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1章12話 自由の翼と高潔な悪


1章12話 自由の翼と高潔な悪



 少女の瞳から、とめどなく涙が溢れ続ける。


 それは、出口の見えない暗闇の中でもがき、足掻き、それでも絶望の深淵へと沈みゆくしかなかった彼女の『心の濁り』


 それが、目の前の少年が放つ圧倒的な「光」によって清められ、行き場を失って溢れ出した聖水のように輝いていた。


 これまでの日々は、まるで一人きりで冷たい泥の中を這いずり回っているような心地だった。


 どれほど喉を震わせ、声にならない声で助けを求めても、その叫びは厚い断絶の壁に遮られ、誰にも届かない。


 必死に伸ばした指先は、温もりを求めて虚空を掴むだけ。


 そんな、幼い心にはあまりに重すぎた絶望的な孤独を、目の前の小さな男の子が、そのまばゆい太陽のような笑顔で木っ端微塵に砕いてくれたのだ。


 貴は、涙と嗚咽で過呼吸気味に肩を揺らす彼女に対し、静かに一歩、歩み寄った。


 そして、少しでも力を込めれば砕けてしまいそうな壊れやすいガラス細工を扱うように、そっと彼女の小さな身体を抱き寄せ、その背中を。


 ……トン……トン……


 と優しく叩いた。


 貴の掌から伝わる一定の穏やかなリズム、そして日だまりのような温もり。


 その鼓動を全身で受け止めているうちに、凍りついていたセレナの四肢に熱が戻り、激しかった呼吸は次第に凪のような穏やかなものへと変わっていった。



 やがて、泣き声が落ち着いてくると、少女は我に返ったようにハッとした表情で貴から身体を離した。


「I... I'm sorry... I got your clothes wet... (ご、ごめんなさい……服を濡らしちゃって……)」


 セレナは、貴の制服の肩口に大きく広がった涙と鼻水の跡を見つめ、今まで泣いていたのとは別の理由、純粋な羞恥心によって、頬を林檎のように赤く染めて謝った。


「It's okay! It's sunny, so they'll dry soon! (大丈夫だよ!  天気が良いからすぐに乾くよ!)」


 貴は屈託のない笑顔で青空を指差した。


 頭上には雲一つない澄み渡るような蒼穹そうきゅうが広がっている。


 それはまるで、嵐が去り、少年の手によって涙を拭い去られた今の少女の心の中を映し出しているようだった。


「Here, use this to wipe your tears. (はい、これで涙を拭いて)」


 貴はポケットから、綺麗に折り畳まれた清潔なハンカチを取り出し、少女に手渡す。


「...Thank you. You're not just strong, you're a gentleman, aren't you? ...Oh? There's something inside. (……ありがとう、君って優しくて、強いだけじゃなくて紳士なのね? 

 ……あら?

 何か入っているわ)」


 少女は恥ずかしそうな顔をしながらハンカチを受け取ったが、布の間に硬い感触があることに気づいた。


「Oh! I forgot, I put my lucky charm in there! (あ! 

 忘れてた、お守りを入れていたんだ!)」


「A lucky charm? (お守り?)」


 少女がそっと、宝箱を開けるような手つきでハンカチを広げると、そこには黄金色に焼き上げられた、小さな鳥の形のビスケットが包まれていた。


「A 'Hawk' biscuit? Is a biscuit a lucky charm? (『鷹』のビスケット?

 ビスケットがお守りなの?)」


「That 'Hawk' is really rare! ...And, oh, I didn't even know your name yet. My name is Takashi Shirasawa. 'Taka' is like the 'Hawk', right? (その『鷹』は滅多に出ないレアなビスケットなんだ!

 それに……。

 あ、まだ名前も知らなかったね?

 僕の名前は『白沢 たかし』、その『タカ』と似ているでしょ?)」 


 貴は説明しようとしたところで、お互いに名乗りも上げていなかったことに気づき、苦笑いを浮かべた。


「Oh, you're right. My name is Serena Aoyama. Thank you so much for saving me... even though you didn't even know my name. (あ、そうね。

 私の名前は『青山 セレナ』よ。

 名前も知らなかった私を助けてくれて……本当にありがとう)」

 セレナの瞳に、またうっすらと涙が浮かぶ。


「Serena... like the Goddess of the Moon! It's a beautiful name, just like you! (……セレナ、月の女神様か!

