うそ
今回はジョシュア視点です
若き歴史の語り部は焦っていた。
貴族の女に触ると悪寒と吐き気が止まらないというのに、よりにもよってザ・貴族とも呼ぶべき社交界の香り高き華、マリア・ローズヒルズに恋心を抱いていると知ってしまったからだ。幼少の時の経験から年上の女が特に苦手、さらに化粧の濃い貴族とくれば吐き気がする…ジョシュアにとって恋愛とは燃えあがる炎ではなく穏やかで静かな湖のようであるべきものだった。初恋の相手のエミリアはまさにそれを体現したような女性だった。性を感じさせず、穏やかで和やか。頭も良くて退屈せずに居心地の良い空間を提供してくれる人だった。だからこそ好きだった。
それに引き換えマリアとくれば、どこにいても目立つオーラに破天荒な性格、底ぬけに間抜け、退屈はせずとも気苦労が多い。窮屈そうに押し上げた胸も、存在感を知らしめる薔薇の香水も、攻撃的なまでにバッチリはまる化粧も、艶かしい大人の色気と少女のような可憐な顔立ちが背反する身体も、全てそれはきっと誰もが好むものだ。だけどジョシュアはそれに吐き気を覚えた。貴族とわかって一線を引いて付き合う分には吐き気は抑えられる。だけど好意を見せつけられてしまえば…もうだめだ。気持ち悪い。
そう思っていたのに。
何度突っぱねても変わらずに好意を示す彼女に少しずつ惹かれていた。エミリアを吹っ切った時、彼女への好意はもう否定できない段階に達し、彼女にラインラルドとかいう婚約者ができた時には「先回りしてそんな馬鹿みたいな話を潰しておけばよかった」と心底後悔した。照れくさくて渡せなかった誕生日プレゼントは自分の部屋の棚に埋もれたままだ。何もできていない。何も。あれほどの好意を、ただの1つも返せていない。
マリアの動向を窺うために、ローズ用の記録係と密に連絡を取った。それでもどういうわけかすれ違うことが多くなり、代わりに手紙を送ってみたが、困ったことに書くことが思い浮かばない。仕方なくアリシア達の現状を書いて送るしか無かった。こんな状態ではいつ嫌われても文句は言えない…と、どことなく状況の似ているジェシカに何度か愚痴を零すと、一緒に愚痴っていたはずのジェシカに心に刺さるアドバイスをされた。
(待ちくたびれて他所に目がいく)
考えられないことはない。何せマリアは稀代のローズで、この国一番の美女だ。アリシアやリゼリアという美女に囲まれて目が肥えたジョシュアから見ても特級の美女だ。そんな美女がいつまでもつれない男を相手にするわけがない。彼女はいつだって、望めば誰とでも恋愛できるのだ。
その言葉に焦って、本来ならやるべきではない語り部の仕事を引き受けた。トレント家の地下通路の調査に潜り込むためにマリアのパートナーになった。花が綻ぶように男どもに微笑むマリアに嫉妬し、そんなマリアを羨望の眼差しで見る人々に鼻を高くした。だからこそ油断していたのだろう。マリアに手伝って貰ったおかげですんなり潜り込めた地下通路で簡単に捕らえられてしまった…普段なら、なんてことのない仕事だ。護身術も仕込まれているし、戦場や砂漠ですら生き延びる術も身につけている。こんな簡単な罠に引っ掛かるなんてらしくなかった。
自分のせいでマリアが理不尽な要求に応えているのに腹が立ちまともに顔も見れなかった。地下通路は階上の音が良く聞こえるような造りになっていたため、マリアが来たことはすぐに分かった。それからマリアがこの次にどんな目に合うのかも。馴れ馴れしく肩を抱き寄せるトレント伯爵にゾッとした。自分の不手際でマリアが…と思うと罪悪感で押しつぶされそうだった。マリアの悲鳴が聞こえ、終わったと思った。そのあとマリアが助けに来てくれても、乱れたドレスと落ちた化粧に動揺し、まともにマリアを見ることができなかった。
「お嬢様は若様にはお会いになれないとのことです」
フィリスにそう言われてしまうと、納得するしかなかった。妹同然で、昔からの馴染みの彼女は、気の良いローズのマリアのことがとっても好きだし、だからこそ信頼している。そのフィリスが、マリアがしばらく会う気にはなれないと言うなら仕方がない。マリアに会うのを諦めて、寂しそうにするフィリスを慰めておとなしく帰った。
戦争が始まると忙しくなり、マリアに手紙を出すことすら難しくなった。それでもなんとか時間を作って会いに行くと素っ気なく突っ撥ねられてしまった。その日のマリアは忙しくドレスや男物の平服を見繕っていて、訪ねても手を休めることなく面倒臭そうに言われた。
「あら、ジョシュア様。フィリスならミッシェルの所です」
「ミッシェルの?」
「まだ聞いてませんでした?私もいつまでもローズではいられませんから…ミッシェルにローズのあれこれを教えさせています」
