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三十年戦争史《der Dreißigjähriger Krieg》  作者: 仁司方
第四幕 スウェーデン戦争(1630〜1635)
45/63

プラハ和平条約《Prager Frienden》


 一六三四年一一月一日――


 ネルトリンゲンで大敗した「ハイルブロン同盟」の残留者は、フランスのリシュリューと交渉を行い、パリ条約として暫定的なまとまりを見た。


 フランスは五〇万リーブルを直ちに同盟のために出資する。


 援軍として、フランスは一万二〇〇〇の兵力を提供する。


 ドイツにおけるカトリック信仰の自由は保証される。


 アルザス地方のシュレットシュタットとベンフェルトはフランスに譲渡される。


 同盟軍はシュトラスブルクをフランス軍が根拠地として使用するために防衛する。


 同盟の各勢力はフランスの承認なく休戦・和平を結んではならない。


 フランスは一万二〇〇〇以上の兵力供給は保証しないし、戦争従事の義務も負わない。


 ――フランスは一度の支払いですべてを得ることができ、ハイルブロン同盟は完全に従属を強いられる不平等条約であった。


 とにかく兵士が必要だったベルンハルトは条約に調印したが、スウェーデン宰相ウクセンシェルナは女王クリスティーナの名において批准することを拒否した。


 フランスの助けがなければスウェーデンはもう戦えない、それは事実だったが、しかしデンマークと同じようにただ退場する選択肢はまだ残っている。そして、フランスにはもう戦争を代行してくれる同盟国は存在しない。


 自国だけで戦うか、スウェーデンと轡を並べるか――ウクセンシェルナは捨て身で、リシュリューへ選択を迫ったのである。



 ハイルブロン同盟軍を打ち倒し、帝国の栄光と多くの都市を取り戻したハプスブルク連合軍のふたりのフェルディナントに、別れのときがやってきた。


 フェルディナント三世はインファンテ・フェルディナントへ、春まではドイツにいてくれないかと要請したが、南ネーデルラント総督として早く仕事に取りかかりたいインファンテは従兄弟に惜別を告げ、ピッコローミニを伴ってブリュッセルへ針路を定め行軍を再開した。義弟を見送ったフェルディナント三世は、困難を極めることになる自分の仕事へと戻った。


 ウィーンの宮廷はザクセン選帝侯とブランデンブルク選帝侯を敵陣から引き離すために交渉を本格化させていた。ここでも、戦場と同様にフェルディナント三世が大きな影響をおよぼすことになる。


 ザクセン選帝侯ヨハン・ゲオルクは、和平の条件として〈(Rest)(ituti)(onse)(dikt)〉撤廃を頑として譲ろうとしなかった。ネルトリンゲンでの勝利で強気になっていたフェルディナント二世は自らの信仰の核心である〈(Rest)(ituti)(onse)(dikt)〉を捨てることに最後まで抵抗を感じていたが、冬期休戦に入って政治の舞台へ戻ってきたフェルディナント三世は双方へ妥協を働きかけた。神聖ローマ帝国でいまや最大の威信をそなえるにいたった若き皇太子の勧告は、老人たちをついに動かした。


 一六三五年二月二八日――


 ザクセン選帝侯ヨハン・ゲオルクとハンガリー王フェルディナント三世はプラハ北西の都市ラウンにて合意に達した。


 その条項は――


(Rest)(ituti)(onse)(dikt)〉は四〇年間凍結される。これはつまり、フェルディナント二世が生きているあいだ勅令は機能せず、フェルディナント三世が皇帝となった暁には完全に撤廃されるということで、事実上の破棄であった。


 ボヘミア冬王フリードリヒの家族とトゥルン伯始めとする追放令該当者以外は、和平条約に署名すれば恩赦が与えられる。


 ドイツ諸侯は今後同盟締結権を持たない。現在の同盟はすべて非合法と看做みなされる。


 ドイツ諸侯はまた、独自軍備の保有を認められない。ただし、ザクセン選帝侯は例外とする。


 ザクセン選帝侯は補償として上下の両ラウジッツを与えられる。


 ――平和を求めるならばこの条約に署名しないなどありえない、そういっても過言ではないほど寛容な内容であった。ヨハン・ゲオルクとの交渉に関してならば〈(Rest)(ituti)(onse)(dikt)〉を取り下げるか否かというだけのことであり、一六二九年から三四年までの時間と流血は無用であった。


