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三十年戦争史《der Dreißigjähriger Krieg》  作者: 仁司方
第三幕 デンマーク戦争(1625〜1629)
21/63

叛乱と鉄槌《Aufstände und Niederschlagen》


 たいていの「帝国」と名のつく体制において、農民というものは常習的に虐げられており、耐え切れなくなって反抗しては手ひどく鎮圧され、より深い隷属を強いられてきた。しばらくは搾取と酷烈な取り扱いに忍従するが、抵抗して死ぬか、追い詰められるままに死ぬかの瀬戸際に立たされ、やむなく決起し、また無惨に打ちのめされる――その繰り返しは、神聖ローマ帝国においても例外ではなかった。


 神聖ローマ帝国での農民叛乱は、この時代に先立つことほぼ二世紀、ボヘミアに生じたフス派の存在によって、早くから単なる階級闘争ではなく、宗派対立、民族主義・地方独立運動の側面をも帯びるようになっていた。


 状況が複雑の度を増すと、問題の解決が遠ざかり、さらに個々の事象は矮小化されていく。支配者への反発で一致しながらも農村と都市の住民は相容れず、反カトリックで一致しながらも地方領主と平民は手を取り合えなかった。


 フス派は分裂し、過激・急進分子の排除によって革命は道半ばに霧消した。そのあとを襲ったプロテスタンティズム本流も、領袖であったルターが非暴力改革を志向し、結果としてもっとも激越で、もっとも追い詰められていた社会の最下層を切り捨てる格好になった。このことは間接的な影響をおよぼしたにすぎないが、いずれにせよ、宗教改革運動は統一されずに終わった。


 結束しえなかったプロテスタントに対し、カトリックもまた内部に隙を生じていたが、それは既得権にしがみつき奪い合う、守株の徒の愚かさが原因だったわけではなく、キリスト教正統派としての自己改革の意志がもたらしたものだった。


 その代表格であるイエズス会とカプチン会は、プロテスタンティズムの攻勢を受けて押っ取り刀で結成されたものではない。しかし偶然これらの会派の成立が重なったわけでもなかった。事実「教会」は腐り、刷新を必要としていたのである。内からか、外からか、その方法論に違いはあれど。


 ――結局、散り散りの断片と化した諸勢力の中で比較的大きな力を保持し続けたのが、カトリック正統を護持し神聖ローマ帝冠を戴いているハプスブルクであった。正確にいえば、ここ数年の戦争により他方で断片化がより進み、一方では再統合が成ったために、「皇帝家」でありながら「諸侯」のひとつと区別がつかない程度であったハプスブルクの力が、相対的に浮かび上がってきたのである。もっとも、ここまで後回しに後回しを重ねてきた「帝国」の創建など、当の皇帝党諸侯ですらもはや夢にも思っていないことであったのだが。



 プロテスタント同盟軍が北ドイツで足踏みしているあいだ、その保護をもっとも必要としていたオーバーオーストリアの新教徒農民たちは、バイエルン大公マクシミリアンの苛烈な統治に苦しめられていた。


 マクシミリアンの政策は峻厳であり、本拠地バイエルン公国においてもその鞭の鋭さはドイツ全土で随一であった。姦通罪に対して死刑が宣告され、魔女審問に拷問を用いることが認められていた。マクシミリアンは領民の貞操観念の薄さに腹を立て、農村へダンス禁止令を出し、労務者の男女はひとつ屋根の下に眠るべからずと唱えて、ただでさえ潤いに乏しい貧困層の生活へ干渉した。臣下に向けては衣服制限令を発布して華美を戒め、貴族であっても五五歳の年を迎えるまでは馬車に乗ってはならぬ、騎行せよと定めていた。


 これらのいちいち細かい政令は、大公マクシミリアンはお節介で吝嗇ん坊な領主だと欧州各地で物笑いの種にされていたが、バイエルンの国力増強を確かに支えていた。馬車移動の制限は軍務に従事する貴族階級の乗馬技術を保持し、倹約令によって余剰を生じた国家予算は公的教育、医療制度の整備に役立ったからである。


