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三十年戦争史《der Dreißigjähriger Krieg》  作者: 仁司方
第一幕 ボヘミア・プロテスタント独立戦争(1618〜1621)
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ボヘミアの王冠《Länder der Böhmischen Krone》


 ファルツ選帝侯フリードリヒが、皇帝選挙の結果と、自らが関与せぬうちにボヘミア王位に推挙されている旨を知らされたのは、九月になってからのことだった。選帝侯としてのフリードリヒの投票は、いつの間にやらフェルディナントのものとなっており、そのフェルディナントのものであったはずのボヘミアの王冠は、なぜかフリードリヒへ差し出されてきたのである。


 実をいえばファルツの官房長アンハルトは事態の推移を承知していた。しかし彼の素直な人形であるフリードリヒは、いささか線が細すぎ、唐突にもたらされた事実の羅列を即座に呑み下すことができなかった。ボヘミア近傍に滞在していた選帝侯は、王位の受諾を求めるプロテスタント臨時政府の使者に対し、時間の猶予を請うと、本拠地であるハイデルベルクへ退いた。


 帰り着いたフリードリヒを待ち構えていたのは、新帝フェルディナントがボヘミアの王冠を失落したという噂を既に聞きつけていた宮廷の顧問団であった。悩み顔のフリードリヒが戻ってきたということは、ボヘミア王位への誘いがもたらされたに相違ない。


 顧問官たちは、口を揃えて主君に対し冒険を思い留まるよう説得した。王冠を受ける肯定的事由六に比べ、否定的事由は一四項目にのぼったという。ウィレム沈黙公の娘であるフリードリヒの母、ルイーゼ・ユリアナも反対派であった。公式の場でフリードリヒへボヘミア王冠を受けるよう進言したのは、アンハルトのほかには宮廷付牧師のシュルツのみで、牧師がプロテスタントの勢力伸張につながるみちを否定するはずはなく、要するに実質上はアンハルトが唯一の推進派だった。


 いかにフリードリヒがアンハルトの操り人形であっても、この状況であればボヘミアの王冠を受けようとは思わなかったであろう。消極的になりかけたフリードリヒの心理的天秤に大きな一石を投じたのは、侯妃であるエリーザベトであった。


「ファルツ選帝侯とローストビーフを食べるより、ボヘミア王とザワークラウトを食べとう存じます」


 彼女がそう語ったといわれるのは、有名な伝説である。それが真実であるかはあきらかでないが、誇り高き大ブリテンの出身であるエリーザベトはフェルディナント大公のことを嫌っていて、「オーストリアの田舎貴族」から夫が王冠を奪い取るという事態を楽しんでいたことは確かであろう。


 一六一九年九月一二日――


 プロテスタント同盟ウニオンは、前年に引き続き、ローテンブルクにおいて会合を催した。ここでも、ファルツ選帝侯へボヘミア情勢への関与を自重するよう促す意見が大勢を占めた。


 中でも選帝侯会議で二票を約束されていたはずのサヴォワ大公はファルツ側の違約に怒り心頭であり、軍資金の今後の支払いを拒絶する姿勢をとった。サヴォワ大公はそもそも分不相応な夢をアンハルトに煽り立てられただけであり、プロテスタント諸侯のあいだでも物笑いの種になっていたが、しかしそんな道化の提供する資金と兵力が同盟の主柱であるという事実に悪寒を覚える者はいなかったのであろうか。


 侯妃エリーザベトの父であるイングランド王ジェームズはフリードリヒへの気遣いがないではなかったが、その冒険に支持と資金を与えるにはあまりにも大ブリテン島はドイツから離れすぎており、ただ娘婿の無謀を歎くのみであった。


 ネーデルラントのオラニエン公マウリッツはフリードリヒにボヘミア王受諾を勧めた数少ない有力者であったが、のちにはオランダ共和国解放の祖と謳われる彼も、このときは国内をまとめるのに精一杯で、資金や兵力を提供できるほどの余裕を持ってはいなかった。


 結局、フリードリヒへの全面支援を表明したのは、ハンガリーの叛乱首謀者ガブリエル・ベートレンくらいのものだった。もっとも、ハンガリーも既にハプスブルク側と戦闘状態に突入しており、フリードリヒが王冠を戴くか否かというのは本質的な事態の変化を意味するものではなかった。討伐軍の剣が、尖鋒きっさきを向けるべき先の増えることで動揺するなら、ハンガリー叛徒にとって損はないというだけの話である。


 フリードリヒの眼前にあった選択肢は、戦乱の渦に巻き込まれるためボヘミアへ飛び込むか、ボヘミアのプロテスタントを見捨てるか、そのうちどちらかひとつであった。だが、ボヘミアの王冠を受けるということは、ただボヘミア王国の主となるだけというだけを意味しているわけではない。


 ボヘミア王は、シュレージエン、モラヴィア、ラウジッツの各地域に、諸侯を封じる権利を持っている。オーストリア・ハプスブルク家の所領のうち、ボヘミア王冠が支配権の根拠となっている土地は半分近くを占めているのだ。いかに法的・道義的に上辺を取り繕うたとしても、ボヘミア王冠を奪えば皇帝との正面衝突は避けられえない。


 九月二八日――


フリードリヒはボヘミア・プロテスタント臨時政府の密使に対して、王位を受諾するであろうと伝えた。アンハルトの入れ知恵はあったが、それでも悩み抜いた末の決断であった。


 一方には神聖ローマ帝国の封臣として、皇帝に忠節を捧げなければならないという法的な義務があり、もう一方にはプロテスタントとして、カトリックの横暴に苦しむボヘミアの民草を保護せねばならないという神聖な責任がある……。


