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『オークに転生した三つ星料理人、異世界で究極の美食を極める〜過労死シェフは料理の知識で魔物の森から成り上がる〜』  作者: 烏丸ぽっぽ


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第19話「美食の狂乱と、絶望の密室」


「ここまでの三品で、上の会場にいる貴族どもの胃袋の扉は完全にこじ開けられた! だが、フルコースという名の『物語』はここからが本番だ!!」


 厨房の中心で、緑色の巨体を揺らすレンの怒声が、煮え(たぎ)る鍋の音と油の()ぜる音を圧して響き渡った。


「スープで満たされた舌に、いきなり重い肉をぶつけるのは素人のやることだ! 次は【第四の皿・ポワソン(魚料理)】! 用意しておいた『銀水鮭(シルモン)』を出してくれ!」


 下働きの男たちが、丸太のように巨大で、水面のように輝く銀色の(うろこ)を持った魚を重そうにまな板へ運んでくる。


 王都を貫く大河の主とも呼ばれる、希少な大型淡水鮭だ。

 冷たい急流で引き締まったルビー色の身と、腹の底に蓄えられた極上の脂。それを前にして、レンは自らの分厚い素手を燃え盛る鉄板に近づけ、絶妙な温度を測り取った。


「いいか、火魔法で中まで一気に焼き切るんじゃない! 魚料理の極意は『ミ・キュイ(半生)』だ! 俺が手本を見せる、少し下がっていな!」


 レンは分厚い鮭の切り身を鉄板に乗せた。


 ジュゥゥゥッ! と食欲を暴力的にそそる音が厨房に響く。


「皮目には強火を当ててパリッと香ばしく焼き上げる! そして身の方は……」


 レンは別の鍋で熱した澄んだ油を(すく)い、鮭の身に何度も何度も、ミリ単位の精度で回しかけていく。

 『アロゼ』と呼ばれる、油の熱だけでじんわりと中心温度を上げていくフレンチの高等技法だ。オークの巨大な手からは想像もつかないほど、その動きは繊細で完璧だった。


「ソースを作るぞ! 繋ぎには、さっきのスープで煮出した飛竜(ワイバーン)の骨髄から浮いた『極上の上澄み脂』を使う! こいつをエルフの果実酒と一緒に全力でかき混ぜて乳化させるんだ!」


 レンの指示のもと、骨髄の濃厚な動物性の脂が、酸味のある果実酒と結びつき、トロトロに輝く極上ソースへと変わっていく。


銀水鮭(シルモン)の濃厚な旨味に、このソースの爽やかな酸味が絡み合い、客の舌を未知の境界線へと誘う! 皮のパリパリ感が失われる前に上の会場へ叩き込め!」



 ——厨房で至高の魚料理が完成しつつあるその頃。闘技場の裏側に位置する、外界から完全に隔絶された石造りの地下室では、対極の地獄が繰り広げられていた。


 陽の光など一度も差し込んだことのないその地下室には、長年にわたって染み付いた鉄錆(てつさび)と、乾いた古い血の悪臭がねっとりと壁にへばりついていた。

 頭上の遥か彼方からは、大剣闘祭に熱狂する観客たちの歓声が、まるで地鳴りのような鈍い振動となって伝わってくる。

 だが、その狂騒(きょうそう)すらも、この密室に満ちる底冷えのする静寂と悪意を誤魔化(ごまか)すことはできなかった。


「さて、小賢しいネズミども。貴様らの背後に誰がいて、このオークションで何を嗅ぎ回っているのか、すべて吐いていただきましょうか」


 開催者ギルダーが、蛇のように粘着質(ねんちゃくしつ)な声で笑いながら、太い革鞭を石の床に打ち鳴らす。

 ピシャンッ、と鋭い破裂音が狭い部屋に反響した。


 その後ろには、最強の剣闘士である巨漢(きょかん)の男、バルガスが、まるで意思を持たない岩山のように無言で立ち尽くしている。


「答えなさい。貴様らの仲間はどこに潜んでいる?」


 ピゥンッ!


