第53話 眠りから戦へ
朝かどうか判別しづらい薄曇りの空の下、誰かの手が肩を揺らす感覚が意識の奥へ沈んでいた。ぼんやりした世界の中で、声だけが先に浮かぶ。
「……リック。……エドリック」
まぶたが重く、頭が枕に沈んでいるようだった。もう一度、少し強めに揺すられる。
「お?反応したな。やっと起きるか?」
その声でようやくエドリックの意識が浮上した。ゆっくりと目を開くと、にやけ顔のダリルが覗き込んでいた。
「……おはよう。もう……みんな起きてるのか?」
声はまだ寝起きのままくぐもり、エドリックは上体を起こしながら瞬きを繰り返す。
ダリルは肩をすくめ、軽く笑った。
「お前が最後だよ。レナードが苦笑いしてたぜ。
『外でいつも通り寝られる奴は、大物かただの鈍い奴だ』ってな」
「……そんなすごいことかな」
「すごいぞ」ダリルは迷いなく断言した。「今は任務中だし、いつ何が起きてもおかしくねぇ状況だ。普通は浅い眠りになる。俺も、ロランも、トマも……まあ、オズワルですらだ」
そこでダリルはわざと間を置き、ニヤリと笑う。
「でもお前だけは……なかなか起きねぇ。揺すっても返事もしねぇ。堂々すぎて怖ぇよ」
「……いや、それ褒めてる?」
「誉め言葉だよ。安心しろ」
ダリルは肩を叩きながら立ち上がる。
「ま、いい意味の鈍さならそのまま育てば隊長向きかもな。ほら、のんびりしてるとレナードに睨まれるぞ」
そう言うとダリルは軽く手を振り、高台の警戒位置へ戻っていった。
エドリックは小さく息を吐き、装備へ手を伸ばす。
並べられたものを一つずつ確かめるように触れながら、頭の芯がようやく覚醒していく。
短槍、ナイフ、革手袋、靴紐の締まり。
持ち物は派手ではない。だがどれも、この廃村の緊張と静けさの中では命を繋ぐ道具だ。
点検を終えると、エドリックは周囲の空気を吸い込んだ。
空は厚い雲に覆われ、陽光は地上へ届かない。
風も弱く、森全体が呼吸を潜めているように感じられた。
(……今日は雨が来るかもしれないな)
そう思いながら短槍を握り直し、エドリックは仲間たちのいる高台へ向かって歩き出した。
その足取りは、眠気を振り払うように徐々に強く、確かなものへと変わっていった。
***
斥候位置には、すでにロランとトマを除いた仲間たちが集まっていた。
それぞれが武具に触れたり周囲に意識を向けたりしながらも、夜から続く張り詰めた空気はまだ残っている。
エドリックが歩み寄りながら視線を巡らせると、少し離れた場所――高台の端で、ロランとトマが廃村を監視している姿が見えた。二人はまるで木々の影の一部のように動かず、その視線は廃墟の奥を静かに射抜いていた。
「起きたか」
背後から声がかかった。振り向くとレナードが腕を組み、薄く苦笑していた。
「まったく……お前は大物だな」
その声音は呆れ半分、感心半分。
続いて横からオズワルが声をかけてきた。
「お前すげぇな。この状況でよくいつも通り寝れるな」
その表情は不満ではなく、どこか羨ましそうな苦笑だった。
エドリックは肩をすくめ、視線を逸らした。
「……そんな褒められるようなことじゃないよ」
声は平静のつもりでも、頬が少し熱い。
自分でも気づかないうちに、耳まで少し赤くなっていた。
レナードはその反応に気づきながらも、深追いはせず本題へ戻る。
「まあいい。今日も任務を遂行する。予定では残り四日だが――ミロが戻るまでは状況を見て判断する」
短く、しかし重く響く言葉。
全員が静かに頷く。
レナードは続ける。
「見張りの配置は昨日と同じだ。作戦も同じ。迎撃は禁止――見張りだけに徹しろ」
その言葉に、仲間たちは再び無言で頷いた。
判断ではなく確認。すでに全員の中に浸透した合意だ。
「それなら――」
レナードが次の指示を口にしようとした瞬間だった。
