第75話 ~仮説とゴシップ~
「ただいまー」
「おかえり。声でけぇよ」
「あれ、もうシリカさん帰ってきてるの?」
「さっき帰ってきたとこだよ。
俺もちょっと帰り早いなーとは思ったけど」
ある日の夕方、相変わらずの元気声で帰ってきたアルミナを、ユースが玄関まで出迎えてくれる。
玄関にはシリカの靴があり、今日はもう少し帰りが遅くなりそうだったシリカが帰宅済み、という情報を目で得たアルミナは意外そうな顔。ユースも口ぶりから、それは意外めな展開であったことを示唆している。
「ま、いっか。
ちょうどいいし、ミーティングしよ」
「そうだな。もうみんな待ってるから」
しかし、それは二人にとっては都合のいい流れ。今この家には、五人全員がもう揃っている。
居間に進んだ二人を、シリカとチータとルザニアが既に着席して待っており、予定通りの話し合いの時間へとすぐに入っていける。
ただいま、おかえり、を家族同然の仲間とやりとりし、アルミナがユースと一緒にテーブルを囲んだことで、アルミナが言うところのミーティングが幕を開ける。
「じゃ、アルミナ仕切って」
「あんた隊長でしょ。あんたが仕切りなさいよ」
「お前そういうのやりたがりそうな顔してるし」
「してないもん」
「してなくても任せる。隊長命令」
「え~しょうがないな~。んじゃ私が仕切る~」
稽古してたのかっていうぐらい短く綺麗に纏まった茶番だが、仕切り役なんて柄じゃないと素で思うユースと、多人数でのディスカッションの纏め役に適したアルミナだから、ちょうどいい所に収まっている。
まあどうせそうなるよなって顔で無興味に読書中のチータと、予定調和に見えても仲良く対話する二人の姿を見て笑いを誘われるシリカとルザニア。このやりとりをどう受け取るかは、身内間でも人次第。
「シリカさんとルザニアちゃんは、今日訓練場に行ってきたんですよね。
空気どうでした?」
「…………」
「えっ、あっ、わ、私ですか?
えーっと……空気は良くなかったといいますか……」
シリカとルザニアの両方に意見を仰いだアルミナだが、シリカは黙ってちらちらとルザニアを見るのみ。
えっ私が話すんですか、と、報告はシリカの役目だと油断していたルザニアは少し慌て気味。自分が話す役になるとは、心の準備が出来ていなかったご様子。
別に全部自分が話してもいいのだが、せっかくなのでルザニアに話させてみよう、というのがシリカの思惑のようだ。なるべく後輩に、行動の機会を与えて育てようという意識である。
「あんまりこういう言い方をすると他国の兵士様には失礼かな、とは思いますが……
どこか皆さん、集中力を欠いていたと言いますか……」
「……ああ、うん。
皆様、剣に打ち込むことで何かを忘れようとするかのように、どこか散漫な印象を受けたな。
やはり、イリス様の件が尾を引いているのだろう」
話しながらルザニアが、ちらっちらシリカを見ながらたどたどしく話すので、ちょっと苦笑気味にシリカが語り役を代わる。
そんな自信なさげに語らなくても、見たままのことなんだから合ってるよ、とシリカも思うのだが、昔はユースもこんな感じの後輩だったので、なんだかシリカとしては懐かしいものを見ている気分。
「その後私は、兵士様と城内の休憩所でいくらか話を聞いてきたんだがな。
まあ、それは後で話すよ。ひとまずみんなの見解をどうぞ」
「あ、だからシリカさん帰りが早かったんですね。酒場にでも行ったのかと」
「そんなわけで今日の私は完全に素面だぞ」
「代わりにな~んかシリカさんから煙草の匂いするなぁとも思ったんですよ」
「休憩所はもっくもくだからな。だいぶかかった……けど、そんなに匂うかな」
シリカは自分の二の腕辺りに、鼻を近づけてくんくん。
休憩所で喫煙者の兵士らと話をする中で、漂う煙に触れ続けたことで、多少匂いがついているようだ。話が終わったらさっさとお風呂に入ろうと、シリカが決めたのは言うまでもない。
ダウィラスから、ナナリーが毒を盛られたことを聞いたことに端を発し、ユース達も王室周りの動向は気になる昨今だ。
あまりその進展を、ナナリーやダウィラスに直接問うのも僭越なので、少し遠巻きにシリカ達は外堀から探りを入れている。
