1章15話 真実の記録と理不尽の『対価』
1章15話 真実の記録と理不尽の『対価』
リサは、真の放つ『夜の海に引きずり込まれるような』底知れぬ圧力に、ただ膝を震わせるしかなかった。
剥き出しになったその瞳は、獲物を屠る猛禽類のように鋭く、射抜かれるだけで呼吸の仕方を忘れてしまいそうなほどだ。
「……もう!
真さん!
先生をそんなに怖がらせちゃダメよ!」
その空気を鮮やかに切り裂いたのは、結貴の、どこか「オイタ」をした子供をたしなめるような明るい声だった。
彼女のその一言が、限界まで張り詰めていたロビーの沈黙にひびを入れ、死の重圧を霧散させた。
「……今、先生とお話ししたわ。
リサ先生は、私たちの敵じゃない。
最後までタカ君のそばにいて、あの子を守ろうとしてくれた『味方』よ。
状況を正しく理解してくれている人なんだから」
結貴の確信に満ちた言葉が耳に届いた瞬間。
真の瞳に宿っていた、理不尽な悪意を焼き尽くすような苛烈な光が、ふっと凪いだ。
彼は一度だけ軽く目を閉じると、ジャケットの胸ポケットから、細いフレームの銀縁眼鏡を取り出した。
「おや……?
そうだったのかい?」
無造作に、けれど流れるように洗練された動作で眼鏡を顔にかける。
レンズという「境界線」がその双眸に加えられた瞬間、真を覆っていた苛烈なまでの殺気は、まるで分厚い雲が晴れるように消失した。
あとに残ったのは、透き通るような、冷徹なまでの『知性』
「あ!
もしかして、君がリサ先生かい?
……いやあ、失礼したね先生。
タカシが怪我をしたと聞いて、少々気が立っていたみたいだ。
裸眼だと、目つきが悪くなってしまってね」
眼鏡の奥で細められた瞳は、先ほどまでの冷徹な冷気はどこへ隠したのか、親しみやすい親戚のお兄さんのような温厚さでリサを見つめている。
「改めまして、白沢真です。
……どうしたんだい、先生?
まるで幽霊でも見たような顔をして」
真は人が変わったように柔和な笑みを浮かべ、少しだけおどけたように首を傾げた。
その変わり身の鮮やかさに、リサは引きつった笑みを浮かべて、辛うじて喉を鳴らすことしかできなかった。
膝の震えは依然として止まらない。
さっきまでそこにあった、獲物の喉元を狙うような「圧倒的な捕食者」の気配を、この男は眼鏡一枚で無かったことにしようとしているのだ。
(……絶対に、絶対に目つきだけの問題じゃなかったッス!
ロビーの酸素、一瞬なくなってたッスよ!!
この人、普段から何か恐ろしい化け物を自分の中に飼ってるタイプッス!)
心の中のサオリが絶叫していた。
けれど、目の前の男があまりにも爽やかな笑顔を浮かべ、常識的な大人の振る舞いをしているせいで、リサはそれ以上の戦慄を心の奥底へ押し込むしかなかった。
「……さて、先生には二度手間になって申し訳ないんだけど。
もう一度、園で起きたあらましを詳しく聞かせてもらえるかな?」
真は、ジャケットの内ポケットから最新型のスマートフォンを取り出すと、それをテーブルの中央へ、音もなく置いた。
その動作は優雅だが、どこか獲物を追い詰めるための布石を打つような、冷徹なまでの正確さが同居している。
「……これは?」
リサはその無機質な端末を注視し、掠れた声で尋ねた。
真は眼鏡を指先で軽く押し上げ、相好を崩したまま答えた。
「……ああ、三度手間や四度手間にならないようにね。
人間の記憶というものは曖昧だからね。
特に極限状態では、無意識のうちに主観で事実を塗り替えてしまうものなんだ。
『言った言わない』や『見た見ない』の不毛な議論は、僕の仕事柄、『二番目』に嫌いなことでね。
念の為、客観的な記録として録音をさせてもらうよ。
いいかな?」
真は画面を軽くタップし、録音アプリを起動させた。
「職業病みたいなものだよ。
さあ、リサ先生。
あなたのペースで構わない。
何が起き、誰が関わり、どのような言葉が交わされたのか……。
可能な限り詳細に教えてほしい」
それから三十分以上、リサは先ほど結貴に話した内容を、今度は一言一句違わぬよう、記憶を必死に手繰り寄せながら真に伝えた。
