黒インクは紙を染め、赤き血は地を染める《Schwarze tinte zum färben der papier, Rotes blut zum färben der erde》
一六四五年初夏――
トルステンソンのブルーノ包囲は、いってみればおざなりな戦闘継続のポーズにすぎず、本当に真剣な攻勢ではなかった。
ウィーンかプラハを陥落させるだけなら、将帥としてのトルステンソンの能力を遺憾なく発揮すれば可能だったのである。しかしヴェストファーレンで講和会議が開かれている現状で、神聖ローマ帝国に必要以上の脅威と認識されれば、スウェーデンの処理能力を超える事態が生じかねなかった。
たとえば、首府を陥とされて絶体絶命となった皇帝フェルディナントが、フランスに全面的な譲歩をして個別和平を結び、新カトリック連盟としてスウェーデンに対する攻撃をしてくるなどというのは、最悪の可能性であるが、ありえないとはいいきれない。ゆえに、軍事的圧力は維持しつつ、これ以上ウィーン政府を追い詰めない、それがスウェーデンの方策となった。
だが、それに対する皇帝フェルディナントの恐怖はかけ値なしの本心だった。兄帝の裁可を受け、大公レオポルトは採算を度外視してあらゆるウィーン防衛策を講じていた。
ひとりあたり五〇ターラーを与えると布告して、スウェーデン兵を直接引き抜く工作すら決行したのである。生粋のスカンジナビア出身者や、熱心なプロテスタント信者はともかく、日々の生活のために軍隊暮らしを選んだにすぎない、多くのドイツ人兵士は勧誘に応じて脱柵し、帝国軍に乗り換えた。
会戦となれば総崩れ確実とはいえ、なお三万以上の軍を動員し、さらに敵を買収する資金すら出てくる神聖ローマ帝国のしぶとさに、トルステンソンは内心舌を巻いたであろう。力で征服することはできないと改めて認識し、トルステンソンは引き際を考え始めていた。
八月三日――
アラーハイムを挟んで、フランス軍とバイエルン軍がにらみ合っていた。まだ皇帝になれるかも決まっていなかったフェルディナント三世が、いまは亡き枢機卿インファンテとともに自らの権威を決定づける勝利を収めたネルトリンゲンの東、一〇マイルほどのところに位置する村である。
フランス軍はアンギャン公とテュレンヌ、バイエルン軍はマーシーとヴェルトの指揮であった。数はいずれも一六〇〇〇前後、大砲もフランスの二七門に対しバイエルンの二九門と、戦力ではほぼ拮抗していた。
先にアラーハイムへやってきていたバイエルン軍は高地を占め、砲座を堀と土塁で囲み、小城も確保していた。左翼端のもっとも脆弱な地点をアラーハイム城が補強しており、反対の右翼には多くの砲を配され、バイエルン軍の守りは堅かった。
フランスの幕僚団は不利な条件での無理攻めに否定的で、テュレンヌも勝てたところで損害が多くなりすぎると見解を述べたが、大規模な戦いを待ちわびていたアンギャン公は強攻策を主張して軍議を押し切った。
午後四時――
戦いは日が傾きだしてから始まった。両軍のちょうど中間に位置するアラーハイムの村を巡って歩兵同士の激しい戦闘になり、フランス軍は撃退されたが、第一波を収容したアンギャン公は自ら陣頭に立って再突入を図り、馬を二度に渡って失い、胸甲に銃弾を受けながらもバイエルン軍を排除していった。村には高台へ登る道があるため、マーシーは増援を率いて自ら争奪戦に参加することにした。
中央で両軍が押し合っているあいだ、両翼では大砲を撃ち交わしていたが、ヴェルトはフランス軍に隙を見つけたのか、あるいは我慢しきれなくなったのか、騎兵部隊を率いて土塁と塹壕を乗り越え突撃していってしまった。
ヤンカウでもスウェーデン軍を局面では圧倒したバイエルン騎兵隊は強く、フランス軍右翼を破って指揮官グラモントを捕虜にする大きな戦果をあげた。しかし、目の前の相手を片づけたあと、敵中央の背後を突くのではなくさらに前進し、アラーハイムから五マイルも離れたフランス軍の後方予備隊を襲撃し、補給馬車列を略奪するなど、その動きは無秩序だった。
