第三十一章 ビサラ山脈での再会
今回の旅は昨日の調査よりも難しい。そのことはネッテを除く全員が把握している。もちろん、トゥルルもだ。
行き先はビサラ山脈。天候によっては頂上どころか中間付近から雲に覆われてしまう。そんな山に登らなければならない。
ロニアとしてはたまらない案件だ。
こんな機会でもなければ足を踏み入ることはできない場所だからだ。そう、ビサラ山脈は立ち入りを禁止されている。
その理由は二つ。
ドラゴンが生息している可能性が非常に高い。
火の大精霊が存在している。
どちらも人類にとっては重要過ぎる。片方だけでも十分過ぎる理由が、二つも存在している。
ゆえに、立ち入りは禁止されている。そうではなくても登ろうと考える者はいない。否、冒険者なら登ってしまうかもしれない。なぜなら冒険がしたいから。
旅の同行者は五人。
イリック、ネッテ、アジール、ロニア、そしてトゥルル。
ゴルドは昨日の帰還以降、研究室に篭りっきりだ。得られたデータを睨みつつ研究しなければならない。
ゆえに今回はこの五人。
そして、スムルス平原を南下している最中。
頭上を見上げても雲はほとんど見当たらない。つまりは快晴だ。だからだろうか。普段以上に冒険者を見かける。
スムルス平原は豊かな土地ゆえ、モンスターも多い。それでもなお、トリストン大陸で最も平和な地域と言える。
冒険者がモンスターを倒してくれるからだ。
そしてもう一つ。そのモンスター自体が非常に弱いから。そうは言っても、一般人がどうこうできる相手ではない。武器を持った大人が数人いればなんとかなるかもしれないが、それですら一人二人は怪我を負う可能性が高い。
どこまでも続く緑色のカーペット。
ところどころに存在する緩やかな丘。
風向きによっては時折むわっと濃い草の匂いが漂ってくる。
自然の匂いと目にやさしい景色を堪能しながら、一同は南のテイア渓谷を目指す。
ところどころで見かける初々しい冒険者が単調な風景のスパイスとなっており、気づけばそれを楽しみに歩いていたりする。
「ビサラ山脈までは三日くらいかかるのかな?」
「そうでしょうね」
足を止めずに、イリックはテイア渓谷の地図を広げる。そこに描かれている地形は、入り組んではいるものの、東西に細長い。
スムルス平原から向かう場合、テイア渓谷の北東部分に辿り着く。
一方、ビサラ山脈は南西、つまり反対側にあり、テイア渓谷内だけでも二日以上は歩く計算だ。
ロニアはガーウィンス連邦国からサラミア港まで徒歩で横断した経験がある。その際にビサラ山脈近くを通っており、ぼんやりと今回の工程を思い描くことができる。
(登山か……。カルック高原より大変なのかな?)
イリックは気づけば随分と広がった記憶を掘り起こしながら三人を見つめる。
右から、アジール、ネッテ、トゥルルと並んでおり、背丈の低いネッテが両サイドの二人の手にぶら下がって運ばれている。
アジールはとても楽しそうだ。生き生きしている。
トゥルルはこの行為の意味がわからないのだろう。不思議そうにしている。それでも、ネッテが非常に喜んでいるため、そういう遊びなのだろうとなんとなく理解しているようにも見える。
ロニアだけ、昨晩から少し様子がおかしい。ネッテのような挙動不審なところはないが、暇さえあれば何かを考え込んでいる。それだけなら普段のロニアと大差ないのかもしれないが、今回はそれだけではない。魔力をたぎらせ、時折水の塊を作り出して手のひらでポヨポヨと浮かべていたりする。
イリックはこの件に関して口を挟まない。魔法に関する何かをしているのだろうと想像できる。しかし、訊いたところで理解できるとは思えない。魔法使いという同じ括りの人間ではあるものの、イリックはキュアを使えるだけのただの人間だ。コネクトとテレポートを使える今なら胸を張ってもいいのかもしれないが、そもそもそのどちらも大っぴらにしてはいけない。
イリックの推測通り、ロニアは考え方を改めようとしている。
考え方というよりは戦い方であり、そもそも今まで愛用していた魔法はロニアのオリジナル魔法だ。
ウォーターインカーネイト。水の柱を周囲に作り出す、言わば召喚魔法の真似事。
これを貯水タンクに見立て、水滴を雨のように飛ばしたり、槍を形作った上で強度を高め、相手に放つような戦い方を編み出した。
なぜ独自の魔法を考え、それを使い続けてきたのか。それには様々な理由がある。
前提として、ロニアは水魔法の扱いに関しては天才的だ。本来、攻撃魔法を扱える人間でも、自分の思い通りに水を作り出し、その上それを自由自在に操ることなどできない。
水の攻撃魔法であるスプラッシュを習得している冒険者はゴロゴロいるが、彼らはそれを決まった形どおりに撃てるだけであり、ロニアのような真似事は到底不可能だ。
しかし、ロニアはできる。それはなぜか?
理由は、水属性に特化した才能を持ち合わせていたからだ。
魔法の威力は、魔力に比例する。
イリックは魔力が乏しい。ゆえに、キュアの回復量は微々たるもの。
シャルロットは魔力が人間離れしている。ゆえに、火の攻撃魔法フレイムはモンスターどころかその周囲まで焼き払う。
魔力の高さは魔法を扱う者にとっては重要な要素だ。しかし、それとは別にもう二つの要素が存在する。
マジックポイントと魔力制御だ。
マジックポイントは魔法にとってのエネルギーであり、概ね、魔力とマジックポイントは比例関係にある。つまり、魔力を高めればマジックポイントも上昇すると言われている。
一方で、魔力制御に関しては生まれ持った才能が大きい。それは魔力の高さについても同様だが、こちらはそれ以上と言われている。
魔力が魔法の威力を決定する。
では、魔力制御は何を左右するのか。
これもまた、魔法の威力を決定する。しかし、この要素が重要視されることはほとんど無い。なぜなら、ほぼ全員に差がないからだ。
魔力は人によって大きく上下する。ロニアは魔力が高い。イリックは子供レベル。その差はいかんともしがたい。
では、魔力制御についてはどうかと言うと、一部を除き、ほぼ全員が横並びだ。才能無しのイリックでさえ、ここでは平均レベルに当てはまる。
では、一部とは誰を指すのか。
シャルロットやロニアがここに該当する。
魔力制御に関しては、魔力よりも複雑な概念となっている。
なぜなら、魔力はあらゆる属性に関して一様に働くが、魔力制御に関しては属性毎に才能の高さが上下するからだ。
ロニアの場合、水属性に関する魔力制御は他を寄せ付けないほど高い。一方で、他の属性、例えば火や雷に関して言うと、反動とも言うべきレベルで低い。
ロニアは普通の攻撃魔法も習得している。火の魔法、フレイムも使おうと思えば使える。しかし、実用レベルには程遠いため、戦闘では絶対に使わない。
ロニアは水関連の魔法に関しては、非常に高い才覚を持ち合わせている。それこそ、他の属性の才能が無かろうと、全く問題にならないほど。
魔力制御が高いと、魔法の威力が上昇する。実は、それ以外にもう一つ言えることがある。魔法を自由に操り、あまつさえ、独自の魔法を編み出すことさえできてしまう。
ロニアの場合、水の扱いに秀でており、その結果、スプラッシュよりも二つの意味で優れた攻撃手段を編み出す。
それが水柱を呼び出し、それを元にして攻撃を行う方法だ。
利点は二つ。
一つ。スプラッシュよりもマジックポイントの消費が抑えられること。
二つ。スプラッシュよりも威力が高いこと。
攻撃魔法において、これほど重要な要素は存在しない。
ロニアの魔法は、水柱を呼び出す際にマジックポイントを多く消費する。多いと言っても、スプラッシュほどではない。もちろん、柱一本とスプラッシュ一発を比べてであり、水柱を四本同時に作り出せば、瞬間的にはロニアの魔法の方がマジックポイントを多く消費してしまう。
