第74話 ~豹変~
「……なあ、ダウィラス。ニトロはまだ戻らんのか」
「予定通りにいかぬことも、状況次第ではございましょう。
彼も重々約束については承知のはずです。信じてお待ち下さいませ」
「…………」
セプトリア城の玉座では、ナナリー女王が手の甲に頬杖をつき、かなり不機嫌な顔でダウィラスに
話しかけている。
逆の手では、指先でかつかつと肘掛けを叩くほどで、よほどのご立腹であることが明らかだ。
今に限った話ではなく、毒から立ち直って女王として復帰した昨日から、ずっとナナリーはこんな機嫌である。
昨日と今日は、城内誰もがナナリーに話しかけることを、恐れて敬遠気味だったほど。
二日前の夜、復調した明日からは王政に復帰、さっそくイリスを極刑にかけてやると目をぎらつかせていたナナリーに、ニトロが両膝をついて直訴した。
ヴィール液をセプトリア城に売りつけたのが、シェバの町のパトル商会であることを突き止めたニトロは、そこに質疑応答して真相を探りたいとナナリーに申し出たのだ。
それによって何らかの進展があるはず、妹のイリスが毒を盛っただなんて何かの間違い、せめてそれが済むまで刑の執行は待って頂けませんかという、必死の必死の懇願だった。
いくつか問答は発生したものの、渋々それを承諾したナナリーにより猶予が与えられ、昨日執行されるはずであったイリスの極刑は、執行されずに見送られている。
その時のナナリーの憮然とした顔といったら、きっと直訴するのがナナリーの婚約者であるニトロでなかったら、話も聞かずに突っぱねていたことが容易に想像できたものだ。
昨日の朝、さっそくセプトリア王都を出発したニトロは、兵を連れてシェバの町へと向かった。
向こうで真実のほどとやらを確かめて、あるいは確かめられずとも、パトル商会の構成員を引き連れてくるなりして、ニトロが帰ってくるのは今日の日没までと約束されている。
今や西の地平線に太陽も随分近付いてきた頃。
ナナリーがいっそう不機嫌なのは、約束の時間をニトロが破るのではないかという、そんな疑いもあってのことだろう。
大臣ダウィラスですら、今のあまりに不機嫌な女王様の前では、対応を慎重にせねばと用心している。
「……ダウィラス、いくつか確認したい。
ニトロは、パトル商会とセプトリア城がヴィール液を取引したという、取引証明書を見つけてきたと言うたな」
「はい、確かに。
それによって、ヴィール液の出所はパトル商会であると判断したわけですから」
「その取引証明書は、取引主――妾はそれがイリスだと思うておるが、取引主の欄は空白であった。
そうじゃな?」
「その通りです」
「しかしその書類には、妾が目を通したことの証明である王印も押してあったのじゃな?」
「間違いありません」
二日前にニトロがナナリーに提示した、取引証明書とやらについての確認会話だ。
これがそもそも非常に怪しいものであり、それについても二日前の時点でかなりの言い合いになったのだ。
セプトリア王国が取引する商業に関する書類は、必ず一度はナナリーの前に提出される。
それを見てナナリーが、問題なしと判断したら、王印なる判が押されて、女王あるいは王国の意志を以って肯定される取引と見なされるのだ。
平和で汚職も無い健全なセプトリア王国に前例は無いが、たとえば城の兵士や顧問魔導士が違法に武器を密輸して、それを見過ごしていたら国家の責任すら問われることになる。
特に城へと輸入されるものの取引証明書などには、きっちりナナリーは目を通しているわけで、例のヴィール液の取引証明書に王印が押されていたということは、ナナリーが認めた商売だと認められていることになってしまう。書面上は。
「何度も言うが、妾はあんなものに判を押した覚えはないんじゃぞ。
密輸が固く禁じられておる劇薬のヴィール液、そんなものを取引主の欄すら空白のまま提出された取引証明書に妾が判を押すとでも思うか?」
「……まさか。人間誰でもミスをするとは言うものですが、ことナナリー様がそんなものを見過ごして、責任ある王印を押すだなどとは私にも思えません」
「では何故、あれには判が押してあったのじゃ。
押してあるということは、誰かが押したということに違いはなく、そしてそれは妾ではない。
これはつまり、誰かが妾の王印を秘密裏にくすねて、それに判を押したということではないか」
「そういうことになりますね」
「そんなことが出来る者は、城内の者に限られるという仮説は昨日も話したな?」