 空気を裂く(おぞま)しい音と共に鞭が振るわれ、床に倒れ伏すリルの背中を深く打ち()えた。


「——っ……!!」


 声にならない悲鳴を強引に喉の奥で噛み殺し、リルは冷たい石畳に爪を立てた。


 仕立ての良い傭兵風の衣服が容易く裂け、透き通るような美しい白い肌に、ミミズ腫れのような痛々しい赤い筋が浮かび上がる。

 鞭の先端に仕込まれた細かな金属片が肉を(えぐ)り、そこからじわりと鮮血が滲み出した。


 だが、ギルダーは鞭を引き戻そうとして、ふと驚いたように眉をひそめた。


 裂けたはずの傷口から血が(したた)るよりも早く、リルの傷が「シュウゥゥ」と微かな水蒸気のようなものを立てて塞がり、あっという間に元の滑らかな白い肌に戻ってしまったのだ。


「……ほう? 驚きましたね。高度な回復魔法を使えるのですか。それとも、舌の裏に特別なポーションでも含んでいたと?」


 ギルダーは目を細め、底意地の悪い好奇心を()き出しにしてリルの背中を覗き込んだ。


「まあいいでしょう。それが高等な回復魔法であろうと、高価な魔法薬であろうと構いません。そのふざけた回復力がいつまで保つか、試してさしあげましょう」


 ヒュンッ、パァァンッ、ガシュッ!!


 ギルダーの鞭が、さらに苛烈(かれつ)さを増してリルの体を連続で打ち据える。


 彼はそれを『魔法』だと思い込んでいる。だが違う。それは、オークという種族が本来持つ異常な再生能力だった。増大した強靭(きょうじん)な肉体の力が、物理的な破壊を瞬時に修復しているのだ。


 しかし、いくら再生力が高くても、肉体を破壊される「絶大な苦痛」が消え去るわけではない。


 肉を抉られ、神経を直接引き裂かれる激痛。それに加えて、傷が強制的に塞がる過程で細胞が異常な速度で結合していく熱を伴う不快な痛み。それは、ただ傷を負うよりも(はる)かに恐ろしい拷問だった。

 さらに、再生能力は無尽蔵(むじんぞう)ではない。傷を治すたびに、リルの内に秘められた『魔力』が猛烈な勢いで燃焼し、消費されていく。



 ——リルの命が削られている間にも、厨房の喧騒は止まらない。配膳係が猛烈なスピードで魚料理を運んでいく。


 数分後、分厚い石壁の換気口を通じて、上の会場から信じられないような狂乱の声が厨房へと降ってきた。


『おおおおっ……! なんだこの舌触りは!? 皮はパリッと香ばしく弾けるのに、身は上質な脂とともに舌の上でとろけていくぞ!』

『このソース……! 獣の力強い脂のコクがあるのに、果実の酸味でまったく重くない! ああっ、一瞬で消えてしまった! 皿の底を舐め尽くしてもまだ足りん!!』


 だが、休む暇など一秒たりとも存在しない。


「次! 立て続けに【第五の皿・ソルベ(お口直し)】だ! 厨房の奥にあった『凍月柚子(とうげつゆず)』を全部絞ってくれ!」


 レンは自らの巨大な拳を振り下ろし、用意させていた氷の塊を物理的に粉砕し、細かいシャーベット状へと砕いていく。


「魚と骨髄の濃厚な風味で、客の舌は今、重い脂の膜で覆われている。このままメインの肉を出しても、味がぼやけて百パーセントの感動は得られない。だからここで一度、舌の感覚を『リセット』するんだ! 柑橘の鋭い酸味と極寒の氷が、次に来る『真の主役』への渇望を極限まで引き上げる!」


