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『オークに転生した三つ星料理人、異世界で究極の美食を極める〜過労死シェフは料理の知識で魔物の森から成り上がる〜』  作者: 烏丸ぽっぽ


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第20話:甘美なる煙幕と、月下の決闘

第20話:甘美なる煙幕と、月下の決闘


【地上の包囲網と、地下の惨劇】


 王都の外縁部にそびえ立つ、巨大な石造りのコロッセオ。


 頭上からは表向きの催しである『大剣闘祭』に熱狂する観客たちの、地鳴りのような歓声が降り注ぎ、夜の冷気を絶え間なく震わせている。だが、白銀の鎧に身を包んだ王都正規騎士団・第三部隊の精鋭たちが睨み据えているのは、華やかな地上の舞台ではなく、重厚な石垣に隠された地下搬入口の暗がりだった。


「……各班、配置は完了したか」


 月明かりすら届かぬ路地裏で、隊長であるレオハルト・ヴァレリウスは冷徹な低音を響かせた。


「はっ。北門、東門、および闘技場から通じる地下水路への抜け道、すべて完全封鎖いたしました。部隊の士気は最高潮です。今夜こそ、王都の地下で法を(ないがし)ろにする腐敗貴族どもと、闇のオークションの元凶を一網打尽にしてご覧に入れます」


 闇の中から現れた副官が、尊敬の念を隠しきれない熱い眼差しで報告する。


「ご苦労。……だが、決して油断するな。相手は裏社会の重鎮だ。ネズミ一匹、この包囲網から逃がすなよ」


 レオハルトは剣の柄に手を置き、厳格な顔つきで命じた。


「「「はっ!!」」」


 騎士たちが闇の中で音を立てずに敬礼し、再び散っていく。


 王都正規騎士団・第三部隊。騎士団全体を統括する総長ではないものの、王都の治安維持を最前線で担うこの実戦部隊の隊長たるレオハルトを、部下たちは『王都の英雄』であり、絶対の正義の体現者だと信じて疑っていなかった。


 ——だが、レオハルトの兜の奥の瞳は、副官が去った途端に、泥のように重く昏い色へと沈み込んだ。


(……正義、か)


 レオハルトは冷たい石壁に背を預け、誰にも聞こえぬほどの微かなため息を吐いた。


 彼が今夜の作戦に懸ける思いは、部下たちが想像するような輝かしいものではなかった。


 本当の任務は、オークションの主催者であるギルダーと事前に通じ、この会場を嗅ぎ回っている『不審な侵入者』を秘密裏に処理すること。そして、もし地下牢から『エルフの商品』が逃げ出した場合、それを捕縛して再びギルダーの元へ送り返すこと——すなわち、闇のオークションを完全に隠蔽し、支援するための汚れ仕事であった。


 なぜ、王都最強と謳われる第三部隊の隊長が、悪徳商人の犬に成り下がっているのか。

 それは、レオハルトの背負う血塗られた「過去」に起因していた。


 今でこそ『英雄』と称される彼だが、二十年前は騎士どころか、スラム街で血と泥にまみれて生きる「盗賊」にすぎなかった。貴族の馬車を襲い、生きるためなら刃を振るうことも躊躇わない、正真正銘のろくでなし。


 だがある凍える夜、彼は路地裏のゴミ溜めに捨てられていた、声も出せずに死にかけていた一人の赤ん坊を気まぐれに拾い上げた。


 ——それが、エルザだった。


 その小さな命の温もりを胸に抱いた時、すり減っていた彼の魂に何かが芽生えた。この純粋な命を、裏社会の泥沼で腐らせてなるものか。俺のような人生を歩ませてはならない。


 彼は過去を完全に捨て去り、身分を偽って末端の兵士として軍に潜り込んだ。娘に誇れる父親になるためだけに、死に物狂いで剣を振り、血反吐を吐くような鍛錬を重ねた。


 転機は十年前。王都を未曾有の『魔獣スタンピード』が襲ったあの日だ。


 防衛線が崩壊し、貴族も将軍たちも逃げ惑う中、一介の兵卒であったレオハルトだけが城門の最後尾に踏みとどまった。迫り来る数百の魔獣の群れに対し、スラムで培った泥臭い生存術と狂気にも似た執念で三日三晩にわたって死闘を演じ、見事、市民の避難が完了するまで防衛線を死守したのだ。


