第3話「灯りは消えない」
カフェ「あおい」は、もうない。
田中はその場所の前を通りかかった。シャッターは閉まり、看板も外されている。そこにはもう何もない。ただの空き店舗だ。
それでも、彼は時々この道を歩いた。特に用事はない。ただ、昔と同じ景色を見たくなっただけだった。
ある日、彼はその場所の前で立ち止まった。一人の若い女性が、建物の前に立って写真を撮っている。彼女はスマホを構え、何度かシャッターを切っていた。
田中は声をかけた。
「ご存知の店ですか?」
女性は振り返り、少し驚いたように首を振った。
「いいえ」
「なんとなく雰囲気が気になって」
その一言に、田中は息を飲んだ。理由はわからない。でも——この店は、もう誰かを呼び始めている。閉店したはずの店が、まだ誰かの記憶に残ろうとしている。
女性は、もう一度だけ建物を見上げて、静かに去っていった。
田中は、その後ろ姿を見送った。そして——笑った。
もう十分だった。
彼はポケットから小さなノートを取り出した。あの日、カフェで最後に書き添えたノートではない。別の、彼自身のためのノートだった。彼はペンを走らせた。
『カフェあおいはもうない。でも、そこにあったものは消えていない。若い頃、何も受け取れなかったと思っていた。違った。あの日から、今日まで——ずっと受け取り続けていたのだ。』
彼はノートを閉じた。カフェはもうない。でも、彼の中には確かに何かが残っている。それが何なのか、まだ言葉にできるほど明確ではない。でも、それでいいと思えた。
彼は歩き出した。背中を向けて。
彼は振り返らなかった。振り返る必要がなくなったからだ。
カフェはもうない。でも——灯りは消えない。どこかで、誰かの心の中に、その温もりは確かに残っている。
彼はそれを、今日、初めて確信した。
『彼は、何も受け取れなかったと思っていた日々を、今は愛おしく思えた。なぜなら、その空白が、彼をここまで運んできたのだから。』
エピローグ
時は流れ、23世紀。
その場所は、もう誰も「カフェあおい」とは呼ばなかった。建物は朽ち、屋根は崩れ、壁には蔦が絡まっている。ただの廃墟。荒れ果てた草地。
それでも——一人の男が、その前に立っていた。
彼はなぜここに来たのか、自分でも説明できなかった。用事はない。知り合いもいない。ただ、何かに引き寄せられるように、足が向いた。
彼はしばらくその場所を見つめていた。何もない。ただの瓦礫と、風の音だけ。
でも——なぜか、この場所には「何か」が残っている気がした。
彼は何も言わず、ただその場に立っていた。やがて、振り返らずに歩き出した。
彼が去った後も、その場所にはまだ微かな熱が残っていた。誰も気づかない。誰も知らない。
でも——確かに、そこにあった。
風が吹いた。
廃墟の窓枠が、小さく軋んだ。
まるで、誰かが店の扉を開けたような音だった。
誰も覚えていない場所に、誰かが立った。
そのことに、意味はない。
でも——その場所は、今日も誰かを待っていた。
風が吹いた。
窓際が、小さく鳴る。
その音を聞いた者はいない。
それでも、
その場所は今日も、
誰かの記憶になろうとしていた。
――『無名の痕跡』は各話を独立短編で投稿――
短編A-➁第1話「見ていただけの人」
https://ncode.syosetu.com/n9555mm/1/
短編A-➁第2話「冷めたコーヒー」
https://ncode.syosetu.com/n9565mm/1/
短編A-➁第3話「匿名の通報者」
https://ncode.syosetu.com/n9566mm/1/
短編A-➁第4話「好意の裏返し」
https://ncode.syosetu.com/n9573mm/1/
短編A-➁第5話「読んだ母、読まなかった母」
https://ncode.syosetu.com/n9575mm/1/
短編A-➁第6話「『カフェあおい』最後の日」
また、「彼女の計画外伝」「彼女の喫茶店」に同時投稿されます。




