早い別れ
ある日、僕は打製石器としての斧を造るべく、試行錯誤を繰り返していた。
その横で、いつも通り毛繕いしていたマタジが、急に家の外に視線を向けた。
「ん? マタジ、何か見えるの?」
ネコ特有の、何もない空間を見ている奴かと思ったが、何か様子がおかしい。
突然跳ね上がると、入り口に向かって毛を逆立てたではないか。
何かを警戒して、威嚇している。
あののんびり屋のマタジがこれほどまでに慌てるのをこの半年見たことが無い。
何かが来る。
それは間違いなかった。
「な、なんだこの感じ」
ペンドリッチの声にも、心なしか緊張感が見られる。
この辺りの平原の草は僕よりも背丈が高く、密集もしている。
時間をかけて家の周りの草は刈り取ってあるが、それも20mほどの範囲しかない。
がさり、がさりと音がする。
牛ほどは小さそうだが、マタジよりは大きい。
つまり、僕の胸ほどの背丈はある。
ペンドリッチは言っていた。
神様の祝福を受けた僕に対して悪意を持つ獣は居ないと。
だがしかし、この悪寒はなんだ。拭いきれない嫌な予感はなんだ。
造りかけの斧を握りしめた。少し、手が震える。
この世界の創世者だというのに、何とも情けないことだ。こんなことなら、チートして神様から鉄製の武器でも貰っておけばよかった。
がさり。
ついに、最後の茂みが切り拓かれた。
現れたのは、黒い塊。
四足で歩くその獣は、犬のように見える。背丈は予想より大きく、僕ほどの高さ。
口には鋭い牙が並び、その隙間から真っ赤な舌がのぞき、涎を垂らしている。
らんらんと光るその目には、悪意が満ち満ちていた。
(あ、これ、まずいやつ)
考えるより先に、体が動いていた。
「トリッシュ! だめだ!」
ペンドリッチの制止を無視する。マタジに意識が向かうより前に、黒犬の意識をこちらに向けさせるべく、突進を仕掛ける。
元の世界でも、喧嘩はしたことが無い。無論、犬と戦ったことすらもない。
だからこの選択が正しかったのか、悪手だったのか、分からない。
黒犬はこちらの突進を見てびくりとしたが、余裕を持って横に跳び、距離を取ってきた。
一先ず、意識をこちらに向けさせることは出来た。
一つの望みは、僕にかけられた神の祝福。
今までと同じように、神様の威光を借りれば黒犬も退散してくれるはず。
しかし、その願いは虚しくも散った。
「ごおぉぉ!」
犬のものとは思えぬ、咆哮を発し、黒犬は飛び掛かってきた。
鋭い爪が鈍くきらめく。
「う、うわぁぁぁ!」
手にした斧を振り回すと、黒犬の前足に当たり、何とか攻撃を避けることが出来た。
しかし、体制を崩して尻もちをついてしまう。
黒犬の攻撃は止まない。
再度突進してきた黒犬は、僕に覆いかぶさるようにして飛び掛かってきた。
すごい力だ。
神様の恩寵を受けて、かなりの力を持っているはずの僕が、ろくに抵抗できないでいる。
斧の持ち手を口に突っ込んで、その牙に引き裂かれることは防ぐが、もがく黒犬の爪が肉を容赦なく引き裂いた。
「ぐあっ!」
痛い。
イタイイタイイタイ。
元の世界でも受けたことのない、切り傷。
熱を持ったかのように熱く感じ、ぬるりとしたものが肌を流れていく。
僕の窮地を救ったのは、一つの茶色い塊だった。
マタジである。
自分よりはるかに大きい黒犬に向かって、マタジは勇敢にも噛みついたのだ。
完全に不意を突かれた黒犬は、もはや僕を襲うことは出来ず、首筋に噛みついたマタジを引き剥がすべく転げまわった。
ああ、そんな袋格差があるというのに、なんという無茶を。
お前だって、喧嘩なんかしたこと無いだろうに。
「マタジ!」
暴れる獣達を前に、僕はなすすべもなかった。
見ていて分かるほどにマタジの劣勢だが、せわしなく動く二頭の動きは僕の介入を妨げる。斧を振りかぶるも、マタジに当たってしまうのではないかという思いが躊躇を指せる。
「マタジぃ!!」
僕の二度目の叫びと同時に、マタジが宙を舞った。
真っ赤な血と共に。
それを見て、何かが吹っ切れた。
「こんのやろぉぉぉ!!!」
まだこちらに振り向いていない黒犬に向かって、石の斧を振り下ろした。
鈍い音とともに、木の持ち手がへし折れ、石器が宙を舞う。
しかし、黒犬にも確かなダメージを与えた。
フラフラとする黒犬に、追撃をする。
後ろから跳びかかると、黒犬の首に腕を絡ませ、思い切り締め上げた。
「ぐぎゃっがっ」
腕に爪が突き刺さり、いくつもの新しい傷が生まれる。
いつしか、痛さすら感じなくなっていた。
黒犬の抵抗は強いが、決して緩めることはしない。
逃がさない、絶対に。
ぎりぎりと締め上げると、やがてゴキリという嫌な音がした。
もはやだれのものか分からない血が広がっていく。
それでも腕を緩めることは無かった。
どれほどの時間が過ぎただろうか。
その場に全く動くものが無くなって、やっと僕は腕を放した。
黒犬だったものは、力なくドシャリと泥の中に横たわる。
もはや、そんなものはどうでもよかった。
「ま、マタジ」
「トリッシュ、こっち」
マタジの飛んでいった方から、ペンドリッチの声が聞こえた。
とても悲しくて、とても力が無くて、嫌な予感を募らせる声。
草むらをかき分けると、そこには血に濡れたマタジと、力なく漂うペンドリッチがいた。
多分マタジのものであろう血が、ペンドリッチの体をつたって、まるで泣いているように見えた。
「マタジ、あいつ、やっつけたよ、家に帰ろう」
横たわって動かないマタジを抱き寄せる。
冷たかった。
「ああ、こんなに冷えちゃって、かわいそうに。今日は火をつけてあげようね」
「トリッシュ」
ペンドリッチの声を無視する。
しかし、僕もすでに、理解はしていた。
「お前、あんなに勇敢だったんだな、格好良かったよ。お前のおかげであいつを倒せたんだよ。今日はご褒美をあげなくちゃ」
最後の方の声は、震えていた。
わかっているのだ。
もう、決してマタジは動かないのだと。
飼い猫との別れは、初めてではない。
でも、別れに慣れることは無い。
いつも悲しくて、いつもやりきれない。
まだ、これからたくさんの楽しいことをしたかったのに。
まだ、これからたくさんの思い出をあげたかったのに。
まだ、これからだったのに。
思い切り泣いた。
ああ、神様、お願いです。
この勇敢な勇者を、生き返らせて。
お願い、お願いします。
「トリッシュ、無理を言ってはダメだよ」
それはペンドリッチのものではなかった。
まるで駄々をこねるようなお願いを嗜めるように、神様はやってきた。




