100.出立
涙と桜の卒業式からの一ヶ月弱。
書類を書いたり物を買いそろえたりで、飛ぶように時が過ぎていった。
本棚には、卒業アルバム。
ついつい手がのび、見返しては、懐かしいな、とため息をつく。
もう間もなく、私はこの町を離れる。
特急に乗って、隣の県へ行くのだ。
しかし、全然実感が湧かない。
だって、今はまだ、家に居られるから。当たり前のように、ここで寝起きしていて、当たり前のように、母に食事を作ってもらって。
その日常さえも、もうすぐ塗り替えられる訳で。
私は、自分の夢のためにこの町を出る。
ルルーは、彼女の夢のためにこの町に残る。
本質的には同じだが、場所は遠く離れることになる。
しかし、二人は魔法使いとしての絆で結ばれているはず。
それでも、やはり彼女から離れねばならない訳で。
この日常もまた、覆されるということで。
そんなことを考えてはいたが、ルルーはやはり、しばしば私を訪ねてきた。
毎日はこの上なく忙しいのに、非日常という感じはなかった。前述の事が原因だろう。
いつもどおりの日々を過ごしながら、これがいつまでも続くという錯覚をどこかに抱きながら、それでも頭ではこの錯覚を否定しているという、地に足のつかぬ時間が続いた。
書類があらかた仕上がった。
荷物も、大体はかばんに詰めた。
忙しさが減っていくのに伴って、地に足がついていないという感覚は増していった。
出立の日が来た。
しかし、電車に乗り込む駅もまた、いつもどおりなのである。
高校に行くのと同じ時間、同じ四両編成の電車。
スーツケースに沢山の荷物を持ってはいるが。
そんなときだった。
「ななみっ!」
それは、この一年で幾度となく聞いた、ルルーの声。
「今日、出発、なんだよね……?」
その息は上がっていた。
「……うん」
「だから……見送り、しようと思って」
なぜだか、目を見開いてしまう。
その言葉で、ようやく理解したのだ。
この改札を通れば、私は彼女と離ればなれになってしまうということを。
この改札の向こうに、今までとは違う世界が広がっているように見えた。
『一番乗り場に、普通列車が参ります。ご注意下さい』
いつも聞く、駅のアナウンス。
「あっ、これ乗り遅れたら、特急乗れないんだよね? ……じゃあ……気をつけて、いってらっしゃい!」
ルルーが、いつものように明るい笑顔で、しかしどこか寂しげな顔で送り出そうとする。
その声は、少し震えていた。
私の足は動こうとしない。
それどころか、改札から離れようとしていた。
駅のホームを見ていた顔と体は、突如くるりと向きを変え。
気づけばルルーに抱きついていた。
ルルーもまた、それに応えるように抱き返してくれた。そして、小さく、また絶対会えるから、と呟いた。
「ほらほら、もう電車出ちゃうよ!」
彼女は、声の震えを振り切るように、大きく明るい声で、私を促す。
背中をバシッと叩いて。
それに押されるように走り出し、しかし振り返りながら、私はホームへと向かう。
「またきっと、必ずね」
「うん、またね!」
『一番乗り場から、電車が発車します。ご注意下さい』
そのアナウンスと同時に、息を切らしながら電車に乗り込んだ。
車窓から駅を見れば、ルルーが小さく見えた。
しかし、景色は動き始め、私を引き剥がしていく。
ゴトンゴトンという重い音と共に、風景が上下に揺れながら私の眼前を走り抜ける。
私が毎日、見ていたようで見ていなかったもの。
それを、半ば放心した目で見る。
新鮮なのやら、馴染みきっているのやら。
私は、ケータイでその写真を撮って、アルバムに追加した。ルルーとの散歩の写真も詰まっている、その中に。
よく馴染んだターミナル駅に着く。
そして、特急の乗り場に初めて立った。
全然違う駅にさえ見えた。
乗り込んだら、何の余韻に浸る間も与えずに発車してしまう。
自分が指定した席に座り、酔わないよう、窓から外を眺める。
初めは、いつものように重い音と共に、上下に揺れていた。窓の外は、どこまでも田畑や川だった。
それが普通だと、思っていた。
しかし、車輪はやがて、トトントトンというような、軽い音をたて始める。上下運動がなくなって、酔う心配も無さそうだった。窓の外は、ちらほらとビルが見えてきて、やがて群生する林の木々のようになった。
あぁ、都会に来たんだ。
隣り合った県のはずなのに、ここまで違うものなのか。
もはや、私は、全く違う世界に来てしまったようだった。
ケータイを開いて、ルルーとの散歩で撮ったいくつもの写真を見る。
あの町で暮らした証。
今はひとまず、別れを告げなければならない。
少し前までは、私の町も、私の学校も、私の家も、私自身も、何もかも、大嫌いだったのに。
今や、全てが好きになれた。
魔法は、私を脅かす亡霊のように思っていた。
しかし本当は、その全ての「好き」を見つけさせてくれた。
そのほとんどは、ルルーと私を結ぶことによってだけれど。
今は、この憧れの学校で学ぼう。
でも、必ず。
必ず、またこの故郷に帰ってくる。
煩わしいけど温かい、我が家に。