決して悪用されてはならぬナナリーの王印は、世界に一つしか存在しない上で、ナナリーだけが保管場所を知っている。
こっそり持ち出すなど本来は相当に難しいことだ。しかし、絶対に不可能なことではない。
城内に住まう者、かつナナリーに信用されている立場の者というかなり限定的な条件がつくが、その条件さえクリア出来るなら、運と巡り合わせ次第では可能だろう。
その限定的な条件を満たす者というのには、当然事件前のイリスも含まれているのだが。
「……昨日も申し上げたことですが、仮にそれをやったのがイリスだとしましょう。
だとしても、わざわざ取引証明書を、城内に残していたことが、まずあまりにも不自然です。
現にそれによって、ヴィール液の取引相手がパトル商会だと示唆されたのが現状です。
これはヴィール液を仕入れた真犯人にとって、望ましい展開ではないでしょう」
「それは昨日聞いた。それで?」
「使い終われば用済みのその書類など、破いて燃やすなりして隠滅すべきものであり、わざわざそれを
残していた何者かに、イリスはあまりにも不適当です。
王印の件からも、現にナナリー様はイリスをより強く疑われているでしょう。
彼女が真犯人だとして、取引証明書が残存していることは、あまりにも不合理だと私は考えます」
証拠物件となり得る取引証明書を、火にくべて隠滅する選択肢は誰にでも思いつくことだ。
そうしなかったのは、敢えて残したとしか判断できない。意図あって、誰がそんなものを残したのか。
それを推察する中で、そんな犯人像にイリスは当てはまらないとダウィラスは主張する。
ダウィラスは私情のみで言えば、イリスが犯人だとは思っていない。だから弁護側に回る。
そもそも、一度容疑者となった者が本当に悪事をはたらいたか否かが完全には判明していない時、その容疑者を弁護する側が一人もいなければ、偏った見解の一方的な押しで、それが真犯人にまで仕立て上げられがちなのも真理。
ダウィラスのように、筋道立てて、イリスが犯人でない可能性を考える者が一人ぐらいはいる方が、客観的に真実を追うためには健全である。仮にそこに私情が含まれていても、形としてはこの方が正しい。
「昨夜はナナリー様も、ひとまずこのお話に納得して頂けたと思いましたが」
「一度はな。だがな、冷静に考えてみるとそもそも前提がおかしい。
その取引証明書を、敢えて抹消せずに残してあったことが不合理とは言うが、それは誰がそうしてあっても不合理なことではないか?
それは、イリスが犯人ではない根拠として語るには不充分であろう」
「……そういう見方も確かにございますが、イリスは特に不合理でしょう。
王印の件から、ナナリー様の疑いが、より真っ直ぐに向くであろうこと――今の現状を見るに、特別イリスがそうすることは不合理だと思います」
ナナリーの言うことにも一理あるとしながら、ダウィラスも持論を曲げない。
冷静に考えてみると、なんて仰ってはいるが、今のナナリーはイリスが真犯人だと信じすぎていて、とても冷静に客観的な目線で真実を追っているとは言い難い。
不機嫌な女王様との討論など誰もが避けたいところだが、ここはダウィラスも簡単には譲れないところだ。
一歩間違えば、真犯人かどうかもわからぬイリスの首が飛びかねない。
「わかった、わかった、では見方を変えよう。
おぬしはどうもイリスに肩入れしておるようじゃが、妾はそう簡単には騙されんぞ」
「……騙してはおりませんが」
流石のダウィラスも、少し違和感を感じてくる。
弁護しているだけだ。騙してなどいない。こうした見解もあると提示しているだけ。
それを、騙すなと形容するナナリーの姿には、幼い頃から彼女を見ているダウィラスに強烈な違和感を覚えさせる。
こんなことを仰る人だっただろうか。まるで別人だ。
毒を盛られたことで猜疑心が強くなり、多少は頭が固くなっていることは織り込み済みだったが、それにしても度が過ぎているようにしか思えない。
「そもそも、前提が間違っておる。
イリスは妾を亡き者にしようとし、それが失敗したからこそ最も疑われる立場にある。
あやつの持ってきた水を飲んだからああなったと、証言したのが他ならぬ妾じゃからな」
「……それは確かにそうですね」
「あやつが取引証明書を処分していなかったとしても、それはそもそも妾が生存しておらぬ前提ではないか。
まあ、百歩譲ってイリスが犯人でないとしても、同じことであろう?
