躊躇い
「……聞いているのかな?」
あれから一時間も経たない後、丁度小腹が空いてくる時間。
偉大なる友人殿から浚われ…もとい、"お誘い"を受けたフィリアスは、勤務先の店主に事情を説明して早退し、汚れた制服は私服に着替えた。
二人の行き着けであるカフェの窓際はフィリアスの特等席だ。窓から差し込む心地良い陽光と優しい色調で整えられた店内は、訪れた客を穏やかにもてなしている。
フィリアスの座る前で香ばしい湯気を立ち上らせる珈琲も、甘い香りで誘惑する桃のタルトも大好物なのだが。
どうしよう、この状況。一難去ってまた一難。
フィリアスはのっぴきならない状況に追いやられていた。
「え!はい、そりゃもう耳の穴が空く程にヴィルさんのお話をですね……!」
「フィリアス君。 聞いてなかったね」
「………スミマセン」
いかにしてこの状況からいち早く脱出するかをつらつらと考えていたせいで、しおらしく聞いていた話を途中から全く耳に入れていなかった事にはフィリアスに非があるのだが。
そ、そんなに「怒ってますよ」オーラを出さなくても良いではないかっ!
元々余り機嫌が宜しくなかったらしい友人を、どうやら完全に不機嫌の方向へフィリアスは天秤を傾けてしまったらしい。
ただでさえ、"王立魔導学院"の長衣は目立つ上に、何せ彼は時の人。
店内のあちこちから(特に若い女性層)熱い視線を受けているし、その相手が何というか可も無く不可も無く、地味な髪と目とついでに平凡以下の顔立ちでの、王都ではある意味有名なフィリアスが一緒に居るのだ。
先程からチクチクとした視線が非常に痛い。
魔導師達も驚いていたが、フィリアスと学院の星であるヴィーツェルアは何を隠そう"友人"なのである。
出会った頃はもうちょっと良い性格だった気がするのだけれど。と、意識を過去へと飛ばしかけたところで若草色の瞳がフィリアスを睨むように見ている事に気付いて、フィリアスは慌てて姿勢を正した。
「フィリアス君」
「は、はい」
「また聞いてなかっ」
「すみませんすみません聞いてませんでした!でも今からはばっちりお話をお伺いしますのでどうぞ思う存分話してください!」
すっ、と奇麗な瞳が細められた。
だがそれを正面から受け取るフィリアスは、肉食の獣に食べられる五秒前な気分であった為、青褪めた顔で呼吸を挟まず一気に捲くし立てると、天下の魔導師様は「チッ」という雰囲気を残して剣呑な雰囲気が霧散した。
これ以上のお小言は勘弁である。
「ねえ、フィリアス君。 今回の事は確かに彼等も悪いけれど……君にも、非が無いとは言えない」
はい?何を言い出すのだ、この人は。
フィリアスは思わずケーキへと伸ばしかけた手を止め、まじまじとヴィーツェルアを見返した。だが、そこにある若草色の瞳に真面目な色しか確認できず、悪戯に混乱を誘う。
ヴィル、貴方の言葉は毎度難解です。
あまり頭が良いとは言えない自分にも、分かりやすく言って欲しいものである。
「君が悪戯にそうやって毎日を過ごしているから、学院内で不満を持っている者が増えているのも事実だという事だよ」
「…何故」
珈琲を軽く一口飲むと、ヴィーツェルアはテーブルの上に軽く腕を組んだ。
嗚呼、余り聞きたくないなあ。
これから言われるであろう事は、流石のフィリアスでも予想がついた。勿論、心の準備が出来ているか否か、というと又別問題なのだが。
「確かに受験基準には決まりがない。 けれど、皆"一度きり"という覚悟で以って試験に挑むのに、君だけは素知らぬ顔で毎年受験する――例え理不尽でも、感情を持つ人という生き物である以上、君を応援している者も居れば、疎む者も居る」
緩やかにフィリアスの周りにある空気が冷えてゆく心地がして、我知らず重い溜息が零れた。
人の感情は、美しくも醜い。
時に、人こそが"天使"や"悪魔"だと言われるほどに、その心根は表裏一体である。
慈しみや友愛は時として嫉妬と僻みに変わり、やがて愛情や憎しみに変わってゆく。
「つまり…もう、試験は受けるなと…ヴィルも言うの?」
彼に限って、フィリアスを憎んで、という事はまず無いのだけが救いだった。
夏の生き生きとした若草を思わせる瞳には、ただ、フィリアスを案じる色が滲んでいるのだから。けれど、この先を案じてだったとしても、ヴィーツェルアの言葉を素直に頷く訳にはフィリアスはいかなかった。
「違う。 ……無詠唱を使うんだ」
「ヴィル!」
これに慌てたのはフィリアスだった。忙しなく周囲に視線を向けると、咎めるような視線をヴィーツェルアへと送るが、対する魔導師の青年は悪びれた風もなく言葉を続けた。
「私よりも君のほうが余程力があるというのに、このままここで枯れさせる訳にはいかない。 世界でも数人と居ない……精霊を見、精霊と意思を交わす導き手なのだから」
