが悪いんだし。練習に付き合ってくれただけでも嬉しかったよ」
でしゃばるんじゃなかった、という彼の気持ちがありありと伝わってきて、私は必死で訴えた。体育の先生も走ってきて、なんだか大事になってしまっている。こういう目立ち方は嫌だな、と私は顔をしかめた。
「大丈夫か、椿。痛い所は?」
「先生、椿さんの頭にボールが当たったんです。一応保健室に行って診てもらった方がいいんじゃないでしょうか」
レイちゃんの言葉に、私は本当になんともないのに保健室に向かうことになった。弁明も通じず、とぼとぼと廊下を歩く。途中でサッカーをしている男子たちが見えて、つい瀬名高君を探してしまうけど、出来るだけ早くみんなのもとに戻った方が、大事じゃなかったと分かってもらえそうだから、私は下駄箱の靴を履き替えた。横からタンギンがおずおずと話しかけてくる。
「悪い。サッカーボールに気取られてた。本当にどこも痛くねえのか?」
「本当に大丈夫だって。なんでみんなそんなに心配するのかな」
「そりゃあ、お前が超無表情で大丈夫、って繰り返してるからだろ。普通の奴には、大丈夫に見えねえって」
「・・・・・・確かに。というか、守ってくれてありがとね。タンギンがいなかったら、私前からも後ろからもボールの挟み撃ちになってたよ」
「それはそれで面白そうな光景だけど、まあ、てめえが大丈夫っつうんなら、何も言わねえけどよ」
保健室に着き、ドアをノックする。すっかり常連になってしまったようで、先生は私の顔をみるなり、「椿さん」と呼んでくれた。
「体育で、頭の後ろにボールが当たっちゃって。そんなに痛くないんですけど」
「あら。目線もしっかりしてるし、顔色もおかしくないわね。吐き気や浮遊感はある?」
「いいえ、全く」
「そう。たんこぶができてないのが気になるけど、大丈夫ね。氷嚢出しておくから、午後は冷やしておきなさい」
そう言って、先生は立ち上がって、氷を詰めに水道の方に向かった。ふう、とソファでため息をついていると、ずっ、と鼻をすする音がした。
ベッドが並んでいて、一つだけカーテンが閉まっている。その隙間から、知っている顔が見えて、私はつい口に出してしまった。
「・・・・・・熊田さん?」
私の声に反応したのか、彼女はハッとしたようにおそるおそるカーテンを開いた。彼女とはあまり話したことがないけど、美術部で絵がとても上手いことは知っている。美術の時間にクラス代表としてデッサンを紹介されていた時は、すごく恥ずかしがっていた。私は立ち上がると、彼女の傍まで進んだ。彼女も嫌がることもなく、私を近くの椅子に座らせてくれた。
優し気な顔立ちに、小さく結んだ二つの髪の束が、ぴょんと顔の横から見える。下手したら中学生にくらいに見えなくもない彼女は、照れたように笑った。
「椿さんと話すのって、初めてかな。初めまして、熊田春子です」
「こちらこそ、椿夕陽です。私のこと、知ってる?」
「ふふ、もちろんだよ。転校生だから、一時期有名になってたし」
「こ、この学校って転校生がそんなに珍しいものなの?私、最初来た時びっくりしちゃって」
彼女は普段は特定の人としか喋らない、大人しいイメージだったけど、こうして話してみると案外おしゃべりなようで、優しく微笑みながら会話をしてくれた。体操服のままベッドにいるし、赤くなった目からも、何かあったのには変わりないんだろうけど。
「なんかうちって、新しく来た人に友好的な関係を築こうとするんだよね。そういう風土なのかな、分からないけど。私もこんなフレンドリーな学校初めてで驚いたよ。球技大会だって、こうしてみんなで頑張ろう、って感じだし・・・・・・」
そう言うと、熊田さんは明らかに顔を曇らせた。彼女はどの競技だっただろうか、必死に記憶を手繰り寄せる。チームを決めたときに円陣に参加していたから、多分バレーだ。
「・・・・・・椿さん。椿さんも、運動得意じゃないよね」
「え。う、うん」
「あ、ごめんね。傷つけるつもりじゃなかったんだけど」
「いや、大丈夫だよ。熊田さんも苦手なの?」