午後七時――
アラーハイムを巡る攻防はフランス軍の勝利に終わり、バイエルン軍の総指揮官マーシーは頭にマスケットの弾を受けて倒れ、後方へ運び出されていた。フランス側も、アンギャン公の部隊は消耗が激しくほとんど機能しないほどになっていたが、高台への道は確保され、テュレンヌが温存していた直下の部隊を率いて敵陣へ突入した。
マーシーが倒れ、ヴェルトが帰ってこないバイエルン軍にテュレンヌの攻勢をしのぐことはできず、残って指揮をしていたゴットフリート・ハイン・フォン・ゲリーンが捕虜になるなど総崩れとなった。
午後八時――
ヴェルトが戦場に戻ってきた。この時点ではまだ完全に決着はついておらず、指揮官がいなくなって右往左往している味方部隊をまとめて再攻撃すれば、バイエルン軍は逆転できたかもしれない。しかし、総司令であり戦友であったマーシーの訃報を聞いたヴェルトは戦意を失い、要衝ドナウヴェルトを防衛することでバイエルン公国本領へのフランス軍侵入を防ごうとだけ考え、退却を命じた。
不確実な逆転に賭けず、残存戦力を保持してつぎなる防衛線で待ち構えようというヴェルトの判断は必ずしも間違ってはいない。しかし、そもそもヴェルトの勇み足がなければ、マーシーが撃たれて倒れたあとのテュレンヌの攻撃を食い止めることができていただろう。フランス軍右翼部隊は、ヴェルトのほうからしかけていかなくとも、どうせアラーハイムの坂道を通らなければ高台を登ってはこられなかったのだ。
また、ヴェルトはドナウヴェルトばかりを気にしていたのか、アラーハイムとの中間点にあるハールブルクに守備隊を置かなかった。ハールブルクには拠点として使える要塞があり、のちにバイエルン大公マクシミリアンはヴェルトの不手際を厳しく糾弾することになる。
アラーハイムの戦いで、両軍はともに四〇〇〇以上の損失を被った。フランス軍はここしばらく、勝っても負けても大損害であったが、しかし兵員供給は時間こそかかるもののまだ問題ない。
一方のバイエルン軍、ひいては帝国軍全体にとって、マーシーの戦死は埋めることのできない喪失であった。アンギャン公とテュレンヌ、このフランスの双璧に対抗できる人材は、もうドイツにはいないのである。強いてあげればピッコローミニが最後の希望だが、老練のイタリア人将軍は南ネーデルラントで困難な仕事にあたっており、引き抜くことはできなかった。
この戦いで最も深刻な被害を受けたのは、激突する両軍のちょうど中間にあったアラーハイムの村そのものであった。壊滅したアラーハイムが再び集落の体をなすのは、七〇年も先のことであったという。
八月一九日――
スウェーデン軍はブルーノ市の包囲を解き、撤退を開始した。戦闘での死者はさほど多くなかったが、攻城陣地につきものの疫病と、レオポルト大公の金力工作による脱柵で、八〇〇〇ほどの損失を出していた。
二三日――
トルステンソンがドイツ戦線に戻ったあとも続いていたスウェーデンとデンマークの紛争が、フランスの仲介でようやく講和にこぎつけた。和平会議自体は二月に始まっていたのだが、ノルウェー総督ハンニバル・セーステッドがデンマークのために抵抗を組織し、戦いが長引いていたのである。
トルステンソンを引き継いだウランゲル、かつてレーゲンスブルクのスウェーデン軍守備隊長であったラース・カグらの活躍により最終的にはスウェーデンが軍事的にも勝利を確定させ、デンマーク王クリスティアン四世はとうとう屈服した。
スカンジナビア半島のふたつの地域、バルト海のふたつの島をスウェーデンへ割譲し、デンマークが引き上げた関税の無効を確認するというのがその内容であった。
九月六日――
ドレスデン近郊ケッチェンブローダで、ザクセン選帝侯国とスウェーデンのあいだに休戦協定が締結された。プラハ和平を無視して個別に条約を結ぶ選帝侯は、これでブランデンブルクに続いて二例目となった。
オスナーブリュックとミュンスターで続いていた和平会議では、ようやく入場順や席順が決まって本格的な討論が始まっていたが、それぞれの代表は手前勝手な要求をぶちあげるばかりで、収拾がつく気配は微塵もなかった。
