1. 離婚宣言
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「もはや、貴様のような穀潰しに割く予算などない」
豪華に飾られた応接室の入り口。
座ることさえ許さない夫、ラハルト・ライセンは残酷なまでに冷ややかに言葉を継いだ。
「貴様はこの二年間、侯爵夫人としての最小限の義務も果たさず、怠惰な日々を過ごした。そんな貴様に代わってこの侯爵家を支えてくれたのが、ここにいるエイミーだと聞いている」
ユフィネルの視線が、ラハルトの傍らに座る金髪の少女、エイミー・ハレンドへと向けられた。十八歳でありながら幼い顔立ちと子供のような体つきのユフィネルとは対照的に、十六歳のエイミーは男なら誰もが目を奪われるような豊満な肢体をしていた。
身体のラインを強調するドレスを纏ったエイミーは、ラハルトに身を寄せながら、勝利者の笑みを浮かべていた。
「私は、侯爵家を支えてくれたエイミーと再婚することに決めた。
離婚の手続きは済んでいる。今日中に屋敷を出て行け」
(半年ぶりの再会だというのに、いきなり呼び出されて口にするのが離婚の要求か……)
間違いなく自分に向けられた言葉なのに、どこか他人事のように漠然と感じてしまうのは、いつかこんな日が来るだろうと悟っていたからだろうか。
(これまで、よく耐えたわよね)
心を切り裂くような冷たい言葉を投げかけられても、晴れやかな気持ちになれるのは、微かな恋心さえ消え失せるほど、この屋敷での暮らしが苦しかったからだろうか。
ユフィネルがライセン家に嫁いでから、はや二年。長引く戦争の影響で貴族街では早婚が流行しており、ユフィネルもまた十六歳の誕生日を迎えるやいなや、ライセン家へと嫁ぐことになった。
この二年間、ユフィネルはライセン侯爵夫人としての最小限の義務すら果たさぬまま歳月を過ごしてきた。当然のことだった。
侯爵とはいえ、ラハルトは王国軍の首脳であり、領地経営とは無縁の男だ。
しかし、次男のロウェル・ライセンは金を使うことしか能のない愚か者で、大夫人もまた経営には疎かった。
ただでさえ長引く戦火により、領民たちの暮らしは疲弊していた。最小限の黒字でも出さなければ領民たちが苦しむと分かっていたからこそ、ユフィネルは必死に領地経営だけに打ち込むしかなかったのだ。
ユフィネルにとって侯爵夫人としての社交や奉仕などは遠い夢物語であり、一年に一度帰宅するかどうかの夫とは、子供を作ることすら叶わなかった。
見たところ、ユフィネルは侯爵夫人としての資格に欠けていた。分かっている。だからこそ、弁明はしなかった。正直、弁明する価値さえ感じなかったのだ。
誰かがユフィネルの仕事を代わってくれるというのなら、喜んで譲り渡しただろう。
たとえエイミー・ハレンドがロウェル・ライセンと恋仲であったとしても。
大夫人がロウェル・ライセンに家督を継がせようと策を巡らせていたとしても。
そのすべてを、ユフィネルが独りで食い止めていたのだとしても。
どうでもよかった。所詮は政略結婚で結ばれた縁だ。かつては彼に寄り添いたいと願ったこともあったかもしれないし、彼を愛したことがあったのかもしれない。
けれど今のユフィネルにとって、ラハルト・ライセンという人間は何の価値もない存在だった。道端に転がっている石ころが人の言葉を話したとしても、まだそちらに情を抱くのではないかと思えるほどに、彼女にとって彼は「どうでもいい人」だった。
これでようやく、離婚によって忌々しい枷からも解放された。冷徹な眼差しを向ける夫、ラハルトに対し、ユフィネルは眩いばかりの微笑みを浮かべて挨拶を返した。
「今までありがとうございました、ライセン侯爵。どうか、お健やかに」
***
それから二年の歳月が流れた。
二十歳になったユフィネルは、以前とは比べものにならないほど成熟した姿になっていた。かつてのような人形のように小さく白い少女ではなかったが、労働によってしなやかに引き締まった身体は、自分でもそれなりに満足のいくものだった。
今のユフィネルは古い名を捨て、「ユフィ」という名の平民として、『安息の魔女』リベリカの弟子として生きている。安息の魔女という名に相応しく、彼女が暮らす国境の村は、戦時中とは思えないほど争いも混乱も存在しなかった。
ユフィネルは、家を失った避難民や負傷して捨てられた軍人たちが集まってできたこの小さな村が、たまらなく愛おしく、大切だった。患者の世話は大変だったが、彼らが健康を取り戻し、自分に微笑みかけてくれるとき、何物にも代えがたい満足感と幸福感を得ることができた。
ユフィは一生、ここで魔女の弟子として生きていくつもりだ。村の人々と穏やかに暮らしていくのだ。
その日は、いつもと変わらない平凡な一日だった。
短い春が終わり、本格的な夏が始まろうとしているのか、空気は蒸し暑かった。そのうえ、空模様まで怪しい。どうやら一雨来そうな気配だったので、ユフィは早めに午前の仕事を切り上げて休むことに決めた。
薬膳料理と薬茶を煎じ、家の中を整える。今日の午前中は配達に行く家が多いから、テキパキと動かなければ。
幸い、午前の業務を終えるまで雨は降らなかった。軽い足取りで家へと戻ろうとしたその時。一滴、二滴と雨粒が落ちてきた。
「あら」
(もう少し、もってくれればよかったのに!)
あいにく今日に限って、村の人々がお礼にとくれた食材がたくさんあった。雨に濡れないよう注意しながら家へと向かっていたその時、ユフィの視界に誰かの姿が入り込んだ。
ボロ布のようなマントを羽織った人物だった。ユフィより頭一つ分は背の高い男だ。足が不自由なのか、杖を突きながらふらふらと歩いていたが、マントで隠しきれない顔や腕は包帯だらけだった。
(軍人? でも、戦争は終わったはずなのに……)
短く切り揃えられた髪は、灰の山のように濁った灰色。
間違いなく村の人間ではないのに、どこか妙に見覚えがあった。
(どこで見たかしら?)
思い出せない。けれど、負傷者なら助けなければならないという一念で、ユフィは荷物を軒下に置き、急いで男の元へと駆け寄った。
「私は魔女リベリカの弟子のユフィです。旅の方、もしや魔女の家をお探しで……」
警戒心を解くために自己紹介を続けていたユフィは、自分を見つめる、ルビーとアメジストを混ぜ合わせたような特異な色の瞳を見て、言葉を濁した。ユフィが住むロンカエト王国では珍しい瞳の色。そして、珍しい灰色の髪……。
記憶ではなく推測によって相手の正体に気づいたユフィネルは、驚きの表情を隠せないまま彼を見つめた。
ちょっと待って、この人は。
二年前、私に「穀潰し」と言い放ち、離婚届を突きつけた男であり、
王国の英雄。
(ラハルト・ライセン……?)
この男が、どうしてこんな姿でここにいるの?




