第76話 ~この日ナナリーは優しかった~
「おお、ニトロか。
……話は聞いているぞ。ついて来い」
「はい」
ある日の真昼頃。
ニトロが訪れたのは、セプトリア城の地下牢への入り口だ。
そこで待っていてくれた看守長に挨拶し、すでに事情を聞き及んでいる看守長は、地下牢への重い扉に鍵を差す。
開かれた扉の奥には、壁に取り付けられた薄明かりに照らされた、どんよりとした石壁に包まれし階段が続いていた。
看守長が前を歩き、ニトロがその後に続く形で歩く。
地下一階ぶんほど階段を降りれば、石壁続きの通路をしばらく歩き、やがて辿り着いた階段をまた降りる。
その途中にはいくつもの分かれ道があり、セプトリア城から続くここ地下牢獄が、迷宮のような複雑さを呈していることが想像つきやすい。
看守長がニトロを案内してくれているが、案内役がいなければ、きっとニトロは道に迷っている。
「……降りるにつれて、ひどい匂いになっていきますね」
「ニトロは地下牢獄に来るのは初めてか?」
「はい……」
「ならば、少々刺激がきついかもしれんな。
罪深い囚人達を収容する空間として、敢えて劣悪な環境として作ってあるからな」
セプトリア王国の地下牢獄は地下4階まであり、広い各階層ごとに様相が全く異なる。
地下一階は、軽犯罪者に反省を促す意味合いが強い、牢獄と言うよりも単なる収容所という側面が強く、まだ手入れが届いている方だ。
地下ゆえにじめじめとした嫌さはあったものの、傍目に見られる鉄格子にも錆が少なく、ニトロに最も不快感を与えたのは、収容された囚人達の体臭が漂う匂いぐらいのものである。
だが、地下二階ともなれば風景は一変する。
地下一階を進み、厚い扉を開き、階段を降りて、また厚い扉。
それを開いた先の地下二階の光景は、ひとつ上の階層とはまるで異なる様相だ。
石壁の下方の隅は苔むして、恐らく囚人らの排泄物などの処理もろくに行なわれておらず、階段を降りてこの階層に訪れた瞬間から、ニトロは自分の鼻をつまみそうになった。
不衛生が嗅覚からして明らかなのだ。汚い場所を好む虫が這っている光景も、薄明かりの下ながらかすかに見え、薄暗い中でちらりと、しかしはっきりそれを視認した瞬間の寒気はたまらない。
軽犯罪とは言い難い、重い罪を犯した者を長期収容するこの階層は、収容されている罪人達もすっかり目に活力を失うほど苛烈である。
不潔なだけならともかく、何ヶ月もこんな場所に閉じ込められては流石に悪夢であろう。
「う……」
「吐いても構わんぞ。
撒き散らして貰えれば、囚人達への鞭の足しになるからな」
「い、いえ……我慢、します……」
そんな地下二階ですら、長い道のりの果てに地下二階からの階段に辿り着いたニトロが、今しがた降りてきた地下三階と比べれば可愛いものだ。
ひびわれた石壁の隙間からは、意図的に育てられた毒々しい黒い花が咲いており、それの発する花粉と悪臭が、ニトロに吐き気を催させる。
鼻の奥まで侵入してきて、むずがゆさによる不快感を覚えさせるに留まらず、刺激臭で頭をくらつかせる有害な花が、この階層では至る所に咲いているのだ。
毒性は無いそうだが不快性が非情に強く、初めてここを訪れた者達にはなかなか耐え難い。吐かなかったニトロはたいしたものだ。
ただでさえこの階層は、地下二階と同じく、囚人らの汚物が片付けられていない匂いも充満しているというのに。
花という自然が元気に咲くこの場所では、羽虫や昆虫、多足虫も自然界さながら山のように徘徊する。
花の葉を這うなめくじや、壁の明かりの周りを旋回する無数の蝿、苔に群がるその蝿の幼虫、すなわち蛆虫。
地下三階を歩く中、ニトロが視界の端に映す鉄格子には、朝顔の蔓のように螺旋状に這う百足が何度も散見された。
