エピローグ
「ぷふふふ、まったく世の中わからんものだ」
「エルアーティ様のお手紙ですか?」
「厳密にはテセラからの手紙だがな。
ま、カナリアも向こうでは上手にやっているという話だよ。
よもやあの子に、魔法使いとしての才があったとは盲点だったね」
ある日の朝、自室で一通の手紙に目を通しながら、含み笑いをやめられないハルマを、不思議な顔でイリスが見つめている。
王族ドレスに身を包んでいた今までとは一新し、袖の短いカジュアルな夏服を身に纏うイリスは、髪もポニーテールに纏め、女王様の婚約者の妹、という箱入り娘からかけ離れた格好だ。
「カナリアさんって言いますと、今は魔法都市ダニームに伺われているんですよね」
「ああ、エルアーティ様のお誘いでな。
アカデミーに留学している形とでも思えばいい。
私の旧友であり、アカデミーでは講師の資格も持つテセラが、カナリアの面倒を見てくれているそうだ」
「カナリアさんには魔法の才覚が?」
「精神面が、身体に影響を及ぼす魔法に適正を持っているらしくてな。
今はひとまず治癒魔法の基礎練習を始めているそうだが、見込みがあるということらしい。
エルアーティ様いわく、身体能力強化の魔法にまで手を伸ばせるかもしれない、とも評価を受けているそうだ」
「身体能力強化の魔法って、ものすごく使い手の少ない稀少魔法ですよね……?」
「割愛するが、魔法学の理屈上、かなり実用の難しい方に分類されるものだからな。
どうやらカナリアの精神模様はそれに向いたものであるらしく、有望視されているということだよ」
独立記念日が終わって間もなく、魔法都市ダニームに帰国したエルアーティとテセラだが、それに伴いカナリアもそれについていく形となった。
ダニームのアカデミー、魔法学の権威とも言われるその場所へ、アカデミー内において最も発言力のある人物の一人である賢者エルアーティが、カナリアを招待したいと言ったからだ。
世界的にも高名で、試験やら何やらで門も非常に狭いアカデミーに、独断の一声で今まで魔法学に携わりもしてこなかった少女を編入させてしまうぐらいには、あの賢者様は権力を持っていらっしゃるのである。
結論から言えば、エルアーティの見立てどおり、カナリアはダニームの魔法使い達から見ても、なるほど才覚の片鱗は垣間見られる、と見えるものだ。
今後のことはまだわからないが、上手くカナリアが魔法使いとして頭角を表していけるなら、魔法都市ダニームにおいても手放し難い人材になっていく見込みもある。
元より格闘術には心得のあるカナリアだ。それが、身体能力強化の魔法をものにすれば、その戦闘能力は格段に上がり、逸材と呼べるほどの実力者になっていくはず。
並行して教え込まれている治癒魔法も手の内に入れられるなら、戦無き日々の中でも、人々に奉仕することの出来る女性となる。
狭き門のアカデミーに、賢者様権限で不意に特別枠が生じたことに対しては、それはいいのかなぁなんて思う魔法使いも多少はいるが、それはカナリアが成長していけば打ち消せる疑念だろう。
エルアーティが権限を振るったことで、ダニームに一人の逸材が参入したのだと証明されれば、理屈は抜きに肯定される話である。
意地悪なエルアーティがカナリアに、あなたの頑張り次第よ、私の顔に泥を塗らないでね? と、悪い笑顔でプレッシャーをかけ、カナリアが必死こいて頑張っている姿がハルマの目には浮かぶ。
「向こうでの生活基盤も概ね完成したそうだしな。
後で、アルバーシティのリットハイム家にもその旨をお送りしておこう。
イリス嬢、そちらの手続き準備はお任せしてもよろしいかな」
「ええ、承りました」
やや突然の、カナリアのダニーム留学だったが、勿論カナリア本人と、彼女の実家リットハイム家ともちゃんと話をつけてのことだ。
高名なる魔法都市ダニームに我が子が招かれたとあれば、両親は喜ぶだけだ。
元より、カナリアは家計を助けるために、夜の仕事や傭兵業を営んでいたようなものであって、彼女が世間に認められ、権威あるアカデミーに招待されたとあれば、尚のこと両親は目に涙さえ浮かべたものである。
カナリアの実家、リットハイム家はそこそこの良家で、旧アルバー帝国時代には富裕層至上主義の帝国の方針から、まあまあ潤った生活をしていた家である。
帝国崩壊に伴ってアルバーシティの体制が激変し、煽りを受けてかなり収入が減ったこともあって、一時は没落気味の元名家という立ち位置に陥った。
それでも庶民よりはまし、という程度の財力があったが、経済事情が変われば環境も変わるし、両親からすれば子育ての長い計画も崩れ、カナリアには不自由をさせてしまう負い目を感じていたのである。
優しい両親の愛を受けた割には、経済状況の変化にもすぐさま対応し、私がお金を稼ぐんだと働き始めた元お嬢様カナリアは、なかなかどこに見せても恥ずかしくない気高さと言えよう。
彼女自身の心意気をそう評ずると同時に、カナリアをそうした女の子に育てた両親が人格者だったとも言えるが。
カナリアは今、ダニームで一人暮らしだ。安くて小さな家に賃貸で住み込んでいる。
昼から夕方まではアカデミー、夜は酒場でアルバイト。仕事の休みは週一日の安息日のみ。
家賃も、免除してあげましょうかとエルアーティに言われたアカデミーへの学費を稼ぎつつ、お金が浮くなら両親への仕送りすら視野に入れている始末。
どこに行っても生きていけるタイプである。がさつと自称する言動とは裏腹、しっかり者で心優しいカナリアの本質を昔から知っているハルマは、手紙越しに聞く彼女の環境を知るにつれ、あの子らしいとしか思わない。
あの子のことだから、年に一度は実家やここに来てくれるはず。また会う時が楽しみだ。
三十路を過ぎると一年が短く感じるが、二十歳未満の若者にとっての一年は長い。あっという間に成長する。
きっと次に顔を合わせる時には、一皮向けた大人の女性となったカナリアの姿が見られるはず。
手紙をたたむハルマは、そんな未来を夢想しつつ、机の引き出しに大事そうに手紙を仕舞うのだった。
「……それと、ハルマ様」
「はい?」
「私にもう、敬語は必要ありませんわよ。
今の私は貴方の付き人であって、貴方の部下と言える立場です。
女王様の婚約者の妹、などという肩書きによって生じる関係は、もう忘れて頂きたく存じます」
イリスはここ数日気になっていたことを、ここで意を決したように口にした。
いつかは言われるだろうな、と思っていたハルマとしては、あーとうとう来たか、としか。
「慣れませんなぁ」
「慣れて下さいまし!
