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菫色の署名が導く悪女の契約。甘い悪夢は終わらない  作者: 星見蒼


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32/70

32、変わりゆく日々

……困ったな、と思う。


平民街の商業区は、賑やかだ。

大通りには露店が立ち並び、その奥には店が連なる。

行き交う人を呼び止めようと、商人たちが声を張り上げる。

道幅はそこそこあるが、人気の露店の前はどうしたって狭くなり、人とぶつかりそうになる。

それを避けると、今度は隣を歩くヴェルナレット嬢との距離が近づいてしまう。


これが、問題である。


今の彼女は、ドレスではない。

アイボリーのブラウスに、柔らかな茶色のシンプルなデザインのワンピース。

控えめながら、非常に可愛らしい。


だが……


(……う……つい、目が)


吸い寄せられるように、胸元の控えめな細いリボン……いや、紐だろうか?

その揺れるさまを追い駆けてしまう。

いや、正直に言えばそれだけではないのだが。


(……無防備すぎるだろう)


令嬢方の見慣れたドレスは、これでもかと布を纏っている。

だが、ワンピースは違う。

機能性を重視しているせいか、本来の意味で軽やかだ。

そのせいで、なんというか……目のやり場に困るのだ。


ヴェルナレット嬢にフードを被るように言われた時には驚いたが、今となっては有難い。

ルシアンの戸惑いや、しょうもない感情を隠すことができている。


(こんなつもりではなかったのだが……)


少しでも彼女が生活しやすいように。

そう思って、ジュールやアルマン、マルグリットに相談した。

彼女が持ち込んだ荷物のうち、おそらく本人のものと思われるのはドレスではなく、ワンピースだと聞いたから、だから、ドレスなんて無理しなくていいと言ったのだ。


その結果がこれだ。


だいたい、騎士団の仕事として平民街に行くことだって珍しくはない。

ワンピース姿の女性も、それなりに見てきた。

そもそもドレスだって、胸元が開いた大胆なものもある。

今まで気にも掛けなかったというのに。


ヴェルナレット嬢というだけで、こんなに動揺させられるとは思いもしなかったのだ。


(最悪だ……いや、最低だ)


大切にしよう、これ以上傷つけることがないように。

そう思っているはずなのに。

感情どころか、行動すら思うようにならない。

だからといって、彼女と距離を置こうなんて、そんな選択肢を選ぶつもりもない。


(それだけは、絶対に嫌だ)


自分の傲慢さに呆れる。

本当に、どこまでも我がままだ。

それでも、『契約の期間だけだから』と自分に言い訳して。

彼女の傍を選んで。

せめて、彼女に合わせようと思っているのに。

気づけば。


イチゴを彼女の口の中に入れた。


可愛かったのだ。

ルシアンに勝ったことが嬉しかったのか、笑った彼女はとてつもなく可愛くて。

そこから、どういうわけかイチゴを彼女に食べさせていた。

自分でもどういう原理なのか分からない。


……ただ、その後も可愛かった。

真ん丸の目も、なんだか怒っている様子も。

怒っているのに可愛くて。

どうしていいのか分からない。


……苦しいなと思う。

どうして、契約なんかで縛ってしまったのだろうか。

でも、そうでなければ、ルシアンは彼女の存在を知らないままだった。

彼女にとっては最悪なことかもしれないけれど。

それでもルシアンにとっては、これ以上ない結果だ。


「ルシアン様?」


ぼんやりと歩いていたせいか、ヴェルナレット嬢がルシアンのフードの奥の顔を覗き込もうとする。

必然的に距離が近づいているのだが、フードのせいか彼女は気づいていない。


こういう、ちょっと危なっかしくて鈍感なところもいい。

あまりにも好きなところが増えていくから、たまに嫌いなところを考えるようにしている。残念ながら、今のところ見つかっていない。


怖いなと思った。


「あの角を曲がったら、次のお店だ」


そして、もっと怖いのは自分だ。

図々しくもその手を掴み、彼女の許可を求めもしない。


「え……あのっ!!」


はっきりと断られないことをいいことに、そのまま手を繋いで歩く。

彼女のペースに合わせると拒否されるだろうから、少しだけ速度を上げて。


ドレスなら躓く心配があるけど。

ワンピースは彼女を軽やかにする。


ルシアンには、実に都合のいい服だった。

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