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菫色の署名が導く悪女の契約。甘い悪夢は終わらない  作者: 星見蒼


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30/70

30、月明かりの道

――繋いだ手はあたたかい。


ヴェルナレット嬢と二人、バルコニーから続く階段を下りて庭園へと出る。


足元を照らす優しい光。

ヴェルナレット嬢が躓かないようにと、歩く速度を合わせる。


月明かりが静かに庭園へと降り注いでいる。


大広間の華やかな光も、奏でられる音楽も、

……人々の囁く声も、ここまでは届かない。


――あれが、ヴェルナレット家の悪女か

――噂とはずいぶん雰囲気が違うな

――初めて見るが、あれで悪女とはな


水を取りに行く間に、聞いてしまった言葉の数々。

胸糞悪くなる……が同時に。

これが自分の望んでいたことなのだと気づき、愕然とする。


彼女を連れ回して、自分の隣に並べて。

“悪女”といる自分は当主には相応しくないだろう。

そう見られようとした。


腹が立つほどに自分勝手だ。


――悪女の顔がアレとはな

――相手の男はさぞかし女に困っていたのか……それとも……


殴りたい衝動を抑えて、彼女の元へと急ぐ。

だが、ふと、思い至る。


……まさか。

誰も彼女の顔を知らないのか?


ぐるりと会場中を見渡す。


ヴェルナレット伯爵も挨拶には来たが、彼女に対して希薄すぎる対応だった。

それも私生児故かと思っていたが。


家族ですら、彼女の顔を把握していないのか?

それなのに、悪女と噂されているのか?


ぐらぐらと足元が揺らぐ気がした。

持っていたグラスの水が、ゆらりと傾く。


逃げるようにバルコニーへと向かった。


彼女の顔が見たい。

菫色の瞳と、尖る桜色の唇。

鼻の頭のそばかすの数を数えて……


彼女のことだけを考えて。

彼女との時間を思い返して。

そうして、辿り着いた先、ほの暗いバルコニーで。


『帰りたい……』


小さな声が胸をつく。

震えるような、絞り出すようなそれが。

――彼女の本心だ。


悪女ではない彼女を利用して、身勝手に傷つけて。

自分は何をしているのだろうか?


(……それなのに、どうして)


どこまでも、彼女はやさしい。

どこまでも、あたたかい。


自分を傷つけているであろう、ルシアンに対しても

きちんと、まっすぐに接してくれる。


そう。今だって。


「……庭園って花とか咲いてるんですよね?」

「……そうだな」


「月が……白い」

「……そうだな」


月明かりしか届かない庭園。

夏になれば、白い月の花が咲くのだが。

季節外れで、今は花も咲いていない。


ふふっと彼女が笑う。

それに合わせて繋いだ手も揺れる。


「あれって……聖樹の光ですよね?」

「覆っているのは、結界ドームの光だ」


繋いでいない方の手で、彼女が遠くの光を指さす。

淡い光が優しく輝いている。

それは、ルシアンにとっては見慣れた光。

でも、彼女にとっては、きっと違ったのだ。


ぎゅうっと手に力を入れると、彼女が驚いたようにルシアンを見た。


この暗さでは、彼女の瞳の色は見えない。

深いアメジストも、明るい菫色も、

何も見えない。


「あっちに、あるのは……」


何かを言いかけた彼女の言葉を遮る。


「……すまない」


謝っても足りない。足りなくても謝るしかできない。

月明かりの下でも、困ったように笑っているのは分かる。


「すまない」


ふるふると彼女は首を振って。

なぜか、繋がっていた手の力を入れてきた。


その手を引き寄せたい。

抱きしめて、帰したくなど、ない。


せめて契約の二年間。

残りは……一年と十か月。


「すまない」


自分はどこまでも身勝手だ。

契約で彼女を縛る。

手放すこともできるのに、それをする気にはなれない。


「……子供みたい」


彼女には、初めて言われた。


そうなんだ。

子供なんだ。

ずっと、ずっと、そう言われてきたんだ。

だから、許して欲しい。

このまま、ここにいて欲しい。


「しょうがないですね」


ぎゅうっと繋いだ手が彼女に引っ張られる。


「疲れたから、帰りましょう」


ドレスの裾がふわりと翻る。

月明かりの下で、ふわりふわりと。


「ああ……帰ろう」


今はまだ、俺と共に。

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