私は元々、敬う貴方に敬語で語りかけられること自体、ずっとむずむずしてたんですの!」
「わかりました、わかりましたよ。
急にとはいきませんが、少しずつ慣らしていくよう善処しますから」
「……今も敬語ですし」
「急にはね。ま、おいおい」
イリスももう、17歳だ。世間的に言えば、仕事を得始める年頃である。
元より、ナナリー女王様の婚約者ニトロの妹、いわば女王様の親族となる予定の彼女は、王室にあってそうした地位ゆえ、彼女が働く予定など王室には意識されていなかった。
しかし、イリスの強い希望を受けたナナリーが、イリスをハルマの付き人に任命したのだ。
いわば参謀ハルマのお手伝いをする秘書とでも言える立場である。
ダウィラスが継続して大臣職を担う形になったが、ハルマも立場としては同じようなものだ。
対等な二人は話し合った結果、主に内政はダウィラスが、主に旧アルバー領を含む対外的政治とはハルマが仕切ろう、というイメージで仕事を分割し合う形になった。勿論、柔軟な二人だからその限りではないが。
要は今までと違い、参謀役・大臣役が二人になったので、ハルマとしてはこれまで以上に仕事がしやすくなったということである。
ダウィラスは有能だ。何だって全幅の信頼を以って任せられる。
そうなってくると、政治的な知性を持つ後進の育成に、手を割く余裕も生まれるわけだ。
それがイリスである。ハルマのそばに遣えて仕事の手伝いをすれば、今まで見えてこなかったものだって見えてきて、きっと王室にとっても頼もしい一員に育っていくかもしれない。
元より仕事なんてなく、箱入り娘をしていたイリスは、その暇をよくお勉強に割いてきたものであり、セプトリア王国の社会学にはかなり知識がある。
それを実用的な政治的手腕に繋げることは現時点で難しくても、現役参謀のそばで社会勉強していけば、溜め込んであった知識だって身を結んでいくだろう。
十年後、二十年後を見据えるなら、イリスがもしもそうした有能な女性となるならば、彼女がさらに若い誰かを育てていくことも出来るかもしれない。
「ただ、イリス嬢……あぁまあ、敢えてイリスと呼びましょうか。
貴女が私に懸想されているのはもう周知の事実ですが、仕事は仕事ですからね。
あまり浮ついた気持ちで取り組まぬよう、意識付けては下さいね」
「なっ、見損なわないで頂きたいですわ!
個人的感情があることは否定できませんが……お仕事には関係ありませんっ!」
「じゃ、もしも私が貴女以外の誰かと婚姻を結んでも、変わらず私の付き人でいてくれますか?」
「うっ……そ、そんな意地悪なこと……」
「例え話ですよ、例え話。
好いて頂けているのは嬉しいですが、お仕事に感情を持ち込まれ過ぎても困りますからね。
ま、正直多少は感情豊かであらせられるのは良いことなのですが、一定の戒めは常々意識して下さいまし」
からかうような笑顔でイリスの頭をぽんぽん撫でるハルマの前で、イリスはぶすーっとむくれてしまった。
正味な話、イリスが今の立場を望んだのは、やはり惚れた男のそばで働きたいという想いが先天的にあって、国のために働く立場として頑張りたいという想いは後天的なもの。勿論、ナナリー女王に直訴するだけあって、後天的な想いだって、彼女なりには並々ならぬ覚悟にまで固めてあるだろうが。
さりとて、やっぱりハルマが他の女性とくっつくのは嫌。
そんなことになっちゃったら、イリスの仕事や立ち回りにも影響が出るかもしれない。
というか、きっと、間違いなく出る。
「今のうちからあまり厳しいことは言いませんが、それは十代のうちだけですよ~?