しかし、水柱の生成が済んでさえすれば、その後の消費量は微々たるものだ。維持し続けようと、雨のように水滴を発射しようと、槍の形に変形させようと、マジックポイントはじわりとしか消費されない。
ゆえに、マジックポイントの効率はロニアの方法に軍配が上がる。
また、破壊力もこちらが勝利する。それもそうだろう。硬度を高めた槍と、ただの水の塊とでは、比較にならない。
ロニアはこういったメリットを計算に入れ、独自の魔法を考え出し、実現させるに至る。
しかし、良いこと尽くしではない。それは先の戦いで痛感させられた。
そう、水柱から離れてしまうと、形を維持できずにただの水となって消えてしまう。これはすなわち、相手の攻撃を避けながら戦う状況と、移動しながらの戦いにおいては絶望的なまでに不利と言わざるをえない。
また、下位の攻撃魔法よりもインターバルが長いことも挙げられる。
そもそも工数が圧倒的に違う。
水柱を作り出し、槍の形に変形させ、発射する。
かたや、一秒足らずの詠唱ですぐに攻撃できてしまう。
再詠唱時間を考慮しても、魔法の撃ち合いになった場合、ロニアは負けてしまう。
今まではこの方法で問題なかった。むしろ、この魔法だからこそ勝ててきた。しかし、これからはどうなのだろう? ロニアは深く考える。
そして結論に辿り着く。ダメだ、と。
固定砲台としての威力は抜群だろうと自画自賛できる。しかし、壊滅的なまでに柔軟性が無い。すなわち、臨機応変な戦い方ができず、場合によっては誰かにサポートしてもらわなければ戦いに参加すらできない。
その場から動けないのだから、アジールか誰かに守られながら戦わなければならないかもしれない。
本当は移動しながら戦いたいのだが、要所要所で立ち止まることを強要してしまうかもしれない。
もしくは攻撃に参加できず、見ていることしかできないかもしれない。
ゆえにロニアは考える。新しい戦い方はないか、と。それが昨晩からの自問自答であり、スムルス平原を南下している今も続いている。
ロニアからは脱線するが、シャルロットもまた、魔力制御の才能がずば抜けて高い。そして、それを生かした彼女だけの魔法が、空中浮遊である。
魔力そのものを周囲に漂わせ、力場を発生させる。そうすることで、宙に浮くことや飛行を実現している。人間でこんなことができるのは、おそらくシャルロットくらいだろう。
シャルロットには苦手な属性など存在しない。あらゆる攻撃魔法を扱えるように、あらゆる属性に完璧な適性を持ち合わせている。ゆえに、ガーウィンス連邦国の最大戦力と呼ばれている。
◆
静まり返った暗闇の中、禿げ上がった茶色い丘と丘のくぼ地で、バチバチと音楽を奏でながら枯れ木が赤く燃える。
空は深遠の黒で満たされている。朝から曇っていたため、夕食を食べ終えた今でも月はおろか星すら見当たらない。
夕食の後片付けも済み、今は順に水浴びの最中だ。周りに川や池など見当たらないため、濡れタオルで体を拭くだけだが誰も欠かそうとはしない。
ビサラ山脈付近でドラゴンが目撃された。それを調査するための旅は今日が三日目。今はその晩。
ここはテイア渓谷の南西寄り。スムルス平原の南に位置するデコボコだらけの丘陵地帯だ。
今日は月明かりが無いためほとんど見えないが、西に視線を向ければ樹木が全く生えていない巨大な山がドシンと君臨している。
イリックは焚き火に向かって、ぼうっと座っている。
右隣にはトゥルルが同じように座っており、他は各々自由に動いている。
ネッテとアジールはいつものように二人で水浴びを堪能している。
ロニアは少し離れた場所で試行錯誤の最中だ。頭よりも一回り大きな水の玉を作り出し、ふわふわと浮かせている。膨大なマジックポイントのおかげで、水はいくらでも作り出せる。この程度の消耗はほとんど負担にならない。
背後のテントには既に寝袋がセットされている。寝る準備はバッチリだ。とは言え、今はまだ午後九時。寝るには少々早いかもしれない。というか早い。
トゥルルと二人っきりにも関わらず、いつまでも黙ったままなこの状況を憂い、イリックはあまり興味はないがとりあえず話題を振る。
「これから向かう場所にはドラゴンがいるらしいけど、トゥルルはドラゴンのこと何か知ってるの?」
「イエ。ソノ名称ハインプットサレテイマスガ、詳細ナデータハ登録サレテイマセンデス」
「そう」
イリックはドラゴンについて何も知らない。それはトゥルルも同様だ。しかし、今の返答で一つ判明する。
ドラゴンは一万年以上前から存在している。トゥルルの知識は一万年以上昔に生きていた古代人によって登録されている。その人物がドラゴンを知っているのだから、そういうことになる。
この話題はあっという間に終了する。そもそもドラゴンなどどうでもいいため、ここから話を膨らませることなどできない。
イリックはどちらかと言えば口数は多くない。ネッテがおしゃべりなため、冒険者になるまではそれくらいが丁度良かった。
アジールとロニア加入後、時折こういった重い雰囲気に遭遇してしまうことがあった。なぜなら、アジールもロニアも、そしてトゥルルもお喋りではない。
アジールに至っては筋金入りの無口だ。イリックから話しかけないと、数日くらいは普通に会話を交わすことなどない。挨拶くらいはするが。
ロニアもやや寡黙な方だ。そういう意味では、イリックに近い。
そして、仲間ではないがトゥルル。機械娘だからか、気になることを見つけない限り話しかけてくることはない。
そう、このパーティで口数が多い人物はネッテだけだったりする。
ゆえに、イリックが率先して、別の言い方をすれば無理をして話を切り出すことが多々ある。今がまさにその時だ。
「昨日の探索やその前の遠出を含めて、けっこう旅して来たと思うんだけど、トゥルルは何かやりたいこととか見つけた?」
機械娘に何を訊いてるんだと思いながらも、言ってしまったため今更引き返すことなどできない。とりあえずトゥルルからの返答を待つ。
「ヤリタイコト……デスカ。ワカリマセンデス」
「トゥルル遺跡に戻りたいとか、そういうのは?」
「マスターノ命令に従ウマデデス。私ノ意志デ帰還シタイトハ思エマセンデス」
トゥルルの返答にイリックは少し驚く。トゥルルにとってトゥルル遺跡は守るべき家のような場所なのだろうと勝手に想像していた。しかし、そういうわけではないらしい。そうなると、どうしたものかと悩んでしまう。
なぜなら、ビサラ山脈の調査が終わり次第、トゥルルをトゥルル遺跡に帰すつもりでいた。そもそもエムム遺跡の調査に同行してもらうだけのつもりでいたにも関わらず、ゴルドから依頼を受けてしまったため、なし崩し的にその後も連れ回していることに多少戸惑いのようなものを感じていた。
(むむ~。そうは言っても、トゥルル遺跡に送り届ければ、今まで通りあの中をぐるぐると練り歩くんだろうけど……。いや、もしかして、命令しなかったらそれすらもしないのか?)
そんな不安が頭をよぎる。万が一にも無いだろうが、念のため確認する。
「もし、トゥルル遺跡にテレポートで移動してさ。そこで、お別れだって言ったらトゥルルはどうするの?」
訊くまでもないのかもしれない。二百年近くも、誰に指示されたわけでもなく、トゥルル遺跡をずっと独りで守ってきたのだ。その仕事に戻るのはわかりきっている。
「トゥルルカラノ魔力供給ヲ受ケツツ、次ノ命令ガアルマデ待機シマスデス」
「ほわっ!?」
想定を越える返答にイリックの口から変な声が漏れてしまう。
(待機て……。トゥルルさん、本当にマスターからの指示待ち状態なのね。遺跡はもうどうでもいいんだ……)
その事実にイリックは愕然とする。
「変な声聞こえたー」
「うん」
足音と共に水浴びから仲良しコンビが戻ってくる。ネッテとアジールはほぼ毎日、二人で入浴を済ませる。
イリックは常々思っている。
二人だと邪魔にならないのだろうか?
そもそもなぜ二人で入浴なのか?
二人だと利点があるのだろうか?