牢の奥の囚人達は、就寝中にこんな奴らに噛まれることだってある。朝起きて、まぶたの上に虫が這っていることなんてあろうものなら、人によってはそれだけで発狂するかもしれない。
地下二階に収監するのも生温い、重い罪を犯した者達を収容する地下三階。これほどまでに劣悪な環境であったなどとは、見ると聞くとでは大違いだとニトロも生唾を飲むというものである。
「い、イリスは……」
「この先だ」
こんな場所よりさらに先に、愛する妹が収容されている事実には、ニトロは現時点でもう心が折れそうだ。
看守長に導かれ、地下三階を進み、扉を開き、最後の階段を降り、また厚い扉を開く。
そこからが、イリスの収容されている最下層。死刑囚のみが収容される地下四階だ。
やはり悪臭がひどい。
地下三階のように、囚人達を心身ともに追い詰めるための花や虫が放たれてはいないものの、不潔な環境から自然発生した虫は多少なりとも生息し、やはり壁面や鉄格子を這っている。
とうに食欲を失った囚人が食べ残した食事にたかる、小さな粒の集合体も、それがやがて成虫になって空を飛ぶ様も、そうした点では上の階と同じである。
一方で、地下三階を花粉と小生物の楽園としていた大親分、黒い花などは咲いておらず、そうした意味ではまだ地下三階よりはましと言えるかもしれない。
死刑囚のみが収容される階層なので、これから死ぬ者に何一つ手を施す必要はあるまいという、良くも悪くも王国側の、冷たい意志の表れだ。
「ここだ。
扉は開けんが、イリスと話すことは出来るだろう」
「……ありがとうございます」
多少ぐらいは悪臭にも鼻が慣れてきて、苦しい表情ながらも息が出来ているニトロが、看守長に案内されて辿り着いた地下四階の最奥。
女王暗殺の容疑をかけられた死刑囚が投獄されているという独房の扉の前、ニトロは鉄格子がかけられた窓から中を覗き込む。
「……イリス、いるのか」
「!!」
薄明かりに照らされた独房の最奥、暗い一つの丸い影が、ニトロの声に反応してもぞりと動いた。
明るい色をした髪だから、ニトロにはそれが膝を抱えたイリスだとすぐわかる。
だが、呼びかけた声に顔を上げたイリスは、ニトロから表情が窺い知れないその距離のまま、座りこんだまままた顔を伏せてしまう。
「イリス……!」
「お、お兄様……帰って、下さい……」
「は?」
「み、見ないで、ください……今の、私を……」
涙声のイリスと、鼻を刺す刺激臭から、ニトロはすぐにその言葉の真意を悟った。
死刑囚の投獄される独房には、これから死ぬ者に対し、食事と水を除いて一切の施し無し。
すなわち、用を足すための壷すら用意されていないのだ。鉄格子越しのニトロの目からも、独房内には何一つものが置かれていないのがわかる。
衣服も一度剥ぎ取られ、薄汚いぼろ布のような囚人服を着せられた彼女が、こんな場所で湯浴みも出来ずに何日も閉じ込められていたのだ。
年頃の少女が、絶対誰にも見られたくないような、汚らしい姿になっていることは想像に難くない。
「……イリス、顔を上げてくれ!
会いに来たんだ! ナナリー様にも許可を貰ってる!」
「ぐすっ、うぅ……お、お兄様……」
「お前にずっと会いに来ることも許して貰えなかった!
でも、会ってもいいって言われたら会わずにいられなくって!
頼む、顔を見せてくれ! ずっと離れ離れだったから、だから……!」
自分の預かり知らぬ所でいつの間にか牢獄送りにされた妹と、その時以来一度も会えなくなってしまったのは、まさにニトロからすれば晴天の霹靂。暗黒の日々の始まりだった。
一目妹に会いたい、ただその一念でここまで来たのだ。
この日ナナリーが、イリスに会いたいかとニトロに問い、それに即答した彼は公式の許可を経て、囚人となった妹との面会を許されて、今に至っている。
「お前がどんな姿になってても笑うもんか! お前が一番つらいんだろ!?