ヴィール液をこの城に仕入れた何者かは、妾の死を前提に、敢えてあの取引証明書を残したと考えるのが妥当だと思うのじゃが、何か間違っておるかのう?」
「仰るとおりかもしれません」
頭からイリスを犯人だと決め付けている論調には我慢しながらも、言い分そのものはある程度筋の通っているものなので、ダウィラスもここでは否定しない。
その間、ナナリーがこの話をイリス犯人説で締め括るであろう時に備え、ナナリーの話を聞く耳を働かせていながらも、脳裏では素早く反論する準備を、理論構築を固めてもいる。
「しかし、仮にそうだとして、あの取引証明書を敢えて残す意味とは何でしょうか?」
「妾が思うに、それは自分以外の者に罪をなすりつけるためじゃと思うがな」
「……自分以外に罪を、ですか?
あの取引証明書によって?」
「妾はあのあまりにも不自然な王印を見た時、まずはおぬしを疑ったぞ」
とぼけて返したダウィラスだが、ナナリーの言葉を聞く前からその言葉の意味はわかっていた。
王印を、ナナリーの目を盗んで持ち出せる者なんてごく少数だ。
そんなことが出来る者がいるとすれば、大臣であるダウィラスや、あるいはニトロのような身近な者、あとはナナリーを幼い頃から育ててくれた女中の長であったりなど、ごくごく限られた人物に絞られてくるのだ。
そうして疑わしい序列を作った時、末席にイリスも加わりはする。ただし、末席だ。
「思うにイリスは、妾を亡き者にした後、その後は必ず犯人探しになることを想定した。
そんな時にあんな取引証明書が出てくれば、妾の目を盗んで王印に触り得るおぬしに疑いがかかることすら視野に入れておったのではないか?
それでおぬしに冤罪をかけられるなら、イリスに向く疑いの目は薄くもなろう?」
「……そんな稚拙な作戦で、あんな重要証拠を残しておくことが、釣り合うこととは思えません」
「では、あれを残しておく意味を、おぬしは他に説明できるか?」
「…………」
「なあ、ダウィラス、言葉の使い方を間違えるなよ」
「稚拙と申し上げたのは、その作戦とやらの内容のことであって、ナナリー様の発想のことではありません。
仮説を立てる際には、愚かな罪人の思考を空想することが必要なこともございます。
お気に触られたのであれば謝罪致しますが、ナナリー様への侮辱であるとは捉えないで頂きたく存じます。
そう思われては流石に心外ですので」
「……むぅ」
稚拙、の言葉にかまをかけたナナリーだが、ダウィラスは冷静に反論し、詫びつつも失態には昇華させない。
じとりとした目で見上げてくるナナリーの機嫌は悪いままだが、今の対応がこうした正解でなかったら、どんな話の流れに繋がっていたのだろう。ダウィラスが厳しく詰問される流れに陥っていたのだろうか。
ダウィラスも綱渡りだ。怒れる王君との対話は、王国においてはまさしく命懸けである。
「……論点を変えようか。
問題は、誰が、ヴィール液を手にするため、妾の王印を悪用したかじゃ。
それがわかれば真犯人の姿もはっきりしようよな?」
「確かに。しかし、それはなかなか現実的なことではありません」
「じゃが、それによって候補は絞れる。
……流石におぬしではあるまい。それは信頼している、信頼しているが……」
信頼しているけど揺らいでいる、という顔ではなく、次の言葉に困っている顔。
不機嫌一色だったナナリーの表情が、今日初めて曇っている中で、ダウィラスは次の言葉を黙って待つ。
