第七十章 雲の上で神と踊る(Ⅲ)
鳴り止まない衝突音と風切り音。
ぶつかってはすれ違うグレーとオレンジの閃光。
男と女の戦いは、逆転した力量差も相まって一方的だ。
単調だと指摘されたその戦い方は影をひそめており、切り札のマンイーターだけでなく、両の拳による打撃も織り交ぜたコンビネーションの数々は、相手の防御を易々と切り崩す。
時間にして数分程度だろうか。少なくとも、食事処で飲み物を注文してから届くまでの宙に浮いたような間隔よりかは幾分短い。
女は無表情を貫けない。その表情には焦りの色が見え隠れしており、それほどまでに手ごわい相手がこの少年だ。
格上という単語は思い浮かべない。プライドがそれを邪魔する。
「この程度っ!」
「吠エルナ!」
劣勢でもなお、食い下がれるリインの実力は本物だ。上位の存在から押し付けられたものだとしても、今は彼女の血肉となって四肢を動かしている。
その成果が、完全なる捨身の攻撃だ。皮を、肉を、骨を切られようとも、怯むことはおろか痛がる素振りも見せず、目の前の人間を殺すために襲いかかる。
ゆえに今のイリックと言えども軽傷はやむをえない。回避に徹すれば話は別だが、長期戦は自分に不利だと自覚できている。ましては、この戦いにタイムオーバーなどありえない。
殺すか殺されるか。それを決める時間無制限の殺し合いだ。
コネクト第二段階。他者との絆を紡げた者だけが至れるこの領域は、窮地に達し新たな手助けが必要となった際に発動する奥の手と言える。
仲間からの助力だけでは足りない。そういった危機的状況に立たされて初めて機能するこれは、対象となる人間に超常の力を注ぎこみ、その結果、外見的特徴として灰色の魔力が体の周囲に発生する。
腕力。
脚力。
持久力。
反射神経。
動体視力。
そういった肉体的特徴が何倍にも膨れ上がるのだから、もし発動者の実力が超人に匹敵するのであれば、その規格は人間のものさしでは推し量れない。
「しぶとい奴だ!」
「コロス!」
女の肉体は数えきれないほど破壊されている。
美しい顔は幾度となく粉砕され、今も左頬は陥没したままだ。
両腕は最も損傷を受けた部位と言える。相手に伸ばす以上、標的とされる回数も突出してしまう。
足は蹴られる度に何度も折られるが、機動力を失うわけにはいかず、治癒の優先順位は最高位だ。
漆黒のドレスは流れ出る血液を吸ってさらに色濃く染まり、肌色の四肢もあちこちが赤く塗り替えられている。
(――追い切れナイ)
リインの顔に焦りと疲れの色が見え隠れする。
近接戦闘において、速度の差は絶対的だ。劣る者の攻撃は空振りに終わり、相手からは五月雨式に打ちこまれる。
回避は諦めるしかなく、防御もままならない。
本来ならば防戦一方の状況において、自分の命を切り売りできるその強みは人間はおろかモンスターすら持ちえない個性だ。
斬られながらも、そして殴られながらも反撃を試みる気概は、自身の不死性だけでなく敗北を認めたくないという感情が生み出している。
「ッ!?」
もっとも、彼らの戦いが精神論だけで成り立つはずもなく、少年が握る短剣の刃は容赦なく彼女の体を細断し続ける。
顔。
首。
右腕。
左手。
胸部。
腹部。
背中。
解体に次ぐ解体だ。
それでも戦闘が途切れない理由は女が人間の姿を維持し続けるからであり、それを可能とする源泉はまだ尽きそうにない。
だからといって、その残量が豊富かと問われれば話は別だ。
「もう半分くらいにはなったろう? そろそろ逃げ出す算段でも企ててたり?」
この問いかけには、沈黙で答えるしかない。
あっている。
見透かされている。
彼女の場合、マジックポイントは三種類の要因で減少するのだが、魔法の使用を控えてもなお、残りの二つが足を引っ張る。
蘇生による消耗。厳密には、その手前である回復行為にも用いている。
そして、こちらが厄介だ。マンイーターという人知を超えたマジックアイテムの存在が、彼女の余命を加速度的に蝕む。
短剣の刃を警戒すれば、殴られ、その拳を防ごうとすれば斬られる。
だからこそ、リインに与えられた選択肢は無謀な反撃のみだ。
「ギイ!」
「――遅い」
「がぁ!」
左肩を斬られながらも、女は血を浴びせ返すように右腕を振りぬく。当たれば相手の首を砕ける程の剛腕だが、結果は予想通りの空振りだ。
イリックは上半身を後方へ倒し、あっさりとやり過ごす。それだけに留まらず、低い体勢を維持しながら左脚を回し、女の両足を蹴り飛ばして地面に叩きつける。
近接戦闘で勝負にならない。もしも観客がいるのなら、誰もがそういった感想を抱くだろう。
後衛回復役でありながらも片手剣で戦い抜いてきた少年。
己の魔力に絶対的な自身があり、大勢を焼き殺してきた女。
土俵が違うのだから、殴り合いにおいては後者が圧倒的に不利だ。
コネクト奪取後はリインが身体能力で圧倒できたからこそ、イリックは苦戦を強いられてしまったが、パワーバランスが入れ替わった以上、結果も当然のように逆転する。
「ほんと……、しぶとい奴だ」
少年は立ち上がり、倒れこむ女を見下ろす。蹴られた足が痛むのか、硬い床との衝突が原因で苦しいのか、女は小さく震えたままうつ伏せ状態を維持する。
どんな表情を浮かべているのか、うかがい知ることはできない。
(来た……!)
うずくまるリインだが、姿勢を変えることなく、この状況に歓喜する。
待っていた。射程内で相手が油断する瞬間を。
およそ自分らしくない、惨めな作戦だとは重々承知している。それでもそうしなければ仕留められないのだから、勝ちにこだわる以上、どんな戦法をも取り入れる。
受身すら取れなかった右腕は、上半身と床の間だ。イリックからは完全なる死角となっており、それもまた好機と言える。
手を伸ばしてもわずかに届かないが、むしろ良い。
両者にとってこの距離感は絶妙だ。慌しかった攻防は一端落ち着き、静寂が訪れる。
リインは想像する。
相手は自分を見下ろしているだろう、と。それだけに飽き足らず、勝ち誇るように笑みを浮かべているかもしれない。
それでも構わない。
最後に勝つのは私だと、歯を食いしばりながらそっと視線を動かす。
目の前は薄紫色の床だ。うつ伏せで倒れているのだから必然的にそうなってしまう。
おでこの方へ眼球を動かしても、相手の靴すらまだ見えない。
しかし、方向は間違いない。殺害対象はこの先だ。
「立たないのは立てないからか? それとも心が折れたか? 少しぐらいなら待ってやるぞ」
片足を持ち上げ、踏み潰してもよい。
腰を落としてマンイーターを振り下ろしてもよい。
だが、あえて正々堂々と戦う。そうすることが、リインのプライドを粉砕する最も適したやり方だからだ。
この戦いに情の入り込む余地などどこにもない。互いに殺し、殺され合っているのだから、非常に徹することは前準備にすらあたらない。
(反応無し……か。なら、蹴り飛ばすまでだ)
女は伏したまま、その場から動こうともしない。
水の槍を作り出し、串刺しにしても良いのだが、何をしようと殺害は可能だ。マジックポイントを使うまでもなく、今の脚力ならそれだけでも命を奪うことができる。
ゆえに、そのための一歩を踏み込んだ瞬間だった。
(今!)
奥の手。
切り札。
どちらの単語も相応しく、ここまで出し惜しみした理由は確実な一撃を浴びせるためだ。
リインにとって、イリックはコネクトを使えるだけの目障りな人間でしかなかった。
それだけでも十分に障害足りえる存在ではあるのだが、所詮は有象無象の一人だった。
だが、今は違う。
コネクトの先を提示したこの人間は、超人という規格すらも越えている。デフィアーク共和国の大男、ザザとどちらが勝るかはわからないが、どちらにせよ、リインにとっては越えたくても越えられない壁だ。
打撃や突きは当てられず、煉獄の炎すらも通用しない。
この状況、もはや打つ手無しだ。
などと考えるはずもなく、彼女は虎視眈々と狙っていた。
それが次の一手だ。
攻撃魔法では致命傷には至らず、その理由は単純にその速度を捉えることができなかったからだ。
小さな炎を畳みかけようと、広範囲に展開しようと、イリックは易々といなしてしまう。
それでも可能性が費えたわけではない。
当たれば熱がる素振りは見せている。
すなわち、完全に防げているわけではない。
では、高出力な炎を凝縮させた上で、被弾させた場合はどうなるのか?
そして、それが肉体を焼きながらも切り裂くことが可能なら、はたしてどんな成果が得られるのか?