ダウィラス辺りに直接聞くのに比べ、正確な進展情報は入らずゴシップ程度の情報しか入らないのが現状だが、どのみち王室に直接問うても、場合によっては情報操作をくらうのであまり意味がない。
情報操作と言うと聞こえが悪いが、国家の中枢に関する情報なんて、そもそも異国の騎士様にぺらぺら語りやすいものではない。
伏せたいところは向こうの都合で伏せられるので、気になって自分達で何かを調べたいなら、いくら縁ありしとは言ったってナナリーやダウィラスに直接聞くのも、必ずしも正解ではないのである。
「チータどうだった?」
「似たようなもんだよ。詮索は入れられないから新情報は何もないがな。
ただ、顧問魔導士の皆様のみに留まらず、城内全体がそわそわした空気なのは間違いない」
チータも独自に、セプトリア城の顧問魔導士の方々とお話しに行くことで、城内の空気を探りに行っている。
一方で、女王様暗殺の一件、犯人探しなど進展はありましたか、といった詮索は一切していない。単に魔導士の皆様方と、魔法学や最近の研究について、ごく普通に話してきただけである。
詮索、すなわち何やら嗅ぎ回っていることをナナリー辺りにでも知られたら、それでは心象も悪かろう。
最近のナナリーは極端に虫の居所が悪いが、ユース達はそれをさほど知らぬ上で、こういう風に振る舞っている。普通の配慮。
普段どおりの行動を不自然なく踏む程度に留め、あれこれ探っていることなど表面化させない。
「下町もなんだか、あんまり空気よくないですよ。
やっぱゴシップはちょいちょい漏れるんですかね、なんかみんなうっすら知ってるカンジですもん。
独立記念日も近いのに、セプトリア城は大丈夫なのかなって話も最近聞くようになりました」
「流石にどこまでも秘匿、というわけにはいかないんだな。
人の口には戸は立てられぬというが」
「と言うよりも、お城と関わる商人様辺りが不穏な空気を感じ取って、あとは流言ゆらゆらって感じじゃ
ないかな~とも思いますけど」
「まあ、確かに兵士様らも、さほど私達にあの件を隠す素振りは見せなかったな。
明け透けにはお話されなかったが、もう城側も周知の事実だという認識なんだろう」
ナナリー女王が毒を盛られたことなんて、庶民には黙っておきたかったセプトリアの王室だが、流石に何も起こっていないと隠し切るのは少々無理がある。
ヴィール液を盛られたナナリーの治療のために、普段は取り寄せない薬も取り寄せたし、ニトロがシェバの町に出兵したことも、知ってる庶民は知っている。
ナナリーが生死の境をさまよったということまでは庶民らも知らないかもしれないが、一週間ほど前に城で何かがあったんだな、というのは、一般人も一部は感じ取っているだろう。
そこから井戸端会議的に噂話が広まれば、流言は市民間でも、容易に広く拡散するのである。
「ちなみにアルミナが見てきた印象だと、下町にはどの程度、王室のことが知られてそうだった?」
「多分ですけど、ナナリー様が毒を盛られたってことまでは隠し通されてるんじゃないですかね。
情報通の卸売市場のお婆さんの話でも、"最近城ではニトロ様が大忙しらしい"止まりでしたから。
なんか城内でちょっとした事件があって、ぐらいのことは下町にも広がってるみたいですけど、流石に事件の内容までは知れ渡ってないんだと思います」
「アルミナいつ卸売市場なんかに行ったんだよ。
いつそんなお婆さんと仲良くなったんだよ」
「ん? 高台でご夫婦仲良く物見されてらっしゃるとこたまたま見かけて、ちょっとお話してから縁あって」
「お前また自分から話しかけたのか」
「なんかヘン?」
「ヘンではないけど……まあ、アルミナらしいな」
普通、名前も知らない老夫婦をふっと見かけて、初対面で話しかけに行くかと。
とっくに王都内で友達百人級のアルミナだが、在国し続ける限りまだまだ増やしそうだ。
それだけ友達、知り合いが、老若男女総じて山ほどいるアルミナだというのに、そんな彼女に特別な人だと見初められていることが、どれだけ凄いことなのか無自覚なユースなのがまた。
「ゴシップ飛び交ってますよー。
誰かが汚職でもしたのか、いやいやセプトリア城の勤勉な人達がそんなことするはずないだろ、とか。
まあ総じてみんな不安がってるのは、もう二週間切ってる独立記念日が何事もなく迎えられるのかっていうのに纏められるわけですが」