 しかし、そのことをフェルディナント二世とヨハン・ゲオルクが悟るには、グスターヴとヴァレンシュタインによる戦争と、ネルトリンゲンでのフェルディナント三世の勝利が必要とされたのである。


 五月三〇日――


 正式に〈プラハ(Prager)和平条約(Frienden)〉が公表された。


 プロテスタント側で署名しなかったのは、ヘッセン・カッセル地方伯とブラウンシュヴァイク・リューネブルク大公くらいのものだったが、リューネブルク大公はのちに講和を選ぶことになる。ブランデンブルク選帝侯もその他のハイルブロン同盟の加入者も署名した。


 ベルンハルトも、すぐに脱退することにはなるが、このときはフランスとスウェーデンを無視して和平に同意したのである。一定以上の影響力がある人物の中で条約に反対したのは、ハンス・ゲオルク・フォン・アルニム・ボイッツェンブルクであり、フランスとスウェーデンが呑むことのできない条約で平和は訪れないと喝破して、ザクセン軍を辞任した。


 カトリック側では、バイエルンのマクシミリアンが締結に抵抗していた。独自の軍備を持ち、フランスと同盟しているバイエルンにとって、そのどちらをも非合法とするプラハ条約は受け入れがたいものだった。


 フェルディナント二世は、マクシミリアンを抱き込むため、いくらかの賄賂を用意していた。ヒルデスハイム司教の座が彼の弟へ提供され、さらにマクシミリアン一代かぎりとされていた選帝侯の位を世襲として保証した。仕上げとして、世継ぎを産まないままこの年の一月に死去していた大公妃エリーザベトの後添えとして、王女マリア・アンナを娶らないかと持ちかけたのである。


 マクミリアンもとうとう妥協し、プロテスタント同盟ウニオンの消滅後もほそぼそと生き長らえていたカトリック連盟リーガはこれにて役目を終え、フランスとの同盟も、少なくとも表向きには解消された。バイエルン軍はザクセン軍と同様に、形の上では選帝侯であるマクシミリアンの元に残るが、皇帝の、ひいてはウィーン政府の命令にしたがうことになった。


プラハ(Prager)和平条約(Frienden)〉は、神聖ローマ帝国内の調停案としては非の打ちどころがないものであったが、悲しいかな、既に戦争は帝国外の勢力が関与する余地のほうが大きくなっており、戦禍を食い止めることは適わなかった。


 プラハ条約が公表されるわずかに前、五月二一日に、フランスは南ネーデルラントのブリュッセルにて外交ルートを通じ正式な通告をしていたのである。


「最高のクリスチャン国王フランスのルイ一三世は、カトリックの国王陛下スペインのフェリーペ四世に対し、宣戦を布告する」


 ――と。


 フランスがスペインへの宣戦布告の口実としたのは、この年の三月にスペイン軍がトリアーを攻撃し、選帝侯を虜囚として連れ去ったことに対する安全保障条項の発動であった。フランスとトリアーは三年前より攻守同盟を結んでおり、保護領への侵略はフランスへの侵略に等しいというのである。ブルボン王家によるハプスブルク王家に対する宣戦であり、もちろんスペインのみならず、オーストリアも例外とはならない。九月には、フランスは正式にオーストリアに対しても宣戦布告している。


 参戦義務を負わないはずのフランスがなぜ重い腰を上げたのかといえば、ウクセンシェルナの読みの通り、リシュリューが危険を理解し、パリ条約とは異なる同盟をスウェーデンに求めなければならないと考えを改めたからであった。


 冬期休戦期のあいだに、神聖ローマ皇帝の後継者として頭角をあらわしたフェルディナント三世がドイツ諸侯をまとめあげようとしていた。南ネーデルラント総督には枢機卿インファンテが着任し、春とともに二方面に強大な敵軍が出現することをリシュリューも認めたのである。