 シャリシャリに仕上がったソルベが会場に運ばれると、再び貴族たちの絶叫が爆発した。


『ひぃっ、冷たいっ! ……だが、口の中のまとわりつく脂が、一瞬で洗い流された!』

『おお……私の胃袋が、再び完全に空っぽになったかのように錯覚している! なんだこの強烈なひもじさは! 頼む、次を……早く満たしてくれ!!』


 コースの順番など知る由もない貴族たちは、ただ本能を揺さぶられるままに、美食の奴隷と化して(わめ)き散らしていた。



 ——地上の貴族たちが美食に狂乱する一方で、地下の拷問室には血の匂いが充満していた。


「がはっ……うぅっ……、あぁっ……!」


 十度、二十度と鞭の雨を浴びるうち、リルの再生速度が明らかに遅くなり始めていた。

 魔力が底をつきかけ、傷口が塞がりきらず、ついに彼女の白い肌から、ボタボタと赤い血が冷たい石の床にこぼれ落ち始めた。


 その時、無惨(むざん)に引き裂かれた傭兵服の隙間から、オーク特有のしなやかな『尻尾』が力なく床に投げ出されているのが露わになった。

 ギルダーの目が、その異質な部位を鋭く捉え……直後、歓喜に大きく見開かれた。


「……っ! ははっ、はははははっ! まさか、ただの護衛の正体が、希少な亜人の生き残りだったとは!」


 ギルダーは醜悪(しゅうあく)な笑みを浮かべ、狂ったように歓声を上げた。


「ええ、本当に素晴らしい! あの商品(ルッカ)の単なる付き添いかと思っていましたが、よもや貴女自身が格別の『目玉商品』だったとは! ふははははっ、これは思わぬ特大の利益になりそうだ!」


 高ぶる感情のまま、ギルダーは再び鞭を高く振り上げた。


「極上の商品とはいえ、相応の(しつけ)は必要ですからね。さあ、もっと美しい声を聞かせなさい!」


 ピシャンッ! ガシュッ!!


 歓喜に沸くギルダーの鞭が、容赦なくリルの体を打ち据える。血の混じった飛沫が冷たい石壁に飛び散った。


(痛い……痛いです……レン様……)