仕事は仕事です、私情はあまり挟まれぬようにね」
「……心がけますわ」
国のために働こうという若者が、恋心に左右され得る心持ちで仕事に臨んでいいものかは、議論の価値がある話。
ハルマは別に、若いうちはそんなものだと思っている。果たして世の中何人の若者が、自分の未来予想図やまだ見ぬ人の幸せを想像して、仕事や進路を選んでいるものやら。
自分が真にやりたいことは何かもわからないまま、何かの仕事に就職する若者なんて沢山いるだろう。
就職後の自分のビジョンなんて無いままに。そんなものは十年かけてじっくり作っていけばいいのだ。
イリスはハルマが好きだから、ハルマのそばで働く道を選んだ。きっかけなんて、そんなものでいいのだ。
まだ十代である。これからもずっと、ハルマの挙動一つで仕事に影響が出るような女性に育っていっては良くないが、十年かけてそうではない、参謀補佐官になっていけばいいだけの話。
幸い、ハルマは育て上手である。カナリアが良い子に育っているのは両親の力が最も大きいが、親しんだ大人の一人にハルマが含まれているのも、全くの無関係ではあるまい。
その覚悟や姿勢は果たしてどうかな? と思われる若者がいたとしても、近くに立派な大人がいて、ちゃんとフォローしていく力があれば何の問題もない。
好意を寄せられる立場のハルマは、イリスを立派な大人に育てていくことには、そもそも地から前向きである。
「エルアーティ様の手紙にもありましたよ。
セプトリア王国の歴史はまだ幼い。独立して僅か四年、成熟した国家であるはずがない。
ま、もっともあの人に言わせれば、人の歴史すらまだ幼いと言うのですけど」
「幼い、ですか……?」
「我々は独立して数年の間、あるいは独立の数年前からも、独り立ちした国家を目指してきたつもりです。
しかし、現実はまだまだです。たとえばエレム王国や魔法都市ダニームとの同盟関係を切ったとして、その後も何十年に渡って安定した国家として在れるか。
私はそう問われれば、ノーと断言致しますね」
「…………」
「ナナリー様も同じ答えを返されると思いますよ。
だからあの方は、寝る間も惜しんで必死にあらせられるのです」
表面的には安定して、国民を幸せにし続けているセプトリア王国、そんな大好きな祖国を、まだまだ幼い国だと言われるのは、愛国者のイリスにとって面白くないことだ。
だが、エルアーティやハルマの見解は正しい。独立してたかだか数年で、独り立ちして何でも自国だけでやっていける国家です、なんて見栄を張る方がおかしい。
ベリリアルの侵蝕を受けた特別なイレギュラーを抜きにしても、国というのはトップがしっかりしていなければあっさりと転び得るものなのだ。
何事も起きぬうちは、どんな小国家だって平安でいられる。問題はイレギュラーが生じた時。
災害、疫病、大規模飢饉、何より最も現実的なのは、かつてなかった強大な魔物による侵略など。
こうした国家を揺るがし得る、大いなる厄災に見舞われた時、自国を絶対に守り抜けるほどの磐石な構えは、まだ小国セプトリアには備わっていない。
すべてに備えるなら、兵力の増強に始まり、あまねき福祉の磐石化、衣食住のさらなる安定が、抽象的な目標。
要するに、たくさんお金をかけて、たくさんの人材を育てて成立することだ。
数年でそれを果たせたと思う方が甘っちょろい。
余談だが、そうした中でもナナリーは、ずっと自国の独り立ちを目指しているわけで、なるべく同盟国やエルアーティに頼ることを避け、自分たちの手で何かを為そうとしたがる傾向にある。
先日、それをエルアーティにきつく説教されて、しゅんとなっていたそうだ。
未成熟の国なんだから、背伸びせずに周りを頼ることを覚えなさい、見栄を張るのはやめなさい、といった旨の説教だったそうで。
勝手に色々やってつまづいて、ダニームからフォローしようとしても手遅れ、なんてことになったらエルアーティも嫌なのだ。それぐらいには、賢者様もナナ姫様のことを大事にしたがっている。
「エルアーティ様は昔から、ご自分やナナリー様の幼いままの体を引き合いに、人の歴史の、あるいはセプトリア王国の幼さを強調されています。
きっと自分は、ナナ姫は、百歳まで生きても幼い体のままなんだろう、とね。
ゆえにこそエルアーティ様は、鏡を見れば己の未成熟を目の当たりに出来る体であることは、幸運なことだとよくナナリー様を励ましておられました。
ナナリー様も、ご自分の特殊な体については結構気にしていたのですが、そうしてエルアーティ様が前向きな考え方を教えてくれたからこそ今は気にせず、かつ、あの方をお姉さまと慕っているのです」
エルアーティやナナリーの体が、何歳になってもあのままなのは、"不思議"の一言に尽きるばかりだ。
ただ、それに何かの意味を見出すなら、真理がわからぬ以上は好きに解釈すればいい。
未だ未成熟なセプトリア王国の歴史を象徴するものだと、未だ完全究明には至らぬ魔法学を表すものだと、エルアーティはナナリーに教え説いたそうだ。
「これからの道、上手くいくこともあれば失敗することもあるでしょう。
国単位のことに限らず、個々人の人生においても言えることです。
しかし、確かに成長していく己や国を喜ぶ感情には前向きであるのは結構、一方でその現状に満足せず、いっそう励んでより前進していくことが大切です。
何歳になっても人間は子供です。大人だって、間違いを犯すことはあるのですから」
「え、えぇと……つまりは、"常に精進あれ"、と総じてよいのでしょうか……?」
「簡単に言えばそんなところですね。しかし、意識しないと難しいですよ?
身の回りが固まってきたと感じれば感じるほど、すなわち成功を重ねるにつれ、人はゆっくりそうした初心を忘れていってしまう。年を重ねるにつれ、自分はもう間違わないと思い込んでしまうこともある。
立場や収入の安定を、能力や環境の安定と勘違いしたら、どんな仕事でもダメになるのだと、誰もが心の底ではわかっているはずなのに、人生というのはなかなかに難しい」
年を重ねるにつれ、己の過ちを振り返って認めるのは難しくなっていくのである。
人によっては、それは頭が子供だと表現する人もいる。だけど、人間ってそういうもの。
何歳になっても大人も子供、とハルマは言うが、単に達観してそう言うのではなく、そうじゃなければ説明のつかないことがしばしばあるのだから、結論としてそうでなきゃしょうがない。
旧アルバー帝国には、頭が子供以下の大人貴族が何人いたことか。今や彼しか知らないことだが。
「さて、ご自分で仰られた以上、絶対に忘れませんね?