 その奇跡の生還と絶大な武功により、彼は平民から異例の抜擢を受け、ついに第三部隊の隊長——『王都の英雄』へと成り上がったのである。


 エルザは、そんな父の背中を心から尊敬し、純粋な憧れを抱いて騎士を目指すようになった。


 すべては報われたはずだった。……あの男、ギルダーが現れるまでは。


 数年前、裏社会の顔役であるギルダーは、何らかの手段でレオハルトの「盗賊時代の身元」と、当時彼が関与した「貴族襲撃事件の決定的な証拠」を掘り起こしてきたのだ。


『正義の英雄殿。これが明るみに出れば、あなたは一族もろとも処刑台行きだ。……もちろん、あなたが目の中に入れても痛くないほど愛しているご令嬢も、大罪人の娘として、スラムの娼館へ売り飛ばされることになるでしょうなぁ』


 ギルダーのねっとりとした脅迫の言葉が、今でも耳の奥で腐臭を放っている。


 自分一人の命なら、とうの昔に腹を切って罪を償っていた。だが、自分の過去の罪のせいで、純粋に正義を信じて騎士の道を歩み始めたエルザの人生を、絶望のどん底へ叩き落とすことだけは絶対に耐えられなかった。


 エルザの輝くような未来を守るため。ただその一点のために、レオハルトは自らの誇りを殺し、ギルダーの悪事に手を貸す汚れた歯車となったのだ。


(……エルザ。お前は最近、私の目を真っ直ぐに見つめ、なぜ街の腐敗を正さないのかと詰め寄ってくるようになったな)


 レオハルトの脳裏に、真っ直ぐすぎる瞳を持った愛娘の顔が浮かぶ。


 偉大な騎士である父に憧れ、純粋に正義を信じて剣を握る彼女の姿は、レオハルトにとって何よりも眩しく、そして恐ろしかった。昨日、思い詰めたエルザが騎士団寮を飛び出してしまった時も、彼は表立って捜索隊を動かすことができなかった。娘がもし、この王都の底知れない闇に深入りし、引き返せない場所まで足を踏み入れてしまったらどうなるか。


(お前の信じる光り輝く未来を守るためなら、私はどんな泥を被ろうと構わない。この街の闇に潜む危険な因子は、すべて私が排除する。お前の歩む道に、一片の影も落とさせはしない)


 それは、不器用すぎる父親の、歪んだ愛情の裏返しだった。


 だからこそ、彼は今夜の作戦を『完璧』に遂行しなければならなかった。オークション会場を裏から制圧し、すべての事実を己の掌の内に収める。それが、娘の未来を守るための彼なりの悲壮な決意であった。


 その時だった。


「……ん?」


 暗がりに身を潜めていたレオハルトの鼻腔を、微風に乗って流れてきた「ある匂い」が撫でた。


 コロッセオの石垣に設けられた通気口から漂ってきたものだ。最初は、闘技場周辺の屋台で焼かれている安っぽい串焼き肉や、安酒の臭いに混じった微かな異臭かと思った。


 だが、違う。


 それは、冷たく研ぎ澄まされたような鋭い果実の酸味と、脳髄を直接刺激するような暴力的なまでに純度の高い『動物性の脂の匂い』だった。


(……なんだ、この香りは?)


