第65話 ~セプトリアの暗雲~
「ハルマ! 開けるぞ!」
その日の早朝、ナナリーの第一声は大きなものだった。
夏も近付き、日の出の時間も随分早くなったこの頃に、空も白みかけたような時間帯。
ハルマの部屋の扉を二度乱暴に叩き、大きな声で部屋の主を呼ぶナナリーの声も荒っぽい。
普通はこんな時間帯、余程の、相当の早起きでなければまだ、部屋の主は眠っているはずである。
返事も聞かず、鍵のかかっていない扉を開いたナナリーだが、その部屋には誰もいなかった。
参謀ハルマに執政の相談のためここを訪れることの多かったナナリーにとって、この部屋の風景は目に慣れたものであるが、見慣れた彼の姿だけは無し。こんな時間でも。
代わりに部屋に残されていたのは、机の上に置かれた山積みの、しかしきっちり角を揃えた大量の書類である。
書類の内容は、一言で言えば仕事の引継ぎ。
侵攻を受けて傷ついた王都の復興、命を失った兵の国葬、負傷した兵の医療、家を失った民に与える仮住まい――それらの手続き方法や、基本予算案まできっちりまとめ、自分が去った後でも復興が進めやすいよう、綺麗な字で書かれた書類の山だ。
それが完成された積み方で机の上に残されて、筆者不在のこの状況は、ハルマがこの城を去ったのだという事実を、改めて、あるいはより現実的にナナリーに突きつける。
「…………」
寝起き間もないナナリーは、手にした一枚の書類を思わず、握ってくしゃりと皺づけてしまう。
ハルマが去った、あるいは逃げたこの現実は、ナナリーの静かに燃える眼に、強い強い怒りの炎を灯していた。
「そうなんですか……」
「うむ……せっかく来て下さったのに申し訳ないな」
時は過ぎてその日の昼前。
昨日あんなことがあったばかりだしと、ユースはナナリーやニトロに挨拶の一つぐらいはしようと城を訪れていた。
チータも一緒だが、彼は全く別の、個人的な理由でついて来ただけである。行動理念の全く違うユースとチータが、二人で一緒に行動するのはやや珍しいことだ。
普段よくやっているとおりに城を訪れたユース達だが、門番の兵に通されて入城するまではよかったものの、謁見の間に向かうまでの道のりで、城内の兵の一人に引き止められた。
ナナリー様との謁見をご所望ですか、はい、というやりとりの次に続いたのは、今日はナナリー様は謁見の間にいませんよという兵士様のお言葉だ。
どうやら今日、ナナリーはしばらく一人になりたいと主張して、部屋に一人で籠もっているらしい。
今、そこまで聞いたところである。
「ただ、ニトロがユースどのとチータどのに会いたいと言ってましたよ。
一度部屋に行ってあげてくれませんか?」
「わかりました、言伝どうもありがとうございます」
代わりにこうしたお言葉をも頂けたので、ユースの足は謁見の間向かいのものから、ニトロの部屋行きのものへと変わる。チータも同様。
チータはむしろ、今日はナナリーへの挨拶で城を訪れたと言うより、ニトロに会いに来ることが目的であったので、寄り道が無くなって話が早くなったとしか思っていないが。
「ニトロ~?」
「ん、ユースか?