 アンハルトは以下のような教唆をフリードリヒへ示していた。


 ボヘミアの叛乱は神聖ローマ皇帝フェルディナント二世に対してのものではなく、ボヘミア王フェルディナント大公に抗してのものである。現にフェルディナントは選帝侯会議で皇帝の地位を得るよりも以前にボヘミア等族会議によって廃位された。フェルディナントにボヘミア王としての資格はなく、フリードリヒは正当な選挙に拠ってボヘミア王となった。ゆえに神聖ローマ皇帝にその臣下が叛いたのではなく、廃位された旧王とそのあとを襲った新王の争いであり、フェルディナントは帝国法によってフリードリヒを裁く権能を持っていない――と。


 結局、フリードリヒはアンハルトの解釈を容れた。どちらを取っても、もう一方に対する裏切りになることは変わりない。神の思し召しにしたがうのだ、という、それがフリードリヒの選んだ自己弁護だった。



 フリードリヒがひとつの途を選択したことで、とあるひとりのドイツ君侯が、否が応にも逡巡の迷路から叩き出されることになった。


 バイエルン大公マクシミリアン――選帝侯でこそなかったが帝国内でもっとも有力な貴族であり、ヴィッテルスバッハ一門として、フリードリヒ、フェルディナント双方の縁戚でもあるその人は、カトリックであり、皇帝選挙に出馬しないことでフェルディナントを間接的に援護していたが、同時にプロテスタント側の大物であるザクセン侯ヨハン・ゲオルクとともに和平の可能性を探り続けてもいた。


 ドイツ国体の擁護者を自任し、「ドイツの自由」をスローガンとする大公の試案の中には、カトリック連盟リーガとプロテスタント同盟ウニオンの大連立による宗派を超えた挙国体制の結成という、誇大妄想家のアンハルトや、ボヘミア革命軍のトゥルン伯にもおさおさ劣らぬほど気宇壮大な計画すらあったのだという。


 しかしフリードリヒがボヘミアの王冠を戴いたことで、反ハプスブルク=プロテスタントの図式はあまりにも確固たるものとなってしまった。ドイツ国体統一の夢を挫かれ、マクシミリアンは憮然とし、続いて憤激した。それまで、マクシミリアンとフリードリヒの仲は悪いものではなかった。カトリックとプロテスタントという、互いの宗派のことを考えれば、良好といっても差し支えないほどであったのだ。


 マクシミリアンは年少の従兄弟の思慮の浅さをなじり、新帝――そして同時にボヘミア廃王でもある――フェルディナントに対して、自ら売り込みをかけた。帝国で随一の練度を誇るバイエルン軍をもって、ボヘミアの叛徒を討伐し、僭王フリードリヒを放逐してフェルディナントを復位させるであろう、と。


 フェルディナントとマクシミリアンの協定は一〇月八日に調印された。当時の情報伝達の速度を考えれば、フリードリヒがボヘミア王冠を受諾してからほとんど間のない、反射的といってもよいほど素早い対応であった。マクシミリアンの怒りはそれだけ深かったのだが、ほかにも急がなければならない理由があったのである。


 狙い通りに、選帝侯会議の全会一致で皇帝となったフェルディナントは、その華々しい登極を腐したボヘミアの叛徒とフリードリヒのことを決して赦さないであろう。公的には知らぬ存ぜぬで突き通すにせよ、厳密な時系列と法解釈でいけば、選帝侯会議の時点で既に廃位されていたフェルディナントに、ボヘミア王として自分自身へ投票する資格はないのである。フリードリヒにカール大帝のごとき覇王の資質があれば、選帝侯会議の無効と再選挙を唱えて、真っ向から帝冠の奪取を図ることすらできるのだ。もちろん、それがありえないことはマクシミリアンにはわかっているのだが。


 ボヘミア討伐の任にあたるのは、先年から引き続き、スペインの資金を受けた傭兵軍団に相違ない。マクシミリアンは、袂を分かったとはいえ、ドイツ君侯のひとりであるフリードリヒが、他国者よそものばかりで構成された軍勢によって粉砕されるところを見たくはなかった。


 そしてそれ以上に、ドイツの地が外来の勢力によって蹂躙されるのを座して待つつもりは断じてなかった。フリードリヒとボヘミアのプロテスタントが刈り取られる運命にあるのなら、せめてドイツ君侯である自らが手を下すべきではないのか――?


 その考えゆえに、マクシミリアンはふたつの条件をフェルディナントに突きつけていた。まず第一に、戦費の精算が完了するまでは、バイエルンがすべての征服地を質物として仮領有すること。第二に、ファルツ選帝侯が帝国追放の処置を受けたならば、選帝侯位をバイエルンが受け継ぐものとする――と。


 かなり高い条件であったが、フェルディナントはマクシミリアンの言い値を受け入れた。のちになって、フェルディナントの不撓の決意と詭弁すれすれをすり抜ける計略はマクシミリアンのみならずドイツ中の諸侯を驚かせることになるが、この時点で既に周到な考えを巡らせていたのかという点は疑わしい。フェルディナントは機会主義者であり、その場で利益を再計算しながら手を休めずに先へ進んでいくことができた。機会が手元に転がり込んできてから考え出すフリードリヒとは、対照的であった。


 大義と信念は個人を衝き動かすのみだが、そこに利害の糸が結びついたとき、歴史は思いもかけないほど軽々と転がり始めるものである。


 一六一九年の冬は、実際の寒さ以上に人々の背筋をふるわせながら更けていった。


 しかしこの寒気すら、春の陽射しのように生温いものであったと振り返らねばならない時代の到来が迫っているなどと、はたして予感している人はいたのであろうか。

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