それを試す。
もちろん、これは実験ではない。
相手を破壊するため。
対象を殺害するため。
そのための手段が、彼女の右手で生まれ出る。
「っ!?」
少なくとも、女の腕は届かない距離だ。
だからこそ、イリックも歩みを進めた。
高まった動体視力がそれを捉えることには成功するも、体を動かすには至らず、それが地面を這うように振りぬかれる様子をただ見届けることしかできなかった。
リインの右手は素手ではない。
青黒いそれは剣の姿をしており、メラメラと燃えながらもその形に圧縮、固定されていた。
「ワタシの勝ちダ!」
真っ赤な瞳が見開き、大きな口が勝利を謳う。
右手が確かな手応えを感じ取った。鋭い刃を形成する片手剣と、倒すべき相手の右足首が交差したのだから、その結果は考えるまでもない。
「ひ、火の剣……だと……」
イリックは見下ろしながらも立ち尽くす。
リインは相変わらず伏したままだが、その右腕は見たこともない凶器を握っている。
剣身は一般的なそれと比べるとやや太く、拳を守る鍔は他とは違い轟々と燃え揺らいでいる。
本来は青いはずの色合いはやや暗く、初見であろうと火力の高さが見て取れる。
「あなたの魔法を参考にした。名前はホムラ。さぁ、崩れなサイ!」
焔。発言通り、イリックのオムニシエンス、正確にはロニアの水魔法を火に置き換えたことで誕生した。
水で出来ることなら火でも可能であり、リインは煉獄のそれで片手剣を作り出す。実践投入のタイミングはまさに今だ。
相手を切り裂くだけでなく、傷口周辺から燃やし尽くす。そういう意味では水の武器よりも悪質だ。
切れ味においてもオムニシエンスと競える。ゆえに人間を傷つけるには過剰なほどだ。
焔と命名されたこの武器で対戦相手の右足、性格には足首付近を両断できたのだから、彼女が勝ち誇るのも当然だろう。
イリックには回復魔法があるが、この場合、切断面を繋ぎ合わせた状態でなければ元通りにはならない。
だが、それを不可能とするのが焔だ。
斬りながらも同時に焼き尽くす。
本来は綺麗な断面が形成されるはずだが、今回は瞬く間に炙られ、黒く炭化する。
そうなってしまっては、いかにキュアと言えども結合は難しく、何よりこの少年は冒険者ではあるものの、普通の人間だ。斬られれば悶え苦しみ、戦闘どころではなくなる。
そういったことを見越して、女は笑みを浮かべる。
相手はそれでもなお、反撃を続けるかもしれないが、命のスタックは多少なりとも残っているのだから、慌てず殺し返せばよい。
勝ちは勝ちだ。
何度殺されたかはもはや数え切れず、三百年以上の人生において、最もマジックポイントを消耗させられたが、コネクトを有する者同士の戦いゆえに仕方ないと自分に言い聞かせる。
女は見上げる。右手では剣の形をした炎が轟々と燃えている。必要とあらば再度振り回すつもりだ。
その前に、先ずは倒れこむ様子を見届けてからだ。無様なその姿を目に焼き付け、満足したい。
「けっこう熱かったな」
「……え?」
パンパン。イリックは斬られた脛付近を左手で数度払う。黒いズボンはさらに破けてしまったが、今更嘆くこともせず、率直な感想を述べ、寝そべる女へ視線を向けなおす。
斬られた。
斬られたが、傷ついたわけではない。
強度で勝るのだから、付け焼刃の剣で少年の肉を絶てるわけがなく、それを証明するように、炎の剣先は欠けてしまっている。
なにより、リインは剣術の素人だ。魔法を生業とする彼女が武器の類を扱えるはずもなく、そういう意味でも付け焼刃な行為だ。
イリックは小さな頃から鍛錬を積み、何年もかかって片手剣の扱いを習得する。
両親亡き後も継続して腕を磨き、ついにはモンスター討伐で生計をたててみせる。
父と母に代わり、妹を養わなければならなかった。兄として当然の責務を果たすために、近隣の砂丘を練り歩きモンスターを掃討し続け、故郷にも平和をもたらす。
経験の差は圧倒的だ。この分野においては年齢など意味を成さず、腕の差を見せつけるため、イリックは短剣を左手に持ちかえ、即座に次の行動へ移る。
「勝負ありだ」
少年の声が女の耳に届くと共に、彼女の目の前で焔とそれを掴む右腕がそれぞれ半分に切り裂かれる。
何が起きたのか、わからない。
何をされたのか、理解できない。
ゆっくりと見上げると、そこには透き通るような水の剣が陽射しを浴びて煌めいていた。
それを掴む人間もまた、グレーの魔力を帯びており、憎たらしい相手でありながらその姿はただただ神々しい。
一方、自分はどうかと見返せば、オーバースペックはついに効果時間を終え、薄汚れたワンピースを着こむみすぼらしいだけの人間だと気づかされる。
地を這う姿も悲しいほどに哀れだ。
そもそもの前提として、火と水は相反関係にある。火は氷に強いが、水には弱い。
この事実から、炎の剣で戦おうという目論見自体が的外れでしかない。
(もうひと押しくらいか? これ以上追い込むわけにもいかないけど……。覚悟を決めるしかないな)
絶望を抱く女とは対照的に、少年はどこまでも冷静だ。
リインを討伐するためには、二つの壁を乗り越えなければならない。
無尽蔵なマジックポイントからくる不死性の突破と、テレポートによる脱出の阻止だ。
前者はマンイーターによっていくらか解決したが、後者に関しては手つかずのままだ。
彼女の魔力を上回る後衛補助役を探し出し、協力を仰ぐことができれば作戦くらいはたてられるのだが、それはそれで困難極まる。
そこでイリックが考えた方針は、リインを諦めさせないという接待的な戦い方だ。
相手を倒せるかもしれない。そう思わせるギリギリのラインを保ちながらマジックポイントを削り続け、終にはテレポート分さえも枯渇させる。
絵に描いた餅だとわかっていながらも、魔法を封じることができない現状では唯一の手段ゆえ、ダメ元でもトライするしかない。
この作戦が危うい理由は二つだ。
そもそもの前提として、リイン相手に正面から渡り合えるのか。この点はコネクトの進化により解決する。
もう一つ、こちらが非常に困難なのだが、相手のマジックポイントを見極めなければならず、そのような特技を持つ人間など未だかつていない。
イリックのように容量が少ないのなら、単純に魔法の回数を数えてしまえばよい。
だが、対象がリインとあっては不可能だ。
膨大過ぎるそれは青い炎を何百、何千と作り出せる。仮に数えきれたとしても、誰一人として限界値を知らないのだから、その行為そのものが無意味だ。
では、どうすればよいのかと言うと、冒険者特有の直感およびリインの挙動から判断する。乱暴だが、現状はこうするしかない。
イリックの攻撃は対戦相手の命を幾度となく削り続けた。
逃げられないように、自分の命を人参のようにぶらさげ、チャンスさえあれば逆転できると錯覚させながらも順当に戦闘を運び続けた。
完膚なきまでに殺してしまうと、今回も勝てないと悟られ、揚句にテレポートで逃げられてしまう。
それは避けたい。
もちろん、この結果もまた致し方なく、次の機会をうかがえばよいのだが、二人っきりになれる稀有な戦場が用意されたのだから、この地で決めてしまいたいと欲張ったところでわがままではないはずだ。
「そ……、その力は……」
私にこそ相応しい。
リインはそう主張したいが、焔さえも打ち砕く勇ましさとたくましさが眩しく、視線を落とすことしかできない。
これまでとは一変、うなだれる女の姿は痛々しい。諦めることを知らない、そして人間を見下すことしかできなかったリインと同一人物には見えないほど、今の彼女は焦燥しきっている。
炎の片手剣は弱々しく鎮火し、切り落とされた右腕も地面にゴロンと転がったままだ。
真っ赤な、それでいて非常に長い髪は背中から流れ落ち、質素な床を這っている。
起き上がろうとすれば、すぐにでも可能なはずだ。それでもなお、そうしない理由は出来ないからだ。
力量差を見せつけられた。
攻撃手段を全て潰された。
なにより心を痛めた要因は、信仰の対象でもあり、生きる理由そのものとも言える神が自分ではなくイリックを選んだからだ。
この人間と自身に生じている最大の違いは、コネクトを使いこなせているか否か、この一点に収束する。
勘違いしていた。
知らなかった。
少なくとも、この神秘の恩恵を最大限享受できていると思い込んでいた。
だが、違った。
その先があった。
創造主たる神と直接接続し、その力を借り受ける。
コネクトとはそういう魔法だ。そういう魔法だった。
だが、そうではないのかもしれない。
思い違いをしていたのかもしれない。
どちらにせよ、このままでは圧倒されてしまう。
(どうすればイイ! 何がタリナイ!)
いかに思考を巡らせようと、ただの人間にわかるはずもない。
コネクトを奪取、自身に宿したことで神との接続に至ったが、その先があると目の前の人間に見せつけられたのだから、困惑しながらも渇望し、そして絶望を胸に抱く。
勝てない。
そう、今のままでは勝てない。
そもそもの前提として、この戦いは独りでは勝ち残れない。
つまりは誰かの助けが必要だ。
手を差し伸べられた者が、相手を打ち負かせる。
コネクトを所有する者同士が戦った場合、手と手を取り合える他人の数がそのまま勝率に結びつく。
独りでは無意味だ。これはそういう魔法であり、活用できなければ宝の持ち腐れでしかない。
一人で戦うと決めた以上、現状こそが望んだシチュエーションに違いないが、その結果、敗れてしまっては無意味だ。否、判断を誤ったとすら断罪できる。
望む。
祈る。
信じる。
主を信仰してきた者として、最後にすがれる行為はこれだけだ。
リインの目的は神のそれである。天啓に従い動いているのだから、立ちはだかる障害はこの世界にとっても都合が悪い。
そういった背景から、この結果は至極当然なのかもしれない。
そこに人の意志が介するわけもなく、用意された筋書き通りに進むよう、美しくも大きな手が彼女に差し伸べられる。
(何を望みますか?)
リインはこの声を知っている。脳内に直接働きかけるこれは美しい音色の中に力強さと尋常ならざる威厳を兼ね備え、人間であれば何人たりとも逆らえない。
降り注ぐ光は白と黒の二色が折り重なり、汚れを知らぬ指が近づくにつれ、闇よりも深い黒が比重を増していく。
(……あ、あぁ、やはり見守ってくださったのですね)
知っている。だからこそ、涙が溢れてしまう。
その問いかけに対しての返答よりも、先ずは率直な感情が口から漏れ出る。
(何を望みますか?)
(会いとうございました……)
眩しいだけの白は遮られ、彼女は黒一色の深淵に抱擁される。
冷たさと温かさが混在するこれは、この世界には存在しない全く別の元素だ。強いて挙げるなら、人間から戦意を奪い去り、あげくに生命活動すらも停止させる重苦しい呪縛に近い。
(何を望みますか?)