 一六三五年の二月にまずオランダ連合との同盟を更新したリシュリューは、北の国境へ三万の兵を配備したが、その指揮官はフランス軍人ではなく、オラニエン公に一任した。一方でウクセンシェルナは、ハプスブルク側が自陣営の取りまとめにいましばらくの時間を要するとみて、すぐには交渉に入らなかった。フランス側を焦らしておいて、駐在ドイツ外交官のフーキエールとではなく、リシュリューと直接やり取りすべきと判断したウクセンシェルナは、四月に自らパリへ出向いた。


「フランスの交渉の進めかたは、回りくどいが、非常にすぐれた手管がある」


 ウクセンシェルナは相手をこのように評価しており、


「スウェーデンの交渉術はいささかゴシック風だが、充分に洗練されていた」


 リシュリューは凍土の辺境からやってきた客人が、蛮族ではないと認めた。


 コンピエーニュにて四月三〇日に、フランスとスウェーデンのあいだで新たな条約が結ばれた。ライン河の西岸はフランスが、東岸はスウェーデンが主権を持ち、お互いの承認なしで和平はしないと定められた。スウェーデンはフランスに対等の立場を、あとには引けないハプスブルクとの戦いをともに遂行するほかのみちはないと認めさせたのである。



 政治の世界が紙の上にインクの染みを滴らすあいだにも、戦場では血が滴り続けていた。


 包囲されていたアウクスブルクは三月一三日に陥落し、ハイデルベルクも結局同盟軍が体勢を立て直すまで保ちこたえることができなかった。兵糧攻めにされた都市で住民たちは犬と猫を食べ尽くし、鼠までも狩って、生き物がいなくなってからは牛革を刻んで水に漬け、それをしゃぶって飢えをまぎらわせていた。先に死んだ人間もまだ生きていた者によって捌かれ、料理されてしまった。


 宣戦布告とともに南ネーデルラントへ突入していったフランス軍はナミュールでスペイン軍を破りマーストリヒトまで進んだが、司令官のはずのオラニエン公はやってこなかった。なぜかといえば、オランダ議会に熱意がなくなっていたのである。


 オラニエン公フレデリック・ヘンドリックは優秀な軍人であり、フランスから兵員供給を受けてその武力が増大し続けるのは、共和派の議員たちにとってありがたくないことだった。スペイン王家に代わる支配者としてのオラニエン王家の誕生を警戒する議会は、なにかにつけてフレデリック・ヘンドリックの足を引っ張るようになっていた。


 ネルトリンゲンでホルンが捕虜となったことで、スウェーデン軍の最高司令官は序列二位だったバナーが繰り上がっていたが、スウェーデン軍とは名ばかりで、気心の知れた同国人はほとんどいなかった。反抗的な軍隊を抱えて苦労しながら、バナーは敵に回ったザクセン軍と、ヴァレンシュタイン軍の残党を相手にしなければならなくなった。


 ウクセンシェルナは傭兵たちをなだめる充分な資金を送ることはできなかったが、フランスに働きかけてポーランドとの休戦を延長させ、間接的にバナーを援護した。ポーランド王ジギスムントの後継者ワディスラウは最初亡命ボヘミア王フリードリヒの娘エリーザベトとの結婚を考えていたが、フェルディナント三世が妹セシーリア・レナータを提案して、同盟者につなぎとめていたのである。


 ポーランドが牙を剥いていればスウェーデン北部軍は絶体絶命だったが、フランスの外交手腕が敵がこれ以上増えるのを防いでくれた。手すきになったバルト沿海を守っていたスウェーデン人部隊の増派によって、バナーは軍の規律を持ち直し、相変わらず戦闘は弱いザクセン軍を退けることができたのだった。


 ベルンハルトは失われた彼の大公国フランケンの代わりにアルザスを得ようと考えて、リシュリューに接近していた。リシュリューのほうでも、ベルンハルトは使い道があるとみて、占領地における軍税徴収の特権を認めていた。


 しかしベルンハルトのほうは、略奪を表面上いい繕うだけの、内実としては変わらない軍税徴収の権利で満足するつもりはなかった。

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