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0.01度の特異点 ―計算不能な未来へ―  作者: 最後に残った形


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第1章 第1話:演算された世界の歯車


「神の声(OS)」は間違えない。


その絶対的な前提の上に、魔導都市アルカナ・ハイヴの幸福は成立していた。


朝、網膜に直接投影されたライトブルーの文字が、意識の覚醒とともに明滅する。


『午前6時00分。起床時間です。テオ・アルカディア。現在のあなたの社会貢献度ランク:2.14』

『本日の最適化メニュー:配給カプセルC-4(1,200kcal、ビタミン・ミネラル配合、味覚補正:無)』


テオはベッドの上に上体を起こし、枕元に置かれた金属製のチューブを手に取った。無機質な灰色のゼリーを口に絞り出す。味はない。いや、「味を感知する受容体への刺激」すらも、ランク2.14の労働者に必要なコストとしては無駄だと判断され、削られているのだろう。


この街において、数値は絶対だ。

ランクが高い者は、より美味な食事を、より広い住居を、より長い寿命を約束される。逆にランクが下がれば、生活水準は指数関数的に削り取られ、最終的には街の「外側」へとパージされる。


「……今日のエラーログ、すでに三十件か」


テオは味気ない朝食を数秒で終え、作業着に袖を通しながら、端末に表示されたインフラの不具合リストをスクロールした。


彼の職業は、下級魔導デバッガー。

街の地下に張り巡らされた、都市を動かすための「魔力パイプライン」の保守点検が任務だ。もっとも、同僚たちのほとんどは、システムが『ここを換えろ』と指示した部品をただ機械的に交換するだけの、文字通りの歯車だったが。


流れるように家を出て、定刻通りに地下区画の職場へと滑り込む。

錆びた鉄と、オゾンのような魔力の匂いが混ざり合う薄暗い空間が、テオの主戦場だった。


「よう、テオ。朝から冴えない面だな」


声をかけてきたのは、同じ班の作業員だ。彼の網膜にも、テオと同じような低ランクの通知が出ているのだろう、疲弊した顔をしていた。


「システムが吐き出した今日の点検ルートだ。俺たちは第三ラインのバルブ交換。おい、そんなマニュアルにない古いスパナ弄ってないで、さっさと行くぞ」

「……ああ」


テオはポケットの中で、使い込まれた機械式のスパナに指を触れた。

マニュアルを盲信する同僚を冷ややかに見送りながら、テオは歩き出す。彼らが信奉する「神の声」が、いかに歪な構造の上に成り立っているか、彼らは一生気づかない。


アルカナ・ハイヴは、極限まで無駄バッファを排除した都市だ。

すべての魔力伝導、すべての構造物の配置は、小数点以下まで最適化されている。だが、エンジニアであるテオだけは知っていた。


――遊び(バッファ)のないシステムは、微細なバグに対して、硝子細工のように脆弱だということを。


「おい、大変だ! テオ、ちょっと来てくれ!」


第三ラインに到着するなり、先ほどの同僚が悲鳴のような声を上げた。


巨大な銀色の魔力パイプの結合部。そこから、バチバチと不吉な紫色の火花が散っていた。パイプの表面に刻まれた術式コードが赤く点滅し、警告音を出している。


「な、なんだこれ!? マニュアルのトラブルシューティングには『結合部品の劣化。新品と交換せよ』ってあるのに、部品を取り替えてもエラーが消えない! 魔力の圧力がどんどん上がってるぞ!」


同僚たちはパニックに陥り、端末の画面を血眼で叩いている。システムが正しい。システムが間違えるはずがない。ならばなぜ、目の前のエラーが直らないのか。彼らの脳は、マニュアル外の事態を処理できるように作られていなかった。


「どけ」


テオは同僚を突き放し、パイプの前に立った。


「おい、テオ!? 何する気だ、勝手な行動はランク降格の――」

「うるさい。システムの命令を待っていたら、三分後にこの区画ごと消し飛ぶぞ」


冷徹な声。テオは静かに息を吸い込み、自身の脳内にある『術式』を起動させた。

彼が生まれ持つ、システム非公認の固有能力――世界の構造を、数値として知覚する力。


(――システム・スキャン、開始)