 霞む意識の中で、リルは必死に奥歯を噛み締めた。

 かつての彼女なら、このような圧倒的な暴力の前ではただ無力に怯え、絶望の涙を流すことしかできなかっただろう。


 だが、今は違う。レンが自分に『リル』という名前を与え、この美しい姿と、淑女としての矜持(きょうじ)を与えてくれたのだ。

 だから、決して無様な声は上げない。己の主人(シェフ)の名に泥を塗るような姿だけは絶対に(さら)さない。


 リルは自らの唇を血が滲むほど噛み破り、ただひたすらに、嵐のような暴力の痛みに耐え続けた。


 ギルダーの狂喜の声と、肉を打つ生々しい音で、リルの隣で意識を朦朧(もうろう)とさせていたエルザが、ハッと目を覚ました。


「……あ……」


 自らの頭から流れた血で赤く霞む視界。そのぼやけた景色の先で、リルが血まみれになって倒れ伏していた。

 自分に向けられるはずの鞭の軌道上にわざと体を置き、血まみれになりながらも自分を庇い続けている、リルの小さな背中。


 何の義理もないはずの少女が、自分の盾となり、ボロボロになるまで鞭を打たれている。

 その事実だけが、エルザの心臓を強く締め付けた。


「……どうして、私を……」


 エルザが、かすれた声を漏らす。

 その声に反応し、リルは荒い息を吐きながらも、無理に口角を上げてみせた。


「私は……何ともありませんわ……。騎士様、どうか……そのまま下がって……」


 強がりな淑女の矜持。だが、エルザは重い銀色の鎧を(きし)ませ、激痛に顔を歪めながらも、()うようにしてリルの前に立ち塞がった。


「やめろ……。私を、狙え……!」


「ほぅ? 騎士の小娘が、得体の知れない亜人の盾になるというのですか? 泣かせる友情ですね」


 ギルダーはつまらなそうに鞭を巻き取ると、エルザの血で汚れた銀色の鎧を冷酷な目で見下ろす。


「ですが、その銀の鎧の上からでは、私の鞭の痛みは通らないと思っているようですね。……おい、バルガス」


 ギルダーが顎をしゃくると、背後の剣闘士バルガスがズシン、と一歩前に出た。

 その巨大な手には、先ほどから握られている『鉄球のついたメイス』が、無言で握り直されていた。


「その小生意気な騎士の小娘の、腐りきったプライドごと、目障りな鎧を叩き割ってやりなさい」



「騎士の誇りにかけて……貴様らのような外道に、これ以上……好きにはさせない……ッ!」


 エルザが震える足で立ち上がり、腰の剣を抜こうとした、まさにその瞬間。


 ドガァァァァンッ!!!


 バルガスのメイスが、エルザの腹部を横()ぎに強打した。


「——がはッ、あ……!!」


 メキャッ、と硬い金属が(ひしゃ)げる絶望的な音。

 名工が鍛え上げたはずの銀の鎧が、まるで薄いブリキの玩具のように無惨にひしゃげ、凄まじい衝撃がエルザの肋骨(ろっこつ)を砕き、内臓を直接すり潰した。


 魔力による再生力を持たない脆弱な人間の体には、その一撃はあまりにも重すぎた。

 エルザの口から、大量のどす黒い血が滝のように噴き出し、彼女の体はくの字に折れ曲がって、冷たい石床を無様に転がった。


「あ、あぁ……」


 ピクピクと痙攣し、床に這いつくばるエルザ。呼吸をするたびに、砕けた肋骨が肺に刺さるような激痛が走る。

 だが、ギルダーの残酷な遊戯はまだ終わっていなかった。


「よし、いいでしょう。下がれ」


 ギルダーはバルガスを制止すると、嗜虐的(しぎゃくてき)な笑みを深めながら、自らエルザの傍らへと歩み寄った。


「何が誇りですか、くだらない。その目障りな鉄屑は、私自身の手でひん()いてあげましょう」


「な、なにを……やめ、やめろ……ッ!」


 エルザが弱々しく抵抗するが、ギルダーの粘着質な指が、ひしゃげた胸当ての隙間に強引にねじ込まれた。


 バキィッ! ブチィッ!!


 留め具の革紐が千切れ、金属の接合部が力任せに引き剥がされる。エルザの体を守っていた誇り高き銀の鎧が、無残な鉄屑となって次々と冷たい床に投げ捨てられていく。

 肩当てが外され、籠手(こて)が剥ぎ取られ、最後に残った胴当てがギルダーの手によって乱暴に引き剥がされた瞬間、中に着込んでいた防刃(ぼうじん)の衣服までが大きく引き裂かれた。


「ああっ……!」


 冷たい地下室の空気が、エルザの汗と血に塗れた無防備な素肌を撫でる。

 騎士としての象徴であり、自らの弱さを隠すための絶対的な「盾」であった鎧を完全に剥奪され、エルザはただの一人の無力な少女として、冷たい石の上に投げ出された。


「ははははっ! どうです、これが貴女の真の姿だ! 鎧という権威に隠れていなければ、何も守れないただの脆弱な肉塊にすぎない!」


 ギルダーが醜い高笑いを上げながら、再び太い革鞭を構えた。


「さあ、正義の騎士様。その柔らかな肌で、現実という名の痛みをたっぷりと味わいなさい! 泣け! 喚け! 権力の犬め!」


 ピシャァァンッ!!


