終わりの始まり《Anfang vom Ende》
一六四四年一二月――
のちにヴェストファーレン和平会議と総称される、ミュンスターとオスナーブリュックの会議には、神聖ローマ帝国内の諸侯国とヨーロッパ各国の代表者一四六名が出席した。そのうち一〇〇以上がドイツ内諸侯の代理人である。内戦中のイギリスは代表者を派遣することができなかった。また、ロシア、ポーランド、トルコも参加していない。反面、戦争に直接関与していないことはロシアやトルコと同様だが、ヴェネチアなどのイタリア諸邦は仲裁人として参加していた。
出席者たちはとにかく仲が悪かった。スペインとポルトガルが険悪なのは当然で、彼らは場外で刃傷沙汰すら起こしたが、もっと始末に負えなかったのは、同盟者内での序列争いであった。入場順、席順を決めるだけで半年もかかったのである。
会議の主題がそもそもなんであるのかについて、出席者たちが見解を一致させるにはさらに半年が、つまり開始から一年を要すことになる。
明けて一六四五年――
年明けとともにトルステンソンが動き始めた。四年前とは異なり、ボヘミア北西から侵入して、たすきがけに国内を縦断するコースである。首府プラハを北東方向に見ながら素通りし、真っすぐウィーンへ到達する勢いであった。
三月初旬――
帝国軍のハッツフェルト、バイエルンのマーシー、ヴェルト、ゲッツが率いる合同軍が、プラハの南南東三五マイルのヤンカウ近傍でスウェーデン軍の行く手を遮った。前年にガラスが軍を完全に溶かしてしまっていたので、事実上動員できる最後の帝国軍であった。どちらも兵力は一万六〇〇〇ほどで、騎兵のほうが数が多い。火砲は帝国軍二六門に対しスウェーデン軍六〇門で、機動性のため一門あたりはスウェーデン軍のほうが小口径である傾向はこれまでと同様である。
五日――
周辺の地形は、大会戦を展開できない起伏に富んだ丘陵地で、森も多かった。高所に陣地を構える帝国軍を遠望して、トルステンソンは馬鹿正直につき合わないことにした。堅固な陣地を放棄して向かってくるならその都度撃破して進んでしまえばよいし、間合いを保って追跡してくるなら、広い場所についたところで会戦に持ち込めば勝てる。
トルステンソンは帝国軍を完全に下に見る立場であり、それは自信過剰ではなく単にこれまでの事実に基づいていた。
六日早朝――
スウェーデン軍が西側、帝国軍が東側に、お互い横隊を組んで向き合っていた状態から、トルステンソンは右翼部隊から順に南方方面へ移動を命じた。道は狭いので、縦隊となって進んでいくことになる。帝国軍がするべきことは、スウェーデン軍の進路を左翼部隊で妨害し、中央と右翼部隊で移動中の敵の横腹を突くことだった。
もちろん平原ではないので簡単にはいかない。しかしスウェーデン軍が隘路を進む危険をカバーするために途中の高地に観測兵を配し、大砲を据えていくのに対し、帝国軍は敵の姿を求めてやみくもに進むばかりで、しかも遭遇した相手のほうが多数だった場合は逃げ帰っていたのである。
午前八時すぎ――
帝国軍左翼を指揮していたゲッツが先頭に立ち、スウェーデン軍が確保していた丘へ向け攻撃を開始した。この丘を占拠すれば敵の頭を押さえられると考えたゲッツだったが、スウェーデン軍は既に一部で展開を完了していた。軽砲とマスケットの弾幕が帝国騎兵部隊をなぎ倒し、指揮官ゲッツも二発の弾丸を受けて落馬した。
午前九時――
ゲッツの戦死で敗走した帝国軍左翼は中央と右翼に収容され、全面壊乱は免れた。帝国軍総司令ハッツフェルトは鉤状に部隊を再編し、スウェーデン軍を不完全ながら押し包む陣形を取った。ある程度は効果があり、帝国左翼を追撃していたスウェーデン軍に打撃を与えた。しかし、火力で優越するスウェーデン軍は帝国軍を押していき、鈎型だったその陣形を一本の横線と一本の縦線に分離させてしまった。