「おぬしでも、イリスでもないのであれば……」
そこまで言っても、また言葉が止まる。
目を合わせる二人の間に、三秒の沈黙が挟まる。空気が張り詰める。
「……ニトロか?」
「ナナリー様」
「わかっておる!」
声を荒げて顔を振り下ろすナナリーの、見下ろせる横顔が震えている。
口にして後悔しているとも、そのあまりの仮説を受け入れねばならぬのかという葛藤とも、どちらとも取れる表情だ。
婚約者さえも容疑者に含める女王の苦悩を、ここでダウィラスは責められない。
女王に毒を盛った何者かは、絶対に見つけて極刑にかけねばならないのだ。
それが王国というものであり、それを委ねられたナナリーの苦しみは推して計るべきものがある。
「無い、無いと思っておるが……じゃが……」
「もう、おやめ下さい。
一人で考え続けても、猜疑心の沼に陥り思考もはたらかなくなります。
今は、ニトロの帰りを待つべき時間です」
「うぅ……」
荒い呼吸と苦しげな声。
怒りと苦悩がこれほど混じった、短い声もそうあるまい。
それを最後に黙ってしまうナナリーの隣に、ダウィラスは立ったまま動かない。体だけでなく口もそう。
かける言葉も無いし、余計なことを言ってナナリーの猜疑心をかき立てても失策。沈黙が最善策。
悩む主君を前にした大臣が、黙っていることが最善であるこの状況、それ自体が王室が正常に機能していない証拠のようなものだ。
明確に歯車の狂ったナナリーとその周囲。ダウィラスは、毒を仕込んでこの状況を招いた何者かに対する凄まじい怒りを、冷静を保つため胸の奥に封じ込めていた。
「…………む?」
その矢先のことだ。
いよいよ日没の時間を迎えようというその頃になってようやく、帰還を約束していた衛兵は、ここ謁見の間に戻ってきた。
玉座に腰かけてうつむいていたナナリーが顔を上げると、その真正面から、やや重そうな足取りで歩み寄ってくるニトロの姿がある。
その表情は、明らかに暗い。
一目見てダウィラスが、前向きな結果を持ち帰ってこられなかったニトロを察せる顔色だ。
「ナナリー様、ただ今帰還致し……」
「妾は気分がすぐれぬ……結論だけ、早う言うてくれ。
パトル商会とやらに赴いて、何か進展は得られたか?」
帰り着いての第一声なる挨拶すら切って捨て、用件を手短に話せとナナリーが要求する。
ニトロの表情はいっそう曇る。ただでさえ前向きでない報告をする身として、ナナリーがこの機嫌、この有り様では、火に油を注ぐ結果しか見えない。
それでも、真実を報告するしかないのだ。作り話などしようもない。
腹を決めて、あるいは言い訳を考えつつ、ニトロはシェバの町での出来事を少しずつ話し始めた。
「……もうよい、わかった。
結論が変わる気はせんな」
「ナナリー様、どうかお待ち下さい!
まだ、やれることは……」
「明日、刑を執行す……」
「ナナリー様!!」
ニトロの報告にしばしば怒声を返しながら、最後までその報告を聞き終えたナナリーは、頑とした眼差しと表情で、変わらぬ運命を宣告する。
やはり犯人はイリスに違いない、と。すなわち明日の処刑執行は変わらない、と。
女王ナナリーと主従なりの距離を作っていたニトロも、玉座のナナリーに駆け寄っていく。
肘掛けに置いていたナナリーの両手を捕まえて、一つにまとめて両手で握ろうとする。
「ええい、離せニトロ!」
「どうかお願いします……!