――ピッ、と鋭い短音。
鋭く短い鳥の声に近い口笛が森に響いた。
瞬間、空気が変わる。
会話は途切れ、全員の視線が音の方向へ向く。無意識に息が浅くなる。
指先、足の指、視線……すべてが戦闘前の感覚へ切り替わっていく。
緊急時の合図だった。
エドリックは条件反射のように高台下へ視線を送る。
ロランはすでに身を低くし、弓を構えながら矢をつがえようとしていた。
その動きは迷いなく、静かで、それでいて獣めいた緊張が漂う。
一方、トマは合図を出した張本人らしく、体勢を低く保ちながらこちらへ急いで戻ってきている。
ただならぬ気配。それだけで、誰一人声を発さずとも理解した。
トマが駆け寄ると同時に短く告げた。
「盗賊を発見した。洞窟側から四人来ている」
言葉が終わるより早く、全員が完全に戦闘態勢へ移行していた。
レナードの声は落ち着いていた。
「四人以上いる可能性は?」
トマは息を整えながら答える。
「そこまでは断言できない。だが……洞窟側に俺たちが知らないルートがあるのは確定した」
レナードは頷き、廃村入口側を見張るロランの方へ視線を向ける。
「オズワル。ロランを呼んでくれ」
「了解」
オズワルは即座に移動した。
レナードは続ける。
「廃村に入ってきた盗賊はこちらが仕留めた奴と繋がっているなら――短時間で異変に気づくはずだ。逆に気づかないなら別働の集団だ」
その判断に、一同の視線が鋭くなる。
レナードは短く息を吐き、廃村の方角へ目を向けた。
静けさは変わらない。だが、空気の層がひとつ緊張に変わったように感じられた。
「……ロランが合流したら状況を再確認する。焦るな」
声は低く、しかし明確だった。
「今回も基本方針は変えない。まず観察だ。盗賊が廃村でどう動くのか――それを見極める」
頷きが連鎖する。
レナードは続ける。
「もし動きが不自然なら、すぐに対処に移る。だが、動き次第では……待つ選択肢もある」
鋭さと慎重さが均衡した言葉。
決めつけず、しかし逃がす気もない――そんな意図が全員に伝わった。
「遠距離攻撃が通る位置はダリルとロランに任せる。ダリル、狙える場所はお前にすべて任せる」
ダリルは真剣な表情でスリングを握り、静かにうなずいた。
「近接組はいつでも動けるように。だが、勝手に仕掛けるな。合図があるまでは――ただの影でいろ」
その言葉が落ちた瞬間、空気が変わった。
声は低いのに、鋭い刃を突き立てられたような緊張が隊の中心に広がる。息遣いは浅く静かになり、誰もが自分の体の動きを最小限に抑える。ただ待つ。必要な時だけ動くために。
草を踏む微かな音が近づき、全員の視線が自然とそちらへ向いた。
姿を見せたのはロランとオズワル。どちらも、すぐ戦闘に移れる体勢のまま。
ロランがレナードの前で足を止め、短く問う。
「洞窟側か?連合側の入り口には異常はない」
「ああ、洞窟側だ」
レナードは迷いなく答える。
「トマの報告によると四人。まだこちらには気づいていない」
ロランは短く息を吐き、ひとつ頷く。
その横でオズワルも表情を引き締めたまま耳を傾けていた。
「みんなにはすでに説明したが――」
レナードは視線を二人へ向け、改めて言葉を続ける。
二人は言葉を挟まない。ただ、理解の証として静かに頷いた。
「他の皆は装備を整えろ」
レナードの短い指示が落ちる。
その号令にエドリックたちはすぐ動き出した。
動きは音を立てず、しかし迷いがない。
短槍の握りを確かめ、ナイフの刃を指先で触れて切れ味を確認し、革手袋の縫い目を締め直す。靴紐の結びが甘くないか、一度蹴り出せば分かるように力を込めて踏みしめる。
ほんの数十秒。だが、その時間の密度は静かで濃い。
遠く、風が枝葉をすべらせる音がして、エドリックは無意識に息を整えた。