精進あるのみ。ずっとですよ? 何歳になってもですよ? 誓えますか?」
「う……ち、誓ってみせますわ……」
「ふふふ、よろしい。裏切らないで下さいね?」
にこにこしながらプレッシャー。
きつい釘の刺し方ではないが、忘れて貰っちゃ困る初心なので、柔らかくも念入りに。
何を教えても身に入らないアルバーシティの傭兵らとは違い、イリスに期待しているからこその付き合い方とも言えるが、今のイリスにとってはなかなか厳しい攻め方であった。
これは頑張らなきゃいけない。イリスが胸の前にぎゅっと両手を握り、自分に発破をかける姿を、ハルマは微笑ましく見届ける。
「さぁて、出勤です。忙しくなりますよ」
「はい、参りましょう」
一日が始まる。新しい一日だ。
参謀ハルマと、それに付き従う王室の卵。
恋し恋された男女の関係のみにあらず、そんな二人は今日もセプトリア王都に旅立っていくのだった。
「おはようございます、ナナリー様」
「んむ、おはよ……」
王室のナナリーを迎えに上がったニトロに、ナナリーは少々眠気の残った顔で応えた。
今日はユース達が王都を離れ、エレム王国への帰路へと出発する日。
昨夜はユース達五人を城に招き、遅くまで送別会とも言える宴会で盛り上がったため、ちょっと今日のナナリーは寝不足なのだ。
働き詰めでの寝不足よりは、きっと余程健康的な寝不足の類だろう。思い出という副産物がある。
「ふぁ……では、行こうか。
今日も忙しくなるぞ、たぶん」
「あ、ちょっと待って下さいナナリー様。
髪のがちょっとだけ……失礼します」
お召し物や髪型のセットは付きの侍女に手伝って貰って成る女王様だが、今日は恐らくナナリーの目覚めが遅かったのだろう、少しだけ髪型の完成度が至っていない。
短時間で急仕上げしてくれた侍女の手腕はたいしたものだが、後ろ髪の櫛の通しが甘いことを即座に見抜いたニトロが、懐から櫛を出してナナリーの髪を整えてくれる。
男のニトロが普段からこんなものを持ち歩いているのは、しばしば身内間でも笑い話にされる。
その都度、自分用じゃありませんよと、ニトロが反論するところまで定型だ。
「よく気付くのう……」
「毎日見ているナナリー様ですからね。
はい、出来ました。それでは改めて、参りましょう」
二人は並んで謁見の間へと歩きだす。
朝はひとまずあそこで、ご挨拶に訪れる者を迎えるのが女王様の務め。動きにやや自由度が生じるのは昼前からだ。
やがて辿り着いた謁見の間、扉を開いて玉座に向かい、ナナリーがお尻の余る玉座にちょこんと座る。
その隣に立つのが、衛兵であり婚約者でもあるニトロ。
朝のナナリー女王様としての構えはこれで完成だ。
「ふう。
今日は、そんなに謁見の予定も多くなかった気がするが」
「そうですね。
ただ、昼前にはまたエレム王国からの使者様が来られますので、それが今日の中では最も重要かなと」
「次の騎士様が来られるのは明後日ではないのか?
少し早めのご挨拶じゃのう」
「今回は色々ありましたから、騎士団の方でも予定にズレが生じているみたいです。
それも併せて、普段とは少し違う形の運びになっているんでしょうね」
元々エレム王国騎士団は、ユース達のセプトリア王国滞在を、独立記念日プラス一日程度と予定していた。
年始間もなくにセプトリア王国に到着し、半年ほどこちらで過ごしたら、せっかくなので独立記念日のお祭りを楽しんでおいで、その後すぐに帰国、という算段だったそうだ。
しかし、独立記念日の少し前に色々ありすぎたせいで、ユース達のセプトリア王国滞在は少し延長されたのだ。
ならびに、独立記念日の翌々日ぐらいに、セプトリア王国へと新しく派兵される予定だった騎士団員らの予定にも影響を及ぼして、人事面でごちゃつきがあったのである。
調整はある程度済まされたが、ユース達が帰国するのが今日、新しい騎士が来るのは明後日と、少しのズレは残ってしまった。
そんなわけで、今日は早めに騎士団からの使者が訪れて、そうした予定の移り変わりぶりを説明する役目を兼ねているというわけだ。
今日と明日はセプトリア王国に、エレム王国騎士団員がいない日となり、明後日からはまた、ユース達に代わって新しい騎士団員が、ナナリーやニトロとの新しい付き合いを始めていく。
「……今のうちだから言っておくが、やはりユースどのらがおらぬとなれば寂しいのう。
新しく来られる騎士様もきっと立派な方々であろうし、比較するのも失礼じゃとは思うが……」
「批判しませんよ。
ナナリー様はみんなのこと、本当にお好きでしたものね。
ユース達に抱きついて、お泣きになられた姿を見た時は、正直俺も驚きましたから」
「あ~、それはあんまり言うな。恥ずかしい」
「失礼。ふふふ」
エレム王国騎士団とセプトリア王国の付き合いは長い慣習だ。
定期的に一定期間、派兵されてくる騎士団員がいるわけで、そんな騎士達とナナリーは出会いと別れを既に何度も繰り返してきた。
いずれもこの国に遣わされる騎士団員は、手腕も人間性もしっかりした人物が多く、いずれの来訪者に対してもナナリーは強い敬意を払ってきたものである。
エレム王国自体が、セプトリア王国を福祉の行き届いた素晴らしき隣国であるとリスペクトしており、騎士団からこちらへ遣わされる騎士の人選は慎重に行なわれているのだ。
ユースはあんまりわかっていないようだが、セプトリア王国への定期派兵の役目の任せられること自体、大事な同盟国に見せても恥ずかしくない騎士団員だと、騎士団からは既に評価されていたということなのである。