慌てた様子から、彼女はふう、とため息をつく。足に掛かった布団で遊ぶように足先を曲げたり伸ばしたりしながら、彼女はつぶやいた。
「うちって、誰しも仲良くクラスに参加する、みたいな熱気があるじゃない。運動が得意で、それに貢献できるんだったらいいけど、運動が苦手な人にとっては大分肩身狭いんだよね。足引っ張ったら、なんだよって思われるのも怖いし、こっちも申し訳ないし・・・・・・バレーって団体競技だから、私のサーブミスが全体の失点に繋がるじゃない。みんなは大丈夫って言ってくれるけど、繰り返すたびに申し訳なくなって、逃げてきちゃった」
彼女の独白に、私も心にぐっとくるものがあって、ついベッドに前のめりになって彼女に近づいた。今までだったら、人に近づくことすらしなかったのに。彼女の赤い目が、大きく見開かれている。
「すごい、分かる」
「・・・・・・え」
「私も、さっきまでサーブ全然上手くいかなくって。練習に付き合ってもらってるのに、何回やっても出来ない時、すごくいたたまれなくなった。相手がどう思うかなとか、頑張ってもできないのにどうしたらいいんだろう、とか。人間誰しも苦手なことはあるから、仕方ないじゃん、って正直思ってた」
「・・・・・・椿さん・・・・・・」
「でもね、さっきそんな私を見て、サーブのコツを教えてくれた人がいて・・・・・・その人とは、前に色々あったから、恩を返す意味でやってくれたんだと思うんだけど、私はすごく嬉しかったの。普段人と関わらなさそうなのに、こうして練習に付き合ってくれたり、教えてくれて、優しいなって。だから、きっと熊田さんにも、解決策はあると思う。一緒に、探していこう」
彼女の驚いた顔に、私はハッとする。つい熱弁してしまったことに、顔が熱くなる。私は一体どうしてしまったのだろう。タンギンたちみたいに、伝えようとすれば分かってくれる人達がいることが、自信に繋がって、伝えることを諦めなくなったのだろうか。それとも、明るい瀬名高君の性格がうつってきたのだろうか。心臓に手を当ててみるけど、どちらもなんだと実感する。本当にここに来て良かったな、と永遠さんに感謝する。
「・・・・・・椿さんって、意外と熱いタイプなんだね」
熊田さんの顔に、陰りが見える。一瞬ひやっとした気持ちが感じ取れて、慌てて口を開いた。
「え?いや、普段はこんな感じじゃないんだけど、熊田さんの気持ち、すごく分かるから・・・・・・みんなの前じゃ、絶対に言えないから。同じ気持ちの人がいて、嬉しいなって」
「・・・・・・私も。なんか気が楽になったかも」
そうして、熊田さんはふと笑った。目じりを拭き、ぐっと前に伸びをしている。吹っ切れたような彼女に、ほっと私も心が軽くなった。
「そうだ、バレーって確か、萌ちゃんがいるよね。私話したことあるから、コツ聞いてみようか?まだ一人じゃ勇気出ないから、レイちゃんも一緒だと思うんだけど・・・・・・」
「ふふ、やっぱり椿さん、私と似てるかも。椿さんなら、誰とでも仲良くできるから大丈夫だよ」
熊田さんがベッドから立ち上がる。私も椅子から腰を上げようとした、その時だった。
「仲良しごっこでチャンス潰すの、止めてもらえますー?」
耳障りな声が響き、私はがくっと腰が抜けた。空間が一気に黒い粉塵に覆われる。耳元で人の囁きがざわざわと聞こえてきて、一瞬で鳥肌が立ち、咄嗟に耳をふさぐ。
前を見ると、熊田さんが膝をつき、体を丸めてうずくまっていた。苦しそうな声を上げて、胸を押さえている。
「熊田さん!!」
私の声に反応するかのように、目の前にタンギンが現れる。黒い煙の中でも白いジャケットがはっきりと目視できて、彼を見失うことはない、と少し安心する。
《お前もそっち側か》
「うっ!!」
心臓を撫でられたような不快感に、私は胸元に手を当てた。ドクドクとおかしいくらいに鼓動が聞こえる。それでも、熊田さんの低い声は止まない。
《弱者に寄り添っているようで、本当は馬鹿にしてるんだ。そんな希望、もう飽き飽きなんだよ》
「き、希望・・・・・・?」