決まっている。
今すぐにでも伝えたいが、こぼれでる涙が嗚咽を誘ってしまう。
返答できない自分を前にして、この存在はじっと待ってくれる。
そのことさえも、彼女にとってはありがたい。いくら感謝してもしたりないほどに。
(……あなた様のために)
二人だけの空間で、女は絞り出すように言葉を紡ぐ。
(ニンゲンを滅ぼしとうございます)
これを望む。
両者はこれを欲する。
ゆえに、リインは赤い瞳で見上げ、見下ろすそれもまた、にっこりとほほ笑み返す。
(よろしい。さぁ、始めなさい)
降り注ぐ光は底の見えない海よりも暗い。遠方では白い光がわずかに揺らいではいるものの、自己主張することもなく、少なくとも彼女を包むそれは完全に黒一色だ。
腕のように太い右手が、美しい手のひらを披露しながら差し出される。純白でありながらこの世界で最も穢れている五本の指は、生まれて以降、一度も物を持ったことがないのではと思わせるほどに端正だ。
リインは涙をこぼしながら、眼前の中指へそっと触れる。
彼女にとって、これは救いの手だ。導き以上を意味しており、内側から溢れはじめた原動力がそれを証明している。
ここから始まる。
ここから始める。
やるべきことは明確だ。だからこそ、迷いなく実行できる。
天の光が遠方へ後退する中、リインは与えられた闇をまといながら涙をそっと枯らす。
さぁ、瞳を開く時だ。
自分は見守られていると再確認できた。
使命を果たすための手段を与えられた。
もう、これ以上は必要ない。
神が、否、女神が不要と論ずる人間をこの世から消し去るため、彼女は代行者として奮い立つ。
「――ん?」
冒険者としての勘と、何度も殺し合った間柄から、イリックは即座に異変を捉える。
生きることすら諦めたかのように見えたが、今は違う。
雲間から差し込む陽射しのような、わずかな闘志を突然発現させたのだから、イリックの本能が後退を命ずる。
だが、マンイーターの刃を突き立てたいという欲求もあり、中途半端かもしれないがその場に踏みとどまる。
(これはやばい!?)
そう気づけた時には既に遅い。
地面に這っていたはずの女が、長髪を一切揺らさず、目にも止まらぬ速さで立ち上がったばかりか、表情に生気を溢れさせているのだから、彼女を知る者なら誰もが驚くはずだ。
少年は恐怖と危機感から、ゆっくりと後退する。
「愚かなニンゲンを滅ぼすため、先ずはアナタを消し去る」
「……何度も言わせるな。おまえだって人間だろうに」
このやり取りは一度や二度ではない。だが、重みという意味では別格だ。
「神は最後に私を選んでくれた。いえ、初めから……」
リインは民に見出され、その地位を与えられた。
その後、神の名代としての器を認められ、女神から新たな使命を与えられる。
リインの長い歩みはそこから始まるのだが、そういう意味で彼女はそこをスタート地点と定める。
「ゆえに応えなければならない。邪魔者を排除し、その願いを実現させる。それこそが、私の生きる理由」
「俺にだっておまえを倒す立派な理由があるんだ。何があったのかはわからんが、やられてたまるか」
リインにとっては何秒、何十秒の出来事だったが、部外者からすればまばたきほどの刹那だった。
だからこそ、わからない。今なお力関係は変わらないが、意気込みの変化は少年にとってどこまでも不気味でしかない。
「その力はアンタだけのものではない。コネクトは私にこそ相応しい。それを今から教えてあげる」
「……まさか!?」
「まほらに至る存在は私だけでよい。偽物は偽物らしく消え去りなさい」
そして、その力が花開く。
与えられたそれは単なる借り物ではなく、紛れもなく、彼女自身の血肉となってこの世界に顕現する。
黒く、どこまでも深いその色がリインの体表を覆う。
膜のような、それでいて霧散しない煙のようなそれは、人間が扱える魔力とは別規格の塊だ。
長い髪とワンピースを揺らしながら、真っ黒な闘気をまとうその姿は正面に立つイリックと瓜二つだが、色だけは決定的に異なっている。
ブラックとグレー。
その差が何を意味するのか、少年にはこれっぽっちもわからないが、女は見下すように言い放つ。
「コネクト……、第二段階。その名をまほら。それすらもわからないアナタはやはり不適合。この色こそが完成であり、黒に染まれないアナタは未完成」
「な……!?」
突きつけられた事実と、それ以上に、対戦相手が同じ土俵へあがったことが驚きだ。
身体能力を大きく、それこそ倍以上に高めるこの現象がコネクトの次なるステップだとはぼんやりと理解できていた。
その名称までは知らなかったが、自分だけが扱える切り札だと思っていたにも関わらず、その前提が覆されたのだから、その意味するところは非常に大きい。
戦況は一変する。
有利に、それこそ一方的に相手を死に追いやれていたのだが、ここからはそうもいかない。
条件だけなら並ばれてしまった。ふりだしに戻されたとも言い換えることができる。
(いや、内容が本当ならそれどころじゃない……)
イリックが見つめる先では、リインが漆黒の光に包まれている。禍々しくも力強く、触れるだけで身を引き裂かれそうなそれは、少年がまとう灰色のオーラとは似ているが同質ではない。
見た目の一点においては、その色合いが似て非なる。
(カムイやカムウタが凝縮されたような……)
イリックからも神格漂う波動が放たれているのだが、その中に人間を押さえつけるような殺意の類は感じられない。
一方、リインからは刺々しいむき出しの敵意が、空気すらも歪ませるほどに漏れ出ている。この場に第三者が居合わせた場合、数秒ももたず卒倒するだろう。
女はこの状態こそが完成形だと言い放つ。
人間を掃討したい神の御心の具現化。そういう意味ではまさしくその通りと言えよう。
黒に届かないイリックのそれはまだ灰色だ。彼女からすれば未成熟に他ならず、その容姿は無様でしかない。
「神様に選ばれたって?」
「偽物のアナタには感じられなかった? あれほど暖かな温もりを……。私は今、主に守られている。見守られている。だからこそのまほら、この力」
「出会ったとでも言いたげだな……」
「女神ネゼオル様が直々に私を支えてくれている。私の行いこそ、真理。この世界の進むべき方向」
(女神……。リンダさんの言ってた通りか……)
そして、イリックも自身の置かれた境遇を知る。
自分達は誰かの代理戦争に加担させられている、と。
操り人形になったつもりはないが、抗えないそれ以上の力によって進むべき方向を固定され、無意識に選ばされている。
このことに誰よりも先に気づけた人物こそ、錬金術師のリンダだ。
イリックの冒険は彼女から始まったといっても過言ではなく、コネクトさえもそこを基点としている。
違和感はあった。
なぜ、自分達ばかりが未知の存在と巡り合うのか。
北の地を支配した漆黒のゴブリン、アラシ。
ガーウィンス連邦国の壊滅を狙った男、ウーディ。
他にも様々な脅威と遭遇、その度にそれらを撃破してきたが、最たる特異体はこれら二つだ。
氷の精霊とゴブリンが融合した結果、新種のような見栄えへと変化したアラシは、煉獄の扉を開き、大量のモンスターをこの世界に誘致する。
その能力は既存のそれとは完全に別種であり、放つ闘気ですら人間の意識を刈り取るほどだった。
そんな中、イリックだけはそれに抗えてしまった。
そして、最終的には討伐に至った。
ウーディに関しても、単なる人間とは呼べない。
氷の魔法を与えられたばかりか、内に秘める闇の感情を増幅し、最終的には国家転覆を目論んだ。
サハハ遺跡の戦闘では黒い魔力に飲み込まれ、モンスター以上の化け物へ変貌してしまう。
あらゆる攻撃を跳ね除けるそれを粉砕した人物もまた、コネクトを駆使したイリックだ。
アラシとウーディ。両者の共通点は、謎の女が関与しているということだ。
ウーディに関しては確定していた。その容姿から、犯人はリインだと確定していたからだ。自白も得られたことから、この事実は揺るがない。
一方、アラシに関してはゴブリンゆえに人間の見分けがつかないのか、ひどく曖昧な供述しか得られず、裏で糸を引く人物までは特定できていない。
だが、今のイリックはこう考える。
この件に関しても、リインが暗躍していた、と。
神という上位の存在からバックアップを受けている。だからこそ、突拍子もないことが可能なのだろうと妙に納得できてしまう。
人間を滅ぼすというお題目のために、モンスターを利用するという方針は最適解だ。
彼女自身が世界中を歩き回り、行く先々で人間を焼き払うことも可能かもしれないが、効率面や要する時間を考えた場合、子孫を増やせる人間の繁殖力がその目論見を阻害しかねない。
煉獄という別世界にも、モンスターは存在している。それらをウルフィエナに招くことが出来るとしたら、戦力としてはこの上なくありがたい。
通常ならば、一介の人間に煉獄をどうこうする術などない。
だが、リインだけは別だ。神の後押しが、それを可能としてくれる。
今では、煉獄の炎を自身の攻撃魔法に転用しているのだから、もはや疑いようのない事実だ。
神には神の、そして、リインにはリインの目的があるのだが、駆逐される側は当然受け入れられない。
抗う。
そうすることもまた、人間の自由であり、本能だ。
勝てる、勝てない、ではなく、勝たなければならない。この戦いはそういう次元に突入している。
そう再認識できたものの、イリックは背筋が凍る思いに耐えながら、ギリっと食いしばりつつ、その場に立ち尽くす。
リインがまとうそれは彼女を怪しく包みながら、その色であらゆる光を吸い込んでいる。
重く、息苦しい圧迫感は、神威展開時に人々が受ける重圧と同等かそれ以上だ。
耐性持ちのイリックでさえ、冷や汗を止めることはできない。
リインのコネクト第二段階が人間を萎縮させるだけの能力でしかないのなら、胸を撫で下ろしてから戦闘を再開すればよい。
だが、そうではないことを誰よりも理解できている。
「どこまでも昂る。なんて素晴らしい」
リインは自身の体を舐めるように見渡し、煌々と喜ぶ。
体の内側から湧き出るエネルギーは、コネクト習得後の進化すら霞んで見える。今なら、今朝戦った大男、ザザすらも圧倒可能だろう。そう思わせるほどには、活力と自信がみなぎってくる。
(冷静に考えたら、並ばれた時点でかなりやばいな……。さすがにこの状況は想定できなかった)
まほらに至った彼らが正面からぶつかる場合、勝者は自然と決定する。
リインだ。不死性が勝敗をあっさりと決めてしまうため、イリックとしては自分の予想が外れることを期待するしかない。
(あぁ……、神よ。私をお導きください)
女は天を仰ぐ。まとった魔力が髪と衣服をゆさゆさと騒がしく躍らせる中、使命を全うするために、もう一度祈りを捧げる。
そして、顔が正面へ向けられたことで四肢は完全に静止する。