 しかし一時領有されているにすぎないオーバーオーストリアでは、搾り取られた税金が現地に還元されることはなく、叛乱鎮圧に使われた軍事費の回収に充てられるばかりであった。司政官であったアダム・フォン・ハーバースドルフはマクシミリアンの意図をよく心得ており、効率的な「草刈り」を行っていた。この地は末代までバイエルン領となるわけではない質物であって、統治の厳格性にこだわりすぎる必要はない。ハーバースドルフはプロテスタントの小規模な集会を残らずしらみ潰しにするほど神経質ではなく、単に農村を武装解除するだけで安心し切るほど粗忽でもなかった。


 オーストリアの農民たちからすれば、これまでのハプスブルク臣下の代官による統治とそこまで大きな違いがあったわけではない。しかし同じことをされるにしても、バイエルンの連中はやはり他国者よそものだ。彼らの不満と憎悪は通常よりも早く蓄積されていった。


 一六二五年のうちにもいくつかの蜂起があり、バイエルン軍はそれらを鎮圧していたが、ハーバースドルフは新たな規制令を発布し、オーバーオーストリアの住民たちはより大規模な反抗を計画し始めた。


 翌一六二六年の五月一七日、プロテスタントへ新たな課税を命じにやってきたバイエルン軍の兵士六名が小競り合いで殺される事件が起こった。叛乱は既に準備されており、蜂起の日付は聖霊降臨祭が予定されていた。期日よりも早く騒乱が勃発したが、鎮圧側の初期対応も稚拙で、叛乱軍は二一日に再度送り込まれてきたバイエルン軍を蹴散らすことができた。指揮者は傭兵経験を持つレンバッハの農民シュテファン・ファディンガーと、義理の弟でハイバッハの居酒屋亭主クリストフ・ツェラーであった。


 農民たちは髑髏の描かれた黒旗を掲げ、道中の村落から一戸につき一名の成人を徴集し、バイエルン軍から奪った武器を装備していた。叛乱軍は総勢六〇〇〇名にまで膨れ上がり、ハイバッハの東南東二五マイルのヴェルスでもバイエルン軍は破られ、ハーバースドルフは行政府所在地であるリンツへと退いた。


 街道を進む農民たちは叛乱軍というよりは巡礼者の群れのようであり、


「われらの命、われらの信仰は、われらの剣に懸かっている、主よ、われらに勇気をお与え続け下さい」

「バイエルンの軛と専制、そして、彼らのひどい虐待から、ああ、愛する主、神よ、解放し給え!」


 などと、霊感に取り憑かれたかのような熱狂で救いを求める歌を朗誦しながら歩んでいた。

 農民軍はヴェルスから北東へ二〇マイルほどを進撃し、六月二四日にはリンツを包囲した。ファディンガーは司政官に降伏するよう要求したが、堅固な城壁と信頼できる守備隊に自信を得たハーバースドルフは、拒否して籠城し、マクシミリアンが援軍を送ってくるのを待つことを選んだ。


 同月二八日に、ファディンガーは城壁周りに突破口がないか偵察へ出かけた。勇気ある行動だったが指揮官としては軽率であり、城壁に近寄りすぎたところで守備隊のマスケット銃で狙撃され、乗騎は射ち殺されてファディンガー自身は大腿部に重傷を負った。その場からは足を引きずりながら逃れることができたが、一週間後の七月五日に敗血症のため息を引き取った。


 義兄のあとを受けて叛乱軍を指揮することになったツェラーだったが、リンツへ弾薬と糧秣を供給している、ドナウ対岸のウーアファールを攻撃している最中に戦死した。ファディンガーの死から二週間もたっていない、一八日のことだった。


 ファンディンガーとツェラーがたおれ、バイエルンからの援軍も到着したことで、叛乱農民たちは一気に窮地に立たされた。そのまま終熄するかと思われたが、カトリック軍兵士たちが捕虜にした農民をあまりに残忍に取り扱ったため、降伏しかねる状況に追い込まれた彼らは、中核組織を持たないゲリラの群れに変わってしまった。