陣形の切れ目に敵騎兵が駆け込んできたら帝国側は壊滅してしまう。ハッツフェルトは穴を繕いながら、全軍に後退を命じた。帝国軍は東西方向へ展開している大きめの一隊と、南北方向のやや小さめの一隊に分裂してしまうが、北へ退っていけば最初に陣地を置いていた堅固な地形がある。戦場の南東に取り残される小部隊は希望が薄いが、そちらは騎兵が主体であり、逃げることならできるだろう。
正午ごろ――
帝国軍本隊は元の陣地に戻って守りを固めた。スウェーデン軍としては、分裂した鈎の短いほうを先に全滅させるか駆逐してから、本隊の料理にかかるのが本道であったろう。せっかく守りやすい地形に逃げ込んだのだから、帝国軍本隊は向こうから討って出てはこない。そちらは監視に留め、少数の敵のほうへ戦力を集中すれば、撃破は容易だったはずである。
しかしトルステンソンは敵本隊への攻撃を優先した。原因は、おそらく敵の戦意を誤って判断したことであろう。総司令であるハッツフェルトがいる本隊のほうが厄介だと考えたようだが、実際には小部隊のほうを率いているヴェルトとマーシーのほうが勇敢だった。ハッツフェルトは既に負けたと思っていて、日没まで陣地に籠もって夜間にプラハへ退却するつもりでいた。一方ヴェルトたちは、まだ逆転できると信じていたのである。
午後二時すぎ――
スウェーデン軍が距離をおいて攻撃してこなくなったので、ヴェルトとマーシーは指揮下全部隊をあげて突撃した。しかけてくるとは予想していなかったスウェーデン分隊は蹴散らされ、追いかけ回されて味方の本隊のほうへ、あるいは道なりに逃走した。
トルステンソンは帝国軍本隊を狙うために砲の設置作業をしていたが、スウェーデン軍の中級指揮官たちはヴェルトの襲撃に的確な反撃をし、帝国軍騎兵隊に痛打を与えた。だが、スウェーデン軍の背後に混乱が生じたにもかかわらず、気がつかなかったのか、陣地の守りを優先したのか、ハッツフェルトは呼応しての総攻撃を命じなかった。
孤軍奮闘のヴェルトは捕虜となり、帝国騎兵隊の生き残りはスウェーデン軍の補給馬車を略奪してから戦場を離脱した。
マーシーはべつの方向へ逃げた敵を追っており、掃討ののちに戦場へ戻ってきたが、多勢に無勢、最終的には返り討ちにされてマーシー自身も捕らえられた。
午後四時――
取り残された帝国軍本隊に対する最後の攻撃が開始された。完全には取り囲まず、逃げ道を開けておいて砲弾を撃ち込む、トルステンソンの悪魔的創意がこもった神経戦であった。もちろん、逃げ道はこれ見よがしな罠への入り口であり、飛び込んだ帝国兵を待っているのはスウェーデン騎馬隊による追撃である。それでも最後には頭上に降り注ぐ砲弾に耐えきれず、帝国軍兵士は万にひとつの可能性に賭けて包囲網の切れ目へと走っていった。
――かくして、ヤンカウの戦いはスウェーデン軍の完勝で幕を閉じた。帝国軍はゲッツ始め六〇〇〇が戦死、司令官ハッツフェルト、副将ヴェルトとマーシーなど四五〇〇が捕虜となり、逃げることができたのは騎兵ばかり五〇〇〇少々だった。勝利したスウェーデン軍も、マーシーとヴェルトの反撃などでしたたかな損害を被っており、戦死、重傷者は合わせて四〇〇〇近くに達した。
帝国軍の大敗は、皇帝フェルディナントが滞在中だったプラハに恐慌を引き起こした。フェルディナントはヤンカウから逃げてきた敗残兵と守備隊をどうにかまとめると、先年に引退表明をしていたガラスを引きずり出して指揮を押しつけ、自らはわずかな供回りのみを連れてレーゲンスブルクへ急いだ。
フェルディナントはレーゲンスブルクからドナウ河沿いにオーストリアへ入り、リンツで帝妃インファンタ・マリアと合流し、ウィーンまで避難した。なおも安心できなかったのか、三人の子供たちを、父の後妻エレオノーラに預け、さらに南のグラーツにまで逃している。