あと少し……あと少しだけの猶予を……!」
「僭越が過ぎるぞ!!
いかに妾の婚約者とて、斯様な無礼は許さぬ!」
「許して下さらなくても構いません……! どうか、執行だけはお取りやめ下さい……!
イリスがナナリー様に毒を盛るなんて考えられないんです!
俺が必ず、あいつの潔白を証明してみせますから……! どうか、どうかあと少しだけの猶予を……!」
玉座のナナリーの前に両膝をついて、近しくナナリーの顔を見上げるニトロは必死の表情だ。
泣きそうとでも例えられそうなほどに必死である。ナナリーの両手を握り、振りほどこうとナナリーが腕を振りぬこうとしても、ぐぐっと捕まえて離さない。
要望を聞き入れるまで、この手は離さないと主張するかのよう。
今ここで退いては、明日の夕頃には既に妹が死んでいるニトロをして、たとえこの態度が原因で自分が極刑にかけられようと、ここだけは絶対に引き下がれない。
ニトロによるナナリーへの報告、シェバの町であったこととは以下のとおり。
シェバの町に着き、パトル商会の商館へと向かったニトロ達だったが、そこにあったのは燃え盛る商館。
まさに炎上する目的地に立ち会ったニトロ達が唖然とする中、阿鼻叫喚の消化活動と救出活動が目の前で行なわれており、我に返ったニトロ達もひとまずそれに手を貸すことになった。
鎮火こそ果たされたものの、そこに残ったのは消し炭と灰のみであり、商館はほぼ全焼。重軽傷者は多数にして、死傷者だっていたほどだ。
そんな白昼の大惨事に直面したニトロ達に、自分達の目的を果たせようはずがない。
商館が全焼したパトル商会は、家畜や商品、金品や資本をまるごと失った挙句、職場まで失った形なのだ。
その上、火事による火傷を負ったり、煙を吸ったりして衰弱し、医療所で苦しんでいるパトル商会の商人らと、いったい何を話せというのか。
同僚数名を喪った上に、明日からの生活もどうしようかとお先真っ暗の商人達に、こちらの都合でずけずけと尋問にかかるなんて、もはや鬼の所業である。
商館全焼に伴って、パトル商会がセプトリア城とヴィール液の取引をしたという商業記録が存在していたとしても、それも一緒に灰になっているだろう。
せめて口頭会話だけででも、その事実確認をしようにも、話しかけられる相手がいない。
結局ニトロは、シェバの町まで行ったはいいが、燃え盛るパトル商館の火消しに協力した後、何も話を進められずに帰ってきただけというのが実状なのだ。
「先ほども申し上げましたとおり、落ち着けばパトル商会の方々に、王都へ対談に赴くようにも言ってあるんです……! それで前進が見込めれば、状況だって変わるはずなんです!
だからお願いします、イリスをまだ……牢から出せとは言いませんから……!」
「ニトロ……!
いい加減に……」
「ナナリー様、お待ち下さい。
一度、冷静になられた方が得策です」
「あぁ!?」
「お聞き下さい。今のニトロの話には、不審な点がございます」
口を挟んだダウィラスにナナリーが声を荒げ、ニトロは自分の証言を否定されたかのような言葉にぞっとし、二人そろってダウィラスの方を向く。
目に赤い怒りを宿したナナリーの反面、味方だと思っていた人が敵になったかという心境で、ニトロの顔色は青くなる。
「商館が火事、とは、出火原因は果たしてなんでしょうか。
私の記憶では、パトル商会は火薬など、火の元になるような商品を扱う商会ではありません。
料理するかまどが本館にあるとも考えにくいですし、いったいどこから火が出たのでしょうか」
「そんなことは、どうでも……!」
「重要な問題です、ご一考下さい。
商館というのは、従業員の不始末で火事になりやすい建築物ではありません。
……時にニトロ、パトル商会の本館が火事になったというが、周囲の建物はどうだった?
