第43話 朝靄の報せ
朝の光が森の奥まで届き始めていた。
木々の葉の裏に朝露が光り、風が通るたびにきらめきを散らす。
遠くで鳥の声が重なり、森が静かに目を覚ます気配を見せていた。
ミロは洞窟を見下ろせる斜面の森に伏せていた。
陽の光が枝の間からこぼれ、地面にまだらな影を落とす。
冷えた空気の中に湿った土の匂いが混じり、息を吸うたびに胸の奥まで染みていく。
(……動き出したな)
洞窟の前にいた盗賊たちが、荷を背負い廃村の方へ向かい始めていた。
四人。足取りは重く、だが迷いはない。
森を抜ける風に、衣の擦れる微かな音が紛れた。
ミロは体を低くして森の中を進んだ。
日差しを遮る木々の間を縫うように、音を殺して移動する。
小道は使わない。地面の柔らかいところを選び、枝を踏まぬよう足を滑らせた。
(……少し、体が重いな)
夜を越えてから、まともに休んでいない。
まぶたの奥が熱く、視界の端がぼやける。
(寝てない分、集中力と動きが鈍ってる……。こんなんじゃ、みんなの足を引っぱるだけだ)
ミロは小さく息を吐き、指先に力を込めた。
(でも、今は止まれない。ロランのところまで行かないと)
鳥のさえずりが増え、森の光が少しずつ明るさを増していく。
やがて、木々の隙間にロランとダリルの姿が見えた。
二人はすでに洞窟の方角を見据え、息を潜めていた。
ダリルは仮眠を終えたばかりのようで、目の奥にまだ眠気の影が残っている。
彼の手の中でスリングの革紐が、朝の風にわずかに揺れていた。
ミロが合図の手を上げると、ロランとダリルがわずかに頷いた。
三人の視線が交わり、空気が静かに張りつめる。
ミロは息を整え、低く報告を始めた。
「洞窟の中は、まだたいまつの明かりがついていた。中にいた盗賊の正確な数まではわからないけど……少なくとも八人以上は起きていたと思う。酒瓶の音や話し声も聞こえた。中には見張りに指示を出している声もあったから、完全には休んでいない」
言葉を区切り、ほんの一瞬、目を伏せる。
(……徹夜明けのせいで、判断が少し鈍ってる。目の焦点が合いづらい。もう少しだけ持ってくれ)
ロランがわずかに眉を動かす。ミロの異常を察したようだ。しかし、ミロは続ける。
「それと……廃村側に向かって動いてるやつらがいる。荷を背負ってた。補給なのか、それとも見回りかはわからないけど、四人でこっちの方角に移動している。どうする?」
その声には、疲れの滲む響きの奥に、責任を果たそうとする硬い意志があった。
ロランとダリルの表情が引き締まり、空気がさらに緊迫する。
「この天気なら狙いはつけやすい。一人は確実だ」
一瞬で覚醒したダリルが応じ、腰の袋から石をひとつ取り出して指先で確かめた。
ロランは二人に目を向ける。
「距離があれば二人はいける。ミロ、お前はどうだ?」
「いけると思いたいけど……少し集中力が落ちているかもしれない」
ミロは短く息を整え、森の空気を肺に満たした。
「狙いは外さないけれど、一撃で仕留めるのは難しいかも」
ロランは静かに頷いた。
「それなら、隠れて背後を完全に取ろう。距離が離れたら奇襲を仕掛ける。
ダリル、お前がスリングを放ってから俺が援護する。
ミロ、お前は盗賊の胴を狙え。――最悪なのは、急所を狙いすぎて外すことだ」
二人は短く頷いた。
森の中で風が通り抜け、葉がざわめく。
それはまるで、森そのものが彼らの呼吸に合わせて息を潜めたかのようだった。
ロランが軽く手を上げる。
「移動するぞ。ここは狙撃には最適な場所だが、洞窟に少し近い。盗賊の声が洞窟に届かない廃村側に移動しよう」
ミロが頷き、動こうとしたとき、ミロの状態を見たロランが続けて声を落とした。
「それとさっき言ったことは撤回する。ミロ。お前は一度、廃村に戻ってレナードたちと合流しろ。
集中力が乱れている今は危険を及ぼす可能性がある。必要なら中距離攻撃が可能なエドリックやトマにも応援を頼め。――移動しながら判断しろ」
ミロは短く息をのみ、すぐに頷いた。
「…わかった」
ロランはその返事に満足したようにわずかに口角を上げ、森の奥を見据えた。