ちょっと待ってろよ~……よし、入っていいぞ」
城の中を歩く際は今でもちょっと緊張しているユースだが、ニトロの部屋の扉をノックして発する声は、まるで友達の民家を訪れる時のように軽い。ニトロの返答も似たようなもの。
出会ってもう数ヶ月、すっかり打ち解け合い、互いに友人同士と認め合っている証拠である。
恐らくいつか別れが来ても、二人は互いのことをもう一生忘れまい。
「散らかってたとか?」
「ちょっとだけな。本を出しっぱなしにする悪い癖がちょっとある。
……お、チータも来てくれてたのか」
「だいたい僕が何を聞きに来たのか察してもらえると楽しい」
「なんとなくわかる」
部屋に入る前にちょっと待って宣言をされたことを軽く話の種にするユース。
チータに気付いたニトロ、挨拶代わりに軽口を叩くチータ、笑って応じるニトロ。
チータの遠回しな言い方にも、真意を読めるぐらいには、ニトロもチータがどんな性格の持ち主であるのかわかっているようだ。それぐらいには、そちら同士も既に友人関係である。
座ってくれと促されて、ユースとチータはソファーに腰かける。
王城に仕える衛兵の個室にしては殺風景で、壁や天井が城なりに小奇麗なこと、その広さを除けば、殆ど一般庶民の民家の一室と変わらない。むしろ、生活的に必要最低限なものぐらいしか置いてなさそう、という印象である。ソファー自体もさほど高級感無し。
せいぜい読書好きなのが窺えるぐらい、本棚が大きくて広く、書物を多数擁しているぐらいが特徴だろうか。
「……ハルマ様が去られたことは、もうユース達も聞いてるのかな」
「うん、朝に兵士様がわざわざ来てくれて教えてくれたよ。
それが気になって来たっていうのもある」
異国からの客人であるユース達に、参謀が去っただのそんな情報を知らせる義務はないセプトリア王国だが、恩義もあって親しみもあるユース達には、兵も気を回して速報を伝えてくれていた。
ユースはわざわざ知らせてくれたご足労に感謝するばかりだが、そういうことをして貰える程度には、ユースも信頼を勝ち取ってきたということである。
「ハルマ様がいなくなったきっかけは何だったんだ?
何の理由もなく去るってことはないだろう」
詮索するほどには、チータもハルマが去ったことには疑問を抱いている。
参謀脳同士だからなのか、チータはハルマともとりわけ親しかったようで、疑問も尚更なのだろう。
「俺も詳しくは知らないんだ。
ただナナリー様から、昨夜ちょっと喧嘩した? みたいなことは聞いてる。
その口論の末に、ハルマ様が自分から、辞めるって言い出して本当にいなくなった、ってことらしい」
「喧嘩して、参謀職が自ら辞任、ねぇ……
喧嘩と言うには収まらない、殺伐とした対話だったような気はするが」
「そうなんだろうな。俺もその辺り、詳しく聞いてないからわかんないけどさ。
でも、ナナリー様も王として言うときはものをはっきり言うし、チータの言うとおり、相当に激しい言い合いだったような気はなんとなくする、かな」
真相のところの詳細は、ナナリーがハルマに嫌疑をかけ、それに反発する形でハルマが辞職したという形。
ニトロも勿論、そこまで話は聞き及んでいるが、流石に王室外のユース達にそこまで詳しく、女王周りのごたごたを、ぺらぺらと話すのは考えもの。
友達のユースやチータに秘密を作りたがるニトロではないが、今のところはユース達相手にもこの辺りの詳細ははぐらかしている。
「イリス嬢はどうだ? 塞ぎ込んでないか」
「相当こたえてるな。ナナリー様とは違う意味で、部屋に一人で籠もってる。
……っていうか、チータから見てもイリスがハルマ様をどう見てるのかはわかってたんだな」
「わからない方がどうかしてる。
先月気付いたばかりのユースはどうかしてる」
「うるさいな、俺はそんなことばっか考えて生きてないんだよっ」
ニトロの妹イリスのハルマに対する恋心は、本人は隠しているつもりでも、彼女のハルマを見る目を見ていた者なら誰でも知っていた。
付き合いの短いチータですら、かなり早期に見抜いていたぐらいである。
人のそういうことをあまり詮索しない、意識しない、ついでに鈍いユースですら、先月には気付いていたという話なので、よっぽどわかりやすいという話。
強く恋する相手が急にいなくなれば、イリスが落ち込むのも当然だ。