カチリ、と脳内で音がした。


瞬間、テオの視界から色彩が失われた。

コンクリートの壁も、銀色のパイプも、パニックを起こしている同僚の姿も、すべてが緑色の細い線――『ワイヤーフレーム』へと変貌する。


世界が、数式とベクトルに分解されていく。


パイプの中を流れる莫大な魔力のエネルギーが、光の矢となってテオの視界を駆け巡る。システムのアラートは『部品の破損』を示していた。だが、テオの濁りのない瞳が見つめたのは、もっと別の場所だった。


「……やはりな」


テオの口元が、わずかに皮肉げに歪む。


「神の声」は、結合部品の摩耗を検知していた。それは正しい。しかし、システムはその摩耗によって、パイプ全体の軸重がほんのわずかに傾いたことまで計算に入れていなかった。


テオの視界に、一本の赤いエラーラインが浮かび上がる。


『右方への偏角:0.01度』


角度にして、わずか0.01度。

人間の目では絶対に視認できない、システムの演算の隙間にこぼれ落ちた、文字通りの「バグ」だった。


最適化されすぎたこのパイプラインは、0.01度の狂いすら吸収する「遊び」を持たない。そのわずかな傾きが、魔力の流体に乱気流ノイズを生み出し、内側から術式を破壊していたのだ。だから、いくら部品を新品に換えようが、根本の傾きを直さなければエラーは止まらない。


「システムが提示した解決策パッチは、完全に的外れだ」


テオはポケットから、古びた機械式のスパナを取り出した。

魔力伝導率の低い、ただの重い鉄の塊。


「おい、テオ! 何を――」


同僚の制止を聞き流し、テオはワイヤーフレームの視界の中で、数式を組み立てる。

魔力を込めてパイプを真っ直ぐに直すか? いいえ、そんな力は下級労働者のテオにはない。莫大な魔力の水流に、力任せに立ち向かうのは三流のやることだ。


エンジニアなら、そのエネルギーの「指向性」を利用する。


テオは、パイプを固定している根元のボルトにスパナを引っ掛けた。

彼が狙うのは、修正ではない。


「――あえて、もう0.01度、逆方向にずらす」


キィ、と金属が軋む嫌な音が響く。

テオは自身のわずかな魔力をスパナに流し込み、テコの原理を利用して、ボルトの噛み合わせを「意図的に」歪ませた。


システムから見れば、それはさらなる破壊行為、完全な「バグの追加」だった。


「何やってんだお前、狂ったか!?」


同僚が絶叫した、その直後。


ズドン、とパイプの内側で重低音が響いた。

だが、爆発は起きなかった。


「え……? エラー表示が、消えていく……?」


同僚が呆然と呟く。

テオがボルトを歪ませたことで、パイプ内の流体はさらに別のベクトルへと誘導された。結果として、最初に発生していた0.01度の歪みが生んだ乱気流と、テオが意図的に作った0.01度の乱気流が、完全に『逆位相』となって衝突し、互いのエネルギーを相殺デバッグしたのだ。


激しい火花が消え、パイプラインは何事もなかったかのように静まり返る。

術式コードは、正常を示すライトブルーへと戻っていた。


「直っ、た……? マニュアルにない方法で……? お前、一体何を……」


怯えたような目で自分を見る同僚を、テオはワイヤーフレームの視界を解除しながら見下ろした。色彩が戻った世界で、テオの心は氷のように冷めていた。


(思い知れ、神の声。お前の計算は、この0.01度で行き詰まる)


テオが胸の奥で、決して消えない復讐の炎を燃え立たせた、その時だった。


ウゥゥゥゥ――ッ!!


区画全体に、先ほどのエラー音とは比べ物にならない、鼓膜を震わせるような重々しい警報ブザーが鳴り響いた。


網膜の文字が、真っ赤な警告色へと染まり、急速に書き換わっていく。


『警告:エリア09にて、システムの指示にない、未認可の術式干ンスを検知』

『対象:テオ・アルカディア』

『判定:都市の最適化を乱す、修正不能なイレギュラー(バグ)』


「……チッ、検知が早すぎるな」


テオが舌打ちをした瞬間、地下区画の重厚な防壁が、外側から凄まじい衝撃とともに吹き飛ばされた。


白煙の向こうから現れたのは、純白の魔導アーマーを纏った、都市の絶対的な秩序の象徴。

「神の声」の敬虔なる代行者――聖騎士の姿だった。

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