頼むよ、こっちに……俺に、お前の顔、見せてくれよ……!」
「お……おにい、さまぁ……」
今の姿を見せたくないという妹の気持ちを理解しつつも、今のニトロは止まれない。
そうした彼の必死な叫びは、膝と胸の間に額を潜り込ませていたイリスの心を揺さぶり、悲しみとは違う意味での涙を溢れさせる。
薄暗く孤独なこの独房にて、絶望の毎日を送っていた彼女をして、頼もしい兄との再会は、陽の光差さぬ地下牢獄に差し込んだ曙光に等しい。
涙も拭かずに立ち上がったイリスが、よろよろとした足取りでゆっくりとニトロの方へと歩いてくる。
心身ともに衰弱しきった彼女の足取りは痛々しく、ただそれだけでニトロの胸を締め付ける。
愛する妹が近付くにつれ、鼻を刺す匂いもきつくなるが、今のニトロにはそんなことすら頭に入らない。
鉄格子を握り締め、イリスが近付く姿から目を離さないニトロの胸中には、大事な妹がここまで追い詰められ、何も出来ない自分の無力さへの憤りしかない。
「イリス……!」
「さ、触らないで……! 今の、私は……」
「大丈夫だ、気になんかするもんか!
触れさせてくれ! 手を出して!」
鉄格子の間から手を差し伸べるニトロに、イリスは一歩退いてでも逃げようとする。
汚い体の自分に触れたら、ニトロの手までも汚れてしまうからだ。こんな劣悪な環境で、手を洗う水すらも与えられていないイリスの手は、舐めればお腹を壊すほどに真っ黒だ。
「イリス!」
「う……ううぅ……」
それでも自分を求めてくれる兄に嗚咽しながら、イリスは左手を胸元でぎゅっと握り締め、うつむいたまま恐る恐るの右手を差し出す。
手の届く所までイリスの手が伸びてきた瞬間に、迷わずニトロはそれを握ってくれる。
そのまま引き寄せ、少しでも近付きたいとしてくれるニトロの力により、イリスは弱った足でぐらつきながら引き寄せられる。
「おにい、さま……」
「転ぶなよ、怪我するぞ。
ああ、イリスなんだな、やっと会えた……!」
「ふっ、ううっ……うえぇぇ……!
ひぐっ、ぐずっ……!」
幼い頃、広い城内でかくれんぼした時、結局夜まで兄に見つけてもらえなかったイリスは、寂しくなって泣きながら姿を見せたことがある。
そんな時に、見つけてあげられなくてごめんな、なんて言って、手を引いてくれるのがこの優しい兄だった。
温かい、大人になったその手で握られた温かみは、寂しかった今のイリスの脳裏に、そんな思い出を想起させるのだ。
子供の頃のようにぐずり泣くイリスの姿を見て、ニトロだって嫌な涙が溢れそうになる。
ただただ無実の罪でこのような場所に幽閉される妹が、あまりに哀れで胸が引き裂かれそうになる。
その両手で妹の手を握るニトロ、兄が与えてくれるぬくもりに涙と泣き声を抑えられないイリス。
イリスが落ち着き、話せるようになるまで実に一分以上。両親を既に喪った、この世界でたった二人の家族である兄妹は、言葉なく互いの存在を掌から伝え合っていた。
「くすんっ……お兄様……今日は、どうして……?
私との面会なんて、許されるとは思えないんだけど……」
「ナナリー様が、イリスに会いたいかって俺に尋ねてくれたんだ。
はいって言ったら、一度ぐらいは面会してもいいって言ってくれた。
大丈夫だよ、ちゃんと許可も貰って来てるんだ」
ようやく落ち着いたイリスが放った最初の言葉には、ニトロはさっき叫んだ中にあった一部の復唱をする形になった。
何でもいい、対話さえ出来れば。ただこの妹と久しぶりに話せるだけで、今のニトロにとっては嬉しい。
「そ、そうなんだ……
でも、それって……」
「どうした?」
「わ、私を処刑する前に、一度会わせる温情……だったり……」
こんな場所に長い間閉じ込められていると、弱った心が後ろ向きな発想ばかり抱いてしまうのだろうか。
ニトロに握って貰えている手の震えがわかりやすいほど、イリスは表情に怯えの色を表している。
「……大丈夫だよ。
俺はもちろん、ダウィラス様も、他の家臣団の人たちもイリスの執行には反対してる。
流石のナナリー様だって、あれだけ反対されてれば、独断でお前を極刑になんて課せないはずだよ」
「……ほんとに?」
「ああ、本当だ」
語り始める直前には流石に少しの間が開いたが、ニトロは上手に嘘をついて、イリスを安心させようとする。
家臣のごくごく一部がナナリーに、イリスの処刑について疑問を呈していることなど、多少の真実が混ざっているから、嘘にしたってそこそこの信憑性が増す。
ナナリーが意固地な姿勢を貫いていることまで、わざわざ真実としてイリスに伝える意味はない。
「俺が、絶対になんとかしてやる。お前を死刑になんかさせない。
お前がナナリー様に毒を盛るなんて、やるわけない奴だって俺わかってんだから」
「うん……」
「待ってろよ。必ず、そこから救い出してやる。
でも、ナナリー様にまた会えても、あんまり責めるような顔しちゃダメだぞ?
