神の御業かそれとも人の業か《Ist es das Werk Gottes oder ist es menschliches Werk?》
一六三八年一〇月一七日――
ファルツ選帝侯カール・ルートヴィヒとその弟ルパートを頭目に、キングとクレイヴンが実戦指揮を執るイギリス・ファルツ連合軍は、ヴェストファーレン地方フロトの近郊でハッツフェルト率いる帝国軍に補足された。
前日まで帝国軍の保持するレムゴ市を攻囲していたイギリス・ファルツ連合軍だったが、兵力に優るハッツフェルト軍の接近を受け、ヴェーザー河とミッテルラント運河の交差点にある、要衝ミンデンを目指して退却している途中であった。攻城兵器を運んでいたイギリス・ファルツ連合軍の逃げ足は鈍く、帝国軍を振り切れなかったのである。
イギリス・ファルツ連合軍の兵力は騎兵四〇〇〇と歩兵三五〇〇に若干の工兵、砲兵からなる七五〇〇強。対する帝国軍は五〇〇〇の騎兵と三〇〇〇の歩兵の計八〇〇〇だった。
帝国軍に先回りされたことに気づいたイギリス・ファルツ連合軍は小高い丘に登って防御陣を組んだが、大砲と荷馬車を捨てるか、敵を撃破しないとこれ以上は進めそうもなかった。そんなとき、キングの部下ケーニヒスマルクが、ほぼ二列になって連なっている丘陵の合間にある低地が割合に広いことに目をつけて、敵から見つからずに前進できるのではないかと献策した。
カール・ルートヴィヒとクレイヴンが同意し、キングは補給部隊と歩兵隊を整列させているところだったのでその協議には関与しないまま、騎兵部隊による進出作戦が実行された。
ケーニヒスマルクの目論見は当たったが、帝国軍は右翼からイギリス・ファルツ連合軍を攻撃しようと、丘陵地の外側から動き始めていた。前進中の騎兵隊は、敵が本当に気づいてくれなかったがために却って横腹を突かれる危機に見舞われたのである。
が、イギリス・ファルツ連合軍の騎兵第三陣を率いていたルパートは、超人的な勘で視線の通っていないにもかかわらず敵の動きを察知したらしく、突如部隊を旋回させて丘陵の峰へと駆け上がっていった。
先手を取ったルパートの部隊は、帝国騎兵隊へ出会い頭の痛烈な一撃を食らわせた。帝国側騎兵部隊の隊長は戦死し、部隊はたちまち潰走したが、見事だったのはここまでで、若く血気盛んなルパートはそのまま逃げる敵を追いかけていってしまったのである。ハッツフェルトはルパートに狙いを定め、新手を繰り出して押し包みにかかった。
王子を救うため、クレイヴンが後方に残っていた騎兵を率いて飛び出していき、戦闘は無秩序な混乱状態へと陥っていった。
自分のアイデアが思わぬ結果になったケーニヒスマルクは、青くなってキングの元へ報告へ走った。話を聞いたキングは戦場が見渡せる場所まで行って状況を観察し、むしろルパートが敵を引きつけてくれているので、いまのうちに歩兵隊と補給部隊を退避させようと提案し、カール・ルートヴィヒに了承を迫った。
弟を見捨てる決断にカール・ルートヴィヒがどの程度葛藤したのかはともかく、イギリス・ファルツ連合軍はヴェーザー河を渡るべく撤退を始めた。河とイギリス・ファルツ軍のあいだを塞ぐようにしている帝国軍の右サイドで戦闘が起きているので、丘陵を挟んだ反対側を通れば見られずに移動できたのである。当然ながら、河の手前まできたところで帝国軍の左翼部隊に気づかれ、慌てたイギリス・ファルツ連合軍の兵は結構な数が水面へ飛び込む羽目に陥った。それでも、五〇〇〇以上は河を渡って逃げ切ることができた。
フロトの戦いはこうして終わり、イギリス・ファルツ連合軍はルパートとクレイヴンを始めとする一〇〇〇名ほどが捕虜になり、一〇〇〇少々の戦死者を出した。犠牲者のほとんどは、ヴェーザー河で溺れ死んだものである。カール・ルートヴィヒの手元にはまだ充分な数の兵士が残っていたものの、イギリス政府が拠出した三万ターラーの軍資金を積んでいた馬車が鹵獲されてしまい、もはやこれ以上の軍事行動は不可能であった。イギリス・ファルツ連合軍は解散し、兵士たちはミンデンのスウェーデン軍に加わった。