 レオハルトは怪訝に眉をひそめた。


 王都の貴族が好む、香辛料をこれでもかとぶち込んだ下品な料理の匂いではない。野性味に溢れていながらも、恐ろしいほどに洗練され、計算し尽くされた極上の香り。それが、薄暗い路地裏の冷たい空気を塗り潰すように漂い始めたのだ。


「隊長……あの、これ……」


 隣で待機していた副官が、困惑したように声を漏らした。


 ふと見回せば、周囲の暗がりに配置されている騎士たちの間から、微かに、だが無視できないほどの『腹の虫が鳴る音』が響き始めていた。


「……気を抜くな。」


 レオハルトが低く咎めるが、彼自身もまた、胃袋の底が熱く焼けるような、強烈な空腹感を覚えていた。夕食は十分に済ませているはずなのに、この匂いを嗅いだ瞬間、唾液がとめどなく湧き出してくる。


(地下の晩餐会の料理か……? それにしても、異常なほど食欲をそそる匂いだ)


 レオハルトは己の太腿を強くつねり、空腹感を理性で強引にねじ伏せた。


「たかが匂いだ。気を逸らすな、作戦に集中しろ!」


 だが、異常事態の兆候はそれだけでは終わらなかった。


 ——パァァァァァァァンッ!!!!


 コロッセオの巨大な石造りの基部全体を微かに揺るがすような、鈍い破裂音が地下から轟いたのだ。


「なっ……!? 今度はなんだ!」


 足元の石畳が震え、周囲の騎士たちが思わず姿勢を低くする。


「隊長! 闘技場の地下からです! 何かが爆発したような……!」


 直後、通気口から先ほどまでの比ではない、暴力的な『肉と香草の匂い』が吹き出してきた。さらに、それに混じって濃密な『真っ白な煙』が、路地裏の地面を這うように漏れ出し始めたのだ。


(……火災か? いや、煙の質が違う。だが、明らかに地下で何かが起きている)


 スラムから潜り込んだ、ブオーノ商会の偽装馬車に乗っていた者たち。あいつらが地下で何かを仕掛け、オークション会場を混乱に陥れているとしか思えない。


(この状況では警備網が機能していないのではないか? このままでは、地下の連中が混乱に乗じて証拠を隠滅し、あるいは獲物を持って逃走してしまう恐れがある。そうなれば、俺がエルフを回収するという契約が果たせなくなる!)


「……作戦を変更する。これより我々は、地下のオークション会場へ突入し、現場を直接制圧する! 各班、即座に動け!」


 地上で突入の号令が下されたその瞬間、地下牢の檻を破ったルッカは、一直線に暗い回廊を駆けていた。


 曲がり角を抜け、血の匂いが最も色濃く漂う重厚な鉄扉の前に辿り着く。

 ルッカは立ち止まることすらなく、その小さな拳を腰の裏まで深く引き絞った。


「どォォォけェェェッ!!」


 ドガァァァァァァァァンッ!!!!