告白する機会にすらついに至らず、きっともう二度と会えない。普通の失恋とどちらがつらいかは価値観次第だが、どちらにしたって心にぽっかり穴が開いた心地だろう。
「……まあ、元よりハルマ様は、イリスの恋心に応えるつもりはなかったんだ。
遅かれ早かれ、こんな日は来ていたはずだしな。あの子が自分の心に始末をつけるのを待つことにするよ」
「ナナリー様はどうしてる?」
「ご自室で仕事をしながら、で、自分の気の持ちようも含めて整理したいって仰ってた。
こっちも、出てこられるのを待つ感じかな」
「そちらはさほど心配する必要はないのか?」
「ナナリー様はああ見えてお強いお人だ。心配はいらないよ」
幼いまま王位に就き、周りのサポートもあってのこととはいえ、何だかんだで摂政もなしに実権に責任を持ち、国を動かしてきた女王様だ。
見た目に騙されかけるし、17歳というのも事実でありながら、その骨芯の強さは城の誰もが認めるところ。
ニトロの迷い無き返答からも、いかに彼女が信頼された王であるのかは、ユースとチータにもよく伝わる。
「じゃあ、そろそろ本題いこうか」
「ふふ、せっかちだな。よっぽど楽しみだったんだ」
「当たり前だ、僕は魔導士だぞ。
魔法を初めて使ったっていうお前の話を聞くなんて、興味深くて仕方ない」
「お前って本当、好奇心に忠実に生きてるよな」
「そうでなきゃ魔法使いなんてのは務まらないよ」
ハルマがいなくなった経緯にも興味はあったチータだが、彼がここに来た最大の理由はそれではない。
聞くだけ聞いたらさっさと自分好みの話に持って行くチータの口ぶりには、呆れ気味のユースが白い目を向けるが、図太いチータはそんなの全く気にしない。
「昨日、ナナリー様を襲った気体の魔物を剣で仕留めたらしいな。
スモークレイスだったか。あれは間違いなく、物理的な攻撃が効く魔物じゃない」
「そうだよな。
やっぱり、魔法がちゃんと発現した証拠と見ていいのかな」
「間違いない」
スモークレイスをニトロが破ったというのは、昨日の時点でチータもニトロ本人から聞いている。
気体状のスモークレイスを、ニトロの一太刀目が傷つけて以降は、完全駆逐までさほど時間はかからなかったようだ。
ナナリーとニトロを煙で包もうとするスモークレイスを、ニトロが振り抜く剣が切り返すたび、その灰色の煙は消えていき、数度繰り返せばとうとう煙はまったく存在しなくなった。
スモークレイスの撃破に関しては、完全にニトロの功績である。
ナナリーも驚いたが、終わってみればニトロも驚いたものだ。
「ニトロが作りたい魔法というのは、まあ簡単に言うと、セプトリア王国やナナリー女王様を脅かす、あらゆるものを断ち切る剣を作る、というだったな」
「ああ。それを叶えられた形……に、なったのかな」
「そう表現できる。
スモークレイスのような実体を持たない魔物を、単なる剣で切り裂いても、物理的に割ることは出来る。全くダメージを与えることは出来ないけどな。
だが、ニトロの剣で斬り付けられたスモークレイスは、気体として割られただけじゃなく、まるでその存在を維持するための核を傷つけられたかように、斬られるたびに消えていったんだろ?」
肉体も臓器もないスモークレイスという魔物が、どういう理屈で生存、存在しているのかには諸説あるのだが、あれは穢れた霊魂のなれの果ての魔物であるというのが通説。というより、ああいった実体を持たない魔物の類は、現時点の魔物生態学ではそう認識されるのだが。
悪しき魂が有害な気体を生み出し、その存在を形成しているのがスモークレイスであって、それを撃破あるいは抹消するには、その存在を成り立たせる霊魂そのものを、浄化あるいは抹消しなければならない、とのこと。
どうも概念的で具体性を感じづらい通説だが、ともかくスモークレイスという魔物は、気体状の煙をどうこうするのではなく、それを操る見えない霊魂を討たねば撃破できない、という話である。
普通の剣やら銃弾やら、物理的な力でそれは不可能な話。霊魂には触れない。
そのための魔力を帯びた剣で、スモークレイスの存在を維持している霊魂そのものを傷つけるなりすれば、その存在を崩壊させられるという話であり、ニトロはそれを実行することが出来たというわけだ。