帝国軍の戦死者は一〇〇人に届かない程度で、そのほぼすべてがルパートとその直属部隊による被害であった。直接戦闘だけに限定するなら、イギリス・ファルツ連合のほうが帝国軍より優勢なくらいだった。
ルパートは二年ほど捕虜暮らしをすることになるが、のちに勃発するイギリス内戦において、彼こそが国王側でもっとも強力な将軍となり、かのクロムウェルにも苦杯を舐めさせるほどの戦術家に成長する。
カール・ルートヴィヒのほうはのちにベルンハルトの軍に対する上級指揮権を主張するのだが、手駒が減ることを嫌ったリシュリューが手を打ち、逮捕抑留の憂き目に遭うことになる。
一一月に、スウェーデンでささやかだが劇的な事件が起こった。ストックホルムから、囚人だったアルニムが逃亡したのだ。不屈の愛国者アルニムは北ドイツへ戻り、外国勢力の排斥を掲げてスウェーデンに対する抵抗を呼びかける運動を再開した。
一方、カール・ルートヴィヒたちがたどり着かずじまいとなったライン河では、ベルンハルト軍による要衝ブライザッハの包囲が続いていた。
城攻めの分野ではフランス将テュレンヌの手腕のほうが大きかったが、それでもベルンハルトは、ゲッツが、ロレーヌ大公シャルルが試みるブライザッハ救援の作戦を巧みに阻止し続けていた。
ただ、ベルンハルトは夏以降発熱による体調不良に陥ることが度々あり、幕営を離れることがあった。留守を預けられたのはエアラッハとローゼンという副将で、彼らは主将不在のあいだもよく軍を運営して作戦を続けた。
フランス政府はゲブリアンとロングヴィルに増援を与えてベルンハルトの補佐を命じ、もはや帝国軍がブライザッハに物資をもたらすことも、包囲網を突破することも不可能となっていた。
十二月二日――
フィリップ・フォン・マンスフェルト――あのマンスフェルトの遠縁である――がヴァルトシュタットにある帝国軍野営地へやってきた。監察官であるマンスフェルトは、ゲッツ将軍を内通の疑いで逮捕し、ミュンヘンへと連れ去った。
サヴェリら副将たちからあまり評判が良くなかったことが、ゲッツの逮捕劇の裏にあったようである。なにより、ブライザッハの陥落はほぼ確実であり、だれかに責任を負わせねばならないという官僚的なつまらぬ事情があった。ゲッツは軍法会議の末、のちに無罪が認定される。
十二月一七日――
万策尽き、冬のあいだに生存者すべてが餓死してもおかしくない状態にまで追い込まれたブライザッハ守備隊は、とうとう開城文書に署名した。
捕虜になった攻城軍の兵士が食料にされていたと噂を聞いていたベルンハルトは、部下を食らった疑いのある連中の赦免に難を示したが、またしても体調悪化で攻囲陣地には不在で、エアラッハらは感情よりも実利を選んだ。
包囲開始時に三〇〇〇人いた守備隊の生き残りは四〇〇、四〇〇〇を数えたはずのブライザッハ市民は一五〇人になっていたという。包囲戦での直接の死者は八〇〇〇――ほぼすべてが餓死と病死である――ほど、救援を目指した帝国軍とベルンハルト軍の攻防での戦死者は一万六〇〇〇と推定される。
十二月一八日――
枢機卿リシュリューの腹心、ジョセフ神父が死去した。部下であり友でもあった男の末期の枕元に立って、リシュリューはこういったという。
「ジョセフ神父、ブライザッハがわれらのものになったよ」
……と。実際には、ブライザッハ陥落の報せはまだパリに届いておらず、いくらリシュリューでも知らないはずであった。遅かれ早かれ時間の問題なのだから嘘にはならない、ということなのか、あるいは、友の死出を少しでも慰めるためならこのくらいの嘘は赦される、ということだなのだろうか。
リシュリューは「われらのもの」といったが、ベルンハルトには異なる見解があった。ブライザッハは、フランス王国にではなくベルンハルト個人に降伏したのだ、というのがその理論だった。
明けて一六三九年二月――
ベルンハルトは、アルザスとハーゲナウの主権を直ちに全面的に認めるようフランス政府に対し要求した。加えて自身が征服したラウフェンブルク、ゼッキンゲン、ラインフェルデン、ヴァルズフート、ブライザッハも無条件で譲渡するべし、というのがベルンハルトの主張だった。
