最高の世界で再会を。
泣きじゃくりながら、涙を拭きながら、目を上に向けた。
とても小さくて、灰のような髪色をした、美しい女神さまがいらっしゃった。
「……あなたは」
父なる神の吐息より生まれ、世界中に散らばった灰のひとかけら。
そよ風と共に現れ、嵐と共に去るもの。
自由を尊び、歌を愛し、詩に涙するもの。
どこにでもいて、どこにもいない、神様の一柱。
メルラトポス。
「ごめんね、もう少し、早く来られれば良かったのだけれど」
僕たちも全能ではないから。
そう呟くメルラトポスの声は、とてもやさしかった。
少しだけ、悲しい気持ちを和らげてくれる。
「そのものの生を望むかい?」
「……そんなことが、出来るの?」
小さな女神は、ゆっくりとその可愛らしい顔を縦に振った。
「私には出来ないけれどね、そのように記されてはいないから。でも、あなたがそう望み、そう記せば、たちまち死は覆る」
ああ、そうだ、創世の書。
なんで忘れていたのだろう。
書けば、あらゆることが起こる、便利な本。
死のない世界にしてしまえば、マタジの死は無くなるのだ。
「トリッシュ、この世界はあなたのもの。それは間違いない。でもね、聞いて欲しいの。聞いてから決めて欲しいの」
「……何を?」
こちらの返答に満足げに頷き、その美しき唇から言葉を紡ぐ。
「この世界はあなたの創造したものだけれど、もはやあなたの書いたことから離れ始めている。そうね?」
ああ、そうだ。
僕は神様を作ったけれど、そこに意思を持たせた覚えはない。
僕は生命を作ったけれど、死という概念を持たせていない。
そして何より、神様の祝福を受けた僕が、この世界のものに命を脅かされている。これは、どういうことなのだろう。
「あなたが無意識に書いたことでも、この本は現実とする。あなたはこの世に光を生み出したとき、同時に闇も生み出した」
ああ、そうだ、だって、光があるところには闇があるものだもの。
何がおかしいというのか。
「何もおかしくはないの。だけど、あの一文が、万物に対となるものが存在するという概念が生んでしまった。光に対しての闇、恩寵に対しての試練、そして」
「生に対しての、死」
「そう。それは私たちにも同義です。神にも対となる存在が生まれた。今はまだ生まれたばかりで名も役割も与えられていないから、とても漠然としているけれど、でも私たちと同じようにこの世界にあり、あなたに祝福ではなく呪詛を吐き、温もりではなく傷を与えるものとしている」
先ほどの黒犬は、マタジの対となる存在か。
僕が生み出したものが善と仮定すれば、悪を担う神がいるということだ。
ああ、なんだ、ということはマタジが死んだのは、僕のせいではないか。
僕がよく考えもせずに書いてしまったから、この世に死が生まれてしまったのだ。
僕がよく考えもせずに書いてしまったから、悪い神様と獣が生まれてしまったのだ。
僕の、僕の、せいで。
「悲しい? あなたが望むのなら、死を否定することもできる」
すでに死はあるというのに、死を否定できる。
書くことによって上書きが出来るのだろうか。
そうすることでどうなるか分からない。それなのに、今はとても甘美な誘惑に思える。
だが。
「それをすれば、全ての生が否定される、かもしれない」
僕の呟きに、女神の顔から笑みが少し消えた。
そしてゆっくりと、肯定する。
「そう。対あるものの片側を否定すれば、そのどちらもが否定される可能性は、あるわ。死の否定は、生の否定にもつながる。この世に生まれた生命は、全て別のものへと変貌するでしょう。だけれども、あなたは違う。あなたは死の概念のないものとして生み出された。それは私たちの祝福だから。あなたが生んだ私たちが、あなたにそうあって欲しいと願ったから」
つまり、僕は生きてすらいないということか。
たしかに、気付けばあれだけあった腕の傷が、きれいさっぱり消えている。
死なないとは、こういうことなのだろうか。
「全てはあなたの思うままに。全てはあなたの望まぬままに」
生きているって一体なんだ。
体がうごいていれば、生きていることなのか。
意思があれば生きているということなのか。
――分からない。
ここで死を否定すれば、この子は蘇る。
しかし、それは生きていることには成らないものとしての復活だ。
それは果たして、幸福なのだろうか。
そんなこと考えたことが無い。
みんなが笑って生きていられればいいと思うけれど、それは、幸せであることが前提だと思う。
しばらく、冷たいマタジの身体を撫でながら、じぃっと見つめた。
「メルラトポス、お願いがある」
「何かしら」
「この子の死を、慰めてあげて欲しい」
「慰め?」
「死を無かったことにしたらどうなるか、僕にはわからないよ。だけれども、きっとこの子の死を否定することは、これまでこの子が一生懸命に生きようとしてきた生の過程を否定することだ。あの子が、誇らしげにネズミを捕ってきてくれた、あの満足げな顔を否定することだ。それは、嫌だ」
「…………」
「この世界に魂はある。僕が決めた。だから、この子の死を歌で慰めてやって。魂を安らかに導いて。安らげる天国までの旅路が寂しいものでないように。風と共に、この世界のどこにでもいるあなたにこそ相応しい」
「いいわ、他でもない、あなたの頼みなら」
「メルラトポス、あなたに死の神としての役割を与えます。どうか、お願い」
メルラトポスは、空中でふわりと回り、お辞儀をした。
「自由と天空の神メルラトポスは、死者の魂を導くものとして、魂の旅路に安らぎを約束する。そして、残された者にも慰めを」
そういうと、メルラトポスは虚空から小さな弦楽器を取り出した。
聞いたことのない、綺麗な旋律だった。
いつまでも聞いていたい、美しい歌声だった。
旅立つものと、残されたもの、そのどちらをも癒す、死神の歌声。
ぽわりと、マタジの身体から光が浮かぶ。
ふわふわと僕の顔の周りを漂ったかと思うと、メルラトポスの旋律に踊るようにして虚空へと消えた。
気づけば、メルラトポスの姿もなくなっていた。
残されたのは、一人と、一本。
ああ、楽しかったな。
いつまでも、あの優しい温もりに浸っていたい。
ああ、だけど、それは許されないのだろう。
「ペンドリッチ、楽しい旅は終わりだね」
ペンドリッチは何も答えない。僕の言葉の続きを待っている。
「僕は、この世界を創らなきゃいけない」
「トリッシュ……!」
そうだ、僕の役割は、世界を創ること。
そのために、二回目の人生が与えられた。
僕と、マタジと、ペンドリッチが暮らしたこの世界は、とてもじゃないが完成したとは言えない。
あの子が生きたこの世界が、ずーっとこのまま変わらなかったら、きっとあの子に呆れられてしまう。
マタジが消えていった虚空を力強く見つめる。
悲しさはある。だが、同時に、煮えたぎるような熱意が胸の中で渦巻いていた。
「またいつか帰ってきたマタジに笑われないように、この世界を良い世界にしよう。だから、手伝って、ペンドリッチ」
「い、いよっしゃぁ、任せろい! 一世一代の大仕事だ!」
僕は頑張るから。
だから、マタジ、またいつか、最高の世界で再会を。
この話、こっから延々と神話の話とかを考えていたんですが、一先ず終わりにします。
今現在、他の話を執筆し始めたら楽しくなってしまったので……
自作は来年あたりからまた投降します。