「知らんぷりで話を聞くのも大変そうだな」
「別に苦労はしませんけどねぇ。口滑らせないよう神経は遣うかもです」
「独立記念日っていうのは、アルバー帝国から独立した記念日のお祭りのことでしたっけ」
「そそ、年に一回の国内最大のお祭り。
騎士団が有名なエレム王国では年一で創騎祭あるけど、こっちの国でのそれみたいなもんかな」
下町の皆様の空気を感じ取ってきたアルミナの耳には、城内で何が起こったのかまでは知らぬ人々の、勝手な憶測が飛び交うゴシップが入ってくる。
内容を聞くに、実際に何があったのかが庶民に知れていたら、尾ひれやら何やらついて、もっとざわつくような噂話に膨らんでいたことが想像に難くない。
結局、庶民を不安がらせないよう、女王暗殺未遂の件は秘匿とした、王室側の判断は適切だったのである。
そんな人達から、真相を知りながら、知らぬ体で聞く側に立つアルミナが、口を滑らせたりしないようにしながら相槌を打つのもなかなか大変であろうという話。
幸い、庶民の一番の関心は、間もなく訪れる国内最大の祝日、独立記念日というものに向いている。
年に一度の最大のお祭りであり、それがやんごとなく行なわれるかどうかをみんな一番気にしているらしく、推理と言うより希望的観測で、何も大事は起こっていないと論じる人が多いのは僥倖である。
おかげでばたつく王室の空気を感じ取りつつも、噂が膨らみ続けていないのは、余計な混乱を招かなくてよい。
「ただ、そのぶんなんですかね。
城の方では庶民側と比べて極端なぐらい、空気張り詰めてるのは」
「……ナナリー様も、なんだか様子が違ったしな」
「え、ユースの目から見ても明らかなの?」
「お前その言い方、俺は人の顔見てなんにも察せない奴みたいに言ってない?」
「そうは言わないけど、あんた比較的ニブいじゃん」
「鈍いのは認めるけど、そんな俺でもわかるぐらいにナナリー様ちょっと様子がおかしいよ。
……あれ、結局お前の言うとおりか」
「あんたニブいじゃん」
「二回も言わなくていいっつーの」
言い返したって鈍いものは鈍い。恋心ふたつ向けられて気付きもしない奴なんだから。
謙虚に自分の気付きの弱さを認めるユースだが、普通程度の観察眼は彼には備わっている方である。あっち方面に対して恐ろしく疎いだけであって。
アルミナの言う"ニブい"とユースの言う"鈍い"が噛み合っていないことに、チータはあくびが出そうな心地である。
当事者のシリカなんて、どういう顔すればいいのかわからず、緊張気味のルザニアの背を撫でて誤魔化す始末。
「ナナリー様どうだった? 露骨に雰囲気違う?」
「いや、表面上はいつもと変わらず、にこにこして迎えてくれるんだけど……
なんか、おべっかひどいって言うかなぁ……今までもちょっと見上げ気味に色々言って下さってたけど、最近はなんだかちょっと極端だよ。
俺は色々知ってるから違和感感じるだけなのかもしれないけどさ」
「おべっかって、またヘンな単語出てくるわねぇ。いかにもヘンだわ」
「いやホントそんな感じだよ。
やたら立ててくるもん、わざわざフラックオース組を捕えた時の話とか今さら引っ張り出してきてさ。
褒めて下さるのは嬉しいけど、その話を今する? みたいな」
ユースは今も、風邪が治った後のナナリーには、朝の挨拶など顔を合わせに行っている。
あの一件以降、どうもナナリーが過剰にユースに謙るような姿勢であることには、ユースも強い違和感を感じているようだ。
元より偉大な騎士団の一員たるユース達に、ナナリーが一定の敬意を表し続けてくれていたことは事実だが、それにしたって最近は極端。
フラックオース組の一件など、もう数ヶ月前の話である。そんな話を引き合いに出すぐらいなら、まだ先日のリープ達による、王都侵略を退けた時の話の方が真っ当だろう。
それも言われてそれでも飽き足らず、ハフトの都のことやらアルバーシティのフラックオース組のことやら、あれこれ用いてユースら騎士団を褒めちぎってくるから、最近おかしいなと思うのである。
「王族、貴族ってのは敵を作るまいとする知恵には秀でているからな。
明らかに何かしらの意図が見え隠れする」
「チータはそう思うんだ」