「正直なところを言ってしまうと、俺は今回のユース達とのお別れが、今までの中でも一番寂しいですよ。
多分、今後ここまで寂しく思うことは、そんなにないんじゃないかなってぐらい」
「ニトロもユースどのと懇ろじゃったものな。
最初はあんなにつんけんしておったのに」
「あ~、それはあんまり言わないで下さい。恥ずかしいので」
「んふふ、お返しじゃ」
それでもナナリーとニトロは、ユース達との別れは特別寂しく感じるのだ。
年が近いせいもあるのだろう。優秀な人材を遣わせる騎士団の方針として、こちらに来る騎士はナナリーやニトロより、十歳以上の年上であることが殆どだ。
元より親しみの持ちやすいアルミナを筆頭に、打ち解けやすい人格者の五人であったこともあって、ナナリーとニトロは王族と騎士団の付き合いを超え、本当にユース達と親しく過ごしてきた。
思い返せば半年前の、雪山へ遠足に出かけた時の思い出も、短い期間のうちに作れておいてよかったと心から思う。
「ユースどのらとは、きっともう会うことはないのじゃろうな。
いつか巡り会えても、それは僥倖に他ならぬ」
「そうですね。
ユース達ほど優秀な騎士様が、またセプトリア王国に任務で訪れてくれることなんて、きっと二度とありませんから」
エレム王国の騎士団は、世界各地に優秀な騎士を遣わせている。
優秀であればあるほどに、忙しくって、世界を回るのだ。
期待するとすれば、祖国帰りして暇を得たユース達が、セプトリア王国に遊びに来てくれることぐらいだが、それを他国の優秀な騎士様に期待するのは、ニトロの立場からすれば苦しい。
引く手あまただと思うんだから。こちらに遊びに来ることが難しいぐらい、多くの人に求められて、呼ばれ参じる忙しいユース達の姿が、想像できてならないのである。
「薄情な物言いになるが、もう会えぬ方々のことをいつまでも惜しむのは正しくない。
騎士団の皆様に救って頂いたセプトリア王国を、支えていくのは妾たちに他ならぬ。
そばにおらぬ者よりも、そばにおる人々じゃ。空を見ず、足元を見つめねば国造りはままならぬぞ」
「はい。存じています」
ユース達の別れを惜しむというこの話題を、今のうちだから、とわざわざ前置きして切り出したナナリーだが、それはこれが最大の根拠だ。
いない仮定の者をいつまでも想い馳せ、そばにいる者、己の身の回りを顧みない指導者など愚の骨頂だ。
そんなことをしていたら、その指導者についていく人々も面白くないだろう。
ユース達との別れを寂しがる感情が生じるのはどうしようもないが、それを努めて自ら拭い去ろうとするナナリーの意気は、女王としてあるべき姿勢を己が手で作れている。
「……そなたはずっと、妾のそばにおってくれるのじゃろ?」
そう言ってナナリーは、すぐそばに立ってくれているニトロの手を握る。
急に女王様に手を握られたことに、ニトロも驚いてナナリーを見下ろすが、ニトロを見上げず目線を自分の膝元に落としたままのナナリーは、しばらく何も言わずに表情を隠している。
「ナナリー様?」
「ベリリアルの魂に囚われていながらも、妾はすべてを見届けていた。
そなたがあと少しで、妾の手によって振り下ろされる剣により、命を失っていた光景も。
…………今までの人生で、あれほど怖かった瞬間は一度もなかったぞ。今、思い返しても背筋が凍りつく」
すんでのところでユース達の介入があって、結果ニトロは救われたが、そうでなければ全てが終わっていた。
衛兵であり、婚約者でもあったニトロ。その人物はナナリーにとって、婚約者だと定められても嫌だと思わない、はっきりと、男性として愛した唯一無二の人。
側近としてではない。内心でははっきりと恋している男性が、本当にあと一歩で首を落とされていたあの時のことを思い出すだけで、ニトロの手を握る今の手が震えるほどぞっとする。
「騎士団の皆様には、生涯忘れぬ恩が出来た。
セプトリア王国を、妾の命を救ってくれたことも勿論そう。
だが、妾にとって最も忘れ難き恩は、そなたの命を救って頂けたことをおいて他に無い」
「ナナリー様……」
「……ニトロ、聞かせて欲しい。
そなたは、もう、妾のそばから離れぬか?
ずっと、ずっと、妾のそばにいてくれるか?」
ニトロにしてみれば、言われるまでもないことだ。
今も昔もずっと主君で、数年後には妻に娶る女性でさえある。
離れるわけがない。この問いには、当然ですと答えるのが模範回答で、むしろ愚問ですと答えて格好つけてもいいぐらい。
ニトロを見上げ、女王としてではなく、女性としての目で見つめてくるナナリーの表情に、ニトロは断じて衛兵としての言葉は適切でないと感じた。
ずっとそばにいる。これは、兵にとっては並々ならぬ誓いとなる。
見放さぬことなど大前提、そして何より、この人よりも先に逝ってはならぬという誓いを含むのだ。
剣を握って戦いに参じる身、いつ命を落としても不思議でないというのに、この約束には相応の覚悟が必要だ。
ニトロは膝を落とし、ナナリーと目線を等しくする。
握られた手を、大切な女性の手を、壊さないように優しい力で握り返してだ。
「改めて、約束します。
俺は、ずっと、ナナリー様のそばにいますから」
「絶対じゃぞ?
妾がどんなに大きな失敗をしても、見捨てずそばにいてくれるか?」
「はい」
「妾よりも、先に死んだりしたら許さぬぞ?」
「はい」
「……こんな小さな体の妾に飽きて、そなたが他の女性に目移りしたら泣くぞ?」
「はい」
「絶対、妾を、貰ってくれるな?
