第54話〜心不有〜
薄暗いトンネルを一人、歩いていた。元は真っ白であった壁面も垂れる汚水で汚れていて、触ると埃が手にべったりとつく。いつから歩いていたのか、いつまで歩けばいいのかそれさえわからずにひたすらザリザリとした地面に足を踏み出す。
ここまで歩いてきたからであろうか、忘れてしまったかのように疲労を感じない。それどころか足音も聞こえず、傍の溝に流れる水の臭いすら感じられない。ただ砂地を歩くような感触と、そろそろ見飽きてきたトンネルの黒闇だけが自らの世界の全てだった。
過去の疲労とは得てして笑い話になることが多い。過去の疲労は今の苦悩と比べられるからだ。今の自分はどうだろうか。人間、生きていれば多少の災難に見舞われることもあるだろう。しかし、自分には過去に対応する今の苦痛がない。いわばゆりかごの中で眠る赤子だ。トンネルは大きな口を開けたまま、今か今かと自分が喉に沈み込むのを待っている。
しばらく歩いた。長い間使われることのなかった聴覚に鋭い痛みが走る、立ちくらみも激しい。視界がようやく戻った時には目の前に木製の柵と扉があった。その隙間から見えるトンネルは先ほどと寸分違わぬ様子だったが猛烈な違和感を感じ、その場に立ち止まる。よく見れば隣には看板が倒れていた。起こして見るとそこには
「苦難を畏るべからず」
とあった。そんなことはわかっているのだがそれが扉とどう関係するのかがわからない。夢うつつのまま扉を開けて進み出した。