《そうだ。元気でみんなで一致団結なんて、馬鹿らしい。どうせ終わったら悉く決別する癖に、この一瞬だけ仲良しこよししていて、哀れだと思わないか?》
「そんなこと・・・・・・」
《自分たちの都合のいいように他人を利用して、役立たずだったら勝手に邪魔者扱いして。これだから運動は嫌いなんだ。チームプレイは嫌いなんだよ!!》
「・・・・・・」
「夕陽!!悪意に耳を貸すな!!」
タンギンの鋭い声に、ハッとして顔を上げる。彼は黒い竜巻に負けず、仁王立ちでこちらを振り返っていた。手には、前に私にくれた花札が握られている。
「お前はこの数日で変わった!!卑屈で根暗で不気味で、すぐ理論が破綻するようなお前だが、それでも他人に向き合おうとしてる!!誰かの役に立ちたいと思った時点で、お前が持つ希望はどこにも負けねえ!」
普段つまらなさそうに閉じている口を大きく開けて、彼はそう叫んだ。彼女の悪意にも負けない声で。
タンギンと会って、まだ1、2か月しか経ってない。口も悪いし、配慮もないし、すぐちょっかいをかけてくる。でもその言葉は、私を一番近くで見てくれたからこその言葉で、私はそんな彼を、信じたいと強く思った。
「・・・・・・ありがとう」
「うおっ!?」
その途端、タンギンから強い光が巻き上がり、渦巻く黒い煙を吹き飛ばした。彼も驚いていたけど、すぐ真剣な顔に戻って、静かに目を閉じて札をかざす。不思議と、悪意の声は止んでいた。
「ニを司るは壱越。一つ越えて、ホを司るは平調。ヘを司るは勝絶。その成りには、下無、双調、鳬鐘、黄鐘、鸞鏡、盤渉、神仙、上無」
彼が花札を足元に叩きつける度、美しい火花が舞い散る。私は彼の除怨の光景に、今度は目を閉じて耳を澄ませた。彼の鈴のような、優しく、清らかな声が心地いい。お伽噺の読み聞かせを聞いているようで、うっかりすると寝てしまうそうだ。
途中で聞こえてきたソウジョウ、ショウゼツ、バンシキという単語に、彼らの姿が脳裏に浮かんでくる。綺麗な色とりどりの髪と瞳を持ち、こちらに笑いかけてくれる彼らを見て、私はやっと、彼らときちんと向き合えた気がした。
「勝絶、盤渉・・・・・・」
私の口から漏れたのか、タンギンが喋っているのか分からない。夢に浮かんだような浮遊感に、私は目を閉じて身を預けた。
「遅れて、ニの次が、断金。ここに、悪を晴らし、善を持って、お終い」
その言葉が聞こえた瞬間、空気が軽くなる。ふと目を開けると、穏やかな日差しが差し込み、白いシーツとカーテンを照らしている、元の保健室に戻っていた。タンギンがまだ静かに、姿勢を崩さない。足元には熊田さんがすやすやと寝息を立てているのが見える。私はひとまずほっと胸をなでおろした。
「なんかすんごいパワーアップしてませんかー?めんどくさいなー」
雰囲気をぶち壊すような気の抜けた声に、私は辺りを見回す。前に視線を向けた次の瞬間、黒いスーツと革靴が前を横切り、咄嗟に顔を上げた。マクモさんが冷たい目で私を睨んでいる。可愛く頬に指を当てているけど、脅威そのものを前にして、私は言葉が出なかった。
「ちょっとばかし今回は手を抜きましたけどー、あっという間でしたねー。まあ、夕陽さん自身には悪意のダメージが残っているでしょうし、積みに積み重ねて、手っ取り早く自殺してもらった方がいいんでしょうか?でも僕も働きづめで、疲れちゃったんですよねー」
悪意なく言う言葉の棘に、手が震える。しかし、タンギンがすぐに私とマクモさんの間に入ってくれた。彼ばかりに任せていられないと、私も踏ん張って立ち上がる。
「おや、起き上がれるんですね?ハーイ、夕陽さん!みんなのアイドル、マクモですよー?あなたの可憐な雄姿、見せてもらいました!こいつと上手く連携が取れるようになったみたいですね?まああなたは悪意に負けるどころか、耳を貸してしまうという愚行に出たわけですが、自分のみじめさにどう思います?10秒以内にどうぞ!」
「・・・・・・」
マクモさんの容赦ない言い分に、私は口をつぐんだ。彼の言うとおりだ。悪意はその人から発生しているものなのだから、会話したところで負のスパイラルに陥るだけでしかない。彼の言う通り、まさに一番やってはいけない行動をしてしまったのだ。自分が恥ずかしくなる。タンギンが声をかけてくれなければ、きっと私も悪意に飲み込まれていただろう。
