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三十年戦争史《der Dreißigjähriger Krieg》  作者: 仁司方
第三幕 デンマーク戦争(1625〜1629)
20/63

とある騎士の死《Tod eines Ritter》


 旗揚げしたとき、彼はまだ二〇歳そこそこの若造であった。五年間の戦塵にまみれた日々は彼から青年期のすべてを奪い去ったが、帰ろうと思えば帰れたにもかかわらず、硝煙と糞尿の臭気の渦中に留まり続けた。


「わたしは告白せねばならない。わたしは戦争に嗜好を持っており、それは生まれたときからそうであり、死ぬまでそうであるだろう」


 と母親への手紙に書いたことに、偽りはなかった。片腕を失い、病を得ても、クリスティアン・フォン・ブラウンシュヴァイク・ヴォルフェンビュッテルはなお傲然と頭を上げ、望むだけで戻ることのできる安逸に背を向けて、ハプスブルクの支配に抗う戦いを続けていた。


 この英雄志望者の困ったところは、他者にも己と同じように振る舞うよう要求することにあったが、しかし最前線で自ら範を示す勇気をも持っていた。もちろん見る方向を変えれば、多くの村や町を焼き、略奪を働いた武装集団の頭目であるのだが。後世には、滅私の精神と殉死を賛美しながら自らは決して戦地に立つことのない指導者が溢れ返ることを思えば、クリスティアンはやはり正しい意味で貴族であり騎士である、この時代にあって既に古い部類に入る男であった。


 カトリック軍を合同させないため、折からの凶作で糧秣調達が難しいため、といった理由が列挙されてはいたが、プロテスタント三軍が別々に行動していたのは、窮極的には主導権を巡って一致できなかったためであった。格でも軍資金の負担割合でもデンマーク王クリスティアン四世が筆頭であることは疑いなかったが、しかし最遅参の新顔であり、イギリス、オランダなどの同盟国からの支援なしで戦い抜けるほどその足場は盤石なわけではなかった。ブラウンシュヴァイク大公クリスティアンにとってデンマーク王は母方の叔父であり、幼少の時分にはその手元に預けられていたこともあって、おおむねクリスティアン四世支持派であったが、マンスフェルトのほうは納得しなかった。


 イギリス、オランダの同盟者という点ではデンマーク王とマンスフェルトは対等であり、もっとも長きに渡ってハプスブルク=カトリックと干戈を交えてきた将として、主席の座を譲ることはできなかった。クリスティアン四世としても、当初の計画通り戦備のすべてをデンマーク持ちにできていればともかく、議会の反対で頓挫している以上現地雇用の傭兵で補うほかなく、そうなると彼らのあいだでのマンスフェルトの評判を無視はできなかった。結果として、マンスフェルトの作戦に承諾と援助を与えるという体裁を繕いつつも、実質的にはマンスフェルト軍の独自行動を認めざるをえなかったのである。


 マンスフェルトがエルベ・ヴェーザー河間のプロテスタント勢力圏から東進を図り、そしてヴァレンシュタインに阻まれていた一方、一六二六年の春にクリスティアンへ割り当てられた任務は、蜂起に加わるプロテスタント君侯を増やすことであった。目星をつけられたのは、ヘッセン・カッセル地方伯モーリッツである。激越なカルヴァン派であり、皇帝フェルディナントから領地没収の宣告を受けているモーリッツは、座してハプスブルクとカトリックの専制に屈することを待っていられぬはずであった。


「悪しきハルバーシュタット人」クリスティアンはこれまでの数年間にやってきたのと同様、手近な村落へ押し入り、あるいは書簡を持たせた武装宣撫官を送り込んで軍資金を供出させ、成人男子を徴兵した。しかしクリスティアンの評判は既に凋落しており、度重なる略取で物的にも人的にも資源が払拭している町村も珍しくなかった。


