表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
PR
1/12

第001話 死んだら白い部屋だった

真木了は、駅前の信号が嫌いだった。


青になるまでが長い。


渡れる時間は短い。


しかも、会社から駅へ向かう人間と、駅から住宅街へ流れる人間が、ちょうどそこでぶつかる。


金曜の夜ならなおさらだ。


疲れた顔の会社員。イヤホンをした学生。スーパーの袋を提げた老人。塾帰りらしい子ども。


誰もが少しずつ急いでいて、少しずつ周りを見ていない。


了もその一人だった。


右肩には、会社支給の黒い鞄。中身はノートパソコンと、今日中に確認しろと言われた資料の束。明日が休日だという理由で押しつけられたものだ。


明日は休日だから、今日のうちに見ておいて。


その言い方が成立するなら、休日とは何なのか。


了は革靴のつま先を見下ろした。朝にはまだ形を保っていた靴の艶が、今は駅前の埃を薄くかぶっている。


帰ったら、先に風呂。


飯は冷凍の何か。


資料は、見ない。


いや、見る。


見なかった場合、月曜の朝に誰が困るか分かっている。結局、自分で開くことになる。


そう考えたところで、歩行者信号が青に変わった。


人の流れが動く。


了も一歩を踏み出した。


その時、横から小さな影が抜けた。


黄色い帽子。


ランドセル。


片手に握った、銀色のキーホルダー。


小学生くらいの子どもが、歩道の端から車道へ半歩出ていた。視線は手元のキーホルダーに落ちていて、左から曲がってくる白いワゴン車を見ていない。


運転席の男も、子どもを見ていなかった。


了は舌打ちをする暇もなかった。


鞄が肩からずり落ちる。


ノートパソコンの重みが肘を引いた。


それでも足は前へ出た。


「危ない」


自分の声だったのか、近くの誰かの声だったのか、分からない。


了は子どものランドセルをつかみ、歩道側へ押し戻した。


軽い。


驚くほど軽かった。


子どもが転ぶ音。


誰かが息をのむ音。


ワゴン車のブレーキ音。


それから、鞄の紐が肩から完全に外れた。


ああ、資料。


場違いなことを思った。


月曜、困るな。


そこで音が、途中で切れた。


目を開けると、白かった。


天井が白い。


壁も白い。


床も白い。


見える範囲に色がなさすぎて、自分が上を向いているのか、横になっているのか、一瞬分からなかった。


了はまばたきをした。


まぶしいわけではない。


蛍光灯の白さでも、病室の白さでもない。白いのに、光源が見当たらない。


手を動かす。


動いた。


痛みはない。


指もある。手首も曲がる。肘も肩も、さっきの衝撃を知らないみたいに動く。


了は上体を起こした。


白い床に座っていた。


床なのに、冷たくない。硬いのに、膝に痛みもない。影は薄く落ちているが、足元に接地している感じがどこか頼りない。


「……病院じゃないな」


声は、思ったより普通に出た。


普通に出たことが、逆に気味悪かった。


周囲を見回す。


ベッドはない。


点滴もない。


カーテンも、消毒液の匂いも、ナースコールもない。


白い。


ただ白い。


部屋というには広すぎる。体育館ほどではないが、会議室よりは広い。壁と床の境目が曖昧で、どこまで歩けば端に着くのか分かりにくい。


そのくせ、何もないわけではなかった。


少し離れたところに、細い台がある。


受付カウンターというには飾り気がなく、祭壇というには事務的だった。


了は立ち上がった。


立てた。


眩暈もない。


さっきまでの肩こりも、足のだるさも消えている。


ただ、鞄がない。


スマホもない。


胸ポケットを探っても、社員証もない。


「……事故ったよな」


記憶はそこまではっきりしている。


黄色い帽子。


白いワゴン車。


ブレーキ音。


落ちた鞄。


そこから先がない。


都合よく病院で目覚めた、というには、ここは静かすぎた。


了は白い床を踏みしめる。


足音がほとんどしなかった。


近くで誰かが咳払いをした。


了は反射的に振り向いた。


さっきまで何もなかった白い空間の奥に、人が立っていた。


いや、人、と言っていいのか。


白い衣をまとった女だった。


長い髪は淡い金色で、肩のあたりで柔らかく揺れている。表情は穏やかで、目元には、こちらを驚かせないように整えられた微笑みがあった。


背後に光の輪があるわけでも、天井から羽根が降っているわけでもない。


それなのに、初対面の相手に向かって「受付の方ですか」と聞くには、少しだけ神々しすぎた。


女は両手を胸の前で重ね、深く一礼した。


「お目覚めですね」


声は澄んでいた。


澄んでいるのに、妙に手慣れていた。


銀行の窓口で番号札を呼ばれた時の、あの丁寧さに近い。


了は一拍置いてから答えた。


「たぶん」


女は微笑みを崩さない。


「真木了様でお間違いありませんか」


「……はい」


名前を呼ばれた。


病院でも警察でもない場所で、見知らぬ女が自分の名前を知っている。


その時点で、了の中の警戒が一段上がった。


「ここはどこですか」


「ご案内いたします」


女はそう言って、白い台の方へ手を差し向けた。


質問への答えではなかった。


了は動かなかった。


女は、動かない了を責めるでもなく、もう一度きれいに一礼した。


「私はコヨリ。転生課の案内を担当しております」


転生。


聞き慣れたようで、現実では一度も使ったことのない単語だった。


了は眉を寄せる。


「転生?」


「はい」


コヨリと名乗った女は、仕事中の受付係みたいに、迷いなくうなずいた。


「まずは、真木了様のご生前の行いと適性を確認し、次の世界への移行手続きを進めさせていただきます」


「ちょっと待ってください」


了は片手を上げた。


さすがに止めた。


死んだのか、と聞くべきだった。


小学生は無事だったのか、と聞くべきだった。


ここは何なのか、あの事故のあと自分はどうなったのか、確認することはいくらでもあった。


けれどコヨリの口調が、あまりにも手順通りだった。


まるで、了がすでに書類に目を通し、説明を受け、あとは判を押すだけの客みたいだった。


コヨリは首をかしげた。


「はい。ご不明点でしょうか」


「不明点しかないです」


「では、順番にご説明いたします」


そう言って、コヨリは白い台の前に立った。


台の上には、いつの間にか薄い板のようなものが浮かんでいた。画面に似ているが、枠がない。白い空間に、白い文字だけが少し濃く浮かんでいる。


了には内容が読めなかった。


コヨリは画面を確認し、ほっとしたように微笑んだ。


その微笑みは、綺麗だった。


綺麗で、丁寧で、そして少しだけ業務的だった。


「真木了様」


「はい」


「あなたは異世界へ転生します」

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