周りの建物から火が燃え移ったであるとか、そういった可能性は考えられそうか?」
「あ、いえ……パトル商会の商館は塀に囲まれていますし、周りの建物から火が移ることは……
パトル商会の火事から、周りの建物に火が移ったこともありませんでしたし……」
「ふむ……」
「ダウィラス! それの何が……」
「私は、放火の可能性を疑っているんですよ」
かっかしていたナナリーも、はっきりそう主張したダウィラスの声に、次の言葉を一度詰まらせる。
現時点ではこちらのお家騒動に関係ありそうな所まで論が進んでいないが、犯罪を匂わせる言葉はひとまず、その場の議論に小休止を挟ませるだけのインパクトを持つ。
「ナナリー様に盛られた毒の出所として疑わしい、パトル商会に火が放たれたのであれば。
それは、真相を知る何者かの手による、証拠隠滅の行為であるとは考えられませんか?
ニトロは火事の渦中にあった商人様に話を伺うことを躊躇ったようですが、それを抜きにしても、パトル商会にあったはずの商業取引記録など、まとめて燃えた現在となっては、そんな線も見られましょう」
「……それは妾に毒が盛られた件と関係あるのか」
「断言は出来ませんが、あまりに話が出来すぎています」
王国が目をつけた矢先、商館まるごと火の海に。
タイミングが良すぎるとダウィラスは言っている。確かに、あまりに調子よく火事が起こるものだ。
それも、火元に乏しい商館なんていう建物が、小火ならともかく全焼するほどの火事。作為的な気配がする。
「ナナリー様はイリスが犯人であると主張される。確かに否定はしきれません。
しかし、イリスは現在投獄されていて、外界に何一つはたらきかけることが出来ないはず。
その上で、悪意の匂いがするこんな案件まで出ていては、少なくともイリス以外にも真相を知る者がいて、暗躍している可能性を思えてなりません」
「……つまり、何が言いたいのじゃ」
「はっきりしていない真相がまだあるはず、ということです。
真相の究明が済まぬうちに、仮説のみで極刑というのはやはり望ましくありません。
これ以上の進展が見込めぬなら決断も必要ですが、やはり現状は通過点でしょう。
極刑は、一度下せばもう取り返しがつきません。今一度、ご再考される時間を設ける必要はあると思います」
「むうぅ……」
怖い顔のダウィラスだが、今のニトロには彼がヒーローにすら見えた。
自分一人では、明日イリスを極刑にするナナリーを止められなかっただろう。
ダウィラスが説得してくれていることにより、ナナリーも釈然としない顔でありながらも、強硬姿勢を僅かに引き下がらせている。
この後も、いくらかナナリーは反論を挙げたが、ダウィラスがその都度反論し、なんとか話は纏まった。
イリスの極刑は先送りだ。もう少し、進展があってから、という妥協策に収まった。
少なくとも、明日もうイリスがこの世を去るという展開は避けられたのだ。
妹の余命をまた幾許か伸ばしてくれたダウィラスの存在は、ニトロにとっては涙が出そうなほど嬉しかった。
「ダウィラス様、ありがとうございました……」
さて、そうは言ってもニトロもすっかり憔悴しきった。
ナナリーのそばを離れ、ダウィラスとともに城内を歩くニトロは、遠出から帰ってきてすぐあんな気が気でない局面に直面し、ぎりぎりのところで妥協策を頂けたばかりである。
疲れ果てもしよう。二日前と比べて急に老けたかと思えるほど、顔色も悪くて背を曲げて歩くニトロを、並んで歩くダウィラスもちょっと心配になる。
普段なら、男がそんな姿勢で歩くなと喝の一つでも入れる場面だが、流石に今は仕方ないと思うのだ。
「まだ終わったわけではないぞ。時間との勝負だ。
何も解決したわけではないのだからな」
「わかってま……」
「わかっておらぬ。
認識しろ、明日にでもイリスが血を流し得る状況だぞ。お前はわかっていない」