ともかく、間違いなく魔法は発現させられている。
「スモークレイスは揺るぎなく、ナナリー女王様を害しようとした存在だ。
ニトロの魔法、ナナリー女王様を脅かすものを断つという"精神"を具現化した魔法は、お前の剣に魔力を纏わせ実体無き魔物をも断ち、それを撃退する力を持った。
魔法成功と見て間違いないな。飛躍して先の話をするならば、その魔法はたとえば、ナナリー様を脅かす攻撃魔法なども断ち切ることができる、そんな剣を生み出す未来も想像できる」
「……万物を断つ剣を実現させる、シリカ様の魔法と似たものだと思っていいのかな」
「似て非なるが認識としてはそれでいいだろう。
おめでとう、ならびに僕も聞いてて非常に興味深く、楽しい。
ニトロもそんな魔法を使えるようになったんだな」
常日頃からニトロが、セプトリア王国を脅かすあらゆるものを退けられる、そんな衛兵になっていきたいと熱望していることはチータも知っている。
魔法とは、そのための魔力とは、術者の精神を具現化したものだ。
魔法の発現は、術者の願いや夢が叶ったこととさえ言い換えていいものであり、友人がそれに成功したというこの話に、チータが小気味良い機嫌なのも当然である。
「で、魔法に名前はつけたのか?」
「あ……それはまだなんだけど……」
「名も無き魔法のまま行使したのか。無我夢中だったってとこかな」
「いや本当そんな感じでさ……
あの時は、目の前の敵を何とかしたいとばかり思うばっかりで……」
「まあ、それはこれからでもいいことだけどな。
ちなみに今日までに、魔法の名前に候補の一つぐらいは作ってあるのか?」
「全然だよ、閃きが無いというかなんというか……」
「読書家の割に、得た知識を活かすのは苦手か?」
「痛い言い方しやがって。何も言い返せないけど」
よく喋るチータなので、ユースは黙って二人の会話を聞きに回っている。
それで、楽しめている。そもそもユースも喋り上手ではないから、聞く側に回った方が楽なタイプ。
「ユース、何か案を出してやれないか?
僕がお前の魔法の名前を決めた、その恩を次なる勇士に繋ぎ渡していくのも悪くないだろ」
「イヤとは思わないけど俺も閃きそんなにないよ。
無いタイプだから、チータに英雄の双腕の名前貰って助かった口だし」
「頑張ってみろよ」
「一番頑張らないタイプのお前に言われたくない単語ナンバーワン」
「そういえばユースも、チータに魔法の名前をつけてもらったんだっけ」
「こいついい名前つけてくれるよ。だから俺よりチータに……」
「失礼。
ニトロ、いるか?」
「はい?」
雑談気味に話が泳ぎ始めた頃、扉がノックされる音がした。
ニトロを呼ぶ声がそれに続き、ニトロが立ち上がって自分から扉を開けに行く。
女王様の婚約者で衛兵、城内あるいは王室にあって地位の高いはずであるニトロだが、兵士同士の会話では年齢相応の扱いで、特別敬語を使われることはないらしい。
幼い頃から城で育ってきたニトロを、昔から可愛がってきたセプトリア兵の皆様はみな、昔ながらの話口調で接してくれているのである。
むしろニトロの方が、年上相手なら平兵士にもちゃんと敬語を使うぐらいだ。ニトロとしても、その方がやりやすいそうで。
「ナナリー様がお呼びだそうだ。やっとだな」
「そうなんですか、わかりました。
――ユース、チータ、ごめん。ナナリー様の所に行ってくるから、今日はお開きだ」
「そっか、わかった」
「いい話が聞けたよ、礼を言う」
話はここまで。
ユースはナナリーやハルマの実状を聞けたし、チータはニトロの魔法について聞けた。充分である。
過不足なく満足したユースとチータと共に、部屋を出たニトロがナナリーの部屋へと向かっていき、ユース達も帰り道を歩いていく。
今日はもう、あとは家へと帰り着くのみである。
二人で城内を歩くユースとチータ。ニトロとお別れした途端、やはり王城内を歩くのは未だに緊張するのか、ユースが少しそわそわしている姿に、チータも鼻で笑うのを我慢している。
「……それにしても、ハルマ様も突然だな」
「突然か?」
「え、突然だろ」
「僕はそうは思わんが」
歩きながらユースが何気なく振った世間話だったが、チータの返答はやや予想外のものだった。
突然参謀職を辞任してしまった、としか思えないハルマに対して、チータは唐突さを感じていないという。
