それでも、僕は月へ行きたいと思うのか?
「……戸締まりと掃除を」
我が家に戻った僕は、ロボットに今日最後の命令を出す。次に来客があるまで、地上の部屋はロボットが行き交うだけの世界となる。
誰もいなくなった地上。外の音も聞こえない静かな地下室。
僕は管理室に入り、いつものように状況を報告する。
「この星の大気や食糧は地球人には難あり。しかし適切な環境が構築できるのならば生活は可能。
先住民族は魔法が使える。しかし、地球人には無理だろう。魔法を使うための器官がそもそも欠落している、期待しない方が良い。研究すれば、疑似機械を埋め込むか、彼らの遺伝子を基に臓器を作り移植することはできるかもしれない。しかし、その研究を行うための人手は圧倒的に足りない。
彼女らは高い文明を築き、非常に友好的……」
僕は誰も助けに来ないとわかっているが、そう空に向けて発信し続ける。いつも変わらぬ文面を、壊れた機械のように繰り返す。
この日本語を理解する人類が誰かいないか、淡い希望を乗せて――その空に浮かんでいる、昔はもっと青かったであろう、月に向けて。
空に浮かぶあの青い星は、地球である。僕の生まれた時代のものではないけれど、確かにあれは地球なのだ。どういうわけか、僕は遠い未来の月へ来てしまったのだ。
それに気がついたきっかけは、興味本位で空を観測した時だ。天球をさまよう惑星とその運行から割り出した答えは、この星は「太陽から数えて3つ目の惑星」を回る衛星だということだった。
僕はこの時、予感がしたのだ。
僕は急いで、僕が生きた時代の星座配置と、この星から見える空とを比べた。数刻の後、機械がはじき出したのは予想通りの結果だった。ここは僕が生きていた時代よりも、一千万年ほど未来の世界だったのだ。
いつの頃かはわからないが月の環境を生物が住めるように整えたのだろう。
しかし、一千万年。いくつかの種が滅び、新たな種が繁栄するには十分すぎる時間。環境も生物も、独自の進化をしていてもおかしくはない年月。地球も月も、僕のような人類は生きていけない環境になっていた。
それでも僕はあの空に浮かぶ故郷の星、地球へ行きたかった。その大地の上で死にたかった。
すでに地球へ帰る船は完成している。あとは細かい計算をし、あの星へ向けて打ち込むだけ。しかし、僕がこの地に留まっている理由、それは彼女の存在だ。
彼女が僕をこの場所に繋いでいる。淡い光を伴った、今にも消えそうな強い鎖で。
我が故郷、地球は今日も空に青くある。
僕は彼女の青い瞳を思い浮かべつつ、モニターに映し出される月を見て、叶える勇気がない夢を見る。
「あの憧れの月に抱かれて死ねるのならば。……たとえ一夜で消える夢であろうと幸せであると、僕も確かにそう思うよ……」