フランスの要求はアルザスの全面割譲であり、そればかりかロレーヌの一部地域と、ライン河の要衝ブライザッハ、ベンフェルト、ツァーベルン、フィリップスブルクまで手中にしようとする強欲ぶりであった。
神聖ローマ帝国側はロレーヌのメッツ、トゥール、ヴェルダンの提供を申し出て、アルザスの失落も最後の妥協ラインとして覚悟してはいたが、ブライザッハ始めとするライン沿いの要塞都市を手放すつもりはなかった。
スウェーデンはヴィスワ河からエルベ河までの北ドイツ沿岸と、ブレーメン、ヴェルデン、マクデブルク、ハルバーシュタット、オスナーブリュック、カミン、ミンデンの各司教区、加えて賠償金一二〇〇万ターラーを要求したが、これはフランスとは違い、あくまで交渉の叩き台であって、満額実現するまで講和に応じないというものではなかった。
フランスの交渉主席ロングヴィルは、割り当てられた宿舎の周囲に花壇を作って庭いじりをして見せ、満足するまで半永久的に滞在を続ける準備があるとポーズを取っていた。
対してスウェーデンにはそこまでの余裕はなく、また、要求通りの全地域を手に入れたところで守備軍の準備もできない。早期の平和を望む女王クリスティーナの指示もあり、スウェーデンはすぐに現実的な妥協に応じるようになる。
オランダは法的にはいまだハプスブルク家の領土である連合諸州の正式な独立の承認と、国境画定を求めていた。オランダにとっての交渉上の敵は神聖ローマ帝国とスペインではなく、味方のはずのフランスだった。
フランスはオラニエン公フレデリック・ヘンドリックを「殿下」と呼んで君主としての権威を認め、共和派の敵意を買っていた。フランスはそればかりか、占領していたカタロニア地方を返還する代わりに南ネーデルラントを譲渡しないかと、秘密裏にスペインへ持ちかけていたのであった。
フランスとオランダが直に国境を接するようになれば、つぎの戦争の発火点になることはあきらかである。オランダは、同盟者より敵のほうをある意味では信用して交渉を続けてゆく。
オランダと同じくハプスブルク領土の一部であったポルトガルとスイスは、独立を要求していた。その他の小勢力も自分たちの権利を持ち出して議論を錯綜させたが、本質的には、オーストリア、スペインの両ハプスブルクと、フランス、スウェーデンのあいだの綱引きであった。
領土問題のつぎに重大であったのが、宗教問題である。
カトリックとプロテスタントが同等の権利を保証される、それは、もはや不可避であった。戦争が始まるよりも前、アウクスブルク宗教和議で埒外とされていた、カルヴァン派の公認が主要な論点であり、それは熱心なカルヴァン信徒であるファルツ選帝侯の権利問題とも密接に関わっていた。
プロテスタント諸侯はフリードリヒの継承者に、ファルツ選帝侯としての全面的な復権を要求していた。それに対し、バイエルンのマクシミリアンは断固として反対を表明した。先帝フェルディナント二世はバイエルン選帝侯は一代のみとし、マクシミリアンの死後にその処遇を正式に定めるとしていた。だが、そのときには存在していなかった息子を、継承者を得たマクシミリアンは、絶対に権利を手放すまいと決心していた。
妥協として、バイエルンとファルツが一代ごとに選帝侯を務めてはどうかと提案されたが、将来に禍根を残す、まずい解決策であった。当主が短命に終わったとき、あるいは継承に相当する血筋に女性しか残らなかったとき、決裂するのが目に見えている。
つぎに上がったのは、序列最下位の選帝侯位を新設し、フリードリヒの継承者カール・ルートヴィヒに与えるというものだった。ファルツ侯にはライン流域の旧所領が返還され、上ファルツはバイエルンがそのまま保持する。カール・ルートヴィヒと彼を擁護するスウェーデンは反発したが、フランスとマクシミリアンはこの案に飛びついた。マクシミリアンはドイツ内での自分の公国の地位向上と選帝侯主席の確立に熱心で、スウェーデンのためにポンメルン確保へ向けた諸侯内の調整をしようと示唆したため、最終的にはスウェーデンも妥協案に同意した。