妾はもう、そなた以外の男に抱かれることなど、考えられぬようになっておるのじゃからな」
「っ……も、勿論です……」
ちょっとリアルな言葉を向けられて、ぼっとニトロの顔が赤くなる。
真剣な眼差しで、頬も染めずにそう言うナナリーとでは、きっとニトロとの間に意識の差があったのだろう。
主君の許婚に選ばれたニトロからすれば、究極的に大切な人だという意識だけが育ちすぎて、むしろ相手が女性であった意識が潜み始めていたぐらいなのだ。対等な関係でもあるまいし。
「なんじゃその顔……
今の問いかけに、詰まったりせず即答してくれるとすごく嬉しかったのに」
「す、すみませんごめんなさい……
抱くなんて、その……いや、言い訳になりますけど、女王様ですので……
あ、あんまりそういう不埒なことは考えず、仕えることに意識付けてきましたので……」
「妾はずうっとそういう意識でおったわ。
子を残し、王家の血を引き継いでいくのも妾の役目じゃ。
こんな体で子を産めるのかと、そういう心配だってしてきたぐらいなんじゃからな」
今や唯一の、セプトリア王家直系の血を繋ぐ女王様である。流石に意識が違う。
貞操観念はがちがちだが、一方そういう話をして顔を赤らめるような17歳ではなかった。
そりゃあ許婚を認めるにあたって、子作りを許せる相手かどうかもちゃんと考えている。
畏れ多いのか何なのかは別として、ニトロはわかっていなかったのである。
ナナリーは、ニトロとだったらそういうことをしてもいいのだと、数年前から覚悟を決めていたことなんて。
「……怖気づいて手を出せぬような殿方では頼りないぞ。
主従であれど、婚姻を結べば、そなたはもう妾の夫なのじゃからな」
「そ、そうですね……励んで参ります……」
「ちゃんと、覚悟できておるか?
女王だの、そんな話ではないぞ。そなたは、妾という女と、やがて結ばれるのじゃからな」
「……はい。
決して、ナナリー様の期待を裏切らぬ男になってみせますから」
それでも即座に覚悟を固め直し、こう言いきれる辺りは立派なものだ。
少し戸惑わされたが、ニトロとて、ナナリーに相応しい男になろうという決意自体は固かったのだから。
赤くなった顔ながら、真剣な眼差しで言い放てるニトロの表情は、ナナリーという女性にとって実に頼もしい。
「……試させい」
え、とニトロが小さく声を発した中、ナナリーはニトロの手を両手で握ると、彼を逃がさぬ形にする。
そしてニトロに顔を向けたまま、そっと目を閉じたのだ。
そして、何かを待つようなナナリーの唇の形。
何を求めているのやら。ここまでお膳立てされて、どうして欲しいかわからなかったら男じゃないが。
「え、えぇと……あのっ……」
「……はようせい」
ナナリーの頬も、徐々に赤みを帯びてきた。やっぱりそういうことらしい。
若いうちからナナリーという許婚を定められ、性に関わらぬよう努めて生きてきた童貞さんにとって、なかなか強烈な試練が訪れたものだ。
ここは絶対に、へたれてはいけない。ここで男を見せられなかったら去勢ものである。
「っ……い、いきますよっ……?」
「ん……」
かすかな声で応えたナナリーの言葉に続いて、ニトロはナナリーの唇に、優しく自分の口元を重ねた。
本当に短い時間の接触だ。ちょうど、一秒ぐらい。
すぐに離れたニトロだが、自分の口元を介して得た、ナナリーの口唇の感触はずっと残っている。
心臓どきどきで改めてナナリーの顔を見るニトロを、ナナリーも優しく弾む心地よい胸奥を感じながら、かすかに笑って見上げている。
「……嬉しい♪」
「…………」
無邪気に、幼い顔立ちをくしゃりとするナナリーを、ニトロは愛おしい目で見つめるばかりだった。
主君であり、婚約者。そしてニトロにとっても、女性として誰よりも愛した人。
繋いだままの手を離せず、胸の奥に永遠の愛の誓いを刻み付けるニトロは、好きで好きでたまらないナナリーの目を見つめることしか出来なかった。
ところが、ここで緊急事態発生。
ぎぃ、という音と共に、この謁見の間の入り口の扉が閉じたのだ。
その物音に、ばっとナナリーとニトロが振り返ったところ、謁見の間の扉は"閉じている"。
開いたのではなく閉じた。それは、ついさっきまで扉が隙間を開けていたということを表していて、つまりは二人だけの密室だったはずの謁見の間は、外から覗ける状況だったということ。
「……ニトロ」
「はいっ?」
ぼふんぼふんと頭から煙を噴かせ、顔から火が出たナナリーが、もの凄く低い声を発した。
超怒っていらっしゃる。女王様の、婚約者との二人きりのキスを、誰かが覗いていたわけだ。
女として強烈な羞恥心を燃え上がらせると同時、そんな不届き者に対する憤慨も大炎上。
「ね、いいモノ見れたでしょ。
ナナリー様のことだから、なんとなくこういう予感がしたんですよ」
「お、お兄様……きゃああ……」
「ハイ、逃げますよ。多分バレました。
捕まったらくすぐりの刑に処されますよ、ダッシュダッシュ」
「行け! ひっ捕らえて来い!
どうせハルマじゃ! 妾の前に引きずり出せえっ!!」
「なにっ……!
か、かしこまりましたっ……!」
ご名答。ナナリーの行動をある程度読んで、しかも覗きまでかましてくる奴なんてあいつしかいない。
とても恥ずかしいところを見られたナナリーの怒号を聞き、覗きの犯人の容疑者を聞いたニトロも勢いを増す。
そうかアイツか、と。何度も何度も自分が童貞であることをからかってきたアイツ。
ばこん、と謁見の間を扉を乱暴に開いたニトロの目に、既にかなり遠くまで走り逃げたハルマとイリスの姿が見えた。
妹までいやがる。あいつら許すまじ。
「誰かあっ! ハルマ様とイリスをとっ捕まえろおっ!