これが何を意味するのか、少年は重々承知だ。腰をわずかに落として短剣を構える。
「さぁ」
「再開だな」
殺し合うことが宿命だ。迷いもなければためらいもない。
そもそもこの場所からの逃亡が不可能だ。ゆえに戦うしかなく、人間同士が争っている場合ではないのかもしれないが、今回に限っては避けられない。
視線をぶつけあう二人は、それぞれに責務を背負っている。
少年はリーダーとして仲間を想い、女は盲目的に神を敬う。
どちらもが相手を罵り、否定する。理解できないのだから、互いの意見は水平線を辿るばかりだ。
一点、その部分においてのみ、彼らは同じ価値観を共有している。
目の前の相手を殺さなければならない。
だからこそ、ここに行き着いた。
だからこそ、その力を手にした。
それぞれの目的を果たすために、両者はまたもぶつかり合う。
先に仕掛けたのは、灰色をまとうイリックだ。緩急をつけた前進はフェイントを意味する。相手の防御を崩す算段だ。
右手の刃が届く位置へ詰め終えるや否や、女の喉元を切り裂くために短剣を左から右へ走らせる。
その時だった。
驚く素振りも見せず、それこそ平常心を保ちながら、リインはベッドに寝転ぶ初期動作のように上体をさっと後方へ倒す。
銀色の刃先はかすりもせず、女の赤い瞳はなぞるようにそれを追ってみせる。
見切られた。
あらゆる角度から精査しようと、この結果は覆らない。
「見える」
風切り音は空振りを意味する。
だが、攻撃の機会はイリックが握ったままだ。相手はわずかに仰け反ったままゆえ、とっさの反撃は難しい。
黒い魔力群を浸食するように、灰色の闘気をまとった左手の握りこぶしが肩の前後運動と連動しながら直進する。
剣撃と打撃のコンビネーション。デフィアーク共和国でしごかれた結果、こういった柔軟さが身についたのだが、一朝一夕の賜物ではない。
左手は利き手ではないが、当たれば痛いだけでは済まない。ましてや今は、コネクトの第二段階を発動させている。相手が自分同様強くなろうと、ただでは済まない。それをわかっているからこそ、畳みかけるように殴りかかる。
だが、この攻撃は成立しない。
すなわち、失敗に終わる。その拳を包むように、女の右手が受け止めたからだ。握手とは違うその結合は友好の証ではなく、相手を倒すという意気込みだ。
「捕まえた」
「――それなら!」
空振りに終わった右手は自由だ。そもそもこちらが本命なため、掴まれた左手はそのままに、マンイーターは軌道を変えて上から下へ振り下ろされる。
「無駄」
女の発言は嘘ではない。
この刃は幾度となく皮や肉を切り裂いたが、その事実が幻だったと錯覚するほどに、今ではかすりもしない。少年があらゆる角度から突き入れようと、女の細腕が全て弾いてしまう。
吐息がかかるほどの近距離で、男と女は互いに片腕だけを激しく動かす。
イリックの右腕は短剣で相手を斬り刻むために。
リインの左腕はそれを払うために。
斬撃の速度は音速を上まわる。それを怒涛の勢いで浴びせているのだが、それでもなお、柔肌には届かない。
ここに一般人が居合わせた場合、二人の攻防は視認すらできないだろう。彼らの腕はそれほどの速度で動いているのだが、結果は残酷なまでに一方的だ。
「うおおおぉぉぉぉ!」
イリックは吠える。丁寧ながらもがむしゃらに斬りかかっているのだが、未だに傷一つつけられない。
対するリインは平常心を保ったままだ。赤い瞳は機械の如く緻密な動きで短剣を追い続け、左腕は迎撃を完遂し続ける。
少年は焦るしかない。自分の攻撃が通じないことが脅威なのではなく、もちろんそれも受け入れ難い事実なのだが、目の前の女が武術の心得を有していないにも関わらず、空気すらも切り裂く刃をことごとく受け流せていることが、何よりも驚愕だ。
イリックに可能でリインに不可能なことがある。相手の動きを先読みし、回避や防御、反撃に転じることだ。
冒険者はモンスターの討伐を生業とする。言い換えるなら、戦闘技術をとことん突き詰め、磨き続ける。
そうでなければ金を稼げず、そもそもの話として生き残れない。
やり方は人それぞれだが、多くは鍛錬から始め、その後、手ごろなモンスターの討伐に移行する。
その結果が、人間離れした肉体と戦闘技術の習得だ。
戦技や魔法といった能力も合わさり、冒険者という人種は一般人とは一線を画す存在へ昇華する。
何百どころか何千、何万もの戦闘経験が彼らをその領域に連れていくのだが、その際に身に付く技能の一つが先読みだ。
相手がこう動くだろう。
では、どうするか? それを瞬時に経験から導き、最適な行動へ繋げる。
回避。
防御。
武器で受ける。
回復魔法を唱える。
その対処法は様々だが、とにもかくにも冒険者には必須のテクニックだ。
リインにはこれができない。長い年月を生きてきたが、戦闘と言えば離れた位置からの一方的な虐殺だった。
少なくとも、今日を除けば、魔法を使わずにその細腕だけで人間を殺した経験は数える程度だ。
だからこそ、彼女は接近戦を苦手としている。
致命的な経験不足を別の何かで補う必要があり、それが相手を上回る身体能力と不死性だ。
この攻防においては、前者だけで間に合う。
すなわち、イリックが短剣をどう動かすかをきちんと目で見てから、後追いで左腕を動かし、刃の接触を防ぐ。
そうされていることは、少年も重々承知だ。
ゆえに、焦らされ、意地でも攻撃を続けてしまう。
フェイントを織り交ぜることでリインを騙すことに成功したとしても、超反応によって少年の右腕はあっさりと弾かれる。
つまりは、どうすることもできない。詰んでいるとさえ言える。
(くっ! 反射と動体視力の差か!)
イリックはこれらで劣る。
それに加えて、速度面でも劣勢だ。
オーラの色が関係するのか、元の実力がこの結果に起因するのか、そこまでは少年にもわからず、仮に解答を得られたとしても覆すには至れない。
鳴り止まぬ風切り音と衝突音は、物静かな超高度の世界を騒がしく掻き毟る。この喧騒こそが客人を招いた結果でもあるのだが、その良し悪しを決める者はもういない。
リインの眼球は上下左右へ忙しく動く。迫り来る斬撃を全て受け流すためであり、対してイリックは正面を見据えたままだ。
(――埒が明かない!)
現状維持では何も生み出せない。
すなわち、この女を殺すことはおろか、傷つけることも不可能だ。
近接戦闘には絶対の自信があったが、単純な身体能力だけでその差を埋められてしまった。
作戦と呼べるような大層な考えはなかったが、もはやどうすることもできない。
完全にふりだしだ。それが何を意味するのか、両者はもちろん理解している。
「まだ続ける?」
「どうするかな……」
(やりようはある……か)
無表情ながらもどこか呆れ気味なリイン同様、イリックも至って冷静だ。
マンイーターをどれほど打ちこもうと、その全てがあしらわれている。にも関わらず落ち着いていられる理由は、勝機を見いだせているからだ。
このままでは勝てない。
言い換えるなら、勝ちの芽は潰えていない。
コネクト第二形態には、欠点とは呼べないもののそれに近い側面が存在している。
腕力や脚力は恐ろしいほどに向上するが、それらと比べると二点だけ、乏しいものがある。
頑丈さと魔力だ。
もちろん、他人からすれば喉から手が出るほどの上昇具合なのだが、それ以外はさらに高まっており、結果としてこれらは見劣りしてしまう。
ここに付け入る隙がある。
少なくともイリックはそう捉え、次のアクションへ繋げる。
神の気品をまとったからか、リインの態度は人間を見下しながらも実に優雅だ。そうすることを心がけているのだが、まほらに至れたことが心理的な余裕を生み出し、それを実現している。
この攻防にて、イリックはその心情をあっさりと看破した。
だからこそ、実行する。
相手を驚かせ、何より負傷させるにはうってつけの一撃だ。
先ずは右腕の振りに変化を発生させる。今までとは違い、大振り過ぎるそれは決して成功には繋がらない一振りだ。
その動きと連動させるように、少年は上半身と頭をわずかに後退させる。助走を加えることにより、速度ではなく力で押し切るよう見せかける。
そして、防御に徹する女に刃を振り下ろす。
当然、その軌道はあっさりと看破させ、黒いワンピースから生えている左腕があっさりと叩き落とすはずだった。
もちろん、それには成功するのだが、リインは鼻血を流しながら背後へ倒れ込む。
ふんが! そのかけ声には気合がこめられており、マンイーターなどただの布石でしかなく、イリックは上半身をいっきに前へ倒して、硬いおでこを綺麗な顔の中心へ全力で打ちこむ。
このタイミングで頭突きだ。
このタイミングだからこそ、なのかもしれない。
不格好な攻撃手段であろうと構わない。そもそもスマートな戦い方など知らないのだから、見栄えの類など気にする方が愚かだ。
ゴンと響いた音は、女の後頭部と丈夫な床がぶつかりあった証拠だ。これだけでもかなりの衝撃だが、彼女は別の要因で一度死ぬ。
「――鼻が折れた」
「だろうな! この状態だろうと攻撃は通るんだ。当たりさえすればどうにかなる」
雲一つない大空を見上げながら、寝そべる女は鼻を押さえる。枯れたはずの血液は時間経過によりいくらか補充され、その結果、今は鼻血という形態で体外へ流れ出る。
それだけではない。まほらに至った冒険者の頭突きは常軌を逸した破壊力を実現しており、リインは鼻だけでなく脳にもかなりのダメージを負う。
それにより命の残数は一つ減るのだが、今さらカウントダウンが進もうと気にする素振りも見せず、顔の前から手のひらをどかすと、粉砕した鼻はすっかり元通りだ。出血も止まっている。
「――互いに傷つけあうことは容易い。そういうこと?」
「ああ。両方がこうなっちゃうと、なんだかなぁって感じだな」
リインは黒いオーラを揺らしながら、ゆっくりと起き上がる。
イリックは灰色の光をまといながら、その様子を見届ける。
コネクト第二段階に至った者同士の戦闘など想定されていなかった。当事者にそう思わせるこの事態は、神にとっては筋書き通りなのか、その範疇から逸脱してしまったのか、それは誰にもわからない。
どちらにせよ、二人は競うように殺し合うことを義務付けられている。
呪われた宿命を払うためには、勝利が絶対条件だ。生き残らなければ始まらず、相手が終わることでしかその呪縛からは解放されない。
「だとしたら容易い」
目の前の人間をやっと殺せる。リインは既に確信していたが、自身の損傷で肉体的にも実感できた以上、ここからは防御よりも攻撃を優先させる。
そうすることができる。これこそが彼女の最たる取り得であり、他の誰にも真似できない芸当とも言える。
すなわち、命を投げ捨てながらも相手を屠れる。
その強みを活かすことは無駄に高いプライドが邪魔をしていたが、今回は相手が相手ゆえにそうは言っていられない。