「こいつはまだ除怨をして2回目だ。そんな新人が何をしてよくて何をしちゃ駄目かなんて、分かるわけねえだろ」
「えー?だって立ち会うのはもう5回目くらいじゃないですか?あの元気な少年といういい見本もいるわけですし、さっさと成長してくれないもんですかねー?」
「てめえはこいつに何を求めてるんだ。そっちのボスがこいつをスカウトしてんだか知らねえが、こっちはこっちで勝手にやる。てめえらにどうこういわれる筋合いはねえよ!」
タンギンの言葉に、マクモさんは可愛い顔をぐにゃっと歪めて笑った。初めて、人の笑顔で嫌な気持ちになった。
「ふふ、僕たちが求めているのは彼女が主としていち早く成長してもらうことか、もしくは大人しくこちら側まで堕ちていただくことですよ?まあ二番目に関して具体的に言えば、死んでもらうということですが」
式神が主といるのは、除怨をするため。それには、生死がかかっている。その事実に、改めて息が詰まる。でも私は、こんなに散々みんなを苦しめて、言いがかりをつけてくるマクモさんに、いい加減苛ついていた。タンギンの隣に並び、脅威を目の前にする。
「私はあなたたちには屈しない。私は自分が信じたい人と協力して、悪意を祓って、苦しんでいる人たちを救ってみせる。あなたたちの思い通りになんかならないし、させないから」
「・・・・・・夕陽」
マクモさんは口角を上げて私をじっと見てきた。目の奥まで覗かれるような気持ち悪さが襲ってくるけど、絶対逸らさない。自分で言葉にすると、私は主として式神を受け入れた理由は、みんなを助けたいからというのもあるけど、タンギンや瀬名高君、バンシキさんやショウゼツさんと一緒にいたいからなのかもしれない、と実感する。でも今は、それでもいい。私が誰かの救いになって、私もみんなの傍にいられるなら、私は喜んで悪意と立ち向かう。
「・・・・・・ボスは諦めないと思いますよ。僕も、君が仲間になってくれたら、こんな冷たい言葉をかけずに済むのに」
「・・・・・・ボスって、誰なの?私は会ったことがある人?」
マクモさんはそれには答えず、変わらず私から目線を逸らさない。しかし、ふと目を閉じると、顔を赤らめて身悶えするように体をくねらせた。
「あーーーーー、やっぱりいいですね!!その一時の希望に縋りつく惨めさ!!その輝いた目が絶望に染まって僕たちに助けを求める時が待ち遠しくて、僕おかしくなっちゃいそうです!!」
「うーっわ、ヤバイ変態っすね。ちょっとその性癖は他言しないようにした方がいいっすよ」
「ショウゼツさん!」
隣に気配を感じて振り向くと、ドン引きしたように頭を搔いているショウゼツさんが立っていた。彼は実体化しているのか、彼の熱が伝わってきて少し違和感がある。
「あ、君は・・・・・・どちら様でしたっけ?うーん、確か老人と仲良く平和に余生を過ごしている、間抜けな式神がいたようないないような・・・・・・」
「俺は勝絶っす。今後は覚えてくれると嬉しいっすね。もう除怨は終わったんすか?なら、帰りましょ。もうお昼ご飯の時間っすよ、ほらほら」
「わっ」
「ぐえっ」
そう言うと、ショウゼツさんは私を肩に乗せ、タンギンの首根っこを掴み、熊田さんを抱えると、すたこらと保健室を飛び出した。近くにあった画材準備室に入り、私たちを降ろしてくれる。
「あ、ありがとう、ショウゼツさん。力持ちなんですね」
「いやいや、どーってことないっすよ!なんなら高い高いしましょうか?」
「ゲホゲホ、お前俺だけ扱いが雑じゃねえか?首絞まるとこだったぞ!」
「だって、あの場にいる必要なんてないのに、だらだらと『廃絶』と喋ってるから、何としてでも逃げた方がいいと思ったっす。あいつと話すと精神が削られるっすから、夕陽さんも無視していいっすよ」
少し心配そうに、ショウゼツさんが私を覗き込む。一見ガタイがよくて怖そうに見えるけど、優しい人だな、と思い、私は笑って立ち上がった。