そんな疑問を抱きつつ、面倒なためいちいちたずねたりはしない。興味もない。
「ほわっ!」
ネッテが大げさな表情でイリックを真似る。
そんな顔はしてない、と反論したくなったが、イリックは一旦黙る。妹の相手は疲れると長年の経験から学んでいるからだ。
「ほわ」
アジールもやる気なく真似る。どちらかと言えば、感情がこもっていないだけかもしれない。
「で? で? 二人で何話してたのー?」
「人を小バカにしておいて……。単なる世間話だよ」
「それならなんで、ほわっ! ってなるのー?」
ネッテが食い下がる。単なる世間話でイリックが驚くとは思えない。そして、その勘は当たっている。
だからと言って、イリックは正直に話すつもりなどない。トゥルルにとって重要なことであり、何よりネッテが知ったところで得をするとも思えない。むしろ、変に気を回しそうだ。
「ほら。明日にはあれ登るだろう? もしかしたらドラゴンと出会えちゃうかもしれないんだから、驚きもするわ」
イリックは西を指差す。その方角には土と岩で構成された山があるはずだが、今は暗闇が世界を黒く塗り替えているため、何も見えない。
「高いよね~。モンスターいるのかな?」
(あぁ、ネッテは見えるのか)
感心するネッテにこそ感心してしまう。夜目がきくのは知っていたが、ここまでは思っていなかった。
アジールもネッテを真似て同じ方角をじっと睨むが、当然何も見えない。敷かれているシートに座り、焚き火を眺めだす。これが普通の人間の反応だ。
日が沈み、その上曇っていれば遠方の山など見えるはずもない。目の前の焚き火だけが唯一の光源なため、照らされている野営地だけがイリック達にとっての世界と言える。ネッテのような例外はあくまで例外だ。
「明瞭ニハ確認デキマセンガ、標高ノ高イ山デス」
「だよね~」
トゥルルも素晴らしい目を持っているらしい。機械の眼球は伊達ではない。ネッテについては化け物としか言いようがない。
「トコロデ先ホドノ、ホワ、トハ何デスカ?」
(トゥルルさん、その件はいちいち拾わなくていい)
「お兄ちゃんの真似だよー。ほわっ!」
ネッテは再び、オーバーリアクションで兄を真似る。
「真似……。マスターカラ何カヲ学習シテイルノデスカ?」
トゥルルは真似の意味をそう解釈している。
武器の振り方。
魔法の使い方。
料理の仕方。
それらは他人の動きを真似ることで自分のものにすることができる。
言葉の話し方。
歩き方。
箸の持ち方。
こういった根源的なことすらも、親兄弟を真似て学習しているとも言える。
トゥルルのデータベースには、真似ることはこういう意味と記録されている。
「違うよ~。お兄ちゃんで遊んでるだけ」
(さらりと言いやがって……)
先ほどの真似にはそんな側面など無く、ネッテはアハハと笑い飛ばす。
「真似ガ遊ビ……。学習シマシタデス」
こうしてトゥルルに要らぬ知識が増えてしまう。人間味が増したと捉えることもできるかもしれない。
「学習シマシタです」
「学習しましたです」
ネッテとアジールが標的をイリックからトゥルルに変える。イリックはつっこみを入れるわけでもなく、淡々と眺める。
「真似サレマシタデス」
「ふふ。トゥルルちゃんも誰かの真似してー」
ネッテの無茶振りにイリックは呆れる。それはさすがに無理だろう、と。
トゥルルは人間に近い姿をしてはいるが、その根底は機械でしかない。古代人の科学技術がいかに凄かろうと、物真似を実現できるほどの技術力を持ち合わせていたとは到底思えない。胸のパーツに硬い金属もどきを使用するセンスの無さからもそれは容易にうかがえる。
「デハ、マスターノ真似ヲシマスデス」
「えっ!?」
「やってやってー」
トゥルルがさらりと言ってのける。
兄妹がそれぞれの反応を示した後、静まり返る。聞こえるのは枯れ木がパチパチと燃えるやさしい音だけ。夜のテイア渓谷がいかに静かなのかを再確認させられるほどに、それ以外の音が聞こえない。
そんな中、トゥルルはすっと立ち上がる。
「マーニョ? 何ソレ?」
そして湧き上がる大爆笑。
ネッテは両足をバタバタと上下させながら腹を抱えて本気で笑る。
アジールはうつむき、体育座りの姿勢を維持しつつも小さく全身を震わせる。
この発言は、エムム遺跡を目指している際に、イリックが発した質問だ。
マーニョとは、ジャイル森林で助けた親子の母親の名前であり、そんな大事な人物の名前を忘れていたイリックを、女性陣は一斉に非難した。それも今となっては良い思い出かもしれない。
「よくもまぁ、こんなやり取り覚えてたね」
「私ノデータベースハ大容量デス。コノ程度ハ造作モナイデス」
トゥルルの前では迂闊なことを言えないらしい。
ネッテはついにシートの上に倒れこむ。まだまだ笑っている最中だ。
アジールも小刻みに振動している。
この光景はイリックをイライラさせるのには十分過ぎた。反撃の開始だ。
「トゥルル。ネッテの物真似して」
「ハイ、マスター」
二人のやり取りが、ネッテの笑いをピタリと止めさせる。
アジールは今までで一番生き生きとした表情を浮かべる。
「ガッテン!」
そしてドッと笑いの渦が巻き起こる。笑い声はイリックだけだが、一人で何人分ものボリュームで笑い続ける。
アジールも先ほど同様、クククと笑う。
固まっているのはネッテだけ。むしろ、愕然としている。その反応がさらにイリックを笑わせる。
「随分楽しそうね。笑い声、かなり遠くまで響いてるわよ」
水浴び後、どこかで何かをしていたロニアが笑顔で現れる。イリックの大きな笑い声が自然とロニアを笑顔にさせる。
うわーん! ネッテが叫びながらロニアの胸にダイブする。今回はセクハラではなく、泣きついているだけだ。
「お兄ちゃんとトゥルルちゃんがいじめるー!」
「……そんなことができるのなら、古代人はいよいよ天才ね」
「物真似してただけですよ。今はトゥルルがネッテの真似を披露したところです」
涙を拭きながら、イリックは事情を話す。トゥルルのガッテンも、その後のネッテの顔も最高だった。思い出すだけで当分笑ってしまいそうだ。
「ああ、トゥルルはそういうの得意そうよね」
トゥルルは機械だ。動作のトレースはお手の物なのかもしれない。イリックは言われて初めて気づく。
「うわーん! トゥルルちゃーん! 次はロニアさんのお願~い!」
「何でそうなるのよ。いいけど」
ロニアの胸を借りて泣き喚いておきながら、ネッテは次の標的をロニアに変更する。
トゥルルはそれを快諾し、すっと瞳を閉じる。
嘘泣きだったのか、ネッテはぱっと泣き止みトゥルルの様子をうかがう。
「ウグゥ」
そして倒れこむ。
これはトゥルルと初めて遭遇した時のロニアの反応だ。イリックは理解すると同時に爆笑する。
ネッテとアジールはこの時、必死にトゥルルから逃げていたため、いまいち覚えていない。
ゆえに、イリックの闇を切り裂かんばかりの笑い声だけが野営地を包み込む。
ネッテとアジールはイリックをうらやましそうに眺める一方、ロニアはぷるぷると震える。もちろん、恥ずかしさと怒りが入り混じっているからだ。
「イリック、覚えてなさいよ……」
ロニアのドスのきいた声はイリックに届かない。やかましいほどの笑い声に飲み込まれてしまう。しかし、だからと言ってロニアの復讐心まで消えるわけではない。
「フフ。真似はオモシロイことなのですネ」
トゥルルも笑いに加わる。その笑顔は、プログラムが導いた機械的な作り物ではなく、人のそれと寸分違わない。
こうしてトゥルルは学習する。人間とはいかに楽しいかを。
この出来事は、トゥルルにとっての新たな一歩となる。
◆
なぜか自分の朝食だけが質素だったが、イリックは気にしない。今朝の朝食はロニアが率先して作っていた。つまりはそういうことだ。
翌朝。
五人は視界いっぱいに広がる終わり無き上り薄茶色の坂を正面に捉え歩き続ける。
ここはまだテイア渓谷。それは昨日から変わらない。しかし、着々と近づいている。それを裏付けるように、目的地は視界に収まりきっていない。
ビサラ山脈。
ドラゴンが住まい、火の大精霊が存在している禁止区域の一つ。
その頂上は見えない。なぜなら、昨日に引き続き曇り空がすっぽりと目の前の山を覆っている。
遠目からでも何となくわかってしまう。ここまで近づいてしまえば確定だ。植物がほとんど確認できない。草も、花も、木も存在しない枯れた場所だ。
薄茶色の土と、灰色の岩達が山を牛耳っている。
生命が命を繋げられる場所とは到底思えない。それを裏付けるように、動物もモンスターも全く見当たらない。
そういう意味でなら安全な登山が確約されるのかもしれないが、まだふもとですらない低地から遠目に眺めただけだ。何とも言えない。
「ゴーゴーエブリワーン」
ネッテが歌いだす。
これは新パターンだ。ゆえにイリックは妹の成長に感動を隠せない。
「ゴーゴーネッテちゃーん」
この歌を力に変え、一同は緩やかな斜面を歩く。ここはまだテイア渓谷であり、この坂道も小さな丘でしかない。これを後いくつか越えたら、ついにビサラ山脈に辿り着く。
「ゴーゴーお兄ちゃーん」
やがて、目の前は完全な上り坂のみで埋め尽くされる。今はまだふもとであり、そのせいか勾配も非常に緩やかだ。