「好戦的な国家ならまだしも、小国のセプトリア王国は、争うことより敵を作らない思想の方が強そうだ。
いよいよとなれば武器を取ることも、かつて独立した経緯からも明らかだが、基本的には自分達の障害になりそうな相手とは、敵対せずに利害を一致させ、敵に回さないようにすることを意識するだろうさ」
「……障害って、俺?」
「僕にはそう見えるね。
これから何かするにあたって、ユースを含む僕達5人に、邪魔をするなと釘を刺しているようにも感じる。
上流社会触れが少ないユースがナナリー様からのおべっかに、そういう真意を感じ取ることは難しいだろうが、僕がその場にいてナナリー様の態度を見ていたら、そういう意味だろうと解釈するだろうな。
まあ、実際その場にいたわけじゃないし、ユースの話を聞いてそう思うだけだが」
チータは祖国では貴族の生まれ、しかも結構な名家で、帝国のお偉い様とも多少接点のあった立場である。
貴族同士の権力争いなども間近で見て育ってきた立場なので、田舎育ちのユースやアルミナには想像もつかない、上流社会の押し引きに関しては、話半分でも想像に及べるほど秀でている。
経験則からその辺りをわかりつつ、後から言おうと思っていたシリカをして、ユースもアルミナもいい参謀気質の同い年、友人と巡り会ったんだなぁと、三人の会話は微笑ましい。
ユースとアルミナを育ててきたシリカからしたらつくづく感慨深いことだが、ユースとアルミナとチータの三人が揃っていれば、独り立ち三人ぶん以上の班が完成しているのだ。
自分がいなくても可愛いこの三人が何でもやっていけるというこの事実、師匠としては寂しさも感じるが。そう感じる時点で、シリカもシリカで後輩が可愛すぎて、子離れできていないという証拠とも言う。
「積極的な詮索を入れていくことは今後も出来ないが、向こうの動向には敏感でいた方がいいだろうな。
今はイリス嬢が第一容疑者として堅く見られているようだし、女王暗殺の主犯ともなれば死刑は免れない。
そんなことになったら、ニトロもたまったものじゃないだろう」
「……思うんだけど私、やっぱイリスさんがそんなことする人には思えないんだけどなぁ」
「そりゃ俺もそうだよ。めちゃくちゃいい人だったじゃん」
「それに関しては僕も同意している」
「あ、そうなんだ……
ちょっと悪い言い方するけど、チータはもっと辛辣に、客観的?な意見出すと思ってたよ」
「イリス嬢だろ? あれが人に毒なんか盛れるタチなわけないだろ。
顔見ればわかるだろ、流石に」
「いやごめん、もちろんチータはわかってくれるとは思ってたけどさ。
あえてこう、ディスカッションの場では"断言は出来ない"とか言うかなーって」
「ああ、まあ、そういうところは僕にはあるな。一応反論側も必要だしな」
「だから私もさ、チータなら、人は見た目だけで判断しきれないし、そういう可能性も考えた方がいいとか言うかなーとは思ってたよ?
それすら無いってことはよっぽどなんだ?」
「無い無い、無さ過ぎる。だいたいどこに動機があるんだ。
想い人のハルマ様を追放された恨みで毒を盛ったとか、飛んでせいぜいそんな単細胞ゴシップだろ。
馬鹿馬鹿しい、そもそも仮にイリス嬢がナナリー様に毒を盛るにしたって早すぎる」
「早すぎる?」
「ナナリー様はイリスの実兄の婚約者だろ。
仮に殺すにしても、ナナリー様がニトロと婚儀を交わして、正式にニトロならびにイリス嬢が、女王の親族になってからの方がいいに決まっている。女王亡き後、実権だって回ってき得るんだぞ。
なんで数年後に実兄と結婚が決まってる女王様を、こんな早くに消すんだよ。仮にイリス嬢が見た目によらない悪女様だったとしても、そこまで頭が回らない馬鹿だと思ってたらそれこそ侮辱だよ」
「な、なんていうか、チータって……」
「ホントに私達と同い年?」
「育ってきた世界が違う。
代わりにお前達みたいに、人を見る目がありながら純真でいられる魅力は僕には無い」
チータは冷徹に物事を見られる観点がもう備わっており、そうした大人になってしまっている。これはこれで、社会を力強く生きていける強さだ。
だから、ユースやアルミナのように、理屈より感情で人を信じるか信じないかを選べる生き方というのは、今やチータには出来ないのだ。