フィリアスは呪文を唱えることが出来ない。だが、魔法を使う事はできる。
通常、魔法を行使する際には鍵となる呪文が必要であり、呪文無くして様々な奇跡の結晶とも言われる魔法を生み出す事はできない、というのが一般的な常識である。しかしながら本質は、世界に息衝く人ならざるもの達から目を背けた結果、呪文という強制力を持ったものが無ければ魔法を生み出せなくなってしまっただけなのだ。
人々は目先の利益と栄光に、古の神話を読み返すことも忘れているだけ。
それこそ、赤子の時から精霊達を見てきたフィリアスが呪文を使わないのは至極当然の事であったし、使わずとも"願えば"彼等は笑顔で力を貸してくれた。
だが、それが周囲の人にとって当然の事でないことくらい、王都から遠く離れた辺境の村で育ったフィリアスとて分かる。何せ、村人達の誰一人として、フィリアスのように呪文なしで魔法を使う者は居なかったのだから。
故に、自然と人前で魔法を使う事が少なくなったフィリアスは、魔力の強さを感じられない自分の容姿も相俟って、より一層落ちこぼれの扱いを受けていた。
それが何故、"風の詠み手"と言われる未来明るい魔導師の青年からここまで言及されているのかというと、単純である。
数年前。彼と出会ったばかりの頃。
フィリアスが呪文を唱えずに魔法を発動させたところを目撃された為だ。あの時は色々とあり過ぎていて混乱していたし、ヴィーツェルアの怪我を治す事で頭が一杯一杯だったから躊躇いは無かったのだけれど、まさかここまで彼がご執心になるとは…うむむ。
「フィリアス君。 君という人は……」
大体、自分の力というよりは当たり前のことを当たり前にしているだけであって、偉大だの何だのと言われても困るのだし……と、再び思考の海へつらつら沈んでゆこうとしていたフィリアスの意識を一気に引き上げたのは、他ならぬヴィーツェルアの低い声だった。
いけない。また話を聞いていなかっ、いえ聞いていましたよ。
ヴィル、貴方の機嫌をこれ以上損ねるくらいなら、一度に十人の話を聞いてすらみませます!と、強気に思いはしても、実際には何とも情けない声がフィリアスの口から零れた。
「で、でも、ヴィル? 私はやっぱり――」
「呪文を唱えられない君が、どうやって学院に入る?何度受けたところで、結果を見せなければ入れぬ場所である事くらい、君は分かっている筈だ」
分かっている。一度目は勢いだった為今考えれば受かる筈も無いが、回数を重ねるにつれて如何に呪文を完全に、完璧に、そして如何に美しく使えるかを求められる。
上位魔導師達ですら、"見えていない"のだ。
それは当然の事だった。
「だからって……」
「……やはり、あの時の事を引きずっているんだね」
嫌悪と畏怖に彩られし瞳。
戦慄く唇が悲鳴を伴って、あの夜に響き渡る。
そして、フィリアスの心に決して抜けぬ杭を穿つように、叫ぶのだ。
"――――――!"
今は昼間。
だというのに、テーブルの下にある僅かな影が闇に変貌し、足元から飲み込まれてゆくような心地を振り切る為、フィリアスはゆっくりと息を吐き出し、一度だけ強く目を瞑った。
いけない。暗い思考に飲み込まれては。
「そういう、わけじゃないの」
「だが……」
「大丈夫。 心配してくれてありがとうヴィル……もう少しだけ、がんばらせて」
フィリアスの嘘までも見通してしまうような、鮮やかな彼の瞳が今は眩しい。
気遣わし気なヴィーツェルアの視線を直視できず、フィリアスは偽りの笑みを深めて見せた。
「それに、来年こそは合格しないとそろそろ本当に呆れられちゃいそうだし……ヴィルも、ミルリィだって、待ってくれてるん……だよね」
「当然だ。 今日だって本当は、君を浚ってでも学院に連れて行くとミルフェルリア君が意気込んでいたのを、何とか宥めて私だけが来たのだから」
「さらっ……!?」
どうしてこうも気の強い友人が多いのか。
分かっているけれども、私の意思は無視なんですね分かります。とても明るく社交的だが、どうにも猪突猛進的な"友人"を思い起こすと、フィリアスは乾いた笑いを浮かべた。
フィリアスは少なからず周囲の人に恵まれていると思う。
友人という存在がいなければ、"聖域の森"で交わした約束を叶えられぬまま早々に王都から去っていただろうし、共に働く同僚達の優しい言葉に何度救われたかしれない。
だからもう少し。
もう少しだけ、時間が欲しい。
何とも都合の良い話だが、あと、少しだけ。
「それじゃあ、ミルリィに今度会いに行くからって、伝えておいて」
「分かった……フィリアス君、気を付けるんだ。 君は思った以上に見られている」
「……うん。 ありがとう、ヴィル」
後悔先に立たず。
ヴィーツェルアの警告をもっと真剣に考えていれば良かった、とフィリアスが酷く後悔したのは、どうにもならない渦中に巻き込まれた後だった。