1章14話 聖母の仮面と賢者の起源《オリジン》
1章14話 聖母の仮面と賢者の起源
消毒液と、湿布のメントールの匂い。
同じリズムを刻む、医療機器の電子音。
無機質なその混ざり合った香りが、病室の重苦しい空気を支配していた。
真っ白なベッドに横たわるのは、あまりにも小さく、そして痛々しい少年の姿。
細い腕には、無惨な靴底の形をしたアザを隠すようにギプスと包帯が巻かれ、その幼い両頬には、大人の理不尽な暴力を象徴する赤紫色の腫れが深く刻まれている。
繋がれた機械の表示は変化を見せず、点滴は静かに雫を落とすだけだった。
閉じられた貴のまぶたは、ピクリとも動かない。
規則正しく響く電子音――ピッ、ピッ、というその乾いた音が、彼がまだこの世界に繋ぎ止まっている唯一の証明だった。
その一定のリズムが、茜とセレナの押し殺した嗚咽と混ざり合い、病室に異様な緊張感を与えている。
二人の少女が握りしめる貴の手は、彼女たちの涙で濡れ、けれど驚くほど熱かった。
その小さな手から伝わる確かな拍動だけが、彼女たちの心をかろうじて支えていた。
貴の母・結貴は、沈黙を守ったまま、息子を慈しむようにその頭を撫でていた。
手際よく額と頬の冷却シートを交換するその指先は、驚くほど冷静で、けれどどこか『静かな嵐』の前触れのような冷たさを孕んでいる。
その光景を、リサは病室の隅で身を縮めるようにして見つめていた。
溢れ出る涙を拭うことすら忘れ、自分たちの不甲斐なさを責めるように肩を震わせている。
やがて、結貴は一度だけ深く息を吐くと、子供たちへ向けて、春の陽だまりのような、けれど一切の感情を排した声で囁いた。
「……少しだけ、タカ君をお願いね?」
その言葉と共に、結貴は病室の隅に立つリサへと鋭い視線を送る。
言葉はなくとも、その眼差しだけで全てを悟ったリサは、弾かれたように頷いた。
結貴は音もなく立ち上がり、リサを促して、静かに病室の外へと消えていった。
病室を出て、すぐ目の前にある無機質なロビーまで移動すると、結貴は硬いベンチに腰を降ろした。
「……先生も、座ってください」
結貴は向かいのベンチに座るよう促す。
その所作は氷の彫刻のように優雅であり、彼女が呼吸をするたびに、周囲の空気が絶対零度へと結晶化していくかのようだった。
「申しわけありません!!
お預かりしている大切なお子様にあんな怪我を負わせてしまい……!」
リサはベンチに座ることすらできず、結貴の前で、床に額が付きそうな勢いで深く頭を下げた。
震える声が、タイル張りの廊下に虚しく響く。
「……原因がわからなくては、その謝罪をどう受け止めるべきか、判断がつきません」
表情を一切変えず、冷徹な仮面で感情を封じ込めた母親。
その姿は、リサの知っている「ほんわかとした保護者」とは、完全に別人のそれだった。
「……まずは、何があったのか」
結貴の返答は、凪いだ湖面のように平坦だった。
「あなたの主観を交えず、隠し事をせず。
起きた事実のみを教えてください。
私が必要としているのは『真実』です」
その言葉は、単なる質問ではない。
嘘や誤魔化しを一切許さない。
絶対的な「拒絶」と「命令」が込められた通告だった。
「……私の教師生命を、いえ、人間としての尊厳を賭けて誓います。
隠し事は致しません。
事実のみをお話しすることを誓います」
リサは、今ここで逃げれば、自分は一生自分を許せないことを悟った。
彼女は溢れる涙を力強く拭い、結貴の眼差しから逃げることなく、正面のベンチに腰を下ろした。
そして、4歳の少年がその身を挺して何を守り、どのような理不尽に晒されたのか。
リサは震える唇を噛み締めながら、事のあらましを一つ一つ、丁寧に解きほぐすように語り始めた。
「……以上が今回の事件の全てです。
……私が現場に駆けつけたのは権藤教諭の来る直前で、その前の年長組の子たちのやり取りに関しては、セレナちゃんから聞き取った内容なので抜け漏れがあるかも知れません……」
長い沈黙がロビーを支配した。
結貴は目を閉じ、リサの語った凄まじい光景を反芻しているようだった。
やがて、彼女はふっと、消え入りそうな声で呟いた。
「……ふふっ。
本当に、タカ君らしいわ……」
その瞬間、彼女を包んでいた凍てつくような殺気が、嘘のように霧散した。
結貴はゆっくりと顔を上げると、先ほどまでの冷徹な仮面をどこかへ脱ぎ捨てたかのように、いつもの、春風が吹き抜けるような穏やかな笑顔を浮かべた。
「……先生。
リサ先生の謝罪は、謹んで受け入れます。
……我が子を、その絶望的な状況で独りぼっちにせず、最後まで庇ってくださって……本当にありがとうございました」
「え……?