そういう生き方の方が楽しいのも知っている――悶着を経つつも自分のことを信じ続けてくれる二人に出会ったからこそ、チータもそうした生き方が人を幸せに出来ることもわかっているのだが。
内心では今も、ユースやアルミナのことを優し過ぎる人間だと評しているチータだが、それと友人同士であることに安息を得ているチータをして、やっぱりそれって魅力なのである。
「何にせよ、近々動きはあるってことだろう。
年間最大の祝日の前、独立記念日までのその一件を片付けてしまいたいっていう意識は、少なくとも王室側にもあるはずだからな」
「……イリスさんの容疑、晴れるといいけどなぁ」
ナナリーに敵視されているイリスだが、彼女が犯人でないという推察は、ユース達が共有する結論だ。
確かに真実は確定していない。だが、間違った裁きが下されることは面白くない。知己の命がかかっているとなれば尚更に。
ささやかながらも行動し、ナナリー達の動向をうかがうユース達だが、今のところはやはり大きな動きになど踏み出せない状況だ。なにせ、自分達は余所者なのだから。
それに歯がゆさを覚える程度には、ユースだって今やこのセプトリア王国での出来事が、他人事には思えないのである。
ナナリーと出会えたから。ニトロと友達になれたからだ。
悪しき運命を目の前にするような心地ながら、身動きがとれないこの心地は、まるで透明の密室で陽にじりじりと身を焼かれるような心地である。
真昼に夏日が昇るこの季節、そんな例えがすぐに閃くのも、皮肉な空模様というものだ。
「ですから何度も申し上げているように……イリスが犯人であるのは、やはり不自然なのです。
もしも彼女が犯人であれば、ニトロがナナリー様と婚姻を結ばれてからの方が、彼女にとっても得策でしょう」
「理由になるか、そんなもの。
一度生じた殺意というものは、あらゆる打算を抜きにして先んじるものじゃ」
その日の夜、ナナリーの自室にて、部屋の主とダウィラスが何度目もに渡る問答を繰り返していた。
イリスの弁護を継続するダウィラスと、それに反して頑なにイリスを疑ってやまないナナリー。
ダウィラスが徹底してイリス犯人説を否定するのが、ひいては女王の意見を真っ向から否定するのがそこまで気に入らないのか、どうにもナナリーがダウィラスの箴言を聞き入れる気配が未だに無い。
「なあ、ダウィラス。
おぬしは本気で、誰かを殺したいと思うほど憎く感じたことはあるか?」
「ありますよ。アルバー帝国が健在であった頃、友人であった商人がアルバー帝都に赴いたまま、二度と帰ってこなかったことがありましたからね。
あの時の帝国側からの、つまづいて転んで死んだの報を聞いた時は、感情論で帝都に乗り込んで帝国兵の一人でも殺してやろうかと思いましたから」
古くはそうして、暴君治める帝国に虐げられてきた過去も持つセプトリア王国だ。
当時のダウィラスの友人というのは、アルバー帝国に赴いたはいいが、皇帝あるいは帝国兵の気に障り、身勝手な刃の錆にされたということなのだろう。
セプトリア王国の民をアルバー帝国のしきたりでどう裁こうが勝手、それを象徴するような、転んで死んだという帝国側の馬鹿げた説明が表すとおり、そんな時代が実際にあったのである。
「妾も父上が世を去られた時……確かに遺言として、アルバー帝国を討てというのを遺されていたのもあった。
だが、それに踏み出したのは妾にも確かに耐え難い怒りがあったからじゃ。本来の予定よりも随分と早い出兵であったことはぬしも知っておるな?」
「あれは結果的に帝国側の出鼻を挫く、奇襲的な先制攻撃となりました。
戦略的な早駆けであったことは周知の事実です」
「……今だから言えることじゃが、私情が挟まっておったことは否めんという話をしておる」
革命からの独立戦争、それに至った経緯はナナリーとダウィラスの間で共有された過去だ。
当時はダウィラスの父がナナリーの大臣を務めていたし、ダウィラス自身も既に執政職の末席に、若くして就いていた立場である。
当時のナナリーは13歳の女王様であり、私情が挟まっていたという告白も、今となっては思い出話の域。
「本当に、心からの殺意を抱いた時というのは、理性よりも感情が優先され、先走ることも不思議ではない。
人間社会において殺人を起こせばどうなるか、大人も子供もわかっておるはずじゃ。