フィリスからの報告が途切れがちになったのはこれが理由のようだ。マリアがローズじゃなくなる可能性を示唆されて頭の回転が止まった。それは、マリアが結婚することを意味する。
「…プロポーズしてないけど?」
「ジョシュア様はね」
マリアは当然のように言い捨てた。節目になったマリアの瞳に違和感。化粧が薄い。いつもの濃いアイラインがない。ギラギラ光るアイシャドウも。
「化粧変えた?」
「ええ、サミュエルが、色が濃いのは年がいって見えると煩いんです」
それは全面的に賛成だけれど、自分以外の誰かに言われたから変えるというのは腹立たしい。立ち上がって、手に持ったドレスやタキシードを後ろに控える侍女に手渡す。
「私、もう出ますので。サミュエルに呼ばれているんです」
「…サミュエル?」
「サン・マドック公爵家の」
「…なんで?」
「まあ、野暮なことは聞かないでください」
営業用の花の咲き誇る笑顔を向けられてたじろいだ。それでも一縷の望みを掛けて、遠ざかるマリアの手を引いた。
「戦勝祝賀パーティの日取りが決まった」
「いつですか?」
「来月の、今日」
「もう戦争は終わりですか?」
「ああ…講和に入ってる」
「まあ、そうでしたの。アルフォンスお兄様はご無事ですか?」
「あいつは何故かいつも無傷だよ」
くすっとマリアが笑った。営業用とは程遠い、いつもの笑顔だった。その顔が見たかった。嬉しそうに笑ってほしかった…
「それで、俺とパーティに行かない?俺も今回ばかりはパートナーが必要なんだけど…」
「あ…その…ごめんなさい。サミュエルと行くことになっているんです」
心臓を鷲掴みされたようだった。胸が、苦しい。マリアはサミュエル・サン・マドック公爵と浅からぬ仲になっているようだ…
「よろしかったらフィリスを誘ってみては?」
「フィリス?なんで?」
「うちで空いてるのはフィリスだけですから…」
「前のこと、怒ってる?」
マリアは可愛らしく首を傾げた。怒って…はなさそうだ。
「前のこと?」
「その…トレント家で怖い思いさせただろ」
「いいえ?」
マリアはまた首を傾げた。相当怖がって会いたくないとまで言ったのに…マリアにとっては忘れたい出来事で、もう掘り返されたくないのかもしれない。罪悪感でいっぱいだった。
「悪かったよ。もうあんなことさせない」
「それはお気遣いどうも有難うございます」
マリアは仰々しく頭を下げて、すぐにぱっと笑顔になった。
「それでは私はこれで。約束の時間に遅れてしまいます」
「マリア」
「御機嫌よう、ジョシュア様」
マリアは手を振って優雅に廊下を歩き去った。ただの一度も振り返らず、軽い足取りで角を曲がった。
「若様」
フィリスが呼び止める。フィリスは思い詰めた顔で、侍女服のスカートを握り締めていた。
「どうした?」
「マリアお嬢様はご結婚なさいます」
「サミュエル・サン・マドックだろ。聞いたよ」
「お嬢様は、あの一件以来塞ぎ込まれてしまって…そこにマドック侯爵がいらっしゃったのです」
「仕方ないさ、嫌われるようなことしてたのは俺だ」
「お嬢様は毎週マドック侯爵を訪ねていらっしゃいます」
「そうか」
終わった。なにもかも。フィリスは慰めるように抱き付いてきた。それを引き剥がして、足早に待たせていた馬車に乗った。何もかも遅かった。もし少しでも早く気持ちを伝えていれば、結末は変わっていた筈だった。
後悔してももう遅い……
これまで名前と資料でしか知らなかったサミュエル・サン・マドック侯爵について真面目に調べてみると、どうやらマリアとは寄宿舎時代に知り合った古い友人だということが分かった。寄宿舎時代から事あるごとにパートナーを務め、マリアがローズに就任してからしばらくは同じようにパーティに出席していたらしい。しかし何があったのか定かではないが、突然2人は行動を共にしなくなった。以降マリアのパートナーは義兄のエディに一任されている。そして調べれば調べるほど、いかに侯爵が良くできた人間で、どれほど2人が似合いであるかを思い知ることになった。ドツボに嵌って落ち込んでいるのをうっかりアリシアに見られて笑われた。
「お前のそんな姿を見られて私は思い残すことがないよ」
泣くほど笑われた上でこんな台詞を言われて余計に立ち直れなくなった。アリシアはすぐにレイモンドにもリゼリアにもジェシカにも吹聴したので、彼らが飽きるまでからかわれ続けることになった。
講和会議が落ち着くとアリシアとリゼリアはマリアにドレスを注文した。マリアは既に素晴らしいドレスを用意しており、実際に着せて少々サイズの手直しをするためにもう一度持ち帰ると2人に告げた。レイモンドがアリシアのドレス