表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
短編A-① 6『無名の痕跡』「カフェあおい 最後の日」  作者: Taku


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

PR
2/3

第2話「最後のコーヒー」

田中がこの店の鍵を預かったのは、もう何年も前のことだった。


彼はサラリーマンを辞めてから、特に目的もなく日々を過ごしていた。退職金は十分ではなかったが、生活に困るほどではなかった。何かを始めるでもなく、何かを終わらせるでもなく、ただ時間が過ぎていくのを眺めていた。


そんな彼を、あの張り紙が呼び戻した。


『カフェ「あおい」、店長を募集します』


その文字を見た瞬間、彼の胸の奥で何かが引っかかった。若い頃に一度だけ来たこの店で、何も受け取れなかった——その空白の記憶だけが、ずっと心のどこかに残っていた。


そして今日が、その「あおい」の最後の日だった。


夕方。高齢の二人の女性が来店した。彼女たちが入ると、店内の空気がほんの少しだけ変わった気がした。田中は窓際の席を案内した——彼が若い頃に座った、あの席の近く。


注文は二人ともブレンドコーヒー。カップを運ぶ時、一人の女性のカップが少し揺れた。


「失礼しました。」


田中が言うと、女性は穏やかに微笑んだ。


「ありがとう。」


その一言が、彼の胸に静かに響いた。


しばらくして、一人の高齢の男性が入ってきた。彼は窓際の席を見つけると、優しい表情を浮かべて歩み寄る。


三人が揃うと、テーブルの空気が落ち着いた温かさに包まれた。


なぜか、その瞬間、若い頃の記憶がほんの少し脳裏をよぎった。きっと思い過ごしだろう。彼はその感覚を振り払うように、流し台に溜まったカップに水を流した。


田中はカウンターの奥でその様子を見ていた。彼らは言葉を多く交わさない。時折、カップを手に取るだけで、その間には長い沈黙が流れる。でも、その沈黙は気まずいものではなかった。むしろ、これまで紡いできた時間そのものが、そこに溶け込んでいるようだった。


三人が店を出たのは夜だった。去り際、一人の女性が振り返り、微笑んだ。


「ごちそうさま。いいお店でした。」


田中は「ありがとうございました」とだけ言った。


その後ろ姿を見送りながら、彼はカウンターの奥から一冊のノートを取り出した。


ノートを開く前に、彼はもう一度窓際の席を見た。すると——一瞬だけ、若い頃の自分がそこに座っているように見えた。もちろん幻だ。でも、その幻の自分と、一瞬だけ目が合った気がした。


彼はノートの最後のページを開いた。そこには、まだ何も書かれていなかった。


ペンを手に取り、こう書き添えた。


『本日、三人の客が来た。窓際の席に座り、長い時間を過ごした。何を話したのかは覚えていない。ただ——若い頃の自分が受け取れなかった何かを、今夜、初めて受け取った気がする。』


最後のコーヒーを、彼はあの窓際の席で飲むことにした。誰もいない静かな空間で、カップを口に運ぶ。


そして——初めて、あの日の自分を思い出した。若い頃の自分が、ここに座っていた。何も感じなかった。何も受け取らなかった。そう思っていた。


でも、違った。


「……受け取れなかったんじゃなかったんだ」


彼は呟いた。

声は、静かな店内に吸い込まれていった。


その店には、確かに何かがあった。


ただ——


自分が、受け取れなかっただけだった。


「ずっとここに置かれていたのか」


彼は初めて、コーヒーの香りを深く吸い込んだ。


『彼は、若い頃に何も受け取れなかったと思っていた。しかし、その認識こそが、彼が今日までこの店を守り続けた理由だった。』

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