 ルッカの放った渾身のストレートが、分厚い鉄扉の中央に深々とめり込む。

 凄まじい衝撃波が走り、巨大な扉は蝶番ごと壁の石組みをひき剥がしながら吹き飛び、拷問室の奥の壁に激突してひしゃげた。


 濛々と舞い上がる粉塵の中、ルッカは拷問室へと足を踏み入れた。


 そこに敵の姿はなかった。

 だが、ルッカの視界に飛び込んできた光景は、彼女の心臓を鷲掴みにして氷のように凍りつかせた。


「……リル……っ」


 血の海だった。


 冷たい石の床には無惨にひん剥かれた銀の鎧の残骸が散らばり、その中心で、エルザを庇い込むようにしてリルが倒れ伏していた。


 美しい白い肌は鞭でズタズタに裂かれ、その柔らかな背中からは絶え間なく血が流れ出ている。手は無慈悲に踏み砕かれ、ピクリとも動かない。


「リルッ! リル!!」


 ルッカは駆け寄り、血まみれのリルをそっと抱き起こした。


 その体は氷のように冷たかった。息をしているのかどうかも分からないほど、微かな命の灯火。


「ウソだろ……っ、目を開けてくれよ! オレだよ、ルッカだよ!」


 大粒の涙がボロボロと溢れ落ち、リルの血塗れの頬を濡らす。


「……すまない……私の、せいだ……」


 傍らで血の海に沈んでいたエルザが、力なくかすれた声を漏らした。


「彼女は、見ず知らずの私を庇って……最後まで……」


 エルザの痛切な懺悔の声と、顔に落ちたルッカの温かい涙に反応し、リルの長いまつ毛が微かに震えた。


「……るっ、か……?」


「リル! よかった、生きて……っ!」


「ルッカ……泣かないで、ください……。それより……エルフの方々は……ご無事、ですか……?」


 自分が死にかけているというのに、まだ助けるべき相手の心配をしている。

 その底抜けに優しすぎる言葉に、ルッカは涙を拭いながら力強く頷いた。


「ああ、みんな無事だ。檻はぶち破ってきた! あとはあいつらだけで逃げられる。だから、もう喋るな……」


「……お馬鹿さん……」


 だが、安堵の言葉を予想していたルッカの耳に届いたのは、微かな、しかしはっきりと咎めるようなリルの声だった。


「最後まで……見届けもせずに……放り出してきたというのですか……。私たちが……何のために……」


「リル……でも、オレは、お前が……っ!」


「……行きなさい。エルフの方々を……安全な場所まで、導くのです……」


 リルは血を吐きながらも、己の感情で任務を放り出したルッカを、一人の淑女として、そして雇い主の期待に応える者として厳しく窘めた。


 ルッカは唇を噛み締め、激しく葛藤した。


 だが、その後ろで布が衣擦れする微かな音が響いた。


 振り返ると、エルザが痛みに顔を歪めながら、部屋の隅に放り出されていた剣闘士用の粗末な外套を引き寄せ、血に濡れた素肌を隠すように羽織って立ち上がろうとしていた。砕けた肋骨では、ひしゃげた銀の鎧を着ることはおろか、持ち上げることすらできないからだ。


「……いや、彼女の言う通りだ。ここは私に任せてくれ」


 エルザは痛みに顔を歪めながらも、騎士としての気高い瞳でルッカを見つめた。


「私は、騎士だ。……あの地下牢で解放された者たちを、この足で確実に地上まで導かねばならない。君の友人が、命を懸けて繋いでくれた希望なのだから」


「騎士だって? ……でも、あんたボロボロじゃないか」


「心配無用だ。……君は、君のなすべきことを果たせ」


 エルザは壁伝いに体を支え、血を吐きながらも、一歩ずつ地下牢の奥へと歩みを進めた。


(私は何も守れなかった。鎧を剥がされ、圧倒的な暴力の前にただ無力に這いつくばるしかなかった……)


 ギリッと、エルザは血の滲む唇を噛み締めた。


(だが、それでも……私は騎士だ! この命が尽きようとも、理不尽に囚われた者たちを導く盾となる!)