価値観がかみ合ってないのか、観点が違うだけなのか、ユースの次の言葉も少しだけ詰まる。
「三度、ハルマ様の主導の関わる限りで、ナナリー様が危機に瀕している。
フーリオ山地、ハフトの都、それと昨日の舞踏会。それもすべて、リープって奴が噛んでる可能性が濃厚だ。
ナナリー様とハルマ様の間に、何らかの軋轢が生じても何ら不思議じゃない」
「それはまあ、そうかもしれないけど……」
「確かに急に辞めた印象は拭えない部分もあるけどな。
ただ、職を捨てるなんて軽い気持ちでやれるものじゃない。まして積み上げてきたものだ。
ハルマ様にも、確たる何らかの意志があってのことなのは間違いないだろうし、それに思い至ったのは何故か、そのヒントも僕が言った三度の案件に、含まれているんじゃないかって思うけどな」
「……よくわからないけど、傍目には突然のように感じる出来事だけど、それが起こる下地自体はここまででも充分存在し得たような気がする、ってこと?」
「ああ、それだそれだ。
お前、最近僕の考えてることよくわかるようになってきたな」
「付き合い長いからなぁ」
「最初は互いに何考えてるのか意味不明同士、何なんだこいつ状態だったのにな」
特に感慨に耽るでもなく、世間話の繋ぎ程度に言葉を重ねる。
昔は不仲だったのに今じゃ――と感慨に耽るのは、もう過去に充分やってきたので、今さらそれもないのである。現在の二人にとっては、今の状態と関係が普通で馴染んでいる。
「まあ、情報不足にも程があるし、あれこれ邪推してもしょうがない話でもある」
「憶測であれこれ語るにはちょっとデリケートだよな、王室も絡んだ話だし」
「王室絡みのゴシップなんて、世間は楽しみそうだがな。
だからこそ、あまり安直な推察を進めるのも多少は控え……ん?」
一般論レベルの話に繋げながら城内を歩いていたユースとチータだが、チータの目にある人物が留まり、一度足を止めてしまう。
ユースも同じ。真正面からちょっと早足で向かってくる、ドレス姿の年下女性の姿には、挨拶の準備もする。
「ユース様、チータ様……!」
「あ……イリス様、おはようございます?」
「おはようございます。
どうされましたか、何か落ち着かないご様子ですが」
イリスはニトロに聞く限り、部屋に籠もっているという話だったのだが、普通に出歩いているではないか。
それが何だか、ユース達を見つけた途端に目の色を変え、上品な足取りながらもぱたぱた駆け寄ってくるような姿には、ユースも返答が戸惑い気味になる。
「え、えぇと……お二人に、お話したいことがありまして……
も、もしもですよ? 時間がおありでしたら、その……ちょっと、ご一緒よろしいですか?」
「ん……それは、結構ですけど……」
「ここでは出来ないお話ですか?」
「……………………はい」
小声めに尋ねたチータに対して、イリスは内緒話向きの小声で返答した。
少し、周りを確かめるかのように目を泳がせてだ。
繊細な話を持ってきたであろうことは、この態度からも存分に察せられる。
「わかりました、参りましょう。
それでは、お好きな場所へとご案内を」
「で、ではこちらへ……」
緊張気味、と言うよりも、何かを恐れるような態度のイリスである。
二人を怖がるわけではなく、何か大事な秘密を握っていて、それを軽々しく口にできない諜報員が緊張する顔、秘密が露呈するのを恐れるような言動と見える。
そわそわするイリスについていく形で、ユースもチータも怪訝な想い。
終始イリスは、周りの目を気にするような目の動きのままだった。
「明日にはハルマに代わり……参謀というよりも、大臣かのう。
父上にとってのウィーク老であったように、補佐をつけるつもりじゃ。人選も妾が決める。
ぬしはハルマと折り合いが悪いこともあったが、新しいその者とは仲良うやるようにな」
「はい、勿論です」
ナナリーの元を訪れたニトロには、ナナリーの最新の決定が伝えられていた。
参謀ハルマの穴を埋める人材は、明日までに決めて就任して貰う流れが確定したようだ。
人が一人去ればその穴には一人埋める。王室に限らずどこでもやっていることである。
「……ならびに明日から、カナリアという娘を捜査対象とする。
今日は国葬があるから明日からとするが、じきに兵を……」
「そ……な、ナナリー様?