 この事態は、憎悪の応酬が決着のついたはずの戦いをいかにこじれさせるかという例証であり、三十年戦争を代表する将のひとりであるパッペンハイム伯ゴットフリート・ハインリッヒが鎮圧軍の責任者となるまで、さらに数ヶ月のあいだ無益な争いが続くことになる。



 リーダーをうしなった上オーストリアの農民たちがなおも絶望的な抵抗をしているころ――

 オーストリアの遥か北西、ヴェストファーレン地方で、デンマーク王クリスティアン四世は優勢なカトリック軍の陣容を目のあたりにして前進をためらっていた。


 四月の末にデッサウで敗退し、中立域であるブランデンブルク辺境伯領で英気を養っていたマンスフェルトは、七月の末から八月の頭にかけてシュレージエン方面へと移動を始めた。ハンガリーのガブリエル・ベートレンと合流しようというのである。いまやカトリック軍の領袖と成り果せたフリードラント伯ヴァレンシュタインはマンスフェルト追撃を選択し、北ドイツにはカトリック軍代表としてティリーが、プロテスタント軍代表としてクリスティアン王が残されることになった。


 この状況で行動しなければ、プロテスタントの盟主として、ニーダーザクセン議会の長として、鼎の軽重を問われることになる。クリスティアンは決断し、根拠地にしていたブラウンシュヴァイクから南進を開始した。デンマーク軍が目指すのは、ドイツ中部、テューリンゲン地方である。


 もちろんティリーも対応する手を打ち、プロテスタント側が保持している都市のひとつ、故クリスティアン・ブラウンシュヴァイク軍の残党、ゾルムスが居座っていたゲッティンゲン市を包囲した。ゲッティンゲンはニーダーザクセンからテューリンゲン方面へ向かう街道にほど近い都市であり、当然ながらここをどちらの勢力が保持しているかでデンマーク軍の進攻の成算は大きく変わってくる。


 七月二九日――


 クリスティアン王の派遣したデンマーク軍は、ゲッティンゲンより四〇マイルほども手前、レッシングの村近傍で哨戒中だったティリー麾下のカトリック軍部隊と遭遇戦になった。デンマーク軍は彼我の兵力を誤って判断してしまい、数的優位にあったにもかかわらず撃退された。指揮官の大佐は敗走した味方が四散することだけはどうにか防いだが、ゲッティンゲン守備隊を支援するための物資を積んだ荷馬車はカトリック側の手に落ち、救援作戦が失敗したことはあきらかであった。


 孤立したゲッティンゲンは八月一一日に陥落し、デンマーク軍の進攻路に無視できない障害物が出現することになった。クリスティアン四世はドイツ中部への突入をあきらめ、退却してくるゲッティンゲン救援隊を収容してからティリー軍を陽動してヴァレンシュタイン軍との距離をさらに広げさせ、マンスフェルトの進撃を間接的に援護することにした。


 ティリーは攻め落としたゲッティンゲンへ守備隊を配置する必要があったため、正面戦力としては二万に若干満たない数しか持てないことになった。石橋を徹底的に叩いてからようやく渡る将であったティリーは、現状でデンマーク軍相手に戦端を開くことはできないと考え、慎重に動いていた。


 クリスティアン王は敵軍との距離が詰まってから有利に気づき、陽動に留まることなく決戦に訴えようと計画を変更し、積極的な前進を命じた。もちろんティリーも無為にすごしているはずはなく、ヴァレンシュタインへ増援要請を出しており、フリードラント伯もそれに応じて可能なかぎりの予備兵力を送った。敵の合流を妨げようとデンマーク軍は全速で突出したが、ひと足違いでヴァレンシュタインが割いた補充部隊四〇〇〇強がティリー軍と合していた。


 八月二二日のことである。


 これでデンマーク軍二万一〇〇〇に対しティリー軍は二万四〇〇〇。立場は逆転し、クリスティアン四世は危険な敵と至近距離で相対することになった。

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