 己の弱さと不甲斐なさを噛み殺し、砕けた肋骨の激痛に耐えながら。エルザは泥の中に落ちても決して汚れることのない騎士の誇りを胸に、暗い地下回廊を進んでいった。


 その気高い背中と、リルの意志を見届け、ルッカはリルの体を壁際にそっと優しく横たえた。


 そして、ゆっくりと立ち上がる。

 悲しみの涙は、すでに乾いていた。


 代わりに、ルッカの全身の毛穴から、陽炎のような異常な熱気が立ち昇り始める。


 ルッカは、拷問室の床にべっとりと残された足跡の匂いを嗅いだ。

 鉄錆と古い血の匂いに混じって、あの気味の悪い男の鼻持ちならない香水と、大男の纏う重い鉄の匂いが、扉の外へと続いている。


「……待ってろよ、リル」


 ルッカの声は、普段の元気な少女のものではなく、地の底から響くような低く恐ろしい、魔物そのものの声音へと変わっていた。


「あいつら……オレが絶対に、原形がなくなるまで叩き潰してやる」



【狂乱のデザートラッシュ】


 その頃、上の階の厨房では、完璧なロゼ色に染まった極上のメインディッシュが配膳口へと吸い込まれていくのをレンが見届けていた。


「よし、これで宴の料理は終わりですね、シェフ!」


 安堵の息を吐き、へたり込もうとする下働きの料理人。だが、レンはその肩をがっしりと掴み、力強く立たせた。


「勘違いするな! フレンチのフルコースは、肉を出して終わりじゃない!」


 レンは燃え盛るかまどから、さらに奥の調理台へと巨体を向けた。


「胃袋の限界を超えさせ、客を快楽の底なし沼に完全に沈める! 俺たちの戦いはまだ終わってないぞ! ここからが真骨頂、怒涛の『甘美なる拘束デザートラッシュ』だ!!」


 レンは目にも止まらぬ手付きで、次の食材を捌き始める。


「メインの直後は【第七の皿・フロマージュ】だ! この国には乳を固めたチーズの文化はないが、森で採れる『蒼洞の熟成菌茸そうどうのじゅくせいきんだけ』が極上の代用品になる!」


 レンは巨大なすり鉢に、青カビのように強烈な発酵臭と強い塩気を持つ菌茸を放り込み、自ら巨大なすりこぎを握って力任せに粉砕し、なめらかなペースト状へと練り上げていく。そこに黄金色に輝く蜂蜜と、森で採れた数種類の甘いドライフルーツを惜しげもなく混ぜ込んだ。


「熟成された強烈な塩気と、蜂蜜の暴力的な甘みの無限ループだ! これが限界を迎えた胃袋を錯覚させ、満腹の脳を心地よく麻痺させるんだ!」


「次に【第八の皿・アヴァン・デセール(プレ・デザート)】! 『星雫のベリー』を果実酒で煮詰めたコンポートだ! 爽やかな清涼感で、胃袋に余裕ができたと脳に錯覚させろ!」


「そして真の終着点、【第九の皿・グラン・デセール(メインデザート)】! 極限までローストして苦味と甘味を引き出した『黒曜甘栗』のペーストで作った、俺特製の『フォンダン・マロン』だ! メインの肉を出し終えてからキッチリ三十分後に、オーブンで焼き上げるんだ! ナイフを入れた瞬間、中からトロトロの熱いペーストが溢れ出すように計算してある!」


「最後の仕上げは【第十の皿・ミニャルディーズ(小菓子)と食後の茶】! 砂糖がけにした甘い根菜と、心を鎮める熱いハーブティーだ! だが、ただ出すだけじゃ素人だ。料理は『演出プレゼンテーション』を含めて完成する!」


 レンは厨房の巨大な配膳台に、氷魔法で極限まで冷やした大量の「氷の結晶」を敷き詰めさせた。


「その氷の上に、熱々のハーブティーが入ったポットと小菓子を並べるんだ! そして、厨房の食材から見繕って俺が調合しておいた『白幻草(はくげんそう)』の搾り汁を一気に氷へ注ぎ込む!」


 レンが厨房の片隅で調合しておいた小瓶の液体を、極寒の氷の上にぶちまけた。


 ——ジュワァァァァァッ!!!!


 瞬間。急激な温度差と香草の成分が激しく反応し、ドライアイスの如き『純白の濃密な煙』がブワァァァッと爆発的に発生した。

 煙はたちまち厨房を真っ白に染め上げ、換気口や配膳用の昇降機を通って、上の会場へと滝のように溢れ出していく。


「この幻想的な白い煙の中で小菓子を味わわせるのが、俺のフルコースの終着点だ! 血糖値の急上昇にこの香草のリラックス効果が合わさり、貴族どもは完全なる至福の麻痺状態フード・コーマへと叩き落とされる!」


 料理人たちが「おおお……!」と感嘆の声を上げる中、厨房の視界は完全に濃密な白煙に覆い尽くされた。五メートル先すら見えない、真っ白な世界。


「おい、お前たち! 厨房の熱気にとらわれるな、ここからが真の『もてなし(サービス)』だ!」


 レンの力強い声が、白い煙の中に響き渡る。


「この煙の中で、コースを締めくくる十品目を完璧に配膳しきるんだ! 狂乱した客どもを、立ち上がることすらできないほどの『極上の至福』で完全に沈黙させろ! 客が席について皿が空になるまでが料理人の戦場だ、一秒たりとも気を抜くな!」


