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僕の一日は、まず、職員室に行って、担任の先生からその日の分のプリントをもらうことで始まる。それを生物室で解く。教科書をみれば答えが書いてある程度の、そう難しくないもので、一教科分がニ十分程度で解き終わってしまう。だらだらとやっても、三時間目くらいにはすることがなくなる。昼になると、担任が給食を持ってきてくれる。それで、一応、午後までいる。
ヒマな時間は、こっそり持ち込んだプレイヤーで音楽を聞いたり、本を読んだりして過ごした。たまに山城先生が様子を見に来て、プリントを解説してくれたり、無言でテストの丸付けをしたりしている他は、最初に先生が言ったとおり、誰も来なかった。
そんな日々が、どれだけ過ぎただろう。制服は、夏服になっていた。
このままでいいのかな、という焦りと、いつかは教室に戻らなければという恐怖と、恥ずかしさと、そういった感情が胸の中でない交ぜになっていた。
そんなある日の、一時間目が始まってすぐのときだった。
いつものように、水槽のモーター音と、水の流れる音を聞きながらプリントを解いていると、山城先生が、薬品があるから立ち入らないように、といっていた準備室のドアが、かちゃり、と鳴った。心臓が飛び出るほど驚いた。ゆっくり、ドアが開く。思わず、椅子から腰を浮かせた。
ドアからそっと顔を覗かせたのは、女子生徒だった。黒いストレートの髪、はっきりと大きな目。大人びた美少女といった感じの。僕に向かって人差し指を唇に当てて、シー、の合図をして、きょろきょろと周りを窺い、僕以外の誰もいないのを確認して、にっこり笑った。
何者なんだろう。なぜ、こんなところに? 唖然としていると、彼女はスキップでもするようにこちらに近づいて来た。
「授業、めんどうだから、そこに隠れていたの。君、一年生でしょ?」
「あ、はい」
「私は、三年。ね、あなた、本、好き?」
なんなんだ、いったい。三年生と言えば、受験とか考えないでいいのだろうか。それが、こんなところで授業をさぼったりして。そう思ったけれど、こうして生物室でひとり、プリントを解いている僕が言うべき事でもない。
いや、僕は先生の許可を得てここにいる。隠れていてさぼっているのとはわけが違う。突然現れた訪問者に、僕はすっかり混乱していた。そんな僕の動揺を無視して、彼女は楽しげに話を続けた。
「私、ツァラトゥストラを読んでいるの。読んだこと、ある?」
その言葉に、それまでのごちゃごちゃした思考が吹き飛んだ。
少し離れた机の上に置いてあったカバンを探って、一冊の文庫本を取り出し、書店でかけてもらった紙製のブックカバーを外すと、今度は彼女の方が驚く番。
「もうすぐ、下巻、読み終わるとこ」
教室からドロップアウトした不登校の中学生と、フリードリヒ・ニーチェ。お約束過ぎる組み合わせのような気がして、なんだか恥ずかしくなってしまった。彼女はそんな僕の胸の内を全く気にする風でもなく、すごい、偶然だね、と、嬉しそうに身を乗り出した。
「気になった章とか、ある?」
それから、僕たちはいろんなことを話した。不思議なひとだった。するりと水が染み入るように、風がカーテンを膨らませるように、自然に僕の内側に触れてきて、それが、とても心地よかった。