こうしてカール・ルートヴィヒは最大の後ろ盾に見捨てられ、叔父であるイングランド王チャールズは内戦で劣勢に陥っていて、頼りにできなかった。譲歩せざるをえなくなってカール・ルートヴィヒは折れたが、ファルツ選帝侯の名において鋳造させた貨幣に、こう刻んで不服を表明することになる。
「妥協させられるとも、屈服はせず」――と。
ブランデンブルクを継いでいたフリードリヒ・ヴィルヘルムはスウェーデンと休戦していたが、和平交渉においては同じパイを食い合う利害対立の関係にあった。グスターヴの生前は半ば既定路線であったクリスティーナとの結婚は暗礁に乗り上げつつあり、フリードリヒ・ヴィルヘルムは同盟相手としてオランダのオラニエン家を指向するようになっていた。
スウェーデンとの講和はあくまで暫定的なものであり、いずれ大陸から掃き落とす――後に大選帝侯と呼ばれることになる男の、世代を越えた臥薪嘗胆が静かに始まっていた。
ザクセンのヨハン・ゲオルクは、和平会議においてこの時点では積極的な役割を演じなかった。ルター派であったヨハン・ゲオルクからすれば、カルヴァン派の公認は推進する動機がなく、かといって反対したところでいまさら通るものでもなかった。
スウェーデンとの軋轢はブランデンブルクが、フランスの要求にはバイエルンが壁となってくれており、領土的にザクセンは大きな波乱に見舞われる位置でもなかった。戦禍による莫大な損害はもちろん無視できるものではないが、ザクセンのドイツ内での地位は大きく下がることも上がることもなかった。バイエルンが俗人選帝侯の中で第一等になりおおせたが、代わりにファルツ選帝侯が零落したので、相対的にも特に変わりない。むしろ、プロテスタント諸侯としてはザクセンこそが不動の第一勢力になったといえる。
自ら主体的に選択することがなかったために一度も勝利を手にできなかったヨハン・ゲオルクだが、決定的に敗北することもまたなかった。彼の代のあいだは、であるが。
一一月二九日――
皇帝フェルディナント三世が新たな代理人を和平会議へ送り込んできた。
その全権大使トラウトマンスドルフは、大柄で、奇相であり、外見上貴族らしさはまったくなかった。しかし内面に深い知性をたたえた人物であり、フランスやスペインのような表面上の装飾に囚われない、実務的な交渉をする男であった。おそらくは、洒脱な外交手段ではなく、堅実に事務上の仕事をこなす、スウェーデンのウクセンシェルナと似たタイプであったろう。エッゲンベルクの没後宰相となり、フェルディナントの筆頭顧問を務めていたが、ヴェストファーレンに集っていた各勢力の代表団にとって、馴染みのない顔であった。どうやら、名前以外にはなにも知られておらず、ほとんどの大使にとって初対面であったようだ。
トラウトマンスドルフはまずスペイン使節に挨拶し、ついでフランス代表を訪ねた。フランス代表団は最初に訪問されなかったことで不機嫌になっていたが、すぐに奇妙な醜男の愛嬌に魅了されてしまった。トラウトマンスドルフの外見と豊かなユーモアセンスのギャップが、対面する人々の警戒感を解きほぐし、交渉を促進する潤滑剤となったようである。
懐刀の投入は、フェルディナントの本気の表れでもあった。トラウトマンスドルフはウィーン宮廷の中では少数派の非スペイン党であり、愛する皇妃の実家から皇帝が距離を取ることを意味していた。空転していた和平会議は、もつれ合った問題を少しずつ切りわけ、論点を整頓してひとつずつ討議されるようになっていく。
一二月一三日――
リンツにおいて神聖ローマ帝国とトランシルヴァニア侯ゲオルゲ・ラコッツィのあいだに和平が締結された。これで、ガブリエル・ベートレンから続いたハンガリー問題は一応の終止符が打たれたことになる。
帝国東方の問題はほぼ片づき、残るはドイツとその西側における紛争解決であった。