「行くぞ」
三人は再び頷き、森の影の中を滑るように動き出した。
葉を踏む音も、衣擦れも、陽の光に飲まれていく。
森の奥で、遠くの鳥が一声鳴いた。
――静かな朝が、戦いの始まりを告げていた。
***
廃村の空気が、ふと揺れた。
朝の光が崩れかけた屋根の隙間から差し込み、風が通り抜けるたびに埃が舞う。
その風の音の中に、少し違うざわめきが混じっていた。
エドリックは短槍を握り、顔を上げた。
(……風の流れが変わった。森が騒いでいる)
静まり返った廃村の中で、遠くの枝がわずかに軋む。
崩れた塀の隙間から差し込む光が、土埃に溶けて白く霞んでいた。
彼の足元には、割れた石畳の継ぎ目に草が生え、夜露をまとって微かに光っている。
その草が、わずかな風に震えた。
小さく息を整え、腰の笛を取り出す。
短く鋭い音を吹いた。
それは、見張り同士で使う合図――異変の知らせだった。
その音が古びた家々の壁に反響し、静寂の中に吸い込まれていく。
音が消えるのとほぼ同時に、廃屋の向こうから足音が近づいてきた。
最初に姿を見せたのはトマだった。
巡回の途中だったのか、手斧を握ったまま小走りにやってくる。
胸のあたりにうっすらと汗が滲み、息は落ち着いていながらも張りつめていた。
次に、廃村の外――連合側の入り口を警戒していたレナードが現れた。
鎧の肩が朝の光を受け、冷たい銀色を返す。
「どうした」
レナードの声は落ち着いていたが、その目は鋭い。
わずかな動きも見逃すまいとする、隊長としての誇りがそこにあった。
エドリックは廃村の外を見やりながら答える。
「森がなんか変だ。……誰か来る」
トマが一瞬だけ息を呑み、周囲を見渡す。
「盗賊か?」
「わからない。ただ、鳥が鳴きやんだ。風の音も違う」
エドリックの声は低く、しかし確信に満ちていた。
レナードは頷き、すぐに腰の剣に手をやった。
三人の視線が交錯し、静かな緊張が廃村全体に広がる。
崩れた壁の影に朝の光が伸び、静けさがさらに濃くなる。
遠くで木の幹を叩く音――何かが近づいていた。
三人が警戒を固めたそのとき――。
崩れかけた塀の向こうで、草を踏む軽い足音がした。
エドリックが短槍を構え、レナードが手で制止を示す。
トマは息を止め、足元の影に重心を沈めた。
次の瞬間、影がひとつ、森の間から現れた。
「……ミロ!」
緊張がほどけ、三人の肩から力が抜けた。
ミロは額に汗を浮かべ、息を整えながらも落ち着いた表情をしていた。
その顔には、徹夜の斥候任務を終えた疲労と、責務を果たした確信が共にあった。
レナードが一歩前に出て、静かに問いかける。
「どうした。何かあったか」
ミロは頷き、息を整えて報告した。
盗賊たちの動き、分かっている人数、ロランとダリルの位置。そして自身の現状を。
短く、正確に。その声に、焦りも迷いもなかった。ただ静かな確信だけが残っていた。
レナードは黙って聞き終え、すぐに判断を下した。
「わかった。――エドリック、トマ。ロランとダリルの援護に向かってくれ」
「了解」
エドリックが短く答え、腰の装備を確かめる。
短槍の穂先を軽く拭い、投げナイフの位置を調整した。
動作に無駄はない。訓練で染みついた癖が、そのまま命を守るための動きになる。
トマも準備を整える。
腰の手斧を一本抜き、もう一本を腰にとめる。
レナードが懐から小型の手斧を一本取り出し、トマに渡す。
「念のために持っていけ」
トマは頷き、それを受け取って腰に挟んだ。
「行こう」エドリックが言う。
「……ああ」トマが答える。
二人が廃村の外れへ駆け出す。
朝の光が古びた石畳の割れ目に落ち、埃がきらめいた。
彼らの足音が途絶えると、廃村には再び静寂が戻る。
レナードは残されたミロに視線を向ける。
「よく戻った。少し休め」
ミロは静かに頷き、崩れた壁の陰に身を下ろした。
瓦礫の冷たさが背中に伝わり、緊張が少しずつ抜けていく。
(……ごめん。今の僕じゃ、動けない。みんなが戦ってるのに……)
指先がわずかに震える。
それでも、仲間の足音が遠ざかるのを聞きながら、ミロは静かに目を閉じた。