あ、いえ、私は……
感謝されるようなことは何も……」
あまりにも劇的な変貌ぶりに、リサは涙の跡も乾かぬまま、ただ困惑して口を突き出した。
「ふふ、驚かせちゃってごめんなさい。
……無表情でいるのって、案外、体力を使うものですね。
私、いつも笑って過ごしているから、もう疲れちゃいました」
結貴は少しだけおどけたように肩をすくめると、ベンチの背もたれに体を預けた。
「もちろん、タカ君の怪我には胸が張り裂けそうです。
でも、リサ先生が原因ではないことくらい、最初から分かっていました」
「……ただね、うちの主人が少し……。
いえ、かなり厄介な人でして。
『優しさは、時に相手の罪悪感に蓋をしてしまう。
厳しさという楔を打ち込んでこそ、堰を切ったように真実が溢れ出すんだ』
……そう言った時の主人の顔、本当にお仕事モードで怖かったんですよ?」
結貴は困ったように微笑みながら、病室の扉の方へと視線を戻した。
その瞳には、夫への呆れと、深い信頼が混ざり合った複雑な色が宿っていた。
「……さて。
私がリサ先生を許したところで、事態が収束するわけではありません。
むしろ、ここからが本当の『教育』の時間ですね。
……そうでしょう?
先生?」
結貴が座ったまま、静かに背筋を伸ばす。
その立ち姿を見ずとも、リサは理解した。
これから始まるのは、暴力という稚拙な力への、知性と社会的地位を駆使した「徹底的な報復」であることを。
……カツン……カツン……。
二人の会話が途切れた隙間を縫うように、規則正しく、しかし重みのある足音が階段の方から響いてきた。
「……ああ、ここにいたのかい。
タカシの検査結果だけど、腕は骨折していたが、脳波などに異常は無いみたいだよ」
低い、けれど驚くほど透き通った声。
リサが顔を上げると、そこにはロビーの空気を一瞬で塗り替えるほどの存在感を放つ男が立っていた。
180cmは超えているだろう身長。
白のワイシャツに黒のジャケット。
しなやかな筋肉を包むその装いは、何気ない私服を「戦闘服」へと変貌させていた。
「……ああ、先生も一緒にいらしたんですね。
こんな格好ですみません。
連絡を聞いて、慌てて駆けつけたもので。
……改めまして、いつもお世話になっています。
タカシの父の
――『白沢 真』です」
丁寧な挨拶。
貴をそのまま大人にして、甘さを削ぎ落とした精悍なマスク。
平時であれば頬の一つでも染めるところであった。
けれど、リサの背筋を、今までに感じたことのない異質な戦慄が駆け抜けた。
その立ち振る舞い、声の響き、そして何より全てを透視するかのような理知的な眼差し。
リサは本能で理解した。
目の前の男は、暴力という稚拙な力を、その圧倒的な「知」によって塵も残さず消し去ってしまう存在なのだと。
この人こそが、あの少年のルーツ。
静かなる知性と、揺るぎない意志の源泉。
――貴の起源が、今ここに姿を現した。
「パパ、格好良すぎて震える!」
「結貴ママの豹変っぷりにゾクゾクした!」
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