「「「イエス、シェフ!!!」」」


 煙の向こうから、料理人たちの熱狂的な敬礼と返事が響き渡る。

 レンは豚顔に充実した笑みを浮かべた。


(これだけ強烈な匂いと爆発音の合図を仕掛けたんだ。ルッカとリルなら、確実に受け取って地下牢を破り、エルフたちを連れて動き出しているはずだ。俺の『料理人』としての役割はここまで……さっさと合流して、この危険な地下から脱出しなけりゃならねぇ)


 この濃密な白煙は、客を喜ばせる極上の演出であると同時に、俺の目立つ巨体を隠す、完璧な『煙幕』だ。


 レンは白い煙に紛れ、熱狂する料理人たちの誰にも気づかれることなく厨房の重厚な扉をすり抜け、静寂の通路へと飛び出した。



【沸騰する獣】


 一方その頃。闘技場の観客席に繋がる、貴賓専用の地下回廊。


 ギルダーとバルガスは、上の会場から聞こえてくる異様な喧騒を耳にしながら、闘技場のゲートへと向かっていた。


「……なんだこの騒ぎは。大剣闘祭の決勝前だというのに、観客どもが妙に騒がしいな」


 ギルダーが訝しげに眉をひそめる。


「血に飢えた馬鹿どもが、上の熱気に当てられて暴徒にでもなりかけているのか? まあいい。バルガス、行くぞ。貴様の出番だ。圧倒的な暴力で、さらに奴らを熱狂させてこい」


 ギルダーが振り返り、バルガスに命じた、まさにその時。


 ——ズシンッ。


 背後の薄暗い回廊の奥から、重い足音が一つ、響いた。


「ん? 誰だ。ここは関係者以外立ち入り禁止——」


 ギルダーが鬱陶しそうに振り返り、言葉を失った。


 回廊の暗がりから、一人の小柄な少女が歩み出てきた。

 健康的な小麦色の肌。

 だが、その背中から立ち昇る凄まじい「殺気」は、小柄な少女のそれとは次元が違った。空間そのものが歪むほどの濃密なプレッシャー。

 そして、闇の中で爛々と赤く輝く、捕食者の瞳。


「お、お前は……! 厳重な地下牢に閉じ込めていたはずでは……!?」


 ギルダーが顔を引き攣らせ、後ずさる。


 ルッカは何も答えない。

 ただ、ギリッ、ギリッと、拳を握り込む音だけが回廊に響く。


「……バルガス! なにをしている、さっさとその脱走した亜人を捕らえろ! 逃がすな!」


 ギルダーが金切り声を上げて命じる。


 だが、最強の剣闘士であるバルガスは、即座に動かなかった。

 彼は大剣闘祭の決勝へと向かう足を止め、ゆっくりと振り向いて、ルッカの姿を真正面から見据えた。


 バルガスの全身の筋肉が、歓喜と警鐘を同時に鳴らしていた。


「……ハッ。泥底の掃き溜めかと思えば、一日で二度も『本物』を拝めるとはな」


 バルガスの口角が、凶悪な弧を描いて吊り上がる。


 地下牢で見た、あの気高き『本物の戦士』の瞳。あれが他者を守る自己犠牲と優しさから生まれた本物だとするなら。

 目の前にいるのは、群れの仲間を傷つけられたことに対する、圧倒的な怒りと殺意から生まれた、もう一つの『本物』。


「……ギルダー。お前は下がっていろ」


 バルガスは初めて、自らの雇い主に向かって油断のない低い声を発した。


「こいつは……今までの遊び相手とは違う。ただの亜人じゃない」


 バルガスは、それまでメイスを握っていた手を離し、背中に負っていた己の身の丈ほどもある巨大な大剣(ツヴァイハンダー)を、ゆっくりと引き抜いた。ただの暴力ではなく、彼が本物の戦士と認めた者にのみ用いる真の得物。