あの人だって毒を盛られて、苦しい想いをしたのは本当なんだからさ」
「わ、わかってる……
あんなふうに疑わしくなっちゃってるのも、毒を盛られたのが本当だからだもんね……」
王室入りを控えて上品口調を整えてきたイリスだが、余裕がないのかちらほらと素の口調が出てもいる。
ニトロと久しぶりに会えたことや、彼の励ましが、彼女を相当に心安らげている表れでもあろう。
昔はこうして、普通の口調で友達や俺とも話していたなぁと、ちょっとニトロも懐かしくなる。
「もう少しの我慢だからな。
絶対、何とかしてやるから」
「うん……」
「――失礼、そろそろいいかな。
名残惜しいだろうが、あまり長い時間の面会を許すことは出来ん」
「はい。
すみません、わざわざお付き合い頂き本当にありがとうございました」
短く、少ないやりとりだったが、ニトロもイリスも最愛にして唯一の血族との語らいには、互いにおおいなるぬくもりを得られただろう。
もっと話せればもっと良かったが、やはり今はイリスも重罪人扱いの身だ。
看守長の、ほどほど未満に面会を遮る宣言にニトロは素直に従って、イリスと握り合う手の力をゆるめる。
それに伴い、イリスも引き際を誤らず、自分からニトロの手を離すのだ。認めたくなくたって、自分の境遇を理解して、あるべき挙動を表せるこの姿は、17歳にしてよく出来たものである。
「じゃあな、イリス。
今度は、ちゃんと外で会おうな」
「はいっ……!」
鼻をすすって、精一杯の笑顔を作って見送ろうとしてくれるイリスに見送られ、踵を返したニトロは独房の前から去っていく。
ようやく生きた妹と、一度再会できただけでも、ニトロの心は相当に癒された。
一度通った地下三階、地下二階、臭くて汚くて気分が悪くなる帰り道も、行きに比べればまだましに感じるほど。
寝ても覚めても、今日突然ナナリー様が、イリスの処刑決行を言い出しやしないかと恐れるばかりの日々の中、今日のイリスとの面会はニトロにとって、暗闇の中に突如光が差したほどの出来事だ。
地下牢から出たニトロは、一度体を清めたのち、今は自室におられるナナリーに会いに行く。
そもそもイリスを幽閉しているのはこの人とて、それでなお面会を許してくれた気遣いには、やはり礼の一つは述べにいくべき場面である。
「ナナリー様、ありがとうございました。
深きご慈愛、心より感謝致します」
「うむ……まあ、妾も数日考えてみたが、やはり刑の執行にまで踏み込むのは早計であったようにも思う。
勿論、イリスが犯人であるという証拠が出てくるならば容赦はせぬが、せめて真実の解明を済ませてからでもよかったのは確かなのであろうな」
ニトロも思わず目を丸くしそうになったが、今日のナナリーは昨日までより、随分と態度を軟化させていた。
ニトロを見上げる形のナナリーだが、その眼差しにも尖りが無い。
イリスを庇おうとするニトロまで敵視していたかのような昨日とは一変、改めて妹を投獄された兄の気持ちに気付いたかのように、ニトロを気の毒そうに見下ろす優しげな目である。
「ナナリー様……」
「刑の執行を急がず、結論が出てからでもいいはずだと唱えてくれたおぬしや、ダウィラスのおかげで少しだけ頭が冷えた気がする。
……妾もまだ、イリスが犯人である説を捨てたわけではないがのう。
だが、おぬしらの言うとおり、こうして一考する必要があったことは、やはり認めざるを得ぬところじゃ。
そうした意味では早計な妾の言動を、一度詫びておくべきなのかもしれぬな」
「いいえ、そんな、滅相もありません。
ナナリー様こそが、何者かに毒を盛られて最も苦しんだ当事者です。
激しい感情を抱かれるのが当然であって、俺にはそれを過失だと責める気持ちは抱けません」
目上の者が折れてくれるなら、部下はそれを存分に汲むのもまた、主従関係の習わしだ。