皇帝の狼狽ぶりは、白山での敗戦後のファルツ選帝侯になぞらえて「フリードリヒの逃亡」と呼ばれた。フェルディナントはプラハの陥落、オーストリアへのスウェーデン軍の突入を覚悟していた。
ウィーンに逃げ込んできた兄帝を迎えて、にわかにやる気を出したのは大公レオポルトだった。皇弟はハプスブルク本領の防衛を旗印に、数だけなら充分な軍を結集させた。
もちろん装備は揃っておらず、訓練も足りていない。なによりも、指揮官がいなかった。大公が自ら指揮してトルステンソンと正面から決戦におよべば、敗退必至である。しかしプラハで崩壊した軍を立て直そうとしているガラスと連携すれば、侮れるものではない。
勝利はしたのだが、トルステンソンの持病の悪化、食料難など、スウェーデン軍を取り巻く状況はあまり愉快とはいえなかった。もしトルステンソンが十全の健康体であったなら、オーストリア・ハプスブルクの全面降伏でこの年のうちに戦争は終わり、そしてフランスとスウェーデンの覇権闘争が始まっていただろう。
自らに限界があるとわかっていたトルステンソンは、勝ちに乗じてどこまでも突き進むわけにはいかなかった。自分は遠からず軍を指揮できなくなる、後任の手に余るような敵を作ってはならない――病床に伏しながら、トルステンソンは戦略的に最適な落としどころを熟考していた。
五月四日――
スウェーデン軍はプラハとウィーンのほぼ中間、ブルーノ市の包囲を開始した。攻め落とせば拠点になる程度には重要で、かといって皇帝が白旗を上げてしまうほど政治的な意味はない、トルステンソンの微妙なバランス感覚が見出した当座の標的であった。
翌五日――
身代金を支払ってマーシーとヴェルトをスウェーデン軍から請け戻していたバイエルン大公マクシミリアンは、早速ライン河から東へ進出してきたフランス軍を迎え討つよう命じていた。
人使いが荒いと思ったか、敵に捕まっても身代金を出してくれる良い雇い主と思ったか、どちらなのかはともかく、バイエルンの双璧は四月のうちにボヘミアからライン方面へ転戦しており、ヴュルツブルクの南三〇マイル、ヘルブストハウゼンでテュレンヌに挑みかかった。
フランス軍は、ライン河の支流ネカー河のさらに支流、ヤクスト川沿いを遡ってきたものと思われる。春も盛りだというのに若草がさほど生育しておらず、フランス軍は騎馬の飼葉を確保するために広範囲に散っていた。そのため火砲も輓馬待ちで川の近くに置いたままであり、敵襲に気づいたテュレンヌが集合を命じたものの、砲兵部隊始め一部は間に合わなかった。
兵力はどちらも一万弱だったが、九門だけだが大砲を使えたバイエルン軍が勝利を収めた。フランス軍は二五〇〇前後の戦死者とほぼ同数の捕虜を出し、ライン河まで追い返された。バイエルン軍の損害は一〇〇〇ほどで、マーシーとヴェルトはヤンカウでの汚名を見事払拭した。
敗れたテュレンヌは、これで前年のフライブルクについで二連続で大損害を受けてしまった。辞表を提出したが、宰相マザランは受け取りを拒否し、アンギャン公と合流して再戦を挑むよう未来の大元帥を激励した。
六月一九日にアンギャン公はライン河を渡り、ヘッセン・カッセル地方伯も軍を送ることに同意した。ヘッセン・カッセルの摂政アマーリエは、一戦に敗れたフランスに恩を売り、進行中の和平会議における優位を確保するには、実力行使が一番効果的だと功利的な判断を下したのである。
そのころブルーノを包囲していたスウェーデン軍は、思いのほか都市の守備隊が粘るのみならず、レオポルト大公とガラスが会戦を挑まずに補給線を狙ってくるために、想定外の苦戦を強いられていた。