 クリスティアン軍の歩卒は釘を打ちつけたり鉄片を巻きつけたりした棍棒という粗末な武器を掲げ、それを持っているのは一四、五歳の少年という体たらくであった。装備の貧弱なクリスティアン軍では、比較的余裕があり、自衛力を保持している城市を襲ったり脅迫することができず、貧しい寒村からわずかばかりの蓄えを巻き上げ、痩せこけた農家の次男三男坊を引っ立てるのが精一杯で、全体の戦闘力がより低下するという悪循環であった。


 デッサウの戦いでマンスフェルトが追い払われると、ヴァレンシュタインは自らが保有する荘園の近辺に「甲冑をまとった乞食」が迫ってこないよう追撃をさせつつ、麾下の一部を割いてティリーへ増援として預けた。デンマーク軍相手に戦線を維持していたティリーは増援によって攻勢に出る余裕を得て、当然のように与しやすい敵から排除にかかった。軍隊というにはお粗末きわまりない配下しか持たないクリスティアンは、戦闘に訴えることもできないままカトリック軍に押しまくられてヴェストファーレン地方を右往左往と逃げ惑った。


 それでもクリスティアンは撤退戦の名手であり、敵を避けながら目的地へと近寄っていった。要するに味方を囮として見捨てながら逃走する才能であって、末端の兵らから見ればろくでもない将であったが、しかしまるきりの無能では歴戦のティリーを向こうに回しながら行軍することはできない。形はどうあれ、とにかくクリスティアンはヘッセン・カッセルまでたどり着いたのである。


 街道沿いに真っすぐ進んだとしても九〇マイル以上、当然ながらティリーは主要な道をすべて押さえていたであろうから、クリスティアンは短期間で二、三〇〇マイルを強行軍で踏破したということになる。


 戦う余力のない疲弊した軍を連れ、病魔に冒されたクリスティアンを待っていたのは、まだ戦場にはなっていないはずにもかかわらず蕭然たる地方伯の領地であった。のちに反ハプスブルクの第一等となるヘッセン・カッセルであったが、このときは皇帝を恐れ、従弟の復讐に怯えるモーリッツがいるだけであった。デンマーク王の名で檄文が届いているはずだったが、モーリッツはプロテスタント蜂起に参加させるための軍勢を集めてもいなければ、提供すべき資金の蓄えもなかった。


 クリスティアンが地方伯との会見に臨めたかどうかも定かではない。門前払いされた可能性も充分考えられる。モーリッツにはティリー率いるカトリック軍の進駐を妨害する意志がなく、また、意志があったとしても実行する手段がなかった。そしてろくな防備もない地方伯の領地を略奪するだけの余力も、クリスティアン軍には残されていなかった。


 つまるところ、クリスティアンはなんら得るものなくヘッセン・カッセルから叩き出された。カトリック勢の追撃は続き、こうなるとデンマーク軍も、戦力にならないのに敵は引き連れてくるクリスティアンを迎え入れてはくれない。


 行き場をなくしたクリスティアンは、故地ヴォルフェンビュッテルに向けて転進した。実兄フリードリヒ・ウルリッヒを脅迫、あるいは拉致してヴォルフェンビュッテルを根拠地とし、カトリック軍と最後の戦いに挑む肚づもりでもあったのか。だがブラウンシュヴァイク大公領はその多くが既にデンマーク王によって占拠されており、虚弱なフリードリヒ・ウルリッヒは皇帝フェルディナントに弁明の手紙を出しながらも叔父の横暴に抗することはできないでいた。そこに武闘派の弟が押し入っても、阻止こそされないだろうが、もう取り立てられる金品は残っていない。


 おそらくは六月の初頭、生まれ故郷の土を踏むとほぼ同時に、クリスティアンは己が身に巣食っていた病魔を抑えることができなくなり――やはり、帰ってきた、という気のゆるみがあったのだろうか――床に伏した。