 容赦のない鞭の一撃が、鎧を失ったエルザの背中を直接打ち据えた。


「——あああぁぁぁぁッ!!」


 もはや我慢することすらできなかった。防具を通さない純粋な暴力が神経を直接焼き切り、エルザの口から悲鳴が(ほとばし)る。

 痛い。熱い。苦しい。

 エルザの意識は、鞭の激痛の中で真っ白に染まりかけていた。


 自分は何も守れなかった。巨悪を暴くどころか、得体の知れない亜人の少女に庇われ、無様に鎧を剥ぎ取られ、こうして無力に鞭で打たれているだけ。

 正義など、圧倒的な暴力の前では何の役にも立たないのだ。


「はははっ! そのくだらない誇りなど、この冷たい石の床の上で容易くすり潰されるのですよ!」


 再びギルダーが鞭を高く振り上げた。

 だが、その無慈悲な一撃がエルザの素肌を裂こうとした、まさにその瞬間。


「——ぐ、うぅっ……!!」


 自らの血の海に沈んでいたはずのリルが、エルザの上に覆い(かぶ)さるように飛び込み、その細い背中で強烈な一撃を真っ向から受け止めた。


「おや? まだ動く力がありましたか」


 ギルダーが嗜虐的な笑みを深める。


「商品に傷をつけたくはありませんが……その健気な姿を見ると、どうにも嗜虐心が刺激されますね。どこまで耐えられるか、見せていただきましょうか」


 ピシャァァンッ! ピシャァァンッ!!


 鞭が連続で振り下ろされ、リルの華奢(きゃしゃ)な背中や肩を容赦なく打ち据える。皮が裂け、鮮血が舞う。


「——あ、ぐぅっ……!」


 苦鳴(くめい)が漏れ、打たれるたびにリルの体はビクンと跳ねた。それでも、エルザを抱きかかえる腕の力は決して緩まない。

 彼女からこぼれ落ちる温かい血が、冷え切ったエルザの素肌を赤く染めていく。


「はははっ! 素晴らしい! もっと、もっと美しい悲鳴を聞かせてください!」


 狂気に満ちた鞭の連撃。リルの意識は遠のき、呼吸すら浅くなっていく。それでも、彼女の眼差しだけは決して死なず、エルザを守り抜くという意志を燃やし続けていた。


 やがて、ギルダーはつまらなそうに舌打ちをし、鞭を止めた。


「おい、バルガス! その鬱陶しい肉の盾を、メイスでどかしてやりなさい!」


 ギルダーの命令に、最強の剣闘士バルガスがズシンと一歩前へ出る。

 バルガスは、金で雇われただ戦うだけの男だった。彼にとってギルダーのサディスティックな趣味などどうでもよく、ただ大剣闘祭で勝ち上がり、強大な富を得るためだけに付き従っているにすぎない。