しかし、少し顔を上げれば、笑っていられるのは今だけだと思い知らされる。途中からは断崖絶壁なのかと思えるほど急勾配だ。
「ゴーゴーアジルさーん」
さぁ、行きましょう。
足を止めていた一同は、イリックの合図で再び歩き出す。
時刻は午前九時。
天気は曇りだが、ピクニックに来たわけではない。これくらいが丁度良いのかもしれない。そう自分に言い聞かせ、イリックはマジックバッグを背負いなおす。
ここからはバサラ山脈。目的地には着いたが、依頼はまだ達成されていない。
「ゴーゴーロニアさーん」
今歩いている場所はは緩やかな土の道。当分は茶色い地面が道の代わりだ。
周囲にはこれといった遮蔽物は見当たらない。あちらこちらに大きめの岩が無造作に転がっている程度。景観を損なうほどではない。
「ゴーゴートゥルルちゃーん」
二時間ほど歩いた頃だろうか。ロニアの呼吸が荒くなる。
気づけば勾配がきつくなっている。振り向くと、そのままどこまでも転げ落ちそうな錯覚に襲われる。
山頂から流れてくる冷たい空気がおでこや頬、それに首元や拳をひんやりと冷やしてくれる。その風はどこか湿気っており、そのことがより一層心地よさを加速させる。
「ここらでお昼にしましょう」
「たはぁ」
イリックの発言でロニアはぐたっと倒れこむ。相当疲れていた。
ロニアはいくつもの長旅で随分と体力をつけた。もともとトリストン大陸を横断できる程度のガッツとスタミナは持ち合わせていたのだが、イリックやネッテ達と比べると幾分貧弱と言えてしまうのも事実だ。
普段以上に疲れているロニアを他所に、ネッテはせっせと昼食の準備を進める。山の上であろうと、その動きに変化は見られない。
イリックはすることがないため、ただただ景色を眺める。
薄茶色の斜面。
灰色の斜面。
植物が一切存在しない斜面。
生き物が見当たらない斜面。
どれもビサラ山脈の姿だ。
空を見上げると、少しだけ雲が近いような気がしてしまう。気のせいかもしれないし、本当かもしれない。そんなことは、どこまでも続く大自然の前ではどうでもいいと思えてしまう。
一転して頂上方向を見つめてみる。やはり、山頂ほど、斜面の傾きが増しているように錯覚してしまう。
ロニア曰く気のせいらしいが、なんとも不思議な光景だ。
ここまでは土の上を歩くことがほとんどだった。しかし、山頂に近づくほど、土の割合が減っていく。だからと言って進めないわけではない。土が敷き詰められている場所はいくらでも存在する。そういったルートを進むもよし、最短ルートを突き進んでも岩を越えていくもよし。この山に関しては、完全に自由だ。
行く手を阻む段差や岩のサイズは大小様々だ。さっと跨げる程度から、ドシリと数メートルくらいはありそうな巨大な障害物まで、どういうわけかレパートリーに富んでいる。
普通の人間なら越えられない高さだろうと、イリック達なら問題ない。イリックもネッテも、ピョンと数メートルくらいは跳ねることができる。ロニアには難しそうだが、イリックなりトゥルルなりが抱きかかえればいいことだ。
もっとも、迂回しながら頂上を目指せばいいだけであり、今回の登山はモンスターがいないという想定外の状況ゆえ、かなり気楽に挑めてしまう。
「できたよー」
ネッテの合図で一同はわっと集合する。トゥルルも食べない割には礼儀正しく集まる。
旅も数日経ってしまうと手持ちの食材は限られてくる。今回のメニューはそれを裏付けているが、だからと言って誰からも文句は出ない。こうして食べられるだけでも幸せなことだと十分理解している。
日持ちするパン。チーズが切れ目に押し込まれており、それが溶けて良い匂いを漂わせている。
干し肉。少量だが、多く食べたいとも思わない。
干物。少量だが、イリック的にはもっと食べたい。
キノコの塩焼き。これからも何とも言えない匂いが漂ってくる。
豆スープ。甘い香りが素晴らしい。
デフィアークティー。最近はガーウィンスティーばかり飲んでいたため、茶色いお茶がそろそろ飲みたかった。
イリックは今回に限り、誰よりも腹を空かせている。なぜか自分の朝食だけが非常に質素だったからだ。ただのパンと、どういうわけかリンゴの皮。斬新過ぎるメニューにいっそ惚れ惚れとした。ロニアを怒らせてはいけないと身を持って学ぶことができた。
「いただきマッチ!」
「頂きます」
そして昼食が始まる。
イリックは貪るように流し込む。腹が減っているのだから、当然だ。
トゥルルは黙ってそれを見守る。気づけばいつもの光景になっている。トゥルル遺跡から連れ出した直後はこのシチュエーションに一同は戸惑いを感じたが、今となっては慣れてしまう。
「後どのくらいで頂上に着くのかな?」
干し肉をハムハムとほうばりながら、ネッテが山頂を見上げる。分厚い灰色の雲がそれを邪魔する。雨を降らすほど凶悪な雲ではないため、それだけが唯一の救いと言える。
「頂上を目指すなら、おそらく二日はかかるでしょうね」
「うわ~、すごい……」
ロニアがビサラ山脈の広大さをネッテに教える。
ビサラ山脈はテイア渓谷の西に存在する巨大な山脈であり、その頂上は雲を易々と貫く。
いっきに登ろうとすれば、高い標高に体がついていけず、たちまち体調を崩してしまう。しかし、冒険者の体はそこまでやわではない。空気が薄くなろうと、瞬く間に順応してみせる。岩すら砕くモンスターの攻撃に耐えてみせるのだから、登山程度どうということもない。
「ここまで来ておいて今更なんですが、俺達は具体的に何をすればいいんですか? 大精霊に会う? ドラゴンを探す?」
豆のスープをズズズっと飲み、イリックが本当に今更なことを口にする。
イリック達がここまで来た理由はゴルドにここの調査を依頼されたからだ。
ここ最近、ビサラ山脈に生息すると思われるドラゴン、ビサラドラゴンが目撃されたらしく、比較的近くに位置するガーウィンス連邦国としては無視できないと判断し、イリック達に白羽の矢が立った。
テレポートで一瞬にして戻ってこれる。
何より強い。
この二つを持ち合わせている人間はイリック達以外に存在しない。
しかし、具体的な指示が出されたわけではない。ドラゴンが目撃されたから確認してきてくれ。そう頼まれたものの、何をどうすればいいのかわからないのも事実だ。ゆえにイリックは登山を開始した今でもどこかふわふわしている。
ここで何をすればいいのだ?
そもそもどこを目指せばいい?
とりあえず頂上を登る?
ドラゴンのいそうな場所を探す?
さっぱりわからない。
「こういう時は話をできる相手に訊けばいいのよ。ということで、大精霊を目指しましょう」
「なるほど」
ロニアの至極当たり前な返答に、イリックはもう一口、豆スープを飲む。
ビサラ山脈には火の大精霊が存在する。ゆえに、ここは独特な気候なのだが、そのことを思い知るのはもう少し先になる。
「地図見せて」
イリックはロニアにビサラ山脈の地図を渡す。先ほどまで眺めていたため、手元に転がっていた。
ロニアはある一点を指差す。そこは広大な山脈の南側。
イリック達が今いる場所はテイア渓谷側、つまりビサラ山脈の東であり、山頂を目指す場合はこのまま西へ登り続けばいい。
しかし、ロニアが指差した場所に向かう場合、そろそろ進路を南よりに変更する必要がある。それは同時に、不必要に登らなくて良いということだ。
「そこなら、今日中に着けるかもしれませんね」
イリックが言うように、頂上を目指すよりは近く、そして困難な道のりではない。
せっかくここまで来たのだから遠目からでもドラゴンを見たい。そんな考えをわずかながらに抱いてはいるが、危険なことは重々承知しており、何よりどこにいるかもわからないのだからどうしようもない。
火の大精霊に会って話を訊く。今はそれだけに集中しようと認識を改め、イリックは豆スープをもう一口飲む。
作戦会議も終わり、昼食も食べ終え、ネッテとロニアが片付けを進める中、イリックはアジールと軽く剣を交える。簡易的な鍛錬のようなものであり、どちらも本気ではない。そもそも、イリックはアジールの黒い両手剣を借りており、慣れない武器に四苦八苦している。
「遅いよ」
「ひどい」
アジールがイリックの隙をついて片手剣を振りぬく。もちろん寸止めだが、ヒヤリとするのは人として当然だ。
イリックが手にしているのはダーククレイモアと呼ばれる剣先から柄尻までが全て黒い両手剣。刃はそれほど太くないが、すらっと長く、そのせいでなかなか重たい。子供では持ち上げられないほどだが、冒険者なら誰でも振り回すくらいはできる。しかし、本気で振った場合、遠心力が加わるせいで体がよろめくことは必須だ。イリックもよろよろと両手剣に遊ばれている。
「まぁ、でも……、いくらか慣れてきたかな」
イリックは片手で上下に揺らす。
重さの把握は済んだ。
長さと重心位置も体が覚えた。
扱い方もなんとなく感じ取れた。
とは言え、使いこなせるかと問われれば、まだまだと言わざるをえない。片手剣と短剣しか握ってこなかったのだから、一朝一夕でどうこうできないことはイリックも重々承知している。
「マスター。腰を少し落とすとイイかもしれないデス」