ニトロも心がもう充分に大人のそれであり、無実のイリスを処刑しようとしたのがこの人であるとは言えど、その立場ゆえの激情であったことを理解する発想を持っている。
遅きに失する前であるならば、どの口がという感情も、ニトロの方には生じない。
「……まあ、その、アレじゃ。
言うても、妾がこんなことを言うておったとは、まだダウィラスには言わんでおいてくれ。
これでも女王様やっとるからの。言うておること、わかってくれる?」
「はい、勿論です」
ナナリーと二人きりのこの謁見の間、家臣に詫びたナナリーの姿というのは、広くは周知させない方向で。
間違いを認める姿は美徳だが、お偉い様がそれをやる頻度を高く印象付けると権威にも響くので、そうした場面の周知は必要最小限で結構である。
ナナリーが公式的に頭を下げることがあるとすれば、もしもイリスの無実が証明され、彼女が開放された時にでもすれば充分というものだ。
「イリスが無実であると主張するのであれば、ちゃんとその証拠となるもの、あるいはそれ以外に犯人がおることを示すものを呈して貰いたい。
それを見ずして、やはり第一容疑者のイリスを解放することは叶わぬ」
「はい、存じております」
「間違いが起こらぬと望むのであれば、それが間違いであると証明して欲しい。
期待はしておる。精進して臨んでくれい」
「はいっ」
締めの言葉を頂いたニトロは、ナナリーの部屋から退出する。
今日はまだ早い時間帯だ。まだまだ活動的に動くことが出来る。
イリスの無罪を証明するため、資料室に行き、諜報員に話を聞き、ダウィラスに相談し、何かしらの進展を臨めないかと奮闘する一日が続いていく。
偏にそれは、妹を救うため。
本来の衛兵業が少し疎かになりながらも、道を踏み外せば一生後悔するこの戦いに、ニトロは一心不乱の精神で懸命に立ち向かっていた。
ナナリー様も、きっと話せばわかってくれるはず。
この日ニトロは、事件以降、最も強くそう信じることが出来たはずだった。
夜遅くになっても、ニトロは自室で集めてきた資料に目を通し、長い夜更かしを続けていた。
彼が最近、寝る間を惜しむ時間の使い方をしているのは、城内みな知っていることである。
妹の命が懸かっているんだから当然という理解も、睡眠不足で少し目に力がないことに対する心配も、最近のニトロには等しく集まっている風潮だ。
あれだけ先日はナナリーに、夜更かしなんてするから風邪を引くんですよと説教していたニトロだが、状況が状況なので誰もからかえない。
唯一の血縁者の命はおろか、罪人となるか否か、名誉まで懸かっているこの状況、今のニトロをそうした冗談でつつける者だっていまい。
すべてが良い方向に解決するなら、後からそういういじり方をしてやろうと計画立てている兵士などはいて、城内でもニトロの努力が結実することを願っている者は、案外少なくないようだ。
「……ニトロ、起きておるか?」
「ん……ナナリー様ですか?」
毎夜空が白み始める前後ぐらいまで、自室での調べごとを絶やさなかったニトロだが、訪問者が訪れたのは今日が初めてだ。
それも予想外の人物であり、ノックして声をかけてくるその人に驚きつつ、ニトロは部屋の鍵を開けて扉を開放する。
声の主さまは相変わらず背が小さく、お寝巻き姿でニトロの顔を見上げている。
「すまぬな……忙しかったかのう」
「いいえ。それより、どうされたのですか?」
「いや……なんだか、久しぶりに二人きりで話がしたくなってのう……
あの一件以来、形はどうあれおぬしと話す機会はめっきり減っておったしな……」
ナナリーとニトロの間に直接的な禍根があるでもなく、そこにあったのは意見の対立のみ。
ニトロの話を聞き入れなかったのはナナリーの方だが、まあまあ発想としてはさほど矛盾していない。
元より二人は親しい婚約者同士である。
「お入りになられますか?
