終
『笑顔を見せてはならぬ。ありとあらゆる感情を捨て去れ。お前はこの父の命令だけ聞いていればよい』
妾は笑わない。泣かない。怒らない。
誰よりも冷たく、つまらない女。
姿も中身も人形のような女など誰が愛そうか。かつての夫達も愛妾とばかり過ごしていた。
だからこそ妾も父に従い、躊躇なく彼らを死に追いやれたのだけど――、殿は、殿だけは違った。
強引過ぎる政略結婚、感情のない年上妻だというのに妾の気を引こう、心を開かせようと必死で。非常に滑稽、呆れる事も多いけれど決して嫌ではなかった。
妾に心を砕く存在が新鮮に思えたし、若さゆえの危うさと眩しい程の真っ直ぐさを、護りたかった。
南条家と尾形家の同盟に亀裂が入れば、この家は間違いなく南条方につく。
そしたら妾は実家に戻される。優しく真っ直ぐな殿は敵方に移った妾を気にして全力で戦えぬかもしれない。
妾は殿の枷になりたくは――、なかった。
延々と拡がる暗闇を業火が飲み込んでいく。
灼熱の焔を背に、妾は掌中で浮かぶ光に語りかける。
『其方に頼みがあります』
足元の暗闇が開けていく。漆黒から緋色に色変わりした足元で城全体が、最後の日々を過ごした場所が燃え盛っている。
『自刃した妾は未来永劫地獄から出られません。討ち死にした殿は来世へ転生を遂げるでしょう。もしも万が一、来世の殿が困難に陥っていたら……、助けてあげて欲しいのです。妾の記憶を其方に……、託します』
深々と頭を垂れれば、光は赤みを帯びていく。
その光の中心に金魚の影が映っていた。
物心つく頃から繰り返し頻繁に見る夢。
同じ顔した垂髪の姫が金魚の私へ静かに請う。
今朝も久方ぶりに夢を見た。
『武将布島明昌と茜』を初めて読んだ時、作者である八塩朱殷が『殿』だと確信した。文章に書かれた風景、当時を生きる人々の描写が、託された記憶の断片と寸分違わなかったから。
私は当初、彼は小説という形で前世を昇華している、と思っていた。
けれども巻数が進むにつれ、筆の勢いが落ちていくように見受けられ。更には新境地だと謳われた新作数冊は明らかな駄作。このままでは作家生命も危ういと現世の父や父の文士仲間も語っていた。
だから私は朱殷先生の前に現れた。
夢の中の姫なら絶対しないだろう言動、行動を重ねた。
夢の影響で現世が生き辛く、夢が彼の不調の一端を担っているなら。
同じ顔の別人という存在によって何らかの変化を齎せられたらいい。
上京して二度目の夏。
蝉の声と人々の喧騒、チンドン屋の太鼓が生温い風と共に流れてくる。
路の両脇に屋台の幟が並び、それらを横目で流しつつ前を行く背中についていく。今日は書生風の装いじゃなくて見慣れない浴衣だから見失わないようにしなきゃ。
「椛さん、ついてきてる??」
「はいっ」
立ち止まって振り返った目は、眼鏡越しでも不安がありありと見て取れる。
子犬みたいな目だと失礼を承知で微笑ましくなった。
「心配でしたら手でも繋ぎますぅ??」
「な、ばっ……!嫁入り前の娘がはしたないこと言うんじゃないっ」
昼間とはいえ、嫁入り前の娘と二人きりでお祭りに出掛ける意味はご存知かしら。
まぁ、『君のお蔭で生まれた新作の評判が上々でね。礼をさせて欲しい』って仰ったから、お言葉に甘えてお願いしただけなんだけどね。
「先生、まずは金魚すくいですよっ、金魚すくいっ。先生の新作にも出てきたじゃないですかっ」
新作の主人公は金魚売りの青年。金魚を買わず、ただ眺めるだけの美女が毎日現れるようになって以来、周辺で不可思議な事象が起き始めるという怪奇小説は瞬く間に人気を博し、新規読者も獲得した。私の目的も達成された。今じゃ夢もほとんど見ない。
『其方はもう自由に生きなさい』
今朝、珍しく夢に現れた姫は確かにそう告げたけど。
私はもう少しだけ彼を見ていたい。
寝ぐせであちこち撥ねた髪も、眼鏡の奥で常に眠そうな眼も。
私の言動にいちいち呆れ、慌てふためく姿も。原稿中の真剣な横顔も。
まだまだ見ていたい。
それに、私が遊びに行かなくなったら、また不摂生な生活に逆戻りしないか心配だし。
近所付き合いも止めちゃって、また引きこもったりしないか心配だし。
孤独は創造力を生み出し育むけれど、心を壊す原因にもなる。
孤独が性に合う人ならいい。先生はたぶん人と関った方が書ける、気がする。
これからも先生が前世に囚われないよう、出来得る限り目を光らせる、つもりでいるわ!
この気持ちが、姫が殿に向けていた気持ちと一緒か分からないけど。
きっと姫なら分かってくれるよね??
「あーっ!先生、先生!金魚すくいのお店ありましたっ」
「わかったわかった!わかったから袖を引っ張らないっ!」
「早く行きましょっ、わぁ?!」
「ほら言わんこっちゃない……」
足を滑らせた少女と慌てて支える青瓢箪な中年男に周囲からくすくすと笑いが漏れる。
その中で、総髪の若い武士が金魚を掌に浮かべて笑っていた。
誰にも気づかれることなく。