神に見守られている以上、その期待には答えなければならないからだ。
ゆっくりと右腕を持ち上げ、拳を正面で固定する。
「焔」
冷え切った呼び声と共に、青い炎が立ち上る。女の眼前で縦長かつ細く固定化されたそれは、生き物を焼き殺すだけではなく、斬り裂くことも可能だ。
禍々しい造形と殺意を振りまく、青黒い片手剣。
それを手に取る彼女もまた、この世の全てを憎むように殺気立っている。
「オムニシエンス」
無駄なことを。そう言いかけたが、言葉を飲み込む。
イリックの動きは鏡のように対照的だ。左手を前へ突き出し、自らの魔法で武器を作り出す。
ここまでは同じだが、握る刃は炎ではない。透き通る剣身はこの世で最も美しく、覗き込めば望む物が映るだろう。
透明なほどに水色なこれは究極の攻撃魔法だ。この世のあらゆるものを貫き、粉砕する。
その対象にはリインと煉獄の炎も含まれている。
「属性相関なんて関係ない」
「仮に互角だとしたら、それに勝ち目なんてない」
両者の発言は一致しない。どちらも神の領域に踏み込んだ者同士だが、信念は根底から異なる。
神に認められたことで、絶対の自信を抱く女。
水は火よりも強いことを知っている冒険者。
だからこそ、発言はすれ違う。
だからと言って、意見をぶつけあり、擦り合わせる必要などない。どちらが正しいかは、別の方法で確認し合えば済む。
構えを知らぬがゆえに棒立ちのリイン。
右手のマンイーターと左手の剣を眼前で交差させながら、少しだけ腰を落とすイリック。
轟々と噴出する二つのオーラは、またも前触れなくぶつかり合う。
剣術の心得があるからか、先に仕掛けたのは少年だ。
自分に向けられた刃は焦げ付くほどに熱く、眺めているだけで身がすくむ。
だが、逃げない。
そればかりか、立ち向かう。
左手の武器は芸術品のように美しいが、正真正銘一級品の片手剣だ。それを振りぬき、先ほど同様、女の凶器を破壊することから始める。
付け焼刃の行動がいかに無駄か、再度痛感させる。実力が近しいのなら、精神面だけでも優位に立たなければならない。
この戦いはまだ続く。イリックはそう捉えており、流れを掴むためにもこの一振りは重要だ。
「――え?」
だが、この少年こそが思い違いをしていた。
その事実は、水の剣身が無残にも打ち砕かれたことが如実に物語る。
女は焔を握っていただけだ。燃えながらも固定された刃へ、水晶のような片手剣を打ちこんだ。目的は先ほど同様、青い刃を両断するためだった。
だが、結果は全くの逆だ。
斬りかかったにも関わらず、水の武器がその刃を半分の長さにされてしまった。
想定外だ。
そうであろうとなかろうと、この事実は受け入れられない。
水が火に敗れるはずなどなく、対戦相手がコネクトを進化させようと、こうなるはずがないのだ。
そのことを理解できているからこそ、イリックは呆けてしまう。眼前でリインが炎の剣を握っていようと、思考を巡らせることは叶わない。
それほどまでに、オムニシエンスの敗北は想定外だ。
動かぬイリックに、灼熱の刃が襲いかかる。
振れば届く位置まで近づいてくれたのだから、女は右腕を振り上げ、生まれ変わった武器の切れ味を試す。
剣筋は完全に素人だ。それでもこのシチュエーションなら関係ない。初めて木刀を握った子供であろうと、見よう見真似で斬りかかることは可能なのだから、魔法使いでしかない彼女もその程度のことはやってみせる。
揺らぐ剣先が視界の左側を覆い始めたことで、イリックはハッと我に返る。
遅すぎたかもしれないが、反応できたことも幸いだ。冒険者としての本能が危機を察知してくれたのか、高まった動体視力のおかげか、左まぶたを上から下へ縦に焼かれながらも致命傷だけは回避する。
「ぐぅ!」
それでも痛いことには変わりない。後退しながらも、少年は急ぎ回復魔法を詠唱する。片目で戦える相手ではなく、リカバーは最優先だ。
「間抜けな顔。そんなに信じられない? 自慢の魔法が通用しない以上、ここからは一方的」
対して、リインは怖いほどに冷静だ。振り下ろした右手をゆっくりと持ち上げながら、見下すように言い放つ。
(そんなに魔力が向上したのか? 俺なんかさっぱりなのに……)
わからない。イリックは癒えた左目をパチクリさせながら、水の武器の残骸をバシャンと床にぶちまける。
コネクト第二段階。呼称はまほら。身体能力を大きく向上させるこれは、魔力もわずかながらに高めてくれる。
ゆえに今回の結果に結びつくのだが、そのからくりは両者にはわからない。
二人が同等に進化したのなら、少なくとも属性の都合、オムニシエンスが有利なはずだ。
しかし、そうはならない。
なぜなら、リインだけがその恩恵を受けており、イリックの魔力最大値はこれっぽっちも上昇していない。
「ふふ、身も心も昂る。これを見なさい。魔力がさらに凝縮されている」
女はうれしそうに、そして舐めるように、焔の輝きを鑑賞する。
隣の世界、煉獄はモンスターだけの楽園だ。否、獲物がいないのだから彼らにとっては牢獄なのかもしれないが、なんにせよ、人間が住める環境ではない。
そこの火は赤と青の二種類が存在する。
そう。全てが青いわけではなく、むしろ血のような色が世界を覆っている。それは燃えたぎる炎や煮えたぎるマグマであり、青色を探してもなかなか見当たらない。
では、どこにあるのか?
答えは簡単だ。この世界に住まうモンスターの一部が、リインのように青い炎を攻撃手段として生み出す。
正しくは、リインが煉獄のモンスターを模倣しているのだが、その火力はウルフィエナのそれよりも高く、人間程度ならあっという間に燃やせ尽つくすことが可能だ。
(……なぜ、あいつだけが?)
イリックは落ち着きを取り戻すと共に、分析を開始する。
自分と相手の差異は何だ?
男と女。
冒険者と神の使い。
コネクト習得者とコネクト習得者。この点は共通だ。
だからこそ、自分達は人知を超越した力を手にすることができた。
問題はその内容に不一致が生じているからであり、その最たるが魔力の向上率に他ならない。
少年は据え置きのまま。
女はいくらか上昇。
その差異が、属性の相性すらも覆してリインの魔法を勝たせてしまう。
納得できない。
けれども受け入れるしかない。
だが、その原因を探りたいという欲求は、冒険者であろうとなかろうと当然の感情だ。
戦闘に専念すべきだが、今は運よく中断している。
見つけなければならない。女の立ち姿や黒いオーラ、青黒い剣を見定めようと一向に答えを見いだせないが、疑問を抱いたまま戦える相手でもなく、戦闘に集中するためにも解明は必要だ。
(……待てよ。俺の魔力もいくらか上がってる? でもそれは……)
そして、残酷な解答がイリックの脳裏に浮かび上がる。正解に辿り着けたが素直に喜ぶことは出来ない。非常に厄介な境遇であり、それでも避けられぬ事実だ。
(そういうことか!)
イリックとリイン。両者の最大の違いは、コネクトの使い方に集約される。
片や三人の仲間と繋がり、彼女らの力を拝借する。
片や孤立無援がゆえに、女神から直接支援を受けている。
そう。同じ魔法を発動させてはいるが、根幹からして二人は似て非なる。
ここで問題なのはイリックだ。
この冒険者は運悪く、魔法関連の才覚が乏しい。自力で習得した魔法はキュアのみな上、魔力もマジックポイントも子供の水準だ。
それを補う手段がコネクトであり、ロニアと接続することで彼女が辿り着く極限の魔力と魔法を借り受けている。
つまりは、イリックの魔力は二種類に分類可能だ。
己の魔力と、借り物の魔力。
まほらはあらゆる能力を高めてくれるが、それは発動者の肉体と魔力だけに留まる。
貧相な魔力が少しだけ向上しようと、ロニアのそれには到底及ばない。
ゆえに、コネクトを発動させているイリックは、第二段階に進化しようと魔力だけは据え置きのままとなってしまう。
そうなれば、対戦相手に逆転されても致し方ない。むしろそうなって然るべきだ。
この事実が、オムニシエンスと焔の力関係を逆転させる。
魔法勝負に挑む場合、イリックは二度と炎を突破できない。そういうことになってしまう。
「一人で戦えない弱者は大人しく殺されなさい。主もそうおっしゃっている」
「神様とやらにすがって、ついには助けてもらったんだろう? なら、おまえも一人じゃ戦えてない」
「ますます私の勝利は揺るがない。二対一。この戦いはそういうことになる。それとも、あなたにも加護があるの? いいえ、無い」
もはや言い返せない。
そもそも、このやり取りがどこまでもつまらない。
言いくるめられようと、そんなことは日常茶判事だ。妹達のおかげですっかり慣れている。それが良いことかどうかはさておき、口論の勝ち負けなどに意味などない。
ここは戦場だ。
リインを殺して殺して、殺し尽くすために足を運んでいる。
そのための一人だ。孤独とは違う。
少なくともイリックは、そう解釈している。
「――まぁ、なんでもいい」
「ええ、終わらせる」
一旦広まった間合いは、女の前進によって縮まり始める。
右手の炎は圧縮かつ固定化され、それでもなお、轟々と燃えたままだ。厄介だった水の魔法を突破できたのだから、残された命題は宿敵の排除に収束する。
(それでも……、なんとかなるだろうけど……、最後までだませるとは思えない)
ロニアの魔法が通用しない。
身体能力も再度逆転された。
絶対的な窮地だが、諦めるにはまだ早い。
それを誰よりもわかっているからこそ、イリックは逃げ出さずに迎え撃つ。
背筋を正し、前だけを見据える姿は威風堂々と力強く、それゆえに彼女からすれば否定せずにはいられない。
右手が握る炎の剣はそのためだ。眼前の男を焼きながらも切り裂くこれは、容赦なく振り下ろされる。
だが、当たらない。イリックが後方へ跳ねたからだ。
再度開いた距離は、女によって一瞬の間に圧縮される。
そして、青い剣身は空気を焼きながら二度、三度と振り回されるが、それらは空振りに終わる。
当たらない。
当たってはいけないからではない。この程度の剣撃に不覚を取るほど、この冒険者は落ちぶれていない。
速度では女が勝る。コネクト第二段階という同条件下では、素の身体能力が優劣を決定するからだ。
それでもなお、当たらない。そのことを不思議に思いながらも、リインは素振りのように腕を振ることしかできない。
脇を締めるということも知らず、乱暴なまでに大振りなその動作は、子供が初めて木刀を握った時の動作だ。
だからこそ、当たらない。焔がいかに強大な武器であろうと、使用者がこれでは意味を成さない。
そもそもの話として、リインはこういった道具を使ったことがない。何百年も生き続ける化け物だが、己の魔法だけで邪魔者を排除できたのだから、この事実はやむを得ない。
当たらない。剣筋を変えようと、緩急をつけようと、少年の肌に火傷すら負わせられない。
(何が起きてる?)