それでもそうした罪行が無くならんのは、それが否定できぬ現実があるからではないのか」
「確かに一理ございます。
ですが、本当に実行に移すために超えるべき理性の壁とは、そうした理論で容易に語れるほど薄くも低くもありません。
心底憎い相手が目の前にいても、手を出すことすら耐えられるのが理性ある人間です。
刃を握って振り下ろすこととは、その何倍も理性によって引き止められるものです」
「大臣として、為政者として、それはあまりにも甘い考え方ではないのか」
「一般的にならこのような理屈で甘くは見ません。
ですが、今回の当該者はイリスです。
彼女がそんな、憎しみに身を任せ、理性も失って毒を盛る人物であるとは流石に推察することが出来ません」
「……揺るがぬのう」
「私見ではございます。ですが、詰めれば詰めるほどにそうなのです」
今やダウィラスも、やんわりとナナリーを諌められる境地に無い。
僅かでもナナリーの決意を肯定すれば、明日にでも極刑執行の流れがあり得るのだ。
女王に反発することで身を危うくすることあろうとも、信念を以ってダウィラスはナナリーに逆らっている。
間違った道に主君が進んでいると見た時に、手をこまねいて眺めているようでは側近を名乗ってはいけない。
「詰めれば詰めるほどにと言うが、イリスにも動機はあるじゃろう」
「わかっていますよ。彼女がハルマに懸想していたことは周知の事実です。
不本意ではありましょうが、ナナリー様が事実上は彼を追放するような形になったのだと、イリスが
解釈していても不思議はありません。逆恨みの線はありますね」
「不充分だと言うか」
「それが理性を超えた衝動的な殺人の動機には不充分だと思いますよ」
「愛と憎しみが裏返った時の恐ろしさを、ぬしは全くわかっておらん」
「軽視してはいませんよ」
「ぬしは男じゃ」
「恋に病む女の恨みは恐ろしいと、そう仰られますか」
「女の妾とてそれを知り尽くしておるとは言わぬ。
だが、それは時に計り知れぬほどの悪意と行動をもたらすこともあると歴史が物語っておる」
男女の差はあるか否かはさておいて、長い歴史を遡れば、武人でもない宮女や妾が、政治に大きな影響を及ぼすほどの敢行、あるいは蛮行に及んだという史実も少なくない。
もっとも、それは語られやすい男の武勲などと比較して、毛色が違うゆえにいっそう彩られて語られることの多い事象なので、強調されがちな側面もあるのは否めないが。
一方でナナリーの言うとおり、そうした史実があるというのも、否定し難い事実である。
「イリスがそうではないとは言い切れぬ。
妾も元を正せば、あやつがそんなことの出来る友人だとは思っておらんかった。
だが、毒を盛られたことは疑いようのない事実。
そして辿れば辿るほど、あやつ以外に毒を仕込めた者はいまい」
「…………」
「否定するぬしに免じて再考の時間は設けてある。
だが、妾は結論を変えるつもりはないぞ。何度説得されてもな」
「……わかりました。
では、明日もまた参ります。互いに、もう一考してからお話致しましょう」
「うむ、何度でも努めてみい」
聞く耳自体は持ってくれているが、最後は結局心変わりなしの結論。これが連日続いている。
諦めずに粘り続けるダウィラスは、今日もひとまず引き下がりはするも、明日もまた同じ問答に臨む決意だ。
捨て台詞のような言い草で見送るナナリーから、容易な心変わりは期待できないが、それでも人の命が懸かったこの局面、ダウィラスは戦い続ける覚悟を固めていた。
「……ダウィラスめ」
はぁーっと長い溜め息のあと、小さくそう呟いたナナリーは、夏の夜にバルコニーへと顔を出す。
夜空を見上げ、柵に手をかける幼い姿は、傍から見る限りはあどけない。
だが、空を見る細い目は、まぶたの間の瞳から厳しい光を発しており、その横顔は怒りを露にする、近寄り難き女王のそれである。
そうしてじっと、流れ星を待つかのように、ずっと空を見上げ続けるナナリーの佇まいを、就寝時間も近付いたこの時間、王国の誰一人として見ていない。
夜長の女王様の悩みなど、庶民は誰一人知る由もないのが普通のこと。
ち、と小さく舌打ちしたナナリーの、一人の時にしか絶対に見せない表情もまた、誰にも知られぬ彼女の顔である。