 セレナにぴったりの素敵な名前だね!)」


「Takashi-kun, you know a lot, don't you? It's Greek mythology. (タカシ君、よく知っているわね?

 ギリシア神話よ?)」


「I love stories about flying... like Icarus. Though he did fall in the end. (空を飛ぶ話が好きなんだ……。

 イカロスとか、最後は落ちちゃったけどね)」


「So that's why you like the 'Hawk'? (だから『鷹』なのね?)」


 セレナは、パズルのピースが嵌まったかのように納得して頷いた。


「Exactly. It's like my name, and it flies in the big sky, bothered by no one. I admire how it flies as high as it wants with its own 『will』. It looks so free! (そう、僕と名前が似ていて大空を飛び、誰にも邪魔されない。

 自分の『意志』でどこまでも高く飛ぶ、自由な姿に憧れているんだ!)」


 貴は、小さな子供が将来の夢を語る時と同じ、純粋で熱い輝きを瞳に宿して語った。


 その真っ直ぐな言葉は、セレナの心に深く、深く浸透していく。


「...So, I'm giving this 'Hawk' to you, Serena. I will be the shield that protects your wings from now on.(……だから、この『鷹』をセレナにあげるよ。

 これからは僕が、君の羽を守る盾になるから)」

 

 貴はハンカチに包まれたビスケットを、彼女の小さな掌へと託した。


「So Serena, you can be more free. You don't have to worry about what anyone else thinks. Please, don't be afraid to spread your wings of 'Will'.(だからセレナ。

 君は、もっと自由になっていいんだ。

 誰かの顔色を伺う必要なんてない。

 自分の『意志(Will)』という翼を広げることを、どうか恐れないでほしい)」


 ――「自由であれ」という、祈りにも似た宣誓。


 言葉の壁を越え、魂に直接響くその響きに、セレナの胸の奥で止まっていた時計が再び動き出した。


「……Takashi-kun. (……タカシ君)」


 悲しさや恐怖の涙は、もう完全に枯れていた。


 今、彼女の瞳を潤し、胸の奥を熱く焦がしているのは——。


 生まれて初めて、ありのままの自分を肯定され、「自由であれ」と願われたことへの、身体が震えるほどの純粋な喜びだった。



「ターカーくーん!!」


 園舎の方から茜の叫ぶ声が響いた。


 彼女の後ろからは顔を真っ青にしたリサ先生とサオリ先生が走って来ている。


「タカシ君!

 大丈夫!?

 茜ちゃんから年長組の子達と喧嘩をしているって聞いたけど……」


 リサ先生は貴の肩を掴み、怪我がないか確認しようと手を伸ばす。


 その指先が貴の腕に触れた瞬間――


「っ痛!」


 貴の口から、押し殺した悲鳴が漏れた。


「!?

 ひどいアザ!

 年長組にやられたの?

 どこに行ったか分かる!?」


「……どこに、ってそこに……」


 貴が視線を向けた場所には、砂埃が舞うだけで誰もいなかった。


 5人組は、貴とセレナが心を通わせている隙に、卑怯にもその場を逃げ出していたのだ。



「私のクラスの子に怪我をさせたのはお前らかぁ!!」


 突如、園庭の静寂を切り裂くようなダミ声が轟いた。


 その怒声の圧力に、セレナは怯えた仔鹿のように貴の腕にしがみつく。


 園庭中に響き渡る大声は、先程の打撲痛がぶり返すには十分すぎるほどだった。


 急に鳴り響いた怒声に、セレナは不安な顔をして貴の腕にしがみつく。


「権藤先生!

 あいつです!

 あいつがいきなり僕たちを殴ったんです!」


 権藤先生――年長組を受け持つ、先程貴に理不尽な暴力を行った、規律に厳格すぎることで有名な教諭。


 その背後に隠れるようにして、先ほどのいじめっ子たちが、被害者を装いながら貴を指さした。


 その指先には、自分たちがセレナに行っていた卑劣な虐待の事実は欠片も乗っていなかった。


「……また、お前か!

 お前がこの子たちに怪我をさせたのか!」


 権藤の鋭い眼光が、貴を射抜く。


 貴は自分にしがみつくセレナを守るように引き寄せ、逃げも隠れもしない瞳で真っ直ぐに見上げた。


「……はい。僕がやりました」


「謝りなさい!!」


 鼓膜を突き破らんばかりの怒鳴り声。


「権藤先生、待ってください!