リインにはわからない。
リーチや殺傷力で勝っている。
その上、速さですら凌駕できている。
にも関わらず、結果はこれだ。この人間に一太刀も浴びせられない。
武術に関する知恵を持ち合わせているわけでもなければ、関心も抱けない。そんな人物が初めて剣を装備したのだから、手練れの冒険者を殺せるはずもないのだが、その事実は指摘されない限りわからない。
(ここまでは予想通り。ギリギリですらない。ハッキリ言って余裕)
そう。イリックからすれば、これを続けることなど朝飯前だ。それほどまでに、焔を握るリインは脅威にすらならない。
並の軍人や冒険者が相手なら、彼女は一秒もかからず彼らをその武器で殺せてしまうだろう。移動速度、腕の振り、そのどちらもが常軌を逸しているからだ。
だが、今回ばかりは対戦相手が悪すぎた。自分同様、コネクトを使いこなすこの少年は、いくつもの経験を得て人間の規格から飛び出そうとしている。
ましてや今は、まほらに至る超越者だ。神が用意した舞台上ではもはや狭く、チャンスさえあれば飛び出すことも可能だろう。
それをさせないための防波堤が、神の代行者たるリインだ。
人間を滅ぼすためだけでなく、空に浮かぶ人工島スカーティアからその扉を開こうとする存在全てを滅ぼすために、彼女は重責を一身に背負っている。
倒せる、倒せない、ではなく、そうしなければならない。
彼女にしろ、少年にしろ、明確な目的を胸に抱いているのだから、今は目の前の相手に斬りかかる。
だが、青い業火は届かない。細まったそれはまさしく炎の刃だが、素人のそれでは空振り以外にありえない。
一方、銀色の刃に紫色の装飾が風のように走る短剣はついに沈黙を破る。しばしの間、回避に徹していたイリックだったが、あまりに稚拙な攻撃を避け続けていても討伐には至らない。反撃こそがその手段であり、打撃を織り交ぜずとも女の柔肌を切り裂くことは十分可能だ。
(この差は何?)
わからない。わかるはずがない。
(気づかれる前にさっさと倒したいものの……、そううまくはいかないだろうな)
わかっている。わかってはいるが、どうにもならない。
この攻防だけを切り取れば、イリックがわずかに優勢だ。劣るリーチと反射神経、速度面をテクニックだけで克服できている。
その上、自身の攻撃だけは成立させ続けているのだから、このまま事が進めば、勝者は必然的にこの少年だ。
避ける。
やり過ごす。
そして、隙間を縫うように切り返す。
紙一重のようなイリックの動きは、危ういように見えて余裕がある。
リインの腕の振りは確かに高速だ。少なくともコネクト第二段階を発動させていなければ一瞬で殺されてしまう。
だが、その領域に辿り着けている以上、彼女の剣筋は単なる素人の真似事だ。いかに速かろうと脅威ではなく、むしろ素手の時よりも御しやすい。
そう。焔にこだわっている間は、リインに勝ちの目などない。
不得意な攻撃が動作を単調化させるばかりか、相手に心的余裕さえ提供している。
武器は体の延長。そういったことさえわからない以上、女の繰り出す剣撃は子供のままごとだ。
遅くはないが的外れな、それでいて命を刈り取ろうとするも不出来な、そのような凶行など、この冒険者には通用するはずがない。
「っりゃあ!」
「――チィ!」
太陽の日を浴びて、その刃が銀色に輝く。短いながらも幅広ゆえに力強く、女の首を切り裂くには十分だ。
左側面の頚動脈を切断されるも、血液は枯れ果てている。首からの出血はないが、左半分が斬られたため、このまま動けば頭部が千切れて転げ落ちるだろう。
「死ネ!」
だが、この女は死なない。命のストックが一つではなく、その残量は随分と減ったもののまだ一桁にすら達していない。
互角どころか追い越したにも関わらず、炎製の剣が終始空振ることがどこまでも不可解な上に腹立たしい。それでもそれで襲うしかなく、リインはやり返すように右上から左下へ、右腕を振り抜く。
だが、その斬撃は灰色の光を斬ることはできても、生身の肉体には届かない。
イリックは右方向への軽快なステップでひらりと避け、勢いそのままに対戦相手の背後へまわりこむ。
左から右へ。
右から左下へ。
黒いオーラの中でマンイーターを二回走らせ、女の背中にバツ印のような裂傷を作り出す。
(後、何回殺せばいい!?)
戦況は有利だ。それでも少年の額にはしっとりと汗が浮かび上がる。
追い詰められている。この女との戦いは常にそういう状況だ。
だからというわけではなく、イリックが焦る理由は他にある。
目標が定まらない。
ゴールが見えない。
すなわち、後何回この女を殺せば、目的を果たせるのか? それがわからない。
リインもそうだが、イリックもスタミナは有限だ。そういう意味では同じ条件のはずだが、実はそうではない。
自分の命を担保にすることで、この女は無駄に動き回る必要がない。
対して、普通の人間は致死性の負傷を避けなければならず、どうしても回避行動に体力を費やさねばならない。
力尽きずとも、疲れ果ててしまってはどうしようもない。だが、その順番は明らかにイリックが先だ。
それでも、やるべきことをやるしかない。
「いい勝負だな!」
「吠エルナ!」
愚直に振りぬかれる炎の刃。体に当たれば最後、その人間は間違いなく絶命だ。
生き抜くためには避け続けるしかなく、それをやってのける冒険者がこの少年ということになる。
それだけでなく、踊るような体さばきでマンイーターを相手に突き刺す。痛々しい光景だが、それでも殺しきれないのだから、この戦場では常識など捨て去るべきだ。
イリックの発言とは裏腹に、戦況は傾いている。一方的と言っても過言ではない。
自身の死と引き換えにそれを理解しているからこそ、リインは声を荒げる。それが好転に繋がりはしないが、眼前の男が余裕そうに見えるため、そうせずにはいられない。
「ブレイブを使ウ!」
(あ……)
互いに体勢を立て直すため、両者の距離がわずかに離れたその瞬間だった。揺れる長髪をさらに暴れさせながら、女はついに披露する。
もはや出し惜しみなど無意味だ。眼前の人間を葬るため、最後の手を行使する。
一方、イリックは短剣を構えながら、茫然と眺めることしかできない。自分にとってはただただ有利だった時間が過ぎ去ってしまったのだから、覚悟を決めなければならないものの、それすらも受け入れがたい。
そう。この魔法が戦況をいっきに変えてしまう。
ブレイブ。この世界において最も珍しい強化魔法のこれは、対象の身体能力を全て向上させる。
筋力から脚力まで万遍なく高まるのだから、恩恵を得る人間は別人のような立ち振る舞いが可能だ。
黒いオーラの内側で、ブレイブの発動を意味する三色の揺らぎが割り込むように女を包む。
白、黒、赤で構成されるそれはコネクト第二段階と共存できており、ゆで卵のように二種類の層が出来上がる。
内側がブレイブ。
外側がまほら。
分離しているようで、これらはきちんと両立できている。
この状態は、ドーピングの上にドーピングを重ねているようなものだ。
まほらにより超人以上と化したリインがさらに強くなる。対戦相手からすれば最悪以外のなにものでもなく、イリックとて例外ではない。
この段階でも非常に危険なのだが、追い討ちは続く。
「小細工はいらナイ」
怒気と戦闘力を高めながら、女は武器を放り投げ、あるべきスタイルへ戻る。
この行為に対して、両者が抱く感想はかなり近い。理由は異なるのだが、行き着く先は似通っている。
リインは焔を手放したことで、身軽さを得たものの内心では不安が付きまとう。結果はどうあれ自慢の新魔法だったことは揺るがなく、それを放棄したのだから覚悟を有する決断だ。
一方、イリックは彼女以上に危機感を抱く。強化魔法でさらに手ごわくなったばかりか、扱い切れなかった片手剣を捨て去り、この上なく厄介な相手に戻ってしまった。
武器を発明したことで人間はモンスターと渡り合えるようになったのだが、その恩恵を受けられない稀有な存在がいる。
魔法で相手をねじ伏せる魔法使いだ。
そして、リインもその一人に挙げられる。ましてや、高い身体能力を生かした肉弾戦を既に会得済みだ。
だからこそ、この状況は最悪だ。
素手に戻ったことでひどくおざなりだった剣撃は止み、ここからは本能と殺意を起源とした破壊行為に切り替わる。
マンイーターにこだわった結果、単調な立ち振る舞いに陥ったイリックを彼女はあざ笑うも、実は気づかぬ内に自身も同じ境遇に陥っていたのだが、少年はそのことをあえて指摘せず、むしろ利用することでチャンスを作り出していた。
だが、それも終わりだ。
(やばすぎる……)
もはや逃げるしかない。
そもそもの前提として、イリックはコネクト第二段階を自分だけの特権ないし切り札と想定していた。そういった勝算があったからこそ、単身乗り込むことを決意できた。