「大丈夫です。ありがとうございます」
「あ、今もしかして笑ったっすか?そんな予感がしたんすけど、気のせいっすかね」
「いや、こいつは今笑ってたぞ。おい、俺に礼はねえのかよ」
「う、うーん・・・・・・・」
熊田さんの声がして、式神二人はすっと姿を消した。ショウゼツさんも私の中に入ったらしく、背中が重くて温かい。私はゆっくりと体を起こす熊田さんの元に駆け寄った。
「大丈夫、熊田さん?どこかおかしい所はない?」
「あ、あれ?椿さん・・・・・・・ここ、どこ?保健室じゃないよね」
「う、うん。一緒に保健室から帰る途中、その、虫が飛んできて。一旦避難しようってなって、二人でここに逃げ込んできたの」
「なるほど。ありがとね」
そう言うと、熊田さんはふらつきつつも立ち上がって私に向き直った。彼女の方が背が低いので、自然と見下ろす形になる。彼女の手首に、青い斑点がいくつも付いているのが見えて、私は唇を噛んだ。きっと、みんなに付いていこうと、慣れないレシーブを受け続けたのだろう。
「あの、椿さん。私、寝言で何か言ってた?聞かれてたら、恥ずかしいと思って・・・・・・・」
悪意を暴発させられた人は、気持ちを発散するからか、ぼんやりと自分が何を言ったか覚えているらしい。きっと、私に向かって放った言葉を気にしているのだろう。彼女が抱えていたのは、行事で熱くなるみんなを冷めた目で見てしまう、劣等感にも似た思いだったのかもしれない。それを汲んであげられなかったのは、私もまだまだだな、と思った。
「何も聞いてないよ。静かに寝てたから、起こさないか心配だったくらい」
「そ、そっか・・・・・・・じゃあ、私教室に戻るね。ありがとう、椿さん」
そう言って、彼女は部屋を出て行った。見送っていると、後ろから、タンギンの声だけが聞こえてくる。
「なんでてめえが責任を感じる必要があんだよ。人の気持ちを汲み取るなんて芸事、詐欺師にしかできねえだろ」
「す、すごい偏見だね。うーん、なんというか、自分が感情を顔で表現できない分、相手の感情を余計に汲み取らなくちゃ、って考えができちゃってるのかも。考えすぎだっていうのは分かってるんだけどね」
「・・・・・・お前、やっぱ変わったな」
「え?」
部屋を出て、教室へと続く廊下を歩く。隣で購買のパンの争奪戦が起きていて、私が独り言を言っていても気が付く様子の人はいない。
「初めて会った時のお前は、いい子ちゃんぶって、全て諦めたみてえなつまんねえ奴だった。でも今は、なんかこう、他人と関わろうとしてるっつうか、自分から行動を起こそうとしてるっつうか・・・・・・分かるだろ?」
「う、うん。自分でも変わったなって思うよ」
困ったような照れたような顔をして話を振ってくるタンギンに、私も自然と笑ってしまう。本当に自分が笑えているんじゃないかと思うほど、今は心が安らかだ。それも、きっとこうして傍にいてくれる人がいるからだろう。
「私が無表情でも、気持ちを分かってくれる人たちに出会えたから、伝えたいっていう思いが強くなったの。頑張れば伝わる、って知ったから、積極的に自分を相手にしってもらおうって勇気が出たんだよ」
笑ってタンギンを見る。すると、彼はみるみるうちに顔を真っ赤にして、首ごと顔を逸らした。口元を手で隠し、眉を吊り上げている。自分のことを言われてるのに気づいて、照れているのかもしれない。表情豊かな彼が傍にいるのも、もっと笑えるようになりたいと思える要因だと思う。
「あ、あのなあ!!そういうことを平気そうに言うんじゃねえよ!しかもこういう時だけ、笑うんじゃねえ!!ずるいぞそれは!!」
「わ、私は普段から割と笑ってるつもりなんだけどな・・・・・・・」
「はあ、全く。ほら、行ってこい。話はまた夜に聞いてやる」
そう言って、タンギンは姿を消した。さっきまでいた存在がぱっと消えてしまったことで、驚きよりも悲しさの方が勝つ。前を見ると、私の教室だった。扉を開けると、レイちゃんと塩味君がこっちに物凄い勢いで駆け寄って来てくれる。