 まずはちゃんと話を聞きましょう!」


 リサ先生が必死に割って入るが頭に血が上った権藤に届かない。


「リサ先生!

 聞いていたでしょう!

 怪我をした子がいる!

 犯人は自白した、それが全てだ!

 さあ、謝れ!」


「……嫌だ」


 貴の小さな、しかし鋼のように硬い拒絶。


 その瞬間――


 ――バシンっ!!

 

 乾いた、耳を打つような衝撃音が響き渡った。


 大人の大きな手の平が、貴の左頬を正面から打ち抜いた。


 あまりの衝撃に、貴の視界は火花を散らしたように白く染まり、地面に叩きつけられた。


 激しい痺れと熱が顔半分を支配する。 


「タカシ君!!」


「……っ……」


 口の中に鉄サビの味が広がる。


 貴は口元を拭い、揺れる視界を抑えつけながら立ち上がると、権藤を鋭く睨みつけた。


「なんだその目は!

 謝れと言っているんだ!」


「……僕は……悪い事は……してないっ!」

 

 ――バシンっ!!


 今度は右の頬が弾け飛ぶ。


 貴は逃げる素振りすら見せず、ただその理不尽な暴力に身を晒していた。


「うるさい!!

 言い訳をするな!!」


 権藤の怒声は、もはや教育者のものでは無かった。


 ただ「恐怖の色を見せない生意気なガキを屈服させたい」という、醜い大人のエゴそのものだった。


 貴の両頬は、無残なほど赤黒く腫れ上がっていた。


 口端からは鮮血が滴り、地面の砂を汚す。


 並の幼児なら恐怖で失神していてもおかしくない衝撃。


 しかし、貴の瞳に宿っていたのは、一滴の涙でも、卑屈な怯えでもなかった。


 それは、大人の傲慢と理不尽を真っ向から焼き尽くす、静かな、けれど底知れない『憤怒』の炎だった。


「わかった……。

 先生は今、僕が『悪い』と決めつけたんだね?」


 貴の声は、今まで誰も、茜ですら聞いたことがないほど低く、恐ろしく冷徹に響いた。


 周囲の温度が数度下がったかのような錯覚さえ覚える。


「……それなら僕は『悪』でいい。

 ……男の子が5人がかりで女の子を泣かせているのが『正義』だって言うなら!

 僕は、喜んで『悪』になってやる!!」


「な……何を……!」


「先生は、何故そうなったか聞きもせずに僕を殴った!

 セレナがどんなに怖かったかも知らないくせに!

 僕はあいつらに3回も『いじめは良くない』って伝えたよ!

 それなのにやめるどころか突き飛ばされた!

 茜を蹴ろうとした!」 


 貴は、泥に汚れ、変色した腕のアザを権藤の眼前に突き出した。


「最後は5人で僕を囲んで、暴力を振るおうとした!

 それを返り討ちにした僕が『悪』で、『差別』でセレナを泣かせて、茜を蹴ろうとして、5人がかりで僕を囲んだあいつらが『正義』なんだね!!」


 貴の言葉は、冷徹な弾丸となって権藤の胸を正確に撃ち抜いた。


 その弾丸は論理的であり、一人の子供が抱いた初めての『大人への不信感の塊』が込められていた。


「あ……。

 い、いや私は……」


「先生は僕の話を聞かずに『殴った時点』で、あいつらが『正義』だって言ったんだ!!」


 リサ先生がたまらず貴を抱きしめた。


 彼の頬の熱を感じ、彼女の瞳から大粒の涙が溢れ出す。


「権藤先生……。

 この子は、あの子を守ろうとしたんです。

 あなたに、この子を叩く権利なんて、どこにもない!」 


 その時、周囲を囲んでいた園児たちから、さざなみのような声が上がった。


「タカシ君、悪くないもん……」「お兄ちゃんたちが、いじわるしてたんだよ……」


 子供たちの小さく、けれど確かな証言が重なり合い、やがて逃げ場のない大きな波となって、権藤を飲み込んでいった。


 権藤は振り上げた手の行き場を失い、青ざめた顔で立ち尽くしていた。


 自分が「正義」の名の下に振るった暴力が、実は誰よりも勇気ある「本物の正義」を傷つけていただけだったという事実に、彼はようやく直面したのだ。






「権藤、絶対に許さない……!」

「タカシ君の覚悟に涙が出た」

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