「お、どれどれ」
二人の様子をじっと眺めていたトゥルルのアドバイスを受けて、イリックはスッと尻を地面に近づける。安定性が上がったような気がする。上半身だけでなく下半身でもこの重量を支えればいいのだな、と身を持って学ぶ。
「アジールさん、打ち込んできていいですよ」
「わかった」
アジールが距離を詰め、銀色に輝くダバールソードを上から下へ振り下ろす。
イリックはダーククレイモアを頭上でさっと寝かせ、その斬撃を受け止める。鳴り響く金属音が耳をつんざく。
それでも攻撃の手は止まらない。アジールは一旦下がり、今度は左から右へ、片手剣を振りぬく。
それを左に跳ねて回避したイリックは、すぐさま距離を詰め替えし、刃ではなく柄の方でアジールの鎧をゴンと叩いてみせる。
「機敏性ト柔軟ナ動きが可能となりマシタデス」
「だな~。両手剣……、ありなのかもな~」
鍛錬終わり。
イリックはアジールにダーククレイモアを返却する。
重いが、それゆえに攻撃力がある。
長いが、それゆえにリーチがある。
片手で扱える武器にはそれなりのメリットがあるが、両手武器にもそういったメリットがあると再確認する。
アジールの鍛錬のはずがいつの間にか両手剣講座になってしまった。まぁ、たまにはこういうのも悪くないかもしれない。そんなことを考えつつ、イリックはごそごそと片付けに加わる。
そろそろ出発の時間だ。ネッテ達の作業も終わろうとしている。
そして一同は険しい山を歩く。これからは山頂を目指さない。地図と睨めっこしながらルートを考えて進む。
目的地は山頂の南側に位置するふもと。ゆえに、今は西に進むが、そろそろ南西に舵を切る。山登りもそのタイミングで終了だ。
一時間程度歩いた頃だろうか、イリックが異変に気づく。
明らかにおかしい。山は登れば登るほど、気温が下がるのが普通だ。しかし、気づけば脇や背中に汗をかいている。山を登って疲れたからではない。暑いからだ。
前方に視線を向ける。背中や腰、尻のラインがぴっちり浮き出ているロニアのタイトワンピースにもじわりと汗がにじんでいる。
「今ノ気温、二十六度デス」
「暑いわけだ……」
トゥルルが衝撃の事実を打ち明ける。
なぜだろう? 少し考えて、イリックはすぐに答えを導く。
火の大精霊の仕業だ。
風の大精霊を思い出せばすぐに気づける。
風の大精霊はヨール原野に存在する風の洞窟に潜んでいた。その結果、風の洞窟は当然のことながら、ヨール原野も意味不明な風が吹き続けていた。
北から南へ。
南の岩山から北へ。
東から西へ。
西から東へ。
結局、アジールのパンチラは拝めなかったが、今となっては良い思い出だ。
ここ、ビサラ山脈には火の大精霊が存在する。
大精霊はそこにいるだけで周囲に何らかの影響をもたらす。
風の大精霊は風を巻き起こす。
火の大精霊は気温を上昇させる。
つまり、山登りの最中にも関わらずやたらと暑いことにもそういった理由がある。
これ以上暑くならないことを祈りながら、イリック達は進行方向を南側に変更する。ここから先は斜面を登らず、高度を維持したまま歩くか、下ることになる。
山登りはここで終了。ゆえに足取りは幾分速くなる。
そして、イリックの見通しは当たってしまう。
じわり、じわりと茹だるような空気が体にまとわりつく。目を凝らせば、周囲の熱が目に見えるような気さえしてくる。
「これは……しんどいですね」
「ええ、ここまでとは思わなかったわ」
「気温は三十度まで上昇シマシタデス」
イリックとロニアは額の汗をぬぐう。
トゥルルは訊いてもいないのに、そして言わなくていい事実を告げる。知ってしまったらさらに暑く感じてしまう。
「暑いよ~。溶けるよ~」
「鎧脱ぎたい」
前を歩くネッテとアジールもぐったりと歩く。
イリックは休憩を提案しようかと思ったが、休んだところで涼しくなるわけでもなく、むしろこの暑さをいつまでも味わうハメになると気づいたため、その考えは自分で却下する。
うだるような暑さの中、一行は歩き続ける。足元に転がる石に触れたら焼けどしてしまいそうだ。地面を覆う砂はカラカラに乾いており、ちょっと空気をかき混ぜるだけでさらっと形を変えてしまう。
暑さのせいで時間の流れすらきちんと認識できなくなった頃、空気がピリッと刺々しくなる。
自分達に向けられる殺気。
莫大な魔力。
重苦しい存在感。
これをたった一人の人間が放っているのだから、脅威以外の何者でもない。
ネッテが腰の短剣にそっと手を伸ばす。
視線の先には、湯気立ちそうな茶色い地面の上に黒いローブの男が立っている。右手には灰色のマジックバッグをぶら下げており、どこか見覚えのある光景だ。
イリック達がそうであったように、その男もどこか驚いた雰囲気を匂わせる。
「あの時の冒険者か」
その声には聞き覚えがある。少しかすれた、年寄りの声。
四人が足を止める中、イリックだけが歩みを進め、先頭に立つ。
「ヨール原野以来ですね」
「ああ。風の洞窟のモンスターを倒したのは君達かね?」
「そうです」
イリックとその男は初めて目を合わせる。前よりは深くフードを被っておらず、だからといって顔つきまではまだわからないが、目くらいはぼんやりと見える。目元のしわが、高齢だと物語っている。
この男の登場に最も驚いたのはロニアだ。それもそのはず。内包されている魔力量が計り知れない。それどころか、量とは別にその波長も人間のものとは思えない。まるで、モノケロスやゲシュタルトを彷彿とさせる。
つまりは、人間でありながら、放たれる魔力の質はモンスターのそれに近い。その上、ただのモンスターではなく、異質な種族に瓜二つだ。
「おかげで計画の修正を余儀なくされたよ。こうして山登りまでさせられるとは思わなかった」
「計画?」
その男が何を言っているのか、イリック達には全く飲み込めない。ゆえに、教えてもらうしかなく、イリックは問いかける。
「それは言えない。どうせここで死ぬのだ。言う必要もあるまい」
「冥土の土産にそこをなんとか!」
食い下がってみる。
「そ、そうくるか……。だが教えん」
「けち」
男とイリックのやり取りがいよいよ子供じみてきた。
ビリビリ感じる異様な魔力に怯むのを止め、ロニアが口を開く。
「あなた、ウーディね?」
「ほう。どうしてそれを?」
「ゴルドが言い当てたわ」
「ここであのバカの名を耳にするとはな」
ロニアが目の前に立ちはだかる男の名を言い当てる。
ウーディ。ゴルドの魔力を奪った男。これ以上のことは聞かされていない。しかし、ゴルドの感が当たったこと。ウーディがなぜかビサラ山脈にいること。今はこれだけで十分だ。
「倒せばいいの?」
「まぁ、待て」
ネッテが小声でイリックに問いかける。それもありだろうが、今は話を聞きたい。
「ここで何をしてるんですか?」
「それも言えん。だが、検討はつくだろ?」
「え?」
微塵もわからない。
イリックの間抜けな表情に、ウーディも若干驚いてしまう。普通わかるだろう? フードの下ではそんな表情を浮かべる。
「火の大精霊の魔力を奪っているのね? 風の洞窟でそうしたように」
「そうだ。あ」
ロニアが言い当てたことに感心し、ウーディは言うつもりはなかったが肯定してしまう。言ってから後悔したが、もう遅い。
「ついでにドラゴンにもちょっかい出したの?」
「それは知らない。本当だ」
「そう……。偶然か、ドラゴンの寝床にまで何らかの影響を与えてしまったってとこかしら?」
ロニアは考え込む。ウーディが嘘をついているようには思えない。根拠はないが、そもそもこのタイミングで嘘をつくメリットが思いつかない。ゆえに、そういう前提でロニアは思考の海にダイブする。
「私からもいいか? それは何だ?」
ウーディが人差し指を前に向ける。その先にいるのは、どこから見ても不思議な機械娘、トゥルルだ。
「古代人が作った機械だ」
「トゥルルデス」
「なん……だと……」
イリックとトゥルルの説明に、ウーディは後ずさる。博識な人間ほど、その事実に驚かされてしまう。トゥルルはそういう存在だ。
ウーディはどさっと尻餅をつく。そのままあわあわと震えだす。驚きすぎでは? そう思ったが、ロニアもこんな反応だった。これが正常なのかもしれない。
「ロニアさんみたいですね。いてっ!」
イリックの不名誉なツッコミに、ロニアがローキックをおみまいする。
「トゥルルのこと教えてあげたんだし、一つだけ教えてくれないかしら? あなた、もしかしてサハハ遺跡で何かしてる?」
ビクン。ロニアの問いかけに、ウーディは大きく反応する。正解のようだ。
「そう。大精霊から吸収した魔力をサハハ遺跡に移し変えてるのかしら?」
ビクン。これも正解らしい。ここまでわかり易いと、かわいそうに思えて仕方ない。
「それが計画? その行き着く先は?」
「い、言えん!」
随分ばらしてしまったような気もするが、イリックはあえてつっこまない。
「何をしようとしているの?」
ロニアはそれでも止まらない。
ウーディもそれに対抗するかのように、立ち上がり、顔を背けてだんまりを決め込む。口は災いの元。それを実践しているようだ。
「言いなさい」
(こわっ!)