任意のタイミングで発動させられないのだから手札とは呼べないかもしれないが、それしか頼れない以上、博打であろうと打って出るしかない。
心配は杞憂に終わり、神の用意したシナリオ通りなのか、その目論見は成功する。
だが、神は一人ではない。イリックの味方がいるのなら、反対も然るべきだ。
その結果がこれだ。リインもまた、その段階に登り詰める。
そうなってしまっては相手のミスに付け入るしかなく、それが焔だったのだが、運命が導くように彼女は窮地から脱する。
「やはりオマエは壁だ。この力がソレを証明している」
リインの使命は人間の淘汰だが、その手段を探すこと以外は何一つ障害ではない。先日まではそう思っていたのだが、思い違いをしていると、イリックに出会えたことで気づかされる。
この人間こそ、目的を果たす上で越えなければならない壁だ。突破するための手段は持ち合わせておらず、だからこそ、創造主がさらなる後押しをプレゼントしてくれた。
コネクト第二段階に至れた経緯をそう解釈し、眼前の人間を全力で潰す。
それこそが神に敬意を払い、同時に最短ルートを進むことだと解釈する。
代行者として、やるべきことはシンプルだ。邪魔者を排除し、最後は全ての人間を地上から消し去る。
そのための手段はこの手の中だ。
コネクト第二段階とスカーティア。
どちらも制御できている。
そう、目の前の人間さえ駆除してしまえば、長年の夢は完遂されるのだ。
我慢強いリインだが、この状況にはさすがに昂ってしまう。
同時に、邪魔されれば焦りもする。
だが、落ち着かねばならない。主が見守ってくれているのだから、なによりそれは思い込みでもなければ願望でもない。
実際に手を差し伸べられた以上、この戦いに敗北の二文字はありえない。
実力という意味でも、背負った使命という意味でも、勝利は絶対だ。
新魔法に酔いしれてしまったが、もはや目は覚めている。
自分のやり方で。
自分だからこそ可能な方法で。
イリックという宿敵をこの世から葬り去る。
仮に逃げられたとしても、必ず探し出し、絶対に殺す。
不安要素は取り除かなければならない。その重要性と、そうなりえる四人がいかに厄介かをやっと実感する。
「イリック。そして……、あのサンニン。排除しなければナラナイ」
「――そ、それだけはさせない!」
リインの口から受け入れがたい発言が飛び出すや否や、少年は声高々に反発する。
それをさせないためにここへ来たのだから、劣勢になろうと怯んでいる場合ではない。イリックもまた、そのことを理解し終える。
古代人を失った空中の庭園は、人間の存亡をかけた決戦場だ。神の世界に最も近く、大地を見下ろす場所としても適している。
誰も知らない。この時代を生きる人間達は、このような遺跡が存在することさえ知らない。
誰も知らない。空に浮かぶそこで、二人の演者が運命の糸に操られていることを知るはずがない。
舞台の上には二人。
観客もまた二人。
それで十分だ。この殺し合いは見世物ではない。
どこまでも血なまぐさく、それでいて美しい攻防は新たな局面へ推移する。
「滅びろ!」
先手はリインだ。存在感は突き刺さるほど膨張しており、足枷がなくなれば当然こうなる。
目で追うことは出来ても反応しきれない。女の速度はそれほどまでに高まっており、体が追いつからないのだから、次の一手への対応も困難だ。
爆ぜるように加速し、距離を詰め終えたリインは、急停止と共に右腕を振り下ろす。まとうオーラがぐにゃりと歪み、後方へ伸びたままだが、元の形へ復元するよりも早く攻撃は開始される。
(はやっ!?)
イリックにとっては未知の速度だ。リインにとっては仕切り直し後の初手でしかないが、実力差を噛み締めるには事足りる。
それでもなお命を繋げた理由は、冒険者としての才覚と経験だろう。
視界内で何かが走ったのなら、それがなんであれ避けるだけだ。
本能と危機感が、脳からの指示系統を追い越して少年を後退させる。もちろん、まほらによって反射神経が向上しているからこそ、可能な芸当だ。
「ぐ、う!」
だが、無傷とはいかない。
女のわずかに伸びた爪が、ぼろぼろのコートとその下の衣服を裂きながら肌にも届いてしまう。浅いなりにもそれは肉を切り、左胸からへそにかけて、ぶしゅっと赤い鮮血を溢れさせる。
半日前に遡ると、この凶行が幾人もの軍人をバラバラにしたのだから、かすり傷で済んだことは幸いだ。骨や内臓には届いておらず、仮にそうであろうと回復魔法であっさりと完治できる範疇だが、問題はそこではない。
(――押し切れる)
(じり貧だ!)
この状況はイリックの予想通りだが、的中したところで喜ぶことはできない。
コネクト第二段階と強化魔法の二段構え。
虐殺に適した本来の戦闘スタイル。
それらを手にしたリインはどこまでも手ごわく、こうなってしまってはマンイーターの有無など関係ない。
逆転したにも関わらず、あっさりと覆されてしまった。
否。同じ条件で戦うことを強要されているだけなのだが、そのことを当事者が知るよしもなく、イリックはこの世の不条理を噛み締めながら歯を食いしばる。
「本当は見せてあげたいのだけど、アナタに関してはそうもいかない。確実に殺す」
「……何を?」
「この世の終わりを。ニンゲンの掃討を。ここはそれを可能とする」
「不思議な場所だとは思ってたけど、やっぱりそうなのか……。伊達に空の上じゃないってことなんだな」
勝利を確信した女とは対照的に、冒険者はよろめきながら一歩、二歩と下がる。負ったばかりの負傷が痛むため、回復魔法も欠かせない。
「それを実行するにもアナタは邪魔。この力で主の願いを実現する」
リインは右手の手のひらに視線を向け、それをゆっくりと握る。具現化された漆黒の魔力内で、白、黒、赤のうねりがぶつかりあっており、さらなる力の胎動は獲物を抹殺するには十分だ。
支えられ、見守られ、背中を押されたのだから、もはや立ち止まる必要はない。
キッ、と視線を向け、そこへいっきに駆ける。
「う!?」
「無駄に足掻きなさい。捧げるように踊りなさい」
真正面への接近に反応しきれず、少年は仰け反りながら強張る。美しい顔が目の前に現われたが、見慣れたそれはどこまでも冷たく、赤い瞳を見つめ返すと意識を吸い込まれそうだ。もっとも、その奥底には人間への侮辱が渦巻いている。
この距離だ、警戒していても防げない。
生を断絶する右腕が少年の左脇腹を易々と殴打し、そのまま遠方まで吹き飛ばす。
(ぐ!? がはっ! 痛!)
イリックは自分の意志とは無関係に、次々とこの地の壁を打ち破る。背中からの衝突ゆえに防御態勢へも移行できず、やがて威力が衰えるも、その次は地面との衝突だ。
この一撃で思い知る。
腕力。
速度。
そのどちらにおいても自分はこの女に劣っている、と。基礎となる身体能力の差が響いているのだが、上積みとしてブレイブまで圧し掛かっている。
この差はもはや埋めようがない。
(キュ、キュア……。さて、どうしたもんか……)
座るように背後の壁に寄りかかり、少年は自己回復を手早く済ます。砂埃と出血で汚れた衣服をどうにかしたいが、それ以上に焼け焦げているため、妹に洗ってもらったとしてもコート以外を再度着ることは不可能だ。
ブレイズマーシャラーと命名された赤いピーコートだけは特別であり、マジックポイントを吸わせることで汚れだけでなく破れた部分でさえ復元してくれる。防御性能だけでなく、着続けられるという意味でもずぼらな少年にはありがたい。
「やはり、この程度では壊れない」
その声は既に身近な距離から発せられる。それは腰を下ろすイリックの右手側から響いており、そこには薄紫色の壁があるだけだが、そうではないと女の拳が自己主張する。
隔たりが乱暴に砕かれ、ガラガラと音を立てて崩れ落ちると、赤い髪の女が姿を現す。悠々と直立しており、オーラのゆらぎに合わせて長い髪がゆらゆらと騒ぐ様子は、海中で潮の流れに身を委ねる海藻のようだ。
「でも」
「ぐぁ!?」
相手が丈夫なことは重々承知だ。ゆえに方針を変える必要もなく、女は先ほど同様即座に距離を詰め終え、足元の人間を今度は全力で蹴り払う。
すらっとしたその足を腕で受け止めることはできても、その威力まではいなしきれない。コネクト第二段階が肉体をいくらか丈夫にするも、脚力の上昇具合はそれ以上だ。何枚もの壁を破りながら、イリックはまたも勢いよく飛んでいく。
「オムニシエンス!」
怯んでいる場合ではない。
回復魔法を贅沢に多用する燃料もない。
体勢を立て直すためにも、翻弄されないためにも、イリックは立ち上がると同時に水の武器を生成する。透き通る刃は青い炎に敗れるかもしれないが、短剣一本で迎撃できるとも思えず、リーチを確保するためにも片手剣は必須だ。
一瞬の静寂が訪れる。これがこの地における本来の姿だが、訪問者が足を踏み入れて以降、どこまでも騒がしかった。
(なるほど、気配を探す必要もない……か)
リインの居場所はどこだ?