「夕陽ちゃん、大丈夫!?授業終わっても帰ってこなかったから、私ずっとここで待ってたんだよ!?保健室行くと絶対騒いじゃうだろうなって!!」
「ただの打撲じゃないんじゃないかって心配してたんだよ。平気そう?」
「うん。二人とも、ありがとう。ちょっと虫と追いかけっこしてただけ」
「・・・・・・ん?それは大丈夫なのかな?」
私の言い分に微笑みながら困っている二人の後ろから、森林君がひっそりと顔を出す。ちらっとこっちを見て、何か言いたげにしていた。私は少し背伸びをして、彼に訴える。
「森林君、今日はサーブ教えてくれてありがとう。おかげで自信がついたよ。これからも頑張るから、良ければまた練習に付き合ってほしいな」
「・・・・・・」
彼が何かを返す前に、教室の前で行われていた私たちのやり取りをこっそり聞いていたであろうクラス中の子たちが、一斉にこちらを向いて騒ぎ始めた。一致団結っぷりに、ここ最近で一番心臓が跳ねる。
「あの森林が誰かと話しただと!?女子全員を無視するでおなじみの森林が?」
「しかもサーブを教えた!?マジかよ!?」
「えー、話してくれるんだ!私も今度話しかけてみようかな」
「なんだ、球技大会勝つ気満々じゃん!早く言えよー!」
阿部君が楽しそうに森林君に肩を組む。鬱陶しそうに眉を寄せながらも、彼は多くの人に囲まれていた。楽しそうな輪を、遠目で熊田さんも笑って見ている。彼女と目が合うと、優しく笑って手を振ってくれた。私もつられて、手を振り返す。
こうして除怨する度に、誰かと繋がる機会が持てる。これは喜んでいいことなのか分からないけど、私にとって、こうして輪が繋がっていくのは、とても嬉しかった。
球技大会が楽しみだな、と私はレイちゃんと一緒に、お弁当の蓋を開いた。
その頃、どこかの町の、どこかの建物。
莫目は、楽しそうにスキップをしながら、自分のボスの元へ駆けていった。ノックもせずに閉ざされた扉を豪快に開け、優雅にベッドで横になっている人物に、容赦なく肩を叩いて話しかける。
「ボスー!起きてください。また夕陽ちゃんのとこに行ってきましたよ!今回も無事、悪意を祓っていました!大分式神と連携が取れてきたみたいですねー!」
ボスと呼ばれた人物は、ゆっくりと体を莫目の方に向けながら、眠そうに腕で目を抑える。声も掠れ、完全に寝起きだ。
「・・・・・・お前は遠慮というものがないのか。鳥のさえずりで目を覚ましたいんだが」
「でも、ボスが夕陽ちゃんのことを気にかけてるから、僕は精力的に彼女の元に行ってるんじゃないですかー!」
「それもそうだが。しかし、彼女はまだ除怨をそんなに経験してないはずだが。連携が取れていると言えるのか?」
「言えますよー!新人ぶってないで、さっさともっと除怨してほしいもんです!」
莫目はくるくるとその場で回り、楽しそうに手を広げる。ボスはゆっくりと起き上がると、頭をぼりぼりと掻いた。髪にばっちりと寝癖がつき、くりんと巻き上がっている。
「まあそう焦るなよ。お前は結果至上主義だからな。俺はそんなに急いてないし、完璧も求めてない。そんな焦らせてやるな。可哀そうだろ?」
「・・・・・・ボスは完璧主義で、合理的な結果を求めるのに、ですか?僕はそれが移っちゃったのかもですね?」
莫目の笑いに、ボスはニヤッと笑った。はたから見れば美しい微笑みだ。しかし、誰も寄せ付けさせない圧倒的な禍々しいオーラを放っている。
「当たり前だろうが」
「ふふふ、ですよねー!さあ、次はどうしましょうか!一段階強い悪意は一度送り込みましたし、もう一回派手にやっときます?下手したら死人が出るどころか、夕陽ちゃんが死んじゃいますけど!まあ結果オーライですよね!早くあの子と一緒に仕事がしたいなー」
一人ではしゃぐ莫目に、ボスは膝に手を突いて考えるようなポーズを取った。鋭利な目線が、わずかに漏れた扉の隙間に向かう。丁度、その隙間が大きくなっていった。
「・・・・・・やあ、遅かったね。久しぶり」
「うわー、帰ってきた。僕、君嫌いなんですけど」
ボスは笑い、莫目は顔をしかめる。扉の前に立った人物は、ただにこやかに微笑んでいるだけだった。