強気なロニアにイリックは震える。相手はかなりの実力者なのだが、今はロニアの方が立場は上らしい。
「……私はこれで失礼する。もう会うこともないだろう」
「なぜ?」
「おまえ達はこの先に進むのだろう? そこで殺されるからだ」
「そう。なら、私達も帰りましょう」
「えっ!?」
ウーディが青ざめる。ロニアの方が一枚上手らしい。そんなことを言われれば誰でもそうする。やはり口は災いの元だ。
「とりあえず、この人とっ捕まえて、安全そうな場所まで進んでみましょう」
「まぁ、それでもいいわ」
イリックとロニアは落としどころをそう決める。
それを聞き、ネッテとアジールが武器に手を添える。トゥルルも遅れてファイティングポーズに移行する。
「ふ、そうはいかない。それでは……」
言い終えるや否や、そこからウーディが消え去る。当然、姿だけでなく、殺気を帯びた存在感と理解不能な魔力も周囲から消える。この現象はテレポートに似ているが、魔法の詠唱は感じ取れなかった。ゆえに、テレポートと似た別種の魔法と推測できる。
ロニアは自分達が歩いてきた方角を振り返る。
唯一、ロニアだけが当たりをつけていた。後衛攻撃役は移動魔法を一つだけ習得できる。希少魔法であり、滅多にお目にかかれないのだが、今回の場合、そうとしか思えない。
フリッカー。
最大十メートル先まで瞬間移動できる魔法。その上、自身にかけられている状態異常も同時に消し去る。
これを使ったのなら背後にいそうなのだが、黒いローブ姿は見当たらない。
(ものすごい距離を移動できるように改良したのかしら? この男ならそれくらいのことはやりそうね)
ロニアはそう結論づける。この考察は正解ではない。しかし、当たらずとも遠からず。行き着く先は同じだ。
「どこどこー?」
「見当たらない」
ネッテとアジールがキョロキョロと周囲を見渡す。当然、見当たらない。
「周囲にはいないヨウデス」
トゥルルも焦点を激しくずらすために眼球をギュインギュインとさせながら周囲を観察する。
「まぁ、なにやら危険が待ってるようだけど、行ってみよう」
「ガッテン!」
イリックが歩き出す。ネッテも大声でそれに続く。
「ウーディ……。何を企んでるのかしら?」
「わかんない」
ロニアの独り言にアジールは答えを提示できない。そもそもこの中にそれができる者など誰一人としていない。
ウーディは大精霊達の魔力を集めて何かをしようとしている。それは先ほどの挙動から確定だ。
その上、サハハ遺跡からの膨大な魔力感知にも一枚噛んでいるらしい。むしろ、完全に犯人だ。
収穫は上々。すぐに撤退しても良いくらいだが、イリック達がビサラ山脈まで足を運んだ理由はウーディと会うためではない。ドラゴン出現の調査だ。そして、それを知るために今は火の大精霊の元へ向かっている。
ウーディ曰く、これ以上進むと殺されるらしい。しかし、そんなことは行ってみないとわからない。ゆえに、今は前進を選ぶ。
いざとなればテレポートで帰ればいいのだ。そんな安易な考えのもと、イリックは先頭を歩く。
額から流れる汗は、ウーディの気迫に押されたからではない。暑いからだ。
三十分後。
景色は変わらずとも、一同は辿り着く。数十メートル先の斜面には、直径五メートルほどの横穴が口を開いており、そこが目指していた場所だと決め付ける。
周囲は灰色の岩肌と茶色というよりは黄色い土で埋め尽くされている。植物は一切生えておらず、まさにビサラ山脈で見られる景色そのもの。
岩肌とは別に、一メートルを越える岩もあちこちに転がっている。頂上の方から転がってきたのだろうか。若干丸い形からそう推測できる。
気温はいよいよ三十二度まで上昇した。
だからではない。しかし、そういうことにしたいのも事実。だが、やはり理由は異なる。
イリックの上半身は裸だ。最低限の筋肉がついており、腹もほんのりと割れている。
イリックの肌着は攻撃魔法のせいで粉砕された。あまりの暑さに上着を脱いでいたのが不幸中の幸いだった。肌着程度、買えば済む話だ。
もっとも、そんなことを心配している状況でもない。
イリックは右肩に、えぐられたかのような傷を負っている。酷く痛むのか、仰向けに倒れたまま、上を見上げることしかできない。
ネッテは氷のモンスターと互角に戦っている。
アジールは土のモンスターの猛攻を盾で凌ぐ。
ロニアは後方から水槍を次々と発射する。
そして、トゥルルはロニアの魔法を計算に入れながら、風のモンスターとやりあう。
そう。イリック達は死闘を繰り広げている。
ウーディの発言はまんざら嘘ではなかったようだ。なぜなら、イリックは既に戦うどころではないのだから。
◆
気温の上昇と共に、ロニアは巨大な魔力の波動を機敏に感じ始めていた。火の大精霊に近づいている証拠だ。
そして、五人は目的地と障害物を同時に発見する。
一つ目は五メートル程度の横穴。斜面をえぐりぬいたように、デカデカと洞窟のような穴が前方に存在する。その穴から漏れる空気はどこかゆらめいており、およそ近づきたいとは思えない。しかし、目指している場所であると確信できてしまう。
二つ目は三体のモンスター。横穴とイリック達の丁度真ん中付近にそれらは居座っている。いち早く人間の接近に気づいたのだろう、やる気をみなぎらせながらイリック達に視線を固定している。
ふわふわと上下しながら漂う球体のようなモンスター。三十前後の面を持つ多面体なサイコロのような形をしている。色は青白く、大きさは人間の上半身程度。暑さから身を守るために、氷の空気層を周囲に漂わせている。
風の洞窟で出会ったピクシーにそっくりなモンスター。しかし、二つの点で異なる。色と大きさだ。全身は薄緑色ではなく灰色、大きさもピクシーよりも一回りは大きい。羽の枚数はピクシー同様六枚だが、緑色ではなく黒に近い灰色をしている。変わらない点もある。女の子のような顔立ち。白目のない目、ただし緑色。
およそ一メートル前後の蜘蛛のようなモンスター。体は岩のようにゴツゴツしており、質感もまさにそれを彷彿とさせる。茶色い六本の足は長いため、体は小さいが、存在感は抜群だ。針のように鋭い足をカサカサと動かして、イリック達への接近を始めようとしている。
「あぁ、俺はもうダメだ」
「なんでよ?」
イリックがつぶやく。
およそらしくない発言にロニアがすかさずつっこむ。この場で、イリックの発言の真意を理解しているのはネッテだけだ。
「お兄ちゃん、蜘蛛が苦手なの。小さいのも、大きいのも」
「あんなの無理、死んじゃう」
「へ~」
青ざめるイリックを他所に、ネッテが嬉々として説明する。アジールは表情を変えずに、そしてモンスターを見据えたまま小さく驚く。
そう、イリックは蜘蛛が本当に嫌いだ。小さかろうと蜘蛛であれば泣いて逃げる。サラミア港にはあまり蜘蛛はいなかったが、それでも時折、招いていなかろうと実家の中を闊歩していた。そういった時はネッテに泣きつくしかなく、イリックはただただ震えて退治されるのを待つ。
「益虫なのにね~」
「まぁ、目の前にいるのは完全にモンスターだけど」
「エキチュウ?」
「人にとって良いことをしてくれる虫さんだよ」
「なるほどデス」
ロニアが再びつっこむ中、ネッテとトゥルルが蜘蛛について語る。
「明らかにウーディの仕業ね。こんなモンスター見たことないわ。あぁ、蜘蛛のモンスターは別ね。普通にトリストン大陸にも生息してるわ」
浮いている多面体の物体と、ピクシーに似たモンスターはこの世界の住人ではない。ロニアはすぐに察する。
一方、蜘蛛のモンスターはあちこちに生息している。もっとも、茶色い固体は確認されていない。ゆえに、ロニアの推測は外れており、これもこの世界のモンスターではない。
球体のようなモンスターはフロストキューブ。周囲に漂わせている冷気が物語っているが、氷を操るモンスターだ。
ピクシーより少し大きなモンスターはアンシリーコート。ピクシーは人を襲わない。それこそ、人に襲われようと防衛すらせず逃げに徹する。しかし、この種族は異なる。ピクシーとほぼ同じ外見をしているが、中身は純粋たるモンスターだ。
茶色い蜘蛛はロックスパイダー。その名の通り、体を構成する素材は岩に似た鉱石である。
三体のモンスターがそれぞれ行動を開始する。
フロストキューブはゆらゆらと上下しながら前進する。
アンシリーコートはその場で魔法の詠唱を開始。
ロックスパイダーはカチカチと足音を鳴らしながら歩き始める。
イリック達に風の攻撃魔法、ストームが放たれ戦闘が始まる。直撃を受けたイリックは、発生したかまいたちによってあっという間に上半身を切り刻まれる。たいした切り傷ではないが、ポツポツと出血してしまう。肌着に至ってはボロボロだ。
ネッテが多面体の球体に襲いかかる。深々と切り込みを入れることには成功したが、致命傷ではないのか、フロストキューブは構わず氷の塊を作り出す。攻撃魔法アイスクルがネッテに放たれるも、ネッテは涼しい顔で回避してみせる。
続いてアジールが走り出す。魔眼により痛覚を遮断し、人間の子供程度には大きい蜘蛛に斬りかかる。しかし、重量感のある見た目に反し、素早く跳ねるように逃げられてしまう。
ロックスパイダーも攻撃魔法を詠唱する。アジールの足元から土の固まりが急激に盛り上がる。土の攻撃魔法グラニートがアジールの鎧に叩き込まれ、受身も取れず後方に倒れこむ。
トゥルルと少し遅れてイリックがピクシーのようなモンスターに迫る。アンシリーコートは攻撃魔法を使ったばかり。そのため、同じ魔法はすぐには使えない。トゥルルはその隙を逃さず殴りかかる。ボディーブローのように深々と小さな腹に機械の右手が打ち込まれる。
キィと甲高い悲鳴と共に吹き飛ぶアンシリーコートへイリックが追撃を試みるが、それは舞うように回避される。
最後にロニアが行動を開始する。展開済みの水柱四本の内、二本を槍の形に変形させる。狙うは茶色い蜘蛛。アジールが苦戦している。ゆえに二発とも発射する。しかし、一発目の槍は何の手ごたえもなく弾け飛ぶ。二発目は長い足に命中したが、ヒビが入っただけで破壊には至らない。もっとも、その足は歩行に耐えられそうにもない。
(今のは……、グレイスウォールね)
ロニアの読みは正解だ。ロックスパイダーは事前に、強化魔法グレイスウォールを自身にかけていた。一度だけ攻撃を無効化するそれが、ロニアの一本目の水槍を肩代わりする。
同時に察する。この三体から放たれる異質な魔力は、ロニアにとってはもはや珍しいとは思えない。なぜなら、かれこれ何体くらいだろうか? 数えられてしまう程度には関わってきた。
ピクシー。
モノケロス。
ゲシュタルト。
サハハ遺跡の結界。
そして、ウーディ。
加えて目の前の三体だ。
結界やウーディは別として、他のモンスターはおそらく精霊界から招かれた客人だ。
全てが全てということはないのだが、精霊界のモンスターは魔法防御が高い傾向にある。ロックスパイダーもそれは例外ではない。
だからと言って全く効かないわけではない。攻撃魔法ではこれっぽっちもダメージを与えられない種族もいるのだろうが、少なくとも、ゲシュタルトがそうであったように、ロックスパイダーも水槍で倒せそうだ。
この三体と戦うにあたり、気をつけなければならないことは二点。
相手が三体もいるということ。
そして、三体全てが攻撃魔法を使うということ。
フロストキューブは氷の魔法を使う。
アンシリーコートは風の魔法を使う。
ロックスパイダーは土の魔法を使う。
「ぐわー!」
イリックが叫び声をあげつつ、ロニアの足元まで吹き飛ばされる。アンシリーコートが放った風の槍を右肩に受け、ロニアがいる場所まで押し戻された。
(な!?)
言葉にならない。えぐられた右肩が痛むが、今はどうでもいい。
今の魔法でぼろぼろだった肌着は完全に粉みじんにされた。しかし、それもどうでもいい。イリックの瞳に涙が溜まる。
イリックは見上げる。眼前には、ロニアのやや太い生足と、その付け根に面積の少ない黒色の生地が視界に飛び込んでくる。一瞬、今日着ている黒いタイトワンピースそのものかと思ったが、それは太ももの周囲でピンと張っており、該当しない。
短い丈と太ももの隙間にチラチラどころかけっこうハッキリとそれが見えている。今までも、尻に作られるショーツのラインがタイトワンピース上に浮かび上がっていたため、そういう意味ではいつでも満喫できた。
しかし、今は違う。登山には不向きそうなロニアの茶色い靴を横目に真っ直ぐ前だけを見れば、そこには男なら誰もが望む光景が広がっている。
女性の下着など、それこそショーツなどネッテのを散々見てきた。単体としても、ネッテのパンツ一丁な姿も、既に目に焼きついている。だが、どういうわけだろう。胸がもの凄く高鳴る。
相手がネッテじゃないから?
肉つきの良い太ももが色っぽいから?
血管が透けて見えるほどの近距離にロニアの足があるから?
黒いショーツだから? ちなみにネッテは黒を所持していない。
ミニスカートが過剰にエロスを演出している?
わからない。本当にわからない。
一方で、一つだけ断言できる。ロニアのパンチラは最高にエロい、と。肌色と黒のコントラストが男心をこれでもかと刺激する。
イリックは凝視する。ロニアの履いているショーツを血眼になって観察する。そして、いくつかのことに気づく。
ネッテのショーツと比べ、尻側の面積がやや狭い。大人の下着はこういうものなのだろうと推測しながら、目に焼き付ける。
(というか、いい太ももしてんな~。前からわかっていたけど)
鼻血が出そうだがイリックは続ける。ショーツの破壊力も凄まじいが、下から見上げるロニアの太ももも大概だ。太すぎず、細すぎず。どちらかと言えば太いのだろうが、それがいい。
贅沢を言えば、服か下着、もしくは両方共、黒以外が良かった。どちらも黒いため、影のせいで部分的に見えづらい場所があるのも事実だ。わがままを言える身分ではないことを重々承知しているため、イリックはぐっと堪える。それでもなお、この光景は理想郷なのだから。
地面を強く蹴る音。
打撃音。
ウォーシャウト。
氷が砕ける音。
ウォーターインカーネイト。
突風の音。
金属と岩か何かがぶつかりあう高い音。
様々な音が聞こえる。しかし、今はそれどころではない。痛む右肩を無視して、一点を凝視する。
(服もそうだし、黒が好きなのかな~。あぁ、キュア唱えたらその光でより一層見えたりしないかな?)
イリックはキュアを唱える。傷を治すためではない。光源代わりだ。そのおかげで、より一層スカートの中身の輪郭が見えてくれた。今日ほどキュアを習得できたことに感謝したことはないかもしれない。
イリックはただただ視るだけだ。決して手を伸ばさない。当然だ。変態かもしれないが、同時に紳士なのだから。お触り厳禁。そのことは重々承知している。ゆえに、必死に眺める。
しかし、より多くを望んでしまうのも事実。
足を少し開いてくれないだろうか?
それがだめなら片足をどちらかにずらしてくれないだろうか?
そう願わずにはいられない。だからと言って、足を掴んで開かせるようなことはしない。自分は傍観者。そのことは肝に銘じている。
その時だった。ロニアが片足を少し後ろにずらす。それはつまり、足が開かれるということでもある。
丈の短いスカートがより一層ピンと張る。
太ももと太ももが離れる。
その間に隠れている黒い生地がより一層顕わになる。
(もう……、人生に悔いはない)
イリック、十八歳。幸せを噛み締める。
「イリック。キュア使ったのならもう大丈夫なんじゃないの? そこにいられるとやりづらいのだけど」
いつまでも倒れているイリックにロニアが話しかける。魔法での攻撃が忙しいため、視線を向ける余裕はない。ゆえに、スカートの中身を覗かれていることにも気づけていない。
「痛いよー、痛いよー。血が止まらないよー」
棒読みだが仕方ない。なにより、嘘はついていない。右肩を風の槍でえぐられており、一度のキュアでは傷口を塞ぐには至らない。
「ならさっさと回復しなさいよ」
「はーい。キュア」
視線はそのままに、イリックは嬉々としてキュアを唱える。自身の体が白く発光するため、スカートの中が照らされる。
「お兄ちゃん大丈夫~? って、兄上!」
(しまった!)