 彼が真に価値を認めるのは、自らの魂を削り合う『本物の戦士』だけであり、それ以外の弱者は生きる価値すらない塵芥(ちりあくた)だと思っていた。


 だが、血まみれのメイスを振り上げようとしたバルガスの動きが、ピタリと止まった。


 エルザを庇い続けるリルが、血と汗に塗れた顔を上げ、バルガスを真っ直ぐに見据えていたのだ。

 それは、絶望に屈した奴隷の目でも、死に怯える弱者の目でもない。大切な者を命に代えても守り抜くという、揺るぎない覚悟。

 圧倒的な暴力を前にしても決して折れることのない、紛れもない『本物』の瞳がそこにあった。


「……まさか、こんな泥底で、『本物』の目と出会えるとはな」


 バルガスの口から、無意識のうちに低く重い感嘆の声が漏れた。

 彼は振り上げたメイスをゆっくりと下ろし、リルの瞳を覗き込むように問うた。


「なぜ、そこまでして他者を庇う?」


 その問いに対し、リルは荒い息を吐きながらも、微かに、美しく口角を上げてみせた。


「……淑女の、嗜みですわ」


 その言葉を聞いた瞬間、バルガスは短く息を吐き、静かに一歩後ずさった。

 これ以上、この気高き魂を己の暴力で汚す真似はしない。それは、本物の戦士に対する彼なりの絶対的な敬意であり、無言の意思表示だった。


「……チッ。なんですか貴様、急に闘志を引っ込めるなど」


 命令を聞かない最強の駒に、ギルダーは忌々(いまいま)しそうに舌打ちをした。そして、血塗れでエルザを庇い続けるリルを冷めた目で見下ろす。


「まあいいでしょう。これ以上痛めつけて、商品価値が下がっても厄介ですからね。傷物になったとはいえ、亜人の生き残りなら変態貴族どもがいい値で買うでしょう。これ以上の損傷は損でしかありません」


 ギルダーは鞭を乱暴に巻き取ると、バルガスに向き直った。


「行くぞ。そろそろ上の大剣闘祭も『決勝』の時間だ。貴様には、私の筋書き通りに勝って、たっぷりと金を稼いでもらわねばなりませんからね」


 バルガスは無言のまま頷き、背を向けた。

 ギルダーの足音が遠ざかり、重厚な扉がガチャンと閉められる。

 外界から完全に遮断された絶望の石室に、残されたのは圧倒的な静寂と、冷たい石の感触だけだった。


「……あ、あ……どうして……」


 エルザは鎧を剥がされた無残な姿のまま、自分を庇って倒れ伏すリルを震える手で抱きとめた。


「どうして……私なんかのために……ッ!」


「……騎士、様……。泣かないで、ください……」


 リルはエルザの腕の中で、微かに微笑んだ。


「あなたが……誰かを守ろうとする、そのお心は……決して、弱くはありませんわ……。だから、どうか……絶望など、なさらないで……」


(レン様……ルッカ……。あとは……お願いします……)


 魔力は完全に底をつき、指先から死の冷感が這い上がってくる。

 リルの意識はそこで途切れ、二人の少女は血と鉄の匂いが充満する密室の床の上で、泥水のように冷たい暗闇へと深く沈み込んでいった。



 ——リルがその身を呈してエルザを守り抜いた頃、厨房のレンは計画の要となる次なる皿への指示を飛ばしていた。


「さあ……お前たち、準備はいいか。フルコースの絶対的王者、【第六の皿・ヴィアンド(肉料理)】だ!!」


 レンの豚顔に、不敵で頼もしい笑みが浮かぶ。


「最高級の『飛竜(ワイバーン)のモモ肉』! 厨房の隅に山積みになっていた天然の『岩塩』を全部持ってきてくれ! 卵白と混ぜてペーストにするんだ!」


 魔法に頼る素人料理人たちを巧みに先導し、レンは自らの丸太のような両腕を使い、大量の岩塩と卵白を力任せに練り上げていく。

 そして、香草を()り込んだ巨大な飛竜の肉を、空気が一切入らないように、その塩のペーストで分厚く包み込んでいった。


「塩釜焼きだ! 火魔法で、釜の表面がカチカチに硬化するまで一気に焼き上げるんだ! 密閉空間の中で、飛竜の肉汁が沸点を超えて暴れ回る! そして中からの『圧力』が限界に達した瞬間——氷魔法で塩釜の表面だけを急激に冷やせ!」


 それは、料理の常識を超えた、熱膨張と急冷却による「爆弾」の製造だった。


「俺の可愛い助手たちに、目覚まし代わりの合図を送るとしよう!」


 レンが木べらを振り下ろした瞬間。料理人たちが放った氷魔法が、極熱(ごくねつ)の塩釜に直撃した。



 ——厨房での仕掛けと時を同じくして、闘技場の最深部、分厚い石壁に囲まれた地下牢。


 極太の鉄格子で仕切られた冷たい檻の中で、ルッカはじっと目を閉じていた。

 静かだった。厨房から漂ってきた暴力的なスープの匂いに理性を焼き切られた警備兵たちが、我先にと上の階へ駆け上がっていってから、このカビ臭い地下牢には奇妙な静寂が落ちていた。