タカシがいかにしてセレナを守り、年長組を圧倒し、そして権藤という歪んだ権威に打ち据えられながらも、最後に何を語ったのか。
「……以上が、私が目撃し、聞き及んだ事のすべてです。
……改めまして、私の力不足が招いた事態であり、大事なご子息に、あのような……
あのような惨い大怪我を負わせてしまったこと、教師失格に値する過失だと痛感しております。
本当に、申しわけありませんでした……」
リサはベンチから立ち上がると、タイルの床に額が届かんばかりの勢いで深々と頭を下げた。
重苦しい沈黙がロビーを支配し、録音中のスマホだけが静かに時を刻む。
真は録音を停止させると、ゆっくりと結貴の顔を見た。
「結貴、さっき君が聞いた話と相違点は?」
「ええ、変わりないわよ。
先生はとても誠実に、自分に不利な点も含めて話してくださったわ」
結貴のその静かな保証を聞き、真も満足げに頷きながら微笑む。
「……わかりました。
リサ先生、顔を上げてください。
貴方の誠実な謝罪と、隠し事のない『真実』を受け入れます。
そして何より……息子が独りきりで戦っていたあの場所で、彼の『意志』を信じ、最後まで寄り添ってくれたこと。
一人の親として、心から感謝します。
ありがとうございました」
そこまで言葉を紡ぐと、真はそれまでの緊張を解くようにベンチの背もたれに深く体重を預け、天井を仰いで大きく息を吐き出した。
「はあー……。
なんとも、貴らしいというか……。
あいつなら、きっとそうするだろうと思ったよ」
「ふふっ、それ、さっき私が全く同じことを言ったセリフよ!」
結貴はくすくすと笑いながら、同じ感想を抱いた夫の肩を、親愛を込めてポンと叩いた。
白沢貴という少年の、あまりにも真っ直ぐで、そしてあまりにも『わがまま』な優しさを誰よりも知っている二人にとって、その結末は、悲劇であっても納得のいくものであったのだ。
「自分の傷の痛みよりも、他人の涙を止めることを優先する……。
4歳にして、もうあんな不器用な生き方を選んじゃうなんてね。
誰に似たんだか」
「真さんに決まってるじゃない。
……さあ、リサ先生。
お話を聞かせてくれてありがとう。
ここからは、大人の仕事の時間よ」
「さて、結貴。
貴の意志は尊重しよう。
あいつが守った『笑顔』を壊すわけにはいかない」
真は眼鏡のブリッジを指で押し上げ、静かに告げた。
「……そして、理不尽な暴力で貴を傷つけた者たちには……。
……それ相応の『対価』を支払ってもらわなくてはね。
……そうだろう? 」
「私の仕事は終わったわ……。
あとはプロに任せて、私はタカ君の側にいる事にするわ」
結貴はリサに向かって優しく微笑むと、病室へと戻るためにゆっくりと立ち上がった。
その背中は、どんな障壁からも息子を守り抜くという母の強固な意志に満ちていた。
「……あの……。
ご主人の……ご職業って……」
リサはなんとなく想像がついていたが、聞かずにはいられなかった。
この圧倒的な場を支配する空気、そして「対価」という言葉の重み。
「あぁ、言っていなかったですね。
……こういう者です」
真がジャケットの内ポケットから取り出し、テーブルの上に滑らせた名刺。
上質な紙に刻まれたその文字を、リサは食い入るように見つめた。
『白沢法律事務所 所長 弁護士 白沢 真』
リサは息を呑んだ。
権藤教諭が振りかざした「規律」という名の暴力。
それが、本物の「法」と「論理」を司る専門家の前で、いかに無力で、滑稽な砂の城であるか。
「……さて。
先生、色々と協力してくれますか?
僕は、不当な暴力が『一番』大嫌いなんですよ」
真の微笑みは相変わらず穏やかだったが、その背後には再び、底知れぬ夜の海が広がり始めていた。
「真実の録音……これは詰んだな(ニヤリ)」
「パパの眼鏡ON/OFFのギャップがたまらん!」
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