1章21話 勇者の定義と魔王の微笑み
1章21話 勇者の定義と魔王の微笑み
多目的ホールの重苦しく澱んだ空気を切り裂くように、鋭く、それでいて秩序の到来を告げる救済の調べ――パトカーのサイレンが、幾重にも重なり合いながら園舎へと近づいてくる。
赤と青の閃光が夜の帳を不規則に塗り替え、窓ガラス越しにホールの惨状を照らし出した。
それは、阿久津という男が築き上げた「権力の檻」が物理的にも社会的にも崩壊した合図であり、外界の良識がこの閉鎖的な空間へ雪崩れ込んでくる福音でもあった。
権藤が理性をかなぐり捨てて凶器を振り回し、真がそれを魔王の如き慈悲なき力で鎮圧したその一部始終を、画面越しの「一億人の陪審員」たちは固唾を呑んで見守り、そして迷うことなく通報の指を動かしていたのだ。
「白沢さん!
お怪我は!?
本当に……本当にお怪我はないんですか……っ!?」
阿久津が放っていた呪詛のような威圧感からようやく解放されたリサが、弾かれたように真のもとへ駆け寄った。
彼女の瞳には、先ほどまでの絶望や恐怖の残滓ではなく、目の前の男を案じる純粋で、切実な懸念が灯っている。
その足元はまだ震えていたが、彼女の心はすでに、生徒の父という枠を超えた「一人の人間・白沢真」に向けられていた。
「大丈夫ですよ。
リサ先生。
……こんな、己の私欲に溺れただけの小物に後れを取るほど、私は生温い修羅場を潜ってきてはいませんから」
真の声は、嵐が過ぎ去った後の凪のように穏やかだった。
額の雫を拭い、乱れたジャケットを整えるその所作には、返り血一滴浴びていない清潔な冷徹さが宿っている。
「ちょっ、タカシ君のパパさん!
マジでカッコ良すぎたッス!!
権藤の野郎が沈んだ瞬間、画面の向こうで億単位の人間がスタンディングオベーションしたはずッスよ!
まさに『ざまぁ&スカッと爽やか』ッス!!
もう、惚れすぎて心臓止まるかと思ったッス!
抱いてくださいッス!!」
興奮で顔を上気させたサオリもまた、跳ねるような足取りで合流した。
彼女の語彙は相変わらず独特だが、その言葉にはパパへの惜しみない称賛と、溜まりに溜まった鬱憤を晴らしてくれたことへの感謝が凝縮されている。
「サオリ!
何言ってんのよ、この状況でっ!」
「だってホントのことじゃないッスかぁ!
あんな魔王ムーブ見せられたら、全人類がメロメロっスよ!」
リサが顔を真っ赤にして窘める横で、真はふっと目を細めた。
「ふふっ。
サオリ先生のような快活で情熱的な女性に、そんな熱烈な好意を向けられるのは、一人の男として光栄です。
ですが――」
真は、かつて阿久津を絶望させたものとは正反対の、冬の陽だまりのような爽やかな笑みを向けた。
「たとえ法律がそれを許容し、禁じていなかったとしても、私は『不倫』という行為そのものを自身の禁忌にしているんですよ。
愛すべき家族を裏切る行為は、私という人間そのものを否定することになります。
ですから、謹んでお断りさせていただきますね」
非のうちどころのない完璧な拒絶。
それは家族への深い愛と、自分という存在への厳格なルールに基づくものだった。
「……それに、先生。
まだ配信を切っていないので、教育者としてその『刺激の強い発言』はちょっと……。
全世界にアーカイブされてしまいますが……よろしいので……しょうか?」
「…………あ」
サオリの動きが、物理的な衝撃を受けたかのように凍りついた。
一秒、二秒。
「ッッッ~~~~~~~~~!!??」
『ポンっ!』という擬音が聞こえてきそうなほど、サオリの顔面がリンゴのように真っ赤に染まる。
背後で回っているカメラのレンズが、今の「愛の告白」を数百万人に共有し続けている事実に、彼女は今さら気づいたのだ。
「もう!
サオリったら自業自得よ!