ナナリー様のご命令だ! ぶっ飛ばぁす!」
「ひゃー、頑張りましょうねイリス嬢。
逃亡劇ついでに体力作りです」
「マジですのー!?
こんなことになるって知ってたらついて来なかったのにー!」
ハルマ達を追う駆け足を回しながら叫ぶニトロに応じ、セプトリア城の兵士達も動きだした。
逃げるハルマとイリスを、ニトロとセプトリア兵が追い回す、どったんばったん城内鬼ごっこの幕開けだ。
騒がしい城内の声を、開けっ放しの謁見の間の扉から耳にするナナリーは、玉座に座って真っ赤なままの顔をうつむけ、はぁ~っと溜め息をついていた。
こんな下らないことで頭を抱えられるのが平和な証拠である。
今のセプトリア王国はきっと、かつて以上に平安だ。
「じゃ、僕はもう先に行くからな。
ちゃんと戸締りしてこいよ」
「忘れねーよ、親かお前は」
チータがそう言って玄関から出て行く姿を、ユースは普段どおりの掛け合いとともに見送った。
まったく、あいつはいっつも俺のこと軽めに見下してる感があるなぁと、ユースはちょっぴり不満顔で自室へと帰っていく。
今、この家にはユースしかいない。
シリカも、アルミナも、ルザニアも既に家を出ている。
昼前に、王都東の関所に集合とだけ決めて、今はみんな自由時間で王都を歩いている。
「……はぁ」
二度寝の意志なくユースはベッドにばふりと背中から倒れ、天井を見つめて息を吐く。
今日でセプトリア王国ともお別れだ。
午前中は、最後の最後に王都内での自由行動を作り、昼からは関所より馬車に乗って港町へと直行、そして海を渡って帰国する、という流れが確定している。
朝一番に家を出たアルミナは、きっとご近所付き合いのあった人達に最後の挨拶に巡っている。
その次に家を出たシリカは、一度城の訓練場に行って、セプトリア兵の皆様に一礼すると言っていた。
そのまた次に家を出たルザニアは、市場に行くと言っていた。人の輪を広げるアルミナ先輩に倣って、彼女も彼女なりに市場では商人様数名と親しくなっており、別れのご挨拶に伺うつもりなのだろう。
家でずっとくつろいでいたチータは、ちょっと時間に余裕を持って集合場所に着く算段で出発しただけで、今日も実にマイペースであった。
ユースはそんな自由時間に、他のみんなのように、付き合いのあった人達に挨拶回りをするつもりにはなれなかった。
ナナリーやニトロとは昨晩の送別会で最後のご挨拶を済ませたし、少なからず縁のあった王都内の人々にだって、昨日までにすべて挨拶を済ませている。
いよいよこの国ともお別れだという今日、そんな皆様とまた顔を合わせると、寂しくなる予感しかしなかったユースは、出歩かないという選択肢を賢明に選んだのだ。
流石にそういう自分の性格ぐらいは、ちゃんと自覚しているのである。
「……色んなこと、あったな」
両腕を広げ、ベッドに寝そべるユースの脳裏には、この国で得られた数々の思い出が駆け巡る。
大変なことも多かったけれど、良い思い出の方がずっと多い。
ニトロやナナリーと親しくなれたことが一番そうで、シリカやアルミナ、チータやルザニアと刻んだ思い出がその次に来る。
次の機会が訪れるかはわからないが、もしも時間が作れたなら、たとえ一人でだって、またセプトリア王国に遊びに来たいと心から思う。
感傷に耽って涙が出るような心持ちではないが、ユースは両手の甲で目元を覆い、隠すかのような姿勢になる。
目を閉じる代わりだ。暗くなった視界の前には、鮮明に思い返せる素晴らしき日々。
たくさん、ナナリーやニトロには感謝された。感謝したいのはこちらの方だ。
セプトリア王国に来られたことは本当に幸せなことだったと今では思うし、快く自分を受け入れてくれた人々に向けたい言葉は、ありがとうの一言以外に存在しない。
「……………………さてっ」
記憶巡りの旅のみで、数分ベッドに寝転がっていたユースは、このままではいい夢に落ちてしまいそうだと危うげに感じ、体を起こして部屋を見渡す。
こちらで買い物した私物などは、昨日郵送手段を以って本国に送り飛ばしてあり、今のこの部屋は初めて来た時と同じ風景である。
きっとこの家を、また新しくセプトリア王国に訪れるエレム王国の騎士が使うのだ。
後始末を完全に終えているユースは、最後に残っていた私物、剣を腰に下げて盾を腕に装備する。
部屋を出て、居間に行くユースは、最後の光景を前にして目を細める。
この居間で、何度も仲間達と団欒した。思い出が詰まっている。
セプトリア王国で過ごしたこの家を出て、鍵を閉めれば、とうとうこの場所ともお別れだ。
感慨深い居間の風景は、ユースにとっての新しい故郷のようで、ずっと自分達を包み込んでくれていたこの空間に、ユースは最敬礼すらしたい想いを抱いている。
「お世話になりました、セプトリア王国、さま」
別れの一言。
誰もいない空間でそう言って、居間を去って玄関へと進んでいくユースに、もしもこの家が口を利けたら何と言って見送ってくれただろう。
玄関の扉を開けたユースに、引き止めるかのような外からの風が吹くことは無く、送り出すような追い風が家屋から吹き出ることも無く。
半年間、己の内にて過ごしてくれた騎士様に、この家が伝えようとしたことを風から感じ取るのだとすれば、それは言葉無く勇者の旅立ちを見送る、微笑みを擁した静観と例えられよう。
「……あれ」
「もー、ユース! 遅いよ、遅刻しても知らないよ!」
「ぎりぎりまで家を出ない性格だろうなと思ったんだ。
あと一分出てくるのが遅かったら、呼びに入ろうと思ってたぞ」