それはちょっと大袈裟では……」
「何故じゃ?」
「何故、って……」
一般名詞のようにさらりと出た単語の一つに、ニトロが露骨なほど顔色を変える。
捜査対象。要するに、兵力を挙げてでも見つけだして、あるべき場所に引っ立てろという意味だ。
それはたとえば、逃亡した罪人などに向けて使う言葉であり、そんな言葉をナナリーはカナリアに使っている。
「カナリアは昨日の時点で、北の関所から出都したとの情報が入っておる。
要するに、王都からはもう逃げた後ということじゃ。捜査対象として何がおかしい?」
「お、お言葉ですが、カナリアという彼女に何の……」
「ハルマと繋がりがある……!」
目を鋭くして強い声を発するナナリーには、ニトロも次の言葉を紡げなくなってしまう。
背の低い位置から、眼力だけでも充分衛兵を怯ませるほど、ナナリーは既に女王としての貫禄を身につけている。
「妾がお忍びで訪れたフーリオ山地、その事実を知っておったのはハルマとごく限られた一部のみじゃ。
その上で、フーリオ山地にて不自然な魔物の襲撃に遭い、妾は危機に晒されることになった」
「それは、そうかもしれませんが……」
「魔法都市ダニームに向かうにあたって、妾の道取りとその通過点ハフトの都を定めたのはハルマじゃ。
そして狙い澄ましたように、フラックオース組の連中が、妾が都を訪れたその日に襲撃しておる」
「…………」
「そして昨日じゃ……!
ぬしは、これが偶然だとはっきりと言い切れるか……!?」
ナナリーの目は、昨夜以上にはっきりと、ハルマに対する嫌疑の色に満ちている。
今までの数年間でも、厳しい態度を見せることも少なくはなかったナナリーだが、ここまではっきりと尖った感情を見せることはなかったかもしれない。
ニトロが、今のナナリーの目と顔を見ただけで、初めて見るものを見る目になっている。
「ナナリー様は、昨夜ハルマ様に……」
「おお、言ったわ……! その末にあ奴は、職を捨てて去る言葉を残していったのじゃ!
妾もあまりに突然のことで言葉が続かんかったが、あの時ハルマを好きに逃がしてしまったことを今では悔やんでおる!」
今でもハルマを、懐疑的な目で見られないニトロに反し、ナナリーの意識はもう覆らないほど、ハルマの悪意を確信しているかのよう。
昨夜の自分の踏ん切りつかなさを強く悔い、それを握り拳に表すほど、今のナナリーは気が昂ぶっている。
「加えてハルマと親交のある、カナリアという娘は今や、一足早く王都を去ったという話じゃ……!
悪しき陰謀を企てていたハルマが、加担者であったカナリアに逃亡を勧めたと推察するには充分なほど
要素が揃っておる!