 侯爵、国王たる者でも絶対安泰だと保証のあるわけではない乱世とはいえ、しかし自らあえて危険へ飛び込まないかぎり、貴族として生まれた身は、庶民よりも一生平穏にすごせる可能性が断然高かった。にもかかわらず、クリスティアンは戦場を望み、そして相応しい報いを受けた。彼の気性は、平地に波瀾を起こす、というほど破滅的であったかはともかく、遠くに巻き起こる戦雲に駆け寄っていかずにいられない程度には激しかった。

 あくまで推測だが、クリスティアンは最後まで自ら選んだ途を胸を張って往き、前のめりに倒れた。運命の采配の意地悪さや、自らの犯した失着を罵ることはあったにせよ、根本的な後悔はなかっただろう。

 ゆえに、熱病に浮かされた彼の最期の思考を、埒もなく想像させるのである。


「麗しのエリーザベトよ、約束は果たせなかった。だが、誓いは守った。私は、貴女の……」


 一六二六年六月一六日――


 クリスティアン・フォン・ブラウンシュヴァイク・ヴォルフェンビュッテルは二六年と九ヶ月にはわずかに満たぬ生涯の幕を閉じた。


 カトリック側は、巨大な蛆虫に蝕まれた、ヘロデ王の死であった、としてその訃報を腐した。もっとも、悪名高きかの大王と並び称されたことを知れば、クリスティアンは「神の友にして坊主の敵」としてにやりとしたであろうが。


 カトリック連盟リーガの将ヴァレンシュタインは、「いかれたクリスティアン」の死を伝え聞いて「グッドラック(Viel Glück auf die Reise)」とコメントを残したという。その死出の旅を皮肉ったのか、罪深い仕事をしている同業者として、いずれ自らも向かうことになる途を思ってのことか、それはわからない。


 クリスティアンを死に導いた病がなんであったのかは、今日でもあきらかではないといわれている。チフスかペストか天然痘か結核か、いずれもありえ、同時に反証もある。風疹などの、現在ではさほど重篤にはならない病気かもしれない。


 主将の死によって、ただでさえ形骸と化していたブラウンシュヴァイク大公軍の組織は完全に破綻した。部隊単位での指揮系統が生きている場合のみ、隊長がそのままデンマーク王の麾下に軍籍を移して活動を続けたが、遠征に耐えられる一軍に糾合し直すことはもはや不可能であった。


 ゾルムスという士官に率いられたある一部隊などは「ゲッティンゲン守備隊」を称しその都市の寄生虫として腰をすえ、プロテスタント軍としての合同などどこ吹く風となっていた。とはいえゾルムスの部隊はこれでまだましなほうであり、中には解散して各々で傭兵募集中のカトリック軍の営舎へ向かったり、無頼の野盗団へと堕す部隊も珍しくなかった。


 甥の死はデンマーク王クリスティアン四世を、精神的にではなく実務的な意味で苦しめることになった。会戦のひとつもないままに、敵の副将を文字通り忙殺せしめて意気上がる、無傷のままのティリーの軍団が眼前に迫っていた。そして足元には、分解した御しがたい味方がとぐろを巻いている状況となったのである。


 ヴェストファーレン周辺でのプロテスタント勢力圏は拡大限界に達したと同時にカトリック方によって奪い返され始め、ティリーとヴァレンシュタインの手番が巡ってきたのであった。


 クリスティアンの侍従であった巨人症の大男アントン・フランケンポイントの骨格は、両腕を始めとする一部が欠損した状態であるが、マールブルクの解剖学史博物館に収められている。


 埋葬こそされていないが従者の亡骸は所在がはっきりしているというのに、ブラウンシュヴァイク大公クリスティアンがどこに眠っているのか、明示してある資料を書き手は発見できなかった。日本語で手軽に読める範囲にないことは確かなようである。故郷の地で没しているのだからヴォルフェンビュッテル家代々の墓に葬られているのが自然であるが、彼は謀叛人であり、兄のフリードリヒ・ウルリッヒもこの数年後に死去し、ヴォルフェンビュッテルの直系が絶えることを考えると、永久の安眠の地を与えられていない可能性はある。

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