それとも、俺がナナリー様のお部屋に伺いましょうか?」
「んや、屋上にでも……よくそこで、二人だけでお喋りしたじゃろ?」
「そうですね……久しぶりにそうしましょうか?」
「うむ」
昔はニトロが、ナナリー様の部屋に訪れるなんて畏れ多いと言ったり、ナナリーの方が男の部屋にずけずけ入るのを遠慮したりで、二人が二人きりで語らう部屋というものが無かった時期がある。
そうでありながら婚約者同士の二人、夜に星を眺められる屋上へと赴いて、二人だけの秘密の会話をすることがしばしばあったのだ。
そうした二人の行動は、既に城内でも周知されているものであって、夜に屋上へと向かったナナリーやニトロについては、誰も後を追わないようにという暗黙も存在する。
ニトロとナナリーは屋上への道を進み、夜警の兵士とすれ違いながら、向こうも敢えて目は合わせない。
お二人だけの時間をどうぞ、と、挨拶すら省いて邪魔しない気遣いがあるわけだ。
「……イリスのことについては、またじっくり話すことにしよう。
おぬしが集めてくれるであろう情報を、まとめて妾に伝えてくれればいい。
それが信用に足るものなら、イリスの処遇についても一考しようと思う」
「はい」
歩きながらのナナリーは、誰もそばにいないタイミングで、そうした優しい言葉をニトロに向けてくれる。
現時点ではイリスの処刑を頑なに推しているナナリーだから、聞き手があり得る中でそうした変節を、あまり表面化させないようにしているのだろう、とニトロには推察できる。
移り気、気分屋の権力者は、従う者を不安にさせることも多いので、わざわざそう思われ得る姿を進んで人前に晒さない方がいいこともある。
ニトロにとっては本当に、今日のナナリーの態度ひとつひとつが、かすかな安楽をもたらしてくれるものだ。
決して赦しの言葉が出たわけではないが、希望がある。先日までの、何を言っても取り合ってくれなかった態度とは違う。
今のナナリーなら、ちゃんと揃えるべきものを揃えてみせれば、きっとイリスを救ってくれるだろうと信頼できる。
必死で気丈を演じ、大丈夫だと自分に言い聞かせるかのように、イリスにそう語りかけていた時と比べてずっと気が軽い。
そんな折に屋上へと辿り着き、空を見上げれば満天の星空だ。
快晴の今日、月も星もよく見えるこの空は、婚約者と語らうにもそれに口を弾ませるにも適した、棲んだ風吹く心地よい夏の夜を体現していると言えよう。
「……ふふ、なんだか妙に、久しぶりに感じられるのう。
先月も、こうしてここで語らったばかりだというのに」
「そうですね……
でも、こうしてナナリー様に受け入れられ、お傍に仕えられている幸せは、俺は何度実感しても慣れません」
「そうなのか?」
「はい。この幸せを、当たり前のことだと慣れぬようには心がけていますから」
「ふふ、そうか」
手をつないだ二人は空を見上げている。月は欠けている。
暦の月の変わり目を近く控えた上天の月は細く、しかしその存在感でひとまずニトロの目を惹いている。
「なあ、ニトロ」
「はい」
「おぬしは今、幸せか?」
ニトロはほんの少し、返事が止まった。今、幸せだと言ったばかりではないか。
敢えてここでもう一度言うと、改めてナナリー様は喜んでくれるのかな、と思えば、感情を込めた声で伝えるのが最善か。
ニトロがほんの短時間で考えたのは、その程度のことのみである。
「はい。この上なく、幸せです」
「くふふ、そうか」
最愛の婚約者にして主君を見下ろし、微笑みそう応えたニトロの前、ナナリーは確かに笑っていた。
その笑顔が、細めた目の奥、黒い光に満ちたものであったことに、ニトロが抱いた強烈な違和感は、もはや言葉で言い表せるようなものではない。
