1、はじめての署名
(……どうしよう。どうしたらいいの?)
王都のクレヴォワール侯爵邸の一室。
座り心地の良いソファと、足元に広がる深い紺のビロードの絨毯。
高位貴族の邸宅にふさわしい、重厚な応接間。
部屋の隅には、侯爵家の侍女が一人、無言で控えている。
静寂の中、時計の針の刻む音が、やけに大きく響く。
ついさっきまで一緒だったメイドのレネの同行は許されず、ミレーニアはただ一人、ソファに座っている。
――理由も、詳しい目的も知らぬまま。
(うぅ……気持ち悪くなりそう……)
震える手を膝の上で握りしめる。
緊張がピークに達したころ、ようやく――
「遅くなってすまない」
ドアを開けて現れた青年に、ミレーニアは思わず息を呑んだ。
一歩歩くごとに、長く美しい銀色の髪がさらさらと揺れる。
(……なにこれ? 信じられない。……綺麗……ものすごく綺麗。男の人でも、こんなに綺麗になれるの?)
美貌の主が、正面のソファに腰掛けた。
驚くほど小さな顔。すらりとした長い脚。
まるで彫像のようだ。
豪華な応接間が、一瞬にして背景と化した。
アイスブルーの瞳が、ミレーニアを静かに見据える。
「話はヴェルナレット伯爵から聞いていると思うが……」
(……声もいい……)
澄んだ声。
心地よすぎて、言葉が頭に入ってこない。
匂い立つような美貌に、香りすら感じてしまい、思わず鼻を動かしていると――
「……以上だが……ヴェルナレット嬢、貴女もこの条件で問題ないか?」
透き通るような白い指がテーブルの上を動く。
(すごい……ちゃんと“男の人の手”だ)
骨ばったそれに感動すら覚えていると、書類がスッと自分の方へ向けられた。
そこでようやく、我に返る。
『いいですか、書類は隅の隅まできちんと』
『小さな文字ほど見落としてはいけません』
耳にタコができるほど繰り返された苦言。
自然とミレーニアの手は白い紙へと伸びた。
――婚約契約書。
見慣れた「契約書」の三文字の前に、見慣れない「婚約」の二文字がある。
(……こんやく、けいやく……しょ……?)
誰と、誰の?
指でゆっくりと文字を辿る。
そこには自身の名前『ミレーニア・ド・ヴェルナレット』。
そして契約相手には『ルシアン・ド・クレヴォワール』と記されている。
「……え?」
顔を上げ、目の前の青年を見る。
ここはクレヴォワール侯爵邸。ならば、今、目の前にいるのは――。
「どこか問題でも?」
静かな声がミレーニアを刺す。
同時に、父からの命令を思い出す。
――クレヴォワール侯爵家に従え。
つまりは、この契約に従えということだ。
「……いえ……問題、ありません」
そう答えるほか、道はなかった。
たとえ契約書に、尋常でない金額と、理解できない内容が記載されていたとしても。
(……お父様には逆らえない)
「では、こちらにサインを」
青年から求められ、テーブルの上に置かれたペンに手を伸ばした。
ミレーニアの魔力に反応して、ペン先がわずかに淡く紫に光る。
「……菫色」
青年がポツリと呟いた。
「あの……」
「いや、君の魔力も瞳の色と同じなのだな」
先ほどと同じ声なのに。
不思議と冷たいと感じなかった。
(……ということは、この方の魔力はアイスブルー……ものすごく綺麗なんだろうなぁ)
淡く光る魔力を辿るように――
ミレーニアは、自身の名前を署名したのだった。