 ギリリリッ、と鋼が鳴り、バルガスの全身から猛烈な気迫が噴き出す。


「来るなら来い、小娘。俺の魂を削るに足る、本物の殺し合いを見せてみろ」


 バルガスが大剣の切っ先をルッカに向け、重厚な構えをとった。


 ルッカは、ただ一言だけ、腹の底から絞り出すように呟いた。


「……てめぇらの命、骨のひとかけらも残さずオレが叩き潰してやる」


 ドンッ!!!!


 ルッカが石畳を蹴った瞬間、回廊の床が爆発したように粉砕された。


 肉眼では捉えきれない神速の踏み込み。ルッカの小さな体が風の刃となって空気を裂き、バルガスへと叩き込まれる。


 ガガァァァァンッ!!


 バルガスが盾のように構えた大剣の腹と、ルッカの拳が激突した。

 凄まじい火花が散り、衝撃波が地下回廊の壁にヒビを入れる。バルガスの巨体が、その一撃の重さと異常な速度にズザァッと後ろへ滑った。


「ハハッ! いい速さだ!」


 バルガスが獰猛に笑い、大剣を力任せに振り抜く。


 ルッカは獣のような反射神経で大剣の軌道を掻い潜り、壁や天井を蹴って三次元的な超速の機動を見せる。怒りに呼応してとめどなく溢れ出す魔力を拳に纏わせて、四方八方から連続で打撃を放ち続けた。


 轟音。火花。石畳の破壊。


 少女の姿をした魔物の圧倒的なスピードと、それを迎え撃つ最強の剣闘士の死闘は、完全に互角に見えた。


 ——だが。


「……惜しいな」


 数合の絶死の打ち合いの末、バルガスは冷徹に呟いた。


 資格はある。資質も申し分ない。

 だが、未熟だ。


 ルッカは内から湧き上がる獣のような莫大な魔力を、ただ怒りに任せて放出しているだけで、全く制御しきれていなかった。神速の機動も、攻撃は直線的で大振りが目立つ。怒りに支配された動きは、百戦錬磨の戦士であるバルガスの目には、次第に単調なものとして映り始めていた。


「気迫は本物だが、戦い方を知らなすぎる」


 バルガスはルッカの放った神速のストレートを、紙一重で大剣の腹を使って受け流す(いなす)と、彼女の体勢が大きく崩れたその一瞬の隙を見逃さなかった。


 ガラ空きになったルッカの鳩尾(みぞおち)に、バルガスの岩のような拳が、正確無比なタイミングで深く、重く突き刺さった。


「ガ、はっ……」


 肺の空気を強制的に吐き出させられ、急所への予測外の強打。

 ルッカの瞳からスッと意識の光が飛び、彼女の体は糸が切れた操り人形のように、その場に崩れ落ちた。


「な、何をしているバルガス! さっさとその亜人の足をへし折れ! 目が覚めて暴れ出し、商品価値がなくなる前に完全に無力化しろ!」


 壁際で震えていたギルダーが、安堵と怒りの混じった声で叫ぶ。


 だが、バルガスは気絶したルッカを見下ろすと、大剣を背中に収め、彼女の小さな体を軽々と肩に担ぎ上げた。


「黙れ。こいつは上質な原石だ。あの地下牢にいたもう一人の奴といい、どうやら俺は今日、運がいいらしい」


「バルガス! 俺の命令が聞けないのか!」


「剣闘祭の決勝が終わったら、俺が連れて行く。文句があるなら契約はここまでだ。お前のくだらない遊びの護衛は、他を当たれ」


 ギルダーは忌々しそうに舌打ちをしたが、このオークションの稼ぎ頭であり、最強の護衛であるバルガスを力で止めることなどできるはずがなかった。


 バルガスはルッカを肩に担いだまま、歓声の降り注ぐ闘技場の光の中へと、重い足取りで歩み去っていった。


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