ニトロがシェバの町から持ち帰った火災の事実と、ダウィラスが提示した仮説によって、多少は状況が動いたと言える展開にはなった。
だが、それは決して好転したという意味ではない。
見方を変えれば、イリスにとってはもっと苦しい状況になったとさえ言えるかもしれないのだ。
ナナリーに毒を盛ったのが誰であるとしても、その犯人が用いたヴィール液は、現状パトル商会から仕入れたものと見ていいのだろう。ひとまず、きっとこの仮説を真とする。
そうであれば、共犯者であるパトル商会には、真相究明の手がかりとなるものが、何かしら必ずあったに違いないわけだ。
それが、このタイミングで商館ごと燃え尽きたとあらば、何者かが証拠隠滅を計ったという推察も自然に立つ。
だとすれば、火をつけたのは誰か。投獄されているイリスには不可能だ。
パトル商会にある真相究明のための手がかりを、見つけて欲しくない誰かが他にいて、パトル商会に火を放ったと解釈する方が正しいはず。
すなわちイリス以外に、この事件の真相を知る何者かの存在が推測できる。
イリスが真犯人ならそいつは共犯者、イリスが無実ならそいつが真犯人、と呼べそうな何者かが。
それがパトル商会の関係者だという説は、ナナリーとダウィラスも先ほど論じたが、かえって無い。
関係者なら証拠隠滅など、放火しなくても容易であろう。自分の職場を丸ごと捨ててまでの豪快な証拠隠滅、損失の方が遥かに大きい。それで自分の罪を隠せるとしたって、明日からどうやって生きていけと。
だからニトロが、非情になれずにパトル商会の商人らに何も聞き込みが出来なかったのは痛手にすら感じられていたことだが、恐らくそれをしようがしまいが、さほど進展は見込めなかった可能性は高かったぐらいだ。
「イリス以外に女王様暗殺を企てた者がいると、状況が物語っていると論説できる。
その何者かを突き止めぬうちに、イリスを裁くことは早計であるという理屈のもと、ひとまずイリスは刑を先延ばしにされて生き永らえている」
「わかっています……
あまりその真相究明に時間をかけていると、ナナリー様も気が変わって……」
「だからお前はわかっていないと言うんだ。
言っておくが、ナナリー様がそう日も経たぬうちに心変わりをされ、やはり死刑執行と言い出す可能性はむしろ低いぐらいだ。
別の真犯人の可能性が示されている現状、それをやるほどあの方も暗君ではあるまい」
「え……じゃあ、その……」
「わからんか。ナナリー様は頭からイリスを犯人だと決め付けているんだぞ。
パトル商会に火をつけた何者かがいるとすれば、ナナリー様にとってのその無法者は、"真犯人"ではなく"イリスの共犯者"という認識となるだろう」
「………………まさか」
「共犯者の名を吐けと、ナナリー様がイリスの拷問を命じる可能性がある。
それははっきり言って、明日にでも起こり得ることだ」
だから猶予が無いとダウィラスは言っている。
イリスの命は確かに繋がれた。だが、今より環境が良くなったわけではない。
女王様の気分ひとつで、死んだ方がましだと思える境遇に追いやられる可能性はある。
なにせその女王様がイリスのことを、自分を殺そうとした反逆者だと思っているのだから。
「ですが、ナナリー様が拷問だなんて発想を抱かれるとは流石に……」
「昨日、いっそ痛めつけてでも自白を促せと一度だけ命じられたがな」
「は!?」
ニトロも思わず大声だ。
確かにそういう支配者は世の中にいる。拷問でも何でもして、自白さえ取れれば死刑に躊躇なし、という乱暴な司法。たとえば旧アルバー帝国の皇帝とて、そういうことをしていた暴君である。
だが、ニトロの思うナナリーの人物像に、そんな彼女は存在しない。
フラックオース組の粛清にすら、せめて状況証拠を揃えよと、しっかり段取りを重視した女王様ではないか。
自分に毒を盛ったと思しき人物憎し、の感情があるんだろうと譲っても、それにしたってひど過ぎる。