家を出て、集合場所へと一人で歩いていく予定だったユースを、出戻りの二人が迎えてくれた。
シリカとアルミナだ。二人、示し合わせたわけでもなく、自分達の都合を終えて、まさにユースが家を出る時間帯を察して、少し前から迎えに来てくれたのだ。
二人とも、本当によくユースのことをわかっている。
片方がそうじゃなかったら、片方はユースと二人きりで集合場所まで行けた場面だが、あいにく二人とも強いのでこの辺りを譲らない。
「あの、わかりました?」
「ユースは最後まで、思い出の場所に浸りたがると思った」
「挨拶回りをしたら寂しさが蘇るからって、出歩かないだろうなとも思った」
二人してまるまるユースの行動パターンを読みきっていて、俺ってそんなにわかりやすいかなぁとユースは苦笑い。
そうとも、大変わかりやすい。何歳になっても子供みたいな奴だって、年上の知り合いからはよく言われる。
「さ、行こ、ユース」
「早くしないと遅れるぞ」
アルミナが、シリカが、少し離れた場所からユースに手を差し出してきた。二人ともだ。
二人同時に手を差し出されると、ユースはちょっとどきりとする。何これ、握ればいいの、と。
相手が一人なら迷わず差し出された手を握るが、二人? 両方握るために両手を伸ばす想定なんかない。
ユースはなんだかどぎまぎしながら、二人の方へと近寄る足。
どうするのかなんてよくわからないが、とりあえず両手を出す準備だけしている。
「カギ」
「鍵は?」
「……あっ」
忘れてた。ぽふっと顔から煙を出したユースは、いそいそ玄関へと立ち返って鍵を閉めに行く。
チータに刺された釘が実に痛い。忘れねーよと強めに言い返しただけに、これはなかなか恥ずかしい。
「……シリカさん、やりますね。
前よりずっと積極的じゃないですか」
「……ここだけ絶対、負けたくないもん」
ユースの背中を見て微笑ましく笑うアルミナが、ひっそりシリカに話しかければ、シリカも微笑み混じりながら宣戦布告を返す。
握って欲しい手を差し出したアルミナに、シリカも意地を張って見せたのだ。今までよりもずっと、対等に戦おうとし始めている。
張り合っていた手をとうに引っ込めた二人は顔を向け合う形になり、敵意無き笑顔で見上げ、見下ろし、恨みっこなしの長い戦いの火蓋を切って落としていた。
「すいません、行きましょう」
「ちょっと急いだ方がいいかもねっ。
遅刻したらルザニアちゃんの手前、先輩として格好つかないよん」
「遅れるとまた、チータにからかわれるぞ。急ごうか」
小走りで二人に駆け寄ってきたユースを見受け、シリカとアルミナは集合場所への道を歩きだす。
二人の背中を追う形で歩くユースは、半年間過ごした家からゆっくりと離れる運びとなる。
急いだ方がいいのだとわかっていても、やはり一度足を止めずにいられなかった。
遠き目の前に見えるのは、セプトリア王国に自分達がいた場所だ。あの家の存在そのものが、まるで自分達がこの国に刻んだ足跡のよう。
細い目で、それを最後に目に焼き付けるユースは、旅立つ自分達を見送ってくれる親に感謝するような想いで、今一度セプトリア王国の思い出を馳せそうになる。
「こーら、ユース?」
「行くぞ」
後ろからの足音を失った二人は、家を振り返って立ち止まっていたユースを数秒見届けた後、優しい声色でユースに前進を促していた。
気持ちはわかる。でも、振り返らずについてきて欲しいとも思う。
わがままだって言われても、過去の思い出を振り返るより、これからもずっと一緒にいる自分達との日々を、大事にして欲しいと思うのが本音である。
改めてユースがシリカとアルミナに振り返った時、未練を振り払えるほど輝かしい仲間の笑顔がある。
長かったような、短かったような、セプトリア王国との日々に終わりを告げるのが今日。
そして、この国で築き上げた経験や思い出を胸に、また新しい日々へと漕ぎ出すのも今日。
そんな新しい日々に向けて歩きだすにあたり、こんなにも優しくて、素敵な先輩と親友に恵まれた幸せを、ユースはちゃんと自覚できる性格をしているのだ。
「……はいっ」
二人に追いつく足を早めたユースは、シリカとアルミナに挟まれる形で、三人揃って集合場所へと向かっていく。
ここには確かに、恋心の戦いがある。だが、今は三人ともそんなことを気に留めない。
男女の関係である以前に、そんな気持ちを誰かが自覚するよりも前から、ずっとずっと一緒だった三人だ。
ユースは、シリカやアルミナと一緒に過ごせる日々が
シリカは、アルミナやユースがそばにいてくれる毎日が。
アルミナは、ユースやシリカと並んで歩ける日常が。
ただそれだけで嬉しくて、幸せで、満たされる。誰が欠けても駄目なのは、三人共通した想いである。
祖国を離れてセプトリア王国にて過ごした三人は、そんな昔からの気持ちを今まで以上に強めて、半年でいっそう変わり映えた絆を土産に、エレム王国へと帰還していくのだ。
貴き出会い、惜しまれた別れ。
一番大切な人達が、ずっと隣にいてくれる幸福は、どんな寂しさも打ち消してくれるほど輝かしい。 きっとユースが幸せでいられるのは、それを忘れたりしないからなのだ。
陽光差すセプトリア王都を歩くユースは、汗ばんだ顔を夏風が撫でてくれる涼しさを身に受けながら、明日へと向かって歩いていくのだった。
ずっと先のことなんて、誰にも絶対にわからない。
今とすぐそばにこそ、幸せを教えてくれる何かが常にある。
以上にて、"騎士ユーステットと幼き国"は完結です。
ご愛読ありがとうございました。