 檻の奥では、ペミカンを口にしたエルフたちが少しずつ体に命の熱を取り戻し、身を寄せ合いながら震えを(こら)えている。


 ルッカは、自分の細い腕をギュッと抱きしめ、本能の暴走を必死に押さえ込んでいた。

 人間の少女の姿に圧縮されているとはいえ、その内側には規格外のオークの筋肉と闘争本能が詰まっている。


 通路のずっと奥から漂ってくる、生温かく、そしてひどく痛ましい「リルの血の匂い」が、ルッカの脳髄(のうずい)をガンガンと殴りつけ、今すぐ鉄格子をぶち破れと急かしてくる。


 ギリッ、と奥歯が鳴った。赤い瞳孔が縦に細く割れる。


 限界だった。殺意が理性を喰い破ろうとした、その刹那(せつな)


 ——パァァァァァァァンッ!!!!


 大砲でも撃ち放たれたかのような凄まじい爆発音が厨房に(とどろ)き、硬化した塩釜が内側からの圧力に耐えきれずに弾け飛んだ。

 同時に、密閉空間で極限まで凝縮されていた飛竜肉の暴力的な旨味と、香草の鮮烈な香りが、目に見えるほどの分厚い蒸気となって換気口へと一気に逆流していく。


(……さあ、このメインディッシュの暴力的な匂いが、俺たち脱出の『合図』だ)


『うおおおおおおおおっ!!!』

『なんだこの匂いは!! 脳髄が痺れる! 腹が、腹がちぎれそうだ!!』

『頼む、なんでもいい! 今すぐその匂いの正体を私の口に放り込んでくれェェッ!!』


 上の会場の貴族たちは、もはや品性も理性も完全に投げ捨て、獣のように(よだれ)を垂らして発狂寸前になっていた。


 遠く上の階から響いた、分厚い岩盤が弾け飛ぶような鋭い破裂音。

 それはレンが仕込んだ『メインディッシュ』——極限の熱と冷却の温度差を利用して内側から弾けさせた、巨大な飛竜肉の塩釜焼きが割れる音だった。


 直後、地下牢の小さな換気口から、目に見えるほど濃密な「白い蒸気」が一気に吹き込んでくる。


「——っ!!」


 ルッカの鼻腔(びくう)を、凄まじい香りが暴力的に突き抜けた。

 極限まで熱された岩塩の鋭い香り、鮮烈な香草、そして飛竜(ワイバーン)の濃厚な肉汁が爆発的に混ざり合った、圧倒的な匂い。


 待ちわびた、開戦の合図だ。


 ルッカはカッと目を見開いた。

 抑え込んでいた本能のストッパーを、完全に引き抜く。華奢な両腕にブチブチと青筋が浮かび上がり、純度百パーセントの生命力が爆発的なエネルギーとなって筋肉に収束(しゅうそく)していく。


「うおおおおおおおぉぉぉぉッ!!」


 ルッカが極太の鉄格子を両手で掴み、力任せに左右へ引き裂いた。


 ギギィィィッ! メキキキキッ!


 悲鳴を上げてひし形に歪んだ鋼鉄の檻は、ついには根本から無惨にへし折れ、轟音とともに通路の壁へと吹き飛んだ。


「オレが開けた穴から、急いで逃げろ! 外に警備兵はいねぇ!」


 呆然とするエルフたちに向かって叫ぶと、ルッカは石畳を粉砕するほどの凄まじい踏み込みで、一直線に通路の奥へと駆け出した。


 迷いはない。換気口から漂ってくる飛竜肉の匂いよりも濃く、深く、ルッカの鼻腔を焦がす「リルの血の匂い」。

 それを道標(みちしるべ)に、ルッカは弾丸のような速度で薄暗い地下回廊(かいろう)疾走(しっそう)した。


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