そんな疑問は馬鹿らしい。二人しかいないのだから、隠そうにも隠しきれない圧迫感の発生源が、そのまま彼女の居場所となる。
先ほどとは異なり、その足取りはあくびが出るほどゆっくりだ。互いに手の内はわかりきっており、そうなれば緩急でしか戦闘のテンポを変えることはできない。
「ん? な!?」
起き上がりながらも、その方角を睨んでいた時だった。放物線を描いて、小さな何かがいくつも近づいて来る。大きな石を壁の向こうから投げ始めたのかと錯覚するも、それらは青々と燃えたぎっており、つまりは燐火が軌道を変えて迫っているということだ。
焦る必要はないのだが、想定外の攻撃にイリックは小さく驚く。それでも左腕は身を守るように動いてくれるため、二つ、三つ、と拳大の炎を切り崩すことは造作もない。
(そんなことまでできるのか)
迫り来る全てを切り払い、少年は小さく息を吐く。
対戦相手には似合わない変化球ゆえ、今は相手の出方をうかがうことが最優先だ。チャッと水の剣を振り下ろし、気配の方向をじっと睨みつける。
身体能力だけでなく、魔法関連も侮れない。より一層手ごわくなったリインへの警戒を怠ることは、自分の首を絞めるようなものだ。一瞬たりとも気を抜けない、とイリックは二本の武器を構え直す。
そういった心持でいようと、彼女の猛攻を防ぐことはできない。
姿勢を低く下げ、長い髪を尾のようにたなびかせながら、リインは壁と壁の切れ間から突然現れる。その姿は獲物を追いかける獣のようであり、殺意を隠すことなくイリックに飛びかかる。
本当ならば、右手のマンイーターか左手のオムニシエンスを突き刺したい。だが、それが出来ないほどに女の移動速度は素早く、音が後から追いついてくるのだから超人でなければ反応すらも不可能だ。
なんとか左方向へ半歩体をずらすも、イリックは腹部に激痛を感じ取る。避けきれなかったのだから当然だが、尖った右手が右脇腹をかすめたために腹筋が浅いなりにもえぐられてしまう。
キュアを唱えるか否か、一瞬の迷いが脳裏を駆け巡った瞬間だった。
「このまま仕留める」
背後からの声は、紛れもない死刑宣告だ。
「い、言ってくれる……」
少年はぎこちなく振り向きながら、滴る冷や汗の気持ち悪さに耐える。
痛む傷。
埋められない実力差。
見当たらない次なる一手。
このまま戦いを続けた場合、待ち受ける運命はどこまでも悲劇的だ。それを自覚できた以上、覚悟を決めるか逃げ出すしかない。
運良くこの場から脱出することができたとしても、一時的な延命にしかならないことは重々承知の上だ。方法はわからないが、この女は人間を滅ぼそうとしており、それを実現するための術は既に手中に収めている。
どんな方法かはわからずとも、イリックも人間の一人に過ぎず、それゆえに滅ぼされることは明白だ。
ましてや、リインは追いかけてくるかもしれない。否、そうするはずだ。
結局は追いつかれ、別の場所で殺される。
もし、三人と合流を果たすことができたとしても、彼女達を危険に晒すだけだ。
それは避けなければならない。
ゆえに単身ここへ訪れている。
だが、勝てないのだから、逃亡が選択肢の一つとして脳裏に浮かんでも仕方ない。
(物は試しだ。一回逃げてみるか?)
詠唱時間を確保できるとは思えないが、イリックはマジックポイントが足りている今だからこそ可能な手段として、テレポートを発動させる。
十一秒。二人にとっては長すぎる間が必要だが、何にせよ、生き延びるためには実行するしかない。
だが、そんな思いつきですら、少年の思い通りには進めない。
「――え? なぜ?」
「……何? 命乞い?」
事情を呑み込めないリインは当然だが、当事者さえもこの事態には困惑する。
テレポートの詠唱が行えない。他の魔法は問題ないにも関わらず、転送魔法に分類されるこれだけが、今はなぜか反応してくれない。
弱体魔法の一つ、相手の魔法を封じ込めるセクレンスを受けているわけでもなければ、キュア七回分に相当するマジックポイントが足りていないわけでもない。
テレポートだけが、ここでは使えない。つまりはそういうことになる。
こんな経験はイリックとて初めてだ。他の魔法を使い過ぎたために残量が届かないことは多々あったが、今回に関してはクリアしている。
にも関わらず、詠唱が進まない。進んでくれない。
魔法なんてものは、言わば念じるだけで発動してくれる。代価として自身のマジックポイントを差し出さなければならないが、裏を返せばそれだけで済んでしまうお手軽な神秘だ。
イリックはこの魔法を幾度となく利用している。
冒険者の一日はギルド会館から始まり、身の丈にあったクエストを受注後、単身もしくは仲間と共に目的地へ出発する。
クエストは日々、三大大国や内陸の村にて数えきれないほど発行されるが、同業者もそれ相応に多いため、手頃なものはすぐに取られてしまう。
その点、イリック達は非常に有利だ。現在地で美味しい仕事を見つけられずとも、他国へ移動してしまえばよい。他の冒険者からすれば完全に反則行為だ。
ましてや、帰宅も一瞬で済まされる。正確には詠唱に十一秒を要するが、数時間や半日かけて帰ることを考えれば無に等しい。
こういった背景から、一日に何度も多用してきた転送魔法が、今はなぜか応答してくれない。
その理由を考えようと、ロニアや研究者のような学がないことも相まって、答えは不明瞭のままだ。
事実として受け入れるしかなく、逃げたところで絶望的な結末しか待っていないのだから、そういう意味では踏ん切りがついたと言えなくもないが、想定外な出来事があまりに相次ぐため、少年の頭はパンクしてしまう。
(あ、でも……)
命が危ういこのような状況でも、前向きな思考が可能な人種こそ冒険者だ。
テレポートが使えない。仕組みはわからずとも、現実としてそうなっている。
逃げることはできない。ゆえにこのままでは殺されてしまうのだが、それは相手にも当てはまる事柄だ。
(ここがこいつの墓場になりえるってことか!)
もし、リインを殺し続けることができた場合、雲の上に浮かぶこの遺跡はそのまま彼女の墓標と化す。
そう。この女が厄介な理由は二点あり、一つが不老不死なのだが、もう一つが追い詰めることが出来たとしても最終的には転移魔法で逃げられてしまうことだ。
後者を封じることは何よりも重要なお題目であり、くしくもこの地がそれを可能としてくれる。
ありがたい。絶望の中で、イリックは希望の光をついに見出す。
それは同時に、新たな覚悟へと繋がる。
自分がこの女に勝てないとしても、せめてこの情報だけは誰かに伝えなければ。
理想はリインの討伐だ。そして、それをやれるとしたら自身だけだと自負していた。
だが、現実は厳しく、今となっては狩られる側だと判断せざるをえない。
ゆえにやれることは少なく、せめてもの願いとして、この事実だけは誰かに引き継ぎたい。
こんな簡単なことですら、実現不可能なほどに困難だ。
それでも実現したい。当初の目的と比べればちっぽけな目標かもしれないが、死が間近に迫った今となっては唯一の願望と言える。
「呆けたところで加減はしない」
「うっ!?」
慣れない動作だが、その蹴りには人間を殺せるほどの破壊力が秘められている。なにより、獲物は全く動かないのだから、魔法に特化したリインであろうと的を外すわけがない。
急接近と共にロングスカートの中が見えそうなほど右足を上げ、足の裏で押すように相手の腹を蹴り飛ばす。
その威力は見せかけではなく、イリックの体内では臓器達が想定を上回る衝撃に混乱し始め、当然のように先ずは呼吸が行えなくなる。
「あ、あ……」
それだけではない。体の内側から何かが持ち上がるさまは決して心地の良いものではなく、その果てに何が待っているかもある程度は予想可能だ。
足取りはふらついており、左手はあっさりと水製の剣を手放す。
こみあげるそれが喉元まで迫る中、少年はよろよろと後退するも、この程度の間合いは意味を成さないと重々承知だが、それでも今はそうするしかない。
「――う」
そして、口の中は鉄の匂いと味で支配される。
もはやここに留めておくことも叶わず、行き場を失ったそれは開場されるや否や、バケツをひっくり返したようにぶちまけられる。
赤く、粘り気の多い血液がイリックの口からとめどなく溢れ、この光景は彼女にとって満足な結果だ。
「神よ。あなたの望む時はもう間もなくです。最後までその眼をどうぞ私に」
うれしそうに、リインは天を仰ぐ。
長きにわたる使命の達成は目前だ。そう確信したからこそ、報告するように、そして感謝するように宣言する。
対戦相手との力量差は歴然ゆえ、誰の目から見ても勝者は揺るがない。
一方、敗者は両膝をつき、左手で痛む腹を抑え込む。キュアという選択肢を失念するほどに頭は混乱しており、女の声も今は届かない。
勝負あり。
リインはそっと視線を落とし、惨めな人間を見下ろす。
これまでの経緯から、一思いに頭を潰すか。
こだわりはないのだが、やはり心臓を取り出すか。
自慢の炎で灰に変えるか。
手段はいくらでもある。
何をやろうとこの人間を殺せる。
迷う必要はないのだが、宿敵との別れゆえに彼女としても最後にはこだわってしまう。
そう。もはや対等ではない。
女が男を一方的に殺す。
それ以外にはありえなく、この結末こそが用意された筋書きだ。
(くそ……。どうすれば……)
勝てない。
今のままではイリックに勝ち目などない。
そもそもの前提として、この戦いは独りでは勝ち残れない。
つまりは誰かの助けが必要だ。
手を差し伸べられた者が、相手を打ち負かせる。
コネクトを所有する者同士が戦った場合、手と手を取り合える他者の数がそのまま勝率に結びつく。
独りでは無意味だ。コネクトはそういう魔法であり、活用できなければ宝の持ち腐れでしかない。
一人で戦うと決めた以上、現状こそが望んだシチュエーションに違いないが、その結果、敗れてしまっては無意味だ。否、判断を誤ったとすら断罪できる。
だからこその結果だ。単身でスカーティアに乗り込んだその勇気は称賛に値するのかもしれないが、相手を侮ってしまった愚かさが最後には自分の首を絞める。
冒険者。この時代に生きる夢追い人。自由と引き換えに自身の命を差し出すその愚かさこそ、人々から羨望の眼差しを向けられる要因だ。
イリック。三人を守るために立ち上がった少年。自分一人の命では何もできないことを痛感しつつ、それでも諦めきれないと最後まで足掻くことを決意する。
死が絆を分かつまで。
そんな一文が頭に浮かぶも、今は戦闘の継続に備える時だ。感傷に浸っている場合ではない。
立ち上がる。
何ができるかはわからないが、それでも立ち上がる。
だが、確定した結果はもはや揺るがない。
それをわかっているリインと女神。
受け入れたくないイリック。
そして、ただただ見守る男神。
一人では敵わない。
戦況を覆す手段は少年になく、少なくともこの地には見当たらない。
人間の命運をかけた戦いはまもなく終わってしまう。それを待ちわびる観客がいるのだから、ウルフィエナにとっても正しい成り行きだ。
劇場の舞台で踊る役者はたったの二人。
その数に変化が訪れるまで、もう間もなくだと断言できる。
女神がほほ笑む。
男神が見守る。
この世界は、そうやって繰り返されてきた。