訊くぞ、ニトロ! カナリアを捜査対象とするという表現は誤りか!?」
「っ……」
有無を言わせぬ強い声で、ナナリーは捜査執行の決断を強調する。
明日から、姿を消したカナリアの捜索に人材を割き、発見次第王都に連行する。
その末には、尋問めいたことが続くことも示唆されているのだ。
今のナナリーの意志のもと行われる"尋問"とは、果たして穏健に進むものだろうか。
「……当然、ハルマも同様じゃ。
明日より国内各地のセプトリア兵に、ハルマとカナリアを捜索する声明を発する。
時が来れば、それなりの対応をするゆえ、ぬしも心の構えを済ませておくように」
「…………」
ほんの少し前には、舞踏会の準備を一緒に進めていたハルマの姿があったのに。
ああ忙しい、だが開催が楽しみだ、と笑い合っていたはずのハルマが、唐突にこの日からはっきりと、お尋ね者の立場に豹変してしまった。
まるで家族が罪人となってしまったような現状に、ニトロの表情が曇るのも当然のことである。
昨日の窮地は切り抜けたはずなのに。
その翌日から激動を迎えたセプトリア王国、その今後に、ニトロは大きな不安を抱くばかりだった。
「……な、ナナリー様とハルマ様の間に、ちょっとした諍いがあったのは事実だったと思います。
ですが、その……ええぇと……」
「落ち着いてお話し下さい。
僕達は逃げません、周りに誰もいませんよ」
ユース達がイリスに連れてこられたのは城の裏側にある庭園だ。
今はたまたま、周りに誰もいない。誰もいない場所を探して歩いた結果、イリスがここを選んだのだ。
「い、今のナナリー様は、普通じゃないように感じてならないのです……
お話を聞く限り、ナナリー様の仰ることにうなずける部分もあるのですが……それでもっ……!」
「イリス様は、ナナリー様がハルマ様に嫌疑の目を向けていること自体には、納得しているんですね」
イリスはびくびくとした語り口ながら、事のいきさつを前置きに語ってくれた。
ハルマが辞任したことも、ナナリーに疑われたからだという話もしてくれたし、チータが想像していたこととぴったり重なっていたし、それは確認事項のようにチータも聞いていた。
ハルマに贔屓的感情を持つイリスではあるも、ナナリーがハルマを疑うこと自体には、嫌々ながらも納得を示しているようだ。
客観的にものを見られている。その上で、イリスは今のナナリーがおかしいと言っている。
「お聞かせ下さい。
なぜ、今のナナリー様が普通じゃないと思われるのですか?」
落ち着きのないイリスなので、チータが上手く話の舵を切っている。
隣で聞くだけのユースだが、彼に同じことは出来ないだろう。ユースがそういったことに不得意というよりは、チータが上手い。
「…………取るに足らないことだと聞き流して下さっても構いません。
だけど、私にはその時のナナリー様の声が、どうしても耳から離れないのです」
5秒の沈黙の後、よく考えて発したかのような言葉をイリスは発した。
核心を口にするための前置きだ。聞き流しません、とばかりにうなずくチータが、聞く姿勢に入っている。
「私の部屋は、ちょうどナナリー様のお部屋の斜め下にあるんです。
……その日、私は寝つけなくて、バルコニーから夜空を見上げていたんです。
その、夜風が気持ちのいい日だったのですが……」
ここに来て、今まで以上に周りを気にする目ぶりを見せるイリスの態度は、これを目の前の二人以外に聞かれたくないというのがよく表れている。
夜風が気持ちのいい日となれば、春を迎えた先月以降の話だろう。最近のことのようだ。
「う、上から……ぼそりと……」
「…………」
「は…………『ハルマめ』、と……ナナリー様の声が……」
「それはつまり、イリス様がバルコニーに出られている時に、ちょうど上の階のナナリー様も、バルコニーに出ておられたということですか?
そのナナリー様がつぶやいたであろうその一言を、イリス様は耳にしたということですか?」
恐るべきことを口にしたとばかりに言葉をつぐんだイリスに、チータが確認の言葉を発する。
対する返答は無言、こくこくとうなずくのみ。イリスは冷や汗すら流している。
「……それは異質な声でしたか?」
「はい……!
確かに、確かにナナリー様の声ではあったのです……!
