第001話 死んだら白い部屋だった
真木了は、駅前の信号が嫌いだった。
青になるまでが長い。
渡れる時間は短い。
しかも、会社から駅へ向かう人間と、駅から住宅街へ流れる人間が、ちょうどそこでぶつかる。
金曜の夜ならなおさらだ。
疲れた顔の会社員。イヤホンをした学生。スーパーの袋を提げた老人。塾帰りらしい子ども。
誰もが少しずつ急いでいて、少しずつ周りを見ていない。
了もその一人だった。
右肩には、会社支給の黒い鞄。中身はノートパソコンと、今日中に確認しろと言われた資料の束。明日が休日だという理由で押しつけられたものだ。
明日は休日だから、今日のうちに見ておいて。
その言い方が成立するなら、休日とは何なのか。
了は革靴のつま先を見下ろした。朝にはまだ形を保っていた靴の艶が、今は駅前の埃を薄くかぶっている。
帰ったら、先に風呂。
飯は冷凍の何か。
資料は、見ない。
いや、見る。
見なかった場合、月曜の朝に誰が困るか分かっている。結局、自分で開くことになる。
そう考えたところで、歩行者信号が青に変わった。
人の流れが動く。
了も一歩を踏み出した。
その時、横から小さな影が抜けた。
黄色い帽子。
ランドセル。
片手に握った、銀色のキーホルダー。
小学生くらいの子どもが、歩道の端から車道へ半歩出ていた。視線は手元のキーホルダーに落ちていて、左から曲がってくる白いワゴン車を見ていない。
運転席の男も、子どもを見ていなかった。
了は舌打ちをする暇もなかった。
鞄が肩からずり落ちる。
ノートパソコンの重みが肘を引いた。
それでも足は前へ出た。
「危ない」
自分の声だったのか、近くの誰かの声だったのか、分からない。
了は子どものランドセルをつかみ、歩道側へ押し戻した。
軽い。
驚くほど軽かった。
子どもが転ぶ音。
誰かが息をのむ音。
ワゴン車のブレーキ音。
それから、鞄の紐が肩から完全に外れた。
ああ、資料。
場違いなことを思った。
月曜、困るな。
そこで音が、途中で切れた。
目を開けると、白かった。
天井が白い。
壁も白い。
床も白い。
見える範囲に色がなさすぎて、自分が上を向いているのか、横になっているのか、一瞬分からなかった。
了はまばたきをした。
まぶしいわけではない。
蛍光灯の白さでも、病室の白さでもない。白いのに、光源が見当たらない。
手を動かす。
動いた。
痛みはない。
指もある。手首も曲がる。肘も肩も、さっきの衝撃を知らないみたいに動く。
了は上体を起こした。
白い床に座っていた。
床なのに、冷たくない。硬いのに、膝に痛みもない。影は薄く落ちているが、足元に接地している感じがどこか頼りない。
「……病院じゃないな」
声は、思ったより普通に出た。
普通に出たことが、逆に気味悪かった。
周囲を見回す。
ベッドはない。
点滴もない。
カーテンも、消毒液の匂いも、ナースコールもない。
白い。
ただ白い。
部屋というには広すぎる。体育館ほどではないが、会議室よりは広い。壁と床の境目が曖昧で、どこまで歩けば端に着くのか分かりにくい。
そのくせ、何もないわけではなかった。
少し離れたところに、細い台がある。
受付カウンターというには飾り気がなく、祭壇というには事務的だった。
了は立ち上がった。
立てた。
眩暈もない。
さっきまでの肩こりも、足のだるさも消えている。
ただ、鞄がない。
スマホもない。
胸ポケットを探っても、社員証もない。
「……事故ったよな」
記憶はそこまではっきりしている。
黄色い帽子。
白いワゴン車。
ブレーキ音。
落ちた鞄。
そこから先がない。
都合よく病院で目覚めた、というには、ここは静かすぎた。
了は白い床を踏みしめる。
足音がほとんどしなかった。
近くで誰かが咳払いをした。
了は反射的に振り向いた。
さっきまで何もなかった白い空間の奥に、人が立っていた。
いや、人、と言っていいのか。
白い衣をまとった女だった。
長い髪は淡い金色で、肩のあたりで柔らかく揺れている。表情は穏やかで、目元には、こちらを驚かせないように整えられた微笑みがあった。
背後に光の輪があるわけでも、天井から羽根が降っているわけでもない。
それなのに、初対面の相手に向かって「受付の方ですか」と聞くには、少しだけ神々しすぎた。
女は両手を胸の前で重ね、深く一礼した。
「お目覚めですね」
声は澄んでいた。
澄んでいるのに、妙に手慣れていた。
銀行の窓口で番号札を呼ばれた時の、あの丁寧さに近い。
了は一拍置いてから答えた。
「たぶん」
女は微笑みを崩さない。
「真木了様でお間違いありませんか」
「……はい」
名前を呼ばれた。
病院でも警察でもない場所で、見知らぬ女が自分の名前を知っている。
その時点で、了の中の警戒が一段上がった。
「ここはどこですか」
「ご案内いたします」
女はそう言って、白い台の方へ手を差し向けた。
質問への答えではなかった。
了は動かなかった。
女は、動かない了を責めるでもなく、もう一度きれいに一礼した。
「私はコヨリ。転生課の案内を担当しております」
転生。
聞き慣れたようで、現実では一度も使ったことのない単語だった。
了は眉を寄せる。
「転生?」
「はい」
コヨリと名乗った女は、仕事中の受付係みたいに、迷いなくうなずいた。
「まずは、真木了様のご生前の行いと適性を確認し、次の世界への移行手続きを進めさせていただきます」
「ちょっと待ってください」
了は片手を上げた。
さすがに止めた。
死んだのか、と聞くべきだった。
小学生は無事だったのか、と聞くべきだった。
ここは何なのか、あの事故のあと自分はどうなったのか、確認することはいくらでもあった。
けれどコヨリの口調が、あまりにも手順通りだった。
まるで、了がすでに書類に目を通し、説明を受け、あとは判を押すだけの客みたいだった。
コヨリは首をかしげた。
「はい。ご不明点でしょうか」
「不明点しかないです」
「では、順番にご説明いたします」
そう言って、コヨリは白い台の前に立った。
台の上には、いつの間にか薄い板のようなものが浮かんでいた。画面に似ているが、枠がない。白い空間に、白い文字だけが少し濃く浮かんでいる。
了には内容が読めなかった。
コヨリは画面を確認し、ほっとしたように微笑んだ。
その微笑みは、綺麗だった。
綺麗で、丁寧で、そして少しだけ業務的だった。
「真木了様」
「はい」
「あなたは異世界へ転生します」