ざり、とニトロの背後にて、何者かの靴が足元を擦る音がした。
二人きりでニトロとナナリーがここに来た時、敢えて近付く者など城内にはいないのだ。
そんな暗黙を知るニトロではないが、ナナリーのそんな笑みを見た直後、背後からただならぬ気配を感じたその瞬間には、ぞわと背筋を震えさせて振り向いてしまう。
ただならぬ気配。それはきっと例えるなら、殺気というものに最も近い。
振り返ったニトロの前には、欠けた月の淡い光の下に照らされた、口元を長いマフラーで隠したような、背高く太い四肢を持つ男の姿があった。
そしてその男は、セプトリア城に仕えるすべての人物と面識があるニトロをして、初めて目にする顔である。
間違いなく、セプトリア城に仕える兵士などではない。
「はが……ッ!?」
そんな人物が放つ、殺気らしき気迫にニトロが全身の毛を逆立てると同時、その男はほぼ一瞬でニトロへと急接近していた。
ナナリーの手を握った片手は塞がり、そもそも武具も無き丸腰のニトロを、男はその拳で急襲する。
ニトロの鳩尾を的確に、重く鋭い拳で打ち抜いたその男により、目と口を大きく開いたニトロが空気を全て吐き出させられる。
意識を失うには充分な威力に、必死で抗いながらも膝から崩れ落ちるニトロは、途切れかけた意識と目で、自分を気絶させんとした男を見上げている。
「かっ……がっ……」
口の端から溢れるものを止められず、腹を打ち抜いた拳の手首部分を弱々しく握り、ニトロの意識は白んでいく。
明確なる未知の敵、ナナリーはすぐそばにいる。
気を失いかけている彼の脳裏に最もあったのは、この何者かにナナリーが手をかけられてしまうという、衛兵として、未来の妻を娶る男としての恐怖に他ならない。
ナナリーの手を離したニトロが、必死で首を回してナナリーの方を向こうとする。
声は出なくても、お逃げ下さいという目を送ろうとしてのことだろうか。
「ふん」
だが、膝をついて自分の方を向いたニトロの頬を、ナナリーは容赦なく平手でひっぱたいた。
ただでさえ、膝立ちから崩れ落ちる寸前だったニトロの体が、まるで吹き飛ばされるかのように力なく倒れる。
頬の痛みが、何によるものであったのか、今のニトロには全く想像できないまま地に屈する。
「な……ナナ、リー……さ、ま……」
不可解な現実の中ででも、彼が意識を失う前に絞り出した声は、主君であり婚約者の安全を願う切実なもの。
そんな想いも、今のナナリーには全く通じぬまま――同時に、通じたからこそナナリーの表情を、にやぁと悪辣な笑みに染めさせる。
「カイザー、ようやった」
「…………」
意識を失ったニトロを見下ろす二つの影。
セプトリア王国に仕えぬ男と、セプトリア王国の永遠の繁栄を望むはずであろう女王。
謎めいた男がニトロを傷つけ気絶させたことに、ナナリーは褒めの言葉まで与え、横たわったニトロのそばへとつかつか歩み寄る。
腹を押さえて半身を下にして倒れたニトロの胸を、ナナリーはその足で思い切り蹴飛ばした。
完全に気を失ったニトロからの反応はない。死体同然の様相となった彼の体が転がされ、薄く開いた瞳に空を映したニトロが、全く動かず横たわるのみである。
「くふふふ……長かったわ……!
ヘンリーめ、見ておれよ……!」
大願叶いし如く、嬉々とした声でそう言い放ち、ニトロを見下ろすナナリーの表情は、今は誰の目にも映らない。カイザーと呼ばれた男も、今はナナリーの背中しか見えていない。
だから今のナナリーが、暴君と呼ぶに相応しき邪悪な表情をしていたことなど、決して誰も知り得ないのである。
天を仰いではぁ~っと黒い息を吐き出したナナリーの、悪意に満ちた表情を見ていたのは、それを見下ろしていた月と星のみだ。