……白沢さん……本当に、本当にありがとうございました。貴方は、自らを『魔王』なんて呼びましたけれど……。
私たち、そして理不尽に耐えていた子供たちにとっては、暗闇の底から救い出してくれた本物の『勇者』そのものです」
リサは震える声で、溢れ出す涙を堪えきれずに深く、深く頭を下げた。
組織に裏切られ、誇りを泥に塗られた彼女にとって、真の存在は間違いなく唯一無二の希望の光だった。
だが、真は緩やかに首を横に振った。
「私は『勇者』なんかじゃないですよ、リサ先生。
……私はただ、冷徹な法理と、圧倒的な力の差という不条理を利用して、勝てる相手を事務的に叩き潰しただけだ。
それは単なる『蹂躙』であり、報復という名の法的な手続きに過ぎない。
勇者が持つような、純粋な正義の輝きなど、私の手には残っていないのです」
「そんな……!
あんなに私たちを守ってくれたのに……」
「いいですか、先生。
本当の『勇者』は……リサ先生、あなただ」
真の射抜くような、けれど慈愛に満ちた視線が、リサの心根の奥深くにまで届いた。
「巨大な権力を背景にした暴力、そして理不尽な圧力を前にして。
震える足を止めることなく、愛すべき生徒たちの笑顔を守るために立ち上がった。
勝てる見込みのない絶望的な戦場にあっても、勇気を振り絞り、最後まで自らの『意志』を貫こうとした。
……その、泥にまみれながらも輝きを失わなかった姿こそが、誰が何と言おうとも本物の勇者の証明です。
……数多の悪を断罪してきたこの『魔王』が、あなたのその価値を、魂にかけて保証しましょう」
「……白沢、さん……」
「正直に言いましょう。
もし、あなたのような気高く美しい『勇者』に、私自身が牙を剥かれたのだとしたら――
その時は、この私ですら、潔く討たれてもいいと思ったほどですよ」
真は、これまで見せてきた冷徹な仮面を完全に脱ぎ捨て、一人の男として、そしてタカシの父として、極上の、慈愛に満ちた全肯定の微笑みをリサに向けた。
その瞬間。
「ひぁっ……!? あ、あ、う、あうっ……」
『ボンッ!!』という、頭の中で何かが爆発したような音が聞こえた。
リサの顔面は沸騰したヤカンのように赤熱し、その過剰な感情の熱量に耐えきれなくなったのか、彼女の膝からふっと力が抜け、崩れ落ちるようにして腰を砕いた。
魔王の全力の「デレ」、あるいは魂を直接揺さぶる至高の肯定は、うら若き教育者のキャパシティを、一瞬でオーバーフローさせてしまったのだ。
「……さて。
それでは私は、息子の待つ病院に向かいます。
あの子に、約束を果たしたと伝えなければいけませんので」
真は懐から予備の眼鏡を取り出すと、慣れた手つきでそれを装着した。
――カチャッ
その瞬間に「魔王」の威圧感は再び霧散し、物静かで知的な、けれどどこか掴みどころのない「タカシのパパ」へと戻っていく。
真がホールの出口に向かうと、雪崩れ込んできた警官たちが足を止め、扉の両脇に整列した。
彼らは阿久津の権力ではなく、真の放つ圧倒的な「正義」に対し、無言の敬礼を捧げて彼を見送る。
――パチンッ!
真は後ろを振り向かず、フィンガースナップの一音で配信終了の合図を送り、ホールの外へと消えていった。
残されたサオリが、腰を抜かしたままのリサの肩を揺さぶりながら呟く。
「……先輩、今のは反則ッスよ……。
あんなの、惚れない方が無理ッス……。
流石は、あのタカシ君のパパ。
遺伝子レベルで『人を惹きつける魔力』が規格外ッスね……。
全人口の半分が今、恋に落ちた音がしたッス……」
「……サオリ。
……サオリ……お願い……」
「なんスか?
もう、しっかりしてほしいッス!
警察の人たちが来てるんスから!」
「……下着の替え……貸して……?」
「……は?
…………マジっすか?」
「……本気と書いてマジなの……。
もう、一歩も立てないの……。
腰も、何もかも、砕けちゃったの……。
白沢さん……かっこよすぎたわ……」
リサが消え入りそうな、それでいて深い幸福感に満ちた、どこか恍惚とした泣き声で囁いた。
夜の帳が降りた園庭を、一人の父親が、静かな足取りで歩いていく。
その背負う影は長く、深く。
――けれど
彼が踏みしめて歩く道には、確かな『正義』という名の月光が、どこまでも優しく満ち溢れていた。
「パパ、最後まで格好良すぎたッス!」
「リサ先生、ドンマイ(笑)。でも気持ちはわかる!」
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