ネッテが兄の悪巧みに気づく。
球体に近いモンスターを何度も何度も刻むも、その都度傷が再生するため、ネッテは長期戦を一度は覚悟した。
それでも、冷気を伴う様々な攻撃を全て回避しつつ、攻撃の手を休めなかった結果、真っ先に討伐一体目を実現する。
目の前のモンスターを倒せたことに安堵したネッテは、早々に負傷したイリックを心配する。すると、ロニアの足元に伏せたまま、スカートを覗き込む見たくない姿を目撃するはめになった。怒るのも当然だ。
「せっかん!」
「はえぇ!」
そこそこの距離はあったのだが、ネッテは一歩を踏み出すように一瞬で詰めてみせる。そのまま兄に覆いかぶさり、悪事を働いた両目を潰す。
「ギャー!」
右肩の傷など比べ物にならないほど痛い。このままショック死しそうだ。
足元で兄妹がわけのわからないことを始めたが、ロニアは気にせず水槍を発射する。とはいえ、正直言って邪魔で仕方ない。
ゆえに、ロニアは新魔法を披露する。こんな理由で使う羽目になったことは癪だが、モンスターはまだ二体残っているため、贅沢は言っていられない。
水柱を四本全て使い果たしたタイミングでロニアは行動を開始する。先ず、兄妹から離れる。自分が狙われた場合、二人を巻き込んでしまうからだ。何より邪魔だ。
駆けながらもロニアは魔力を高める。それに呼応するように、頭上で水の塊がぞわっと湧き上がる。それは螺旋を描いた鋭い刃に形を変える。次いで、その刃から後方に細い水の棒が伸びていく。およそ一メートルに達したタイミングでついに完成する。この槍は、水柱から作り出していたそれと同様のものだ。
「ゲイルロド」
これがロニアの新たな魔法、ゲイルロド。
従来は水柱を召喚し、それを変形させて支えとなるスタンドの上に水槍を作り出していた。しかし、これには二つのデメリットが存在する。
一つ、その場から動けない。水柱から離れてしまうと形を固定できず崩れてしまうからだ。
二つ、発射までの工数が多い。すなわち、攻撃のインターバルが長くなる。
この二点を改良する方法をロニアは考えた。方法はすぐに思いついたのだが、それの実現は困難極まった。なぜなら、そもそも魔法で呼び出した水を自由自在に操ることが既に高度なテクニックだからだ。
魔力が高く、水に関する魔力制御もずば抜けて高いロニアですら、従来のやり方が精一杯かつ最高のやり方だった。
しかし、もうこのやり方は通用しない。イリック達との冒険には、なぜか困難なモンスターがセットでついてくる。ゆえに、ロニアは次の一歩を踏み出さなければならない。
そしてこの方法に辿り着く。だからと言って実現はできない。魔力制御が少し足りていないからだ。そもそも、やれるのならとっくにそうしている。今まで柱から槍を作り出していたのはそうするしかなかったからだ。
もうちょっとだけ、魔力制御を高めることができれば。
そんなロニアの願いはたった一つの装備で解決する。
サハハ遺跡で入手した銀の腕輪。いくつもの岩が人の形を成すモンスター、ゲシュタルトを倒した際の戦利品だ。
ゴルドはこの装備を魔力を高めるものだと一瞬で見抜く。しかし、実際は半分しか正解ではない。
この腕輪の名称はマハトマリング。魔力だけでなく、全属性の魔力制御をわずかに高めてくれる。わずかでしかないが、幸運にもロニアのやりたいことを叶えるには十分な増加量だった。
通常、魔法を扱う冒険者や軍人は杖を持つ。杖は魔力とマジックポイントを最も増幅させる装備だからだ。
杖の次に優秀な装備は服と言われている。指輪やピアスといった装飾品は、もっとも効果の薄い装備だ。
では、ロニアが身に付けた銀の腕輪はどうかと言うと、杖の代替品に十分なりうる装備と言える。マジックポイントの増幅はないが、代わりに魔力制御を高めてくれる。
杖に匹敵する魔力増加、わずかながらの魔力制御ブースト。
こうしてロニアは実現する。
新たに考えた戦い方を。
敵を貫くための新たな攻撃手段を。
ゲイルロドと命名されたその魔法が、獲物目掛けて空中を進む。初動から既に最高速度を実現しており、躊躇なく空気を切り裂きながら、茶色い岩のような蜘蛛の足を二本砕いてみせる。
「ウォーシャウト」
アジールは即座に対応する。ロニアの予想だにしないタイミングでの水槍には少し驚かされたが、自分が何をすればいいのかすぐに察することはできた。
斬りかかろうと考えていたが、この状況ならロニアに任せてしまえばいい。そして、自分の仕事はモンスターの攻撃を一手にひきつけることだと理解する。
ゆえにウォーシャウトを使い、移動できなくなったロックスパイダーの行動を制限する。歩くことはできずとも、このモンスターは攻撃魔法を繰り出せる。それからロニアを守ることは、すなわちモンスターの殲滅を早めることに繋がる。
「まだまだ上手くいかないわね」
ロニアは新たに作り出した二本の槍を見比べる。頭上で佇むそれらは、ロックスパイダーに穂先を向けて臨戦態勢を維持している。形状は同じだが、どういうわけか大きさが異なる。右の槍はロニアの想定通りの大きさ、およそ一メートル。左のそれは半分程度。
新たな魔法はマハトマリングのおかげでほとんど完成した。しかし、完璧ではないと見せ付けられ、ロニアは小さく息を吐く。
だからといってこの槍がモンスターを貫かないわけではない。ロニアは落胆した表情を浮かべながらも、右手を挙げ、さっと前へ倒す。
それを合図に発射された二本の槍が、競うように蜘蛛の体に突き刺さる。
魔力と魔力制御の向上は、そのまま水槍の硬度を高めることにも繋がっている。
魔力防御の高さからかろうじて耐えてみせたロックスパイダーも大概だが、反撃をしようにもそれはアジールにしか向けられず、体勢を崩しながらも放ったグラニートは、アジールの盾をガツンと押すことしかできない。
一方、トゥルルも優位に立ち始めている。相手は小さい体ながらも魔力はこの三体の中で最も高く、繰り出される魔法は一発一発が必殺の威力だ。
それを証明するように、トゥルルは左腕を失っている。イリックの右肩をえぐった風の槍が、頑丈な機械の腕をあっさりと断裂させた。また、脇腹や背中にも深い裂傷ができている。
五人の中で、このモンスター、アンシリーコートの強さに気づけているのはトゥルルだけである。サハハ遺跡で戦った岩のモンスター、ゲシュタルトと比較した場合、アンシリーコートの方が強いと断言できてしまう。それほどに強い相手だ。
アンシリーコートは風の洞窟でイリック達が戦ったモノケロスよりも強い。しかし、今回は相手が悪かった。相性という点で、トゥルルに軍配が上がる。
アンシリーコートは灰色の体を守るように風の鎧をまとっている。それを剣撃等で突破するのは困難だ。
そして、人間を殺すには十分な威力を誇る風の攻撃魔法が何よりも厄介と言える。イリックが一撃でやられたことがそれを裏付けている。
イリックは微塵も油断せずに立ち向かった。せいぜい、コネクトを出し惜しみしたことくらいだ。本気に近かったイリックさえも成すすべなくやられたのだから、トゥルルの同行は唯一の救いと言えるかもしれない。
そんな強敵相手にトゥルルが互角以上に戦えている理由は三つ。
一つ、アンシリーコートの風の鎧を突破できること。トゥルルは拳に属性をまとう強化魔法を詠唱できる。風に有効な属性は氷だ。したがって、トゥルルはコールオブアイスクルを使い、拳に冷気をまとってそれを突破する。五人の中でこれを可能とするのはトゥルルだけだ。
二つ、頑丈さ。トゥルルの体はスチール製の武器すら弾き返すほどの素材で覆われている。そのことから、人間なら殺せる魔法であっても、いくらか耐えられる。左腕が破壊された原因は間接に命中したからであり、そうでなければどうということもない。
三つ、回復魔法を使える。自分専用ながらも、トゥルルは回復魔法も詠唱できる。頑丈なことから即死せず、じわじわと傷つけられようとも回復すれば戦いを続行できる。
少女によく似た灰色のモンスターが、高い魔力を注ぎ込んだ風の塊を槍の形に変形させる。まるでロニアのゲイルロドを彷彿とさせるそれは、注視しなければ見落としてしまう。それもそうだろう、風の塊など、ほとんど見えないに等しい。
しかし、トゥルルはかすりながらもそれを回避する。そもそも痛みを感じないのだ。行動に支障の出ない損傷など、問題にならない。
足を一切動かさないホバー走行でいっきに距離を詰め、上半身のひねりも加えた氷の打撃を小さな体に全力で叩き込む。風の鎧をあっさりと貫いたように、灰色の体すらもついに打ち抜いてみせる。
同時に、茶色い蜘蛛の体も、水の槍で砕かれる。ロックスパイダーは、ウォーシャウトの有効時間である十秒間アジールしか攻撃できず、十秒経過と共にロニアのゲイルロドで絶命させられる。
「死ぬー!」
「何してた! 吐け!」
死闘の横で、もう一つの死闘が繰り広げられているが、ロニアはそれを無視して前髪をそっと上げる。
その視線は、モンスター三体を順に追う。
ネッテが倒した球状のようなモンスター、フロストキューブはもう跡形もない。氷のモンスターだったことから、三十度を越える場所では死体すら維持できないのかもしれない。
トゥルルが仕留めたピクシーのようなモンスター、アンシリーコートも腹に穴を開けて地に伏せている。羽も指も、ピクリとも動かない。
そして、アジールとロニアが倒した蜘蛛のモンスター、ロックスパイダーは、茶色い石の集団へ成り下がる。
三体から漂っていた精霊を想起させる魔力はもう感じられない。否、前方の横穴からそれ以上の魔力が漏れ出ている。
障害となるものは排除した。後はそこへ向かえばいいだけだ。アジールとロニアは互いの目を見て頷く。
「キュアー!」
「ほら! 白状しなさい!」
次は兄妹喧嘩を仲裁しなければならない。面倒だからトゥルルに押し付けることにした。
「トゥルル、ネッテを止めなさい」
「わかりましたデス」
「ちょ! トゥルルちゃん、離して! 兄上をせっかんしないと!」
「何があったのよ、あなた達に……」
「なんでもないんですー!」
「あ、何か隠してる」
暴かれたイリックの悪事は、ネッテのドロップキックと、ロニアに踏みつけられたことで許してもらえた。
踏まれたのはある意味ご褒美だったが、イリックは沈黙を選ぶ。




