プロローグ
「ふざけるな……」
細く掠れた声がやけにはっきり響いた。
獣の咆哮で地響きが起き、輪唱するかのように死体が呻いて揺れる。悪夢のような災厄続きの日々、人々に大きな恐怖を与えた不協和音も今や生活音と化した。止めどない魔物の侵攻、昼なのに暗い空、焼かれた大地、血臭、腐臭、この荒廃した世界を恐ろしいと感じられるまともな神経を持った人間は全て死んだ。
この命は惜しくない。
自分が助かろうとは思わない。
早く死にたいと、楽になりたいと願っている。
それでも、少年が生き汚くも未だ此の地に這いつくばっているのは、最期まで守られたからだ。
彼は、多くの犠牲の上に生きていることを自覚していた。死にたいし楽になりたいが、まだ死ねない理由がある。こんな地獄のような世界でも、一縷の希望を信じて散っていった仲間のために何としてでも生き延びなければならない。世界を救う鍵は、少年に託されたのだから。
だからこそ、少年は絶望の象徴たる化け物が許せない。ありったけの憎悪を込め、眼前の化け物を睨み付けた。
「……お前まで裏切るのか」
一歩、間合いが縮まる。ぬちゃりと粘ついた音と共に、彼の足元の血溜まりが広がった。浅い息、土気色の肌、辛うじて付いている両腕、両脚は……泥か、魔物の腹の中だろう。生きていることが奇跡だ。恐らく、己の状態を認識してしまったら最期、息絶えてしまうくらいには。幸いにも怒りと憎しみで頭がおかしくなっていて、痛みにまで配慮できそうもない。芋虫のように地面を這い、目の前の存在を捕らえようと距離を詰めた。
「このカス!嘘つき!無駄筋クソ雑魚のクソゴミ!」
「結構元気だな。……これは、殺しても死ななさそうだ。さすがはただ一人の生き残り、と言うべきか?」
こひゅ。
揶揄いは、少年からではない死に際の音に遮られる。こんな可愛らしい音は、辺りを埋め尽くす悍ましい魔物からは生まれない。化け物は首を傾げた。
少年のすぐ後ろで、真っ白の肌がまな板の上の魚のように跳ねる。艶をなくした黒髪が、鮮やかな赤で上書きされた。細い喉元が震えるたび、くぷくぷと赤いヘドロが泡立つ。
化け物は心底嬉しそうに笑みを浮かべた。
「まだ生きてたのか」
死んでるだろ。
言おうとして、飲み込んだ。「ただ一人の生き残り」、その言葉を肯定してしまうのが悔しかった。反論しようとして、悩み、結局は荒い息が漏れるだけだ。
「無駄口叩く気力があるなら、早く逃げたほうがいい」
化け物の様子は軽い調子で流し目ひとつして、その背に付いた大きな黒い翼を広げた。
「こんな世界、嫌になるよな。いつから血生臭くなったんだか。俺のハッピー学園スローライフを返してほしい、切実に」
「待てッ!どこに行く、何をする気だ」
「化け物にしかできない仕事ってヤツがあるんだよ」
伸ばした手は届かない。
ひらりと舞うように黒い鱗に覆われた躰をくねらせ、宙へ躍り出る。別れを惜しむように顔だけを少年へ向け、呟いた。
「幸せに生きるって、難しいな」
――泣いているのか。
地上は不死者の群れで溢れ返っていて、身動きが取れないほど囲まれている。抵抗する気も失せて、人ならざる虹色の瞳からつうと涙が流れているのをただぼんやりと見つめた。
一緒に馬鹿なことをたくさんした。
思いつきで行動して、怒られ、ろくに反省もせずまた面白いことを考える。そんな日々が永遠に続くのだと思っていた。
現実は、この最低最悪な世界で血みどろの争いに身を投じている。戦う理由は生き残るためただひとつ。武器を取らねば死ぬから戦うだけで、人がいないから戦場に立つだけで、争いがなぜ起こっているのかなんて少年たちには知る暇も術も無かった。ただ必死に目の前の不条理と戦い、仲間を見送り、今日も心臓が動いていることに安堵する毎日だった。
胸の内を占めるのは、楽しかった過去への哀愁と後悔。
少年と化け物は今、同じ気持ちでいるのだ。
「俺達、どうしたらみんなを守れたんだろうな」
そうして化け物は深淵へと飛び立った。