だけど、その声は……まるで真っ黒な感情の権化のように、今でも耳に粘りつくような声で……
何度ナナリー様の声をそれ以降に聞いても、あの時のナナリー様だけが別人であったかのような……
すみません、私にもよくわからなくて……っ」
「いいえ、理解しました。
その時に限り、ナナリー様は、まるでナナリー様とは思えぬ声であられたと、そう仰るんですね?」
話を聞くだけでも確認が必要、それはイリスですら、その時に直面した現実の正体を捉えていないからだ。
先ほどから怯えるようなイリスの態度、それは女王様の悪口を言うから誰かに聞かれたくない、という恐れからくるものではなく、思い出すだけで鳥肌が立つ記憶に、身を震わせていたと見える。
「……僕達は、その時のナナリー様の声を耳にしていません。
同じものをイリス様と共有することは難しいかもしれません。
ただ、イリス様は、ほんの短いその声を聞いただけで、ナナリー様に震えを覚えるほど、異質な声であったと記憶しているのですね?」
「はい……思い出すだけで、背筋がぞっとするんです……
ナナリー様が、半ばハルマ様を追い出すほどまで詰問されたであろうことを想像するとなお、私の知らないナナリー様の像が脳裏に浮かぶのです……」
執政者として、時に厳しいナナリーの一面というだけなら、イリスとて見たことがないわけではないはずだ。
ナナリーとは同い年で、イリスの父が先代国王の衛兵を務めていた頃から、地位の差こそはっきりしつつも、イリスはまるで姉妹のようにナナリーと共に育ってきた立場である。
現在でも近衛兵ニトロの実妹であり、ナナリーとは個人的にも親しいイリスが、ほんの一言のナナリーの呟きを耳にしただけで、ここまで思うのは異常なことですらあろう。
「あ、あの……このことは、どうか他言無用で……」
「勿論です。
ただ、二つだけお尋ねさせて頂いてよろしいですか?」
他言無用は当然だ。
捉えようによっては、女王様の悪口である。流言にすればイリスの立場を危うくしかねない。
そうは言いつつチータ、絶対的に口の堅いシリカにだけは、相談することもあるかもしれないと思っているが。
「そのお話は、僕達以外の誰かにしましたか?」
「…………いえ」
話の流れからして、何日か前のことであり、昨夜だのの話ではないだろう。
何日か、イリスはこの話をずっと一人で抱え込んできた。
しかもそれを、兄であり最も信頼する相手である、ニトロにすら伏せているということ。
ナナリーに関する黒い話題だから、かえってニトロには話しづらい内容なのかもしれないが。
「では、もう一つ。
なぜそのお話を、僕達にしてくれたのですか?」
「そ……それは、その……」
イリスにとっては重大な案件であろうに、それを初めて明かした相手が、身内の兵や家族ですらなく、異国から来られた騎士様、すなわち余所者。
相談相手に選ぶ序列としては、やや後方に並ぶ対象のはずだ。
頼りにされている気配はするが、敢えて一度チータは問いかけている。
「今後、あの……何が起こるか、わからなくて……
もしも、何か起こった時は、どうか、と……」
「なるほど、よくわかりました」
要約すれば、これはすなわち依頼である。何かあったら、お助け下さいと。
イリスが言いづらそうなのは、本来ならばこういった話は、兄含めたセプトリアの兵に頼るのが筋というものであるのに背いているのと、単にユース達を目上と見ている、その両方ゆえだろう。
敢えて問うたチータの真意は、その言質を、ユースの前で取ることにある。
「何かあったら、僕達も自分なりに動き、この国のために尽くしましょう。
な、ユース。それでいいよな」
「ああ」
「……すみません、ありがとうございます。
どうか、その……杞憂でしたらよろしいのですが……もしもの時は、どうかよろしくお願い致します」
セプトリア城の一角にて交わされた、小さな一つの約束だ。
不穏の気配は果たして、実在する腐臭の生み出すものだろうか。それすらも、今はまだわからない。
ただ、それを感じ取り怯える少女を目の前にして、ユースもチータも明確な異変の気配を、無性に感じられて仕方ない。情に流されてではない。
平和だったはずのこの国で今、いったい何が起こっているのか。
王都を襲う戦火を退けたこの翌日、ユースの胸に渦巻くのは、危機を乗り越えた明くる日の安寧感ではなかった。
城を出て、たまたま曇り空であった上空をふと見上げたユースには、それがセプトリア王国を呑み込まんとする暗雲にすら感じられたものだ。
ユースとチータが帰り着いた少し後、曇天は厚みを増し、やがて雨が降ってきた。
窓からそんな情景を目にするユースは、明日が晴れることを無性に祈りたい想いに駆られていた。