痛めつけられれば苦痛から逃れるため、無実であっても自白する者はいるであろうに。
そんな理不尽な理屈を最も嫌うであろう人物だとナナリーを知ってきたニトロをして、あまりにもダウィラスの言葉は衝撃的であったのだ。
「もちろんその場は諌めておいた。
だが、ナナリー様から見て、イリスに共犯者ありしと疑える状況になった今、イリスから情報や真実を聞き出すことに前向きになる可能性がある。
そうなれば、拷問という手段は誰でも最も簡単に考え付くものだからな」
「そ、そんな……でも……!」
「"自白を強要する拷問"と、"情報公開を強要する拷問"は、本質的には同じものだ。
だが、時に認識の違いが、人にそれをわからなくさせる。
今のナナリー様のように、頭からイリスを犯人だと決め付けていれば尚更だ」
1.確実に犯人である者に、拷問して自白を促す。百歩譲れば、有用な手段と言えるかもしれない。
2.確実に何らかの情報を握っており、それを話したがらない者を、拷問して吐かせようとする。
有用な手段であると言えるかもしれない。
3.犯人かどうかもわからない者を拷問し、それが犯人でなくても自白が聞ければ罪人として扱う。
極めて理不尽な手段だ。
4.情報を握っているかどうかわからない者を拷問し、吐くまで延々と痛めつける。極めて理不尽な手段だ。
3を否定する人は多い。
4が3と同じことだとわからない者がしばしばいる。
今のナナリーのように、イリスが真犯人だと頭から決め付けてかかっている者は殊更そう。
知っているはずだと先入観を持っているから、2と勘違いする。
そもそもイリスが犯人であるという仮説が正しいかどうかも確定していないのに、それを決め付けていれば、情報を持っているはずだと無意識に決め付けてしまう。
結局拷問という手段など、どう転んでも理不尽なものであると理解されるには、まだ人の歴史が若過ぎるのだ。
人の口に戸は立てられぬと言うが、本人が固く戸を作れば、そう簡単に他者がその戸を開くことは出来ない。
それでもどうしても口を割らせることが必要な際、痛めつけることを閃いてしまうのも、手段に迷った人間が最後に選ぶ逃げ道の一つである。
それは、厄介者は殺してしまえの畜生じみた発想と殆ど変わらないのだが、それがわかる者はより少ない。
「捜査は振り出しに戻ったが、残された時間はより少なくなっている。
イリスを救いたいなら、寝る間も惜しんで手を尽くすしかないぞ」
「はい……!」
新たな手がかりは何一つなし、闇の中をさまようかの如き、解決策の見当たらぬ日々の始まりだ。
それでもニトロは、イリスを救いたい。彼女が女王暗殺を企てるような妹だとは、やはりどうしても思えない。
身内だから甘いのだろうか。いや、違う。たとえどんなに怒りや憎しみを抱いたとしたって、それで人に毒を盛る度胸がある妹では絶対にないと、ニトロが一番よく知っている。
身内を庇うのは誰だってそう。しかし、家族にしかわからない絶対の真実というものもあるのだ。
予断の許されない日々が始まろうとしているが、ニトロの覚悟はもう決まっている。
兵役にこれまでの半生を費やしてきて、他の生き方を殆ど学んでこなかった不器用なニトロだ。
悪事をはたらいた真犯人捜査のいろはなど、学んできた覚えもなければ正着手も定石もわからない。
それでもやるしかないのだ。さもないと、たった一人の家族までもを失ってしまうのだから。
「ダウィラス様、どうかご協力、よろしくお願いします……!」
「ああ。大きな声では言えぬが、やはりここ最近のナナリー様はどうかされている。
間違った結末を絶対に迎えさせぬよう、私も全力を尽くしていくつもりだ」
はっきりとダウィラスが口にした、ナナリー女王への不信感。
外敵や無法者にかき回されるよりも、身内と敵対した時の方がずっと苦しい。
女王と大臣が対立するセプトリア王国の王室は、今がまさにそんな状況だ。