法外な主張にフランスは、リシュリューは怒りを通り越して愕然としたが、ベルンハルトは確かな支配力を持っていた。
ドイツとフランスをわかつラインに国を建て、両雄を和解させる、というのがベルンハルトのぶち上げた一大構想であり、実際にこんなところに第三勢力を作り出すなど、生半の覚悟でできるものではなかった。緩衝地帯としてバランスを取っていけるというのは、よほどの自信家か阿呆の発想である。
おそらくベルンハルトには自信があった。しかし、外部の理解者、同盟者なくしては、仮にうまく運んだとしても一代限りの王朝にしかならない。そんなベルンハルトに声をかけたのは、ヘッセン・カッセル地方伯夫人アマーリエだった。
ヘッセン・カッセル伯ヴィルヘルムは一六三七年に亡くなっており、まだ幼い息子ヴィルヘルムが成人するまで、アマーリエが摂政を務めることになった。オラニエン公ウィレムの孫娘であるアマーリエは、賢婦人であると同時に敬虔なプロテスタントだった。堅い反ハプスブルクの意志を貫き、プラハ和平にいまだに署名していなかった。
だが、ベルンハルトはアマーリエの提唱するドイツ党結成の話には乗らなかった。彼女と再婚するという条件なら同盟を結ぶと答えたようだが、それはアマーリエのほうが断った。ヘッセン・ダルムシュタットから奪われた領地を取り返し、息子に本来の地方伯領を相続させねばならないアマーリエからすれば、ベルンハルトのアルザス大公国への併合は認められないことであった。
おそらく、ベルンハルトの考えでは、「ドイツ党」としてまとまってしまえば、ハプスブルクとブルボンを和解させる中立性が失われると思ったのではないだろうか。もっとも、ベルンハルトに真の誠意があり、平和を求める心に偽りがなかったのだととすれば、の話であるが。
グスターヴにせよ、ヴァレンシュタインにせよ、ベルンハルトにせよ、実現しないままに終わった可能性について確かなことはいえないのである。
リシュリューは春のあいだ中さまざまな提案を投げかけ続けたが、ベルンハルトは要求を頑なに曲げなかった。リシュリューの非凡なところは、フェルディナント二世がヴァレンシュタインとの決裂にあたってその兵力を削ろうとしたのに対し、ベルンハルトが制御不能に陥っても必要な援助は絶やさなかった点にあろう。
六月にはゲブリアンが補充部隊を率いてブライザッハのベルンハルトの元を訪れているのである。ライン方面のフランス軍の侵攻は止まったが、しかし帝国軍は反転攻勢の隙を見出すことはできなかった。
そんな、緊迫した空気がライン流域を覆っていた七月一八日――
ブライザッハの南一八マイル、ノイェンブルクでベルンハルトは劇甚な体調悪化に襲われた。自身がすぐ死を悟るほどの熱発であり、医者に命じて興奮作用のある薬物を投与させ、どうにか意識を保ちながら遺言を書き取らせた。
兄ザクセン・ヴァイマールのヴィルヘルムへ、もし欲するならアルザス大公国を遺贈する。ヴィルヘルムが相続を放棄するならば、フランス王へ戦争が終結するまで委任する。――ただし、ベルンハルトには子がなく、終戦後にアルザスを帰属させるいかなる対象も明示できていない。軍は副官エアラッハに任せる。愛馬はゲブリアンに与える。
「主イエスよ、あなたの御手に、私の魂を委ねます……」
ベルンハルト・フォン・ザクセン・ヴァイマールは三五歳の若さで人生を駆け抜けた。リシュリューが手を回して毒殺したのだ、と彼の死の直後から人々はささやきあったが、ベルンハルトの長患いはほぼ一年間におよんでおり、病魔に生命力を削られた、と考えるほうが不自然は少ない。
仮に長期に渡って毒を盛り続けていたのだとしたら、犯人はリシュリューではなかろう。ブライザッハの陥落が確実になったのは、ゲッツとロレーヌ公シャルルが包囲陣への最後の攻撃を行って退けられた一〇月半ばのことであり、獲物が致命傷を負ったと確信する前に自らが持つ剣に酸を振りかけるほど、リシュリューは愚か者ではない。
だがベルンハルトは敵も多く作っていた男なので、人為的介在がまったくなかったと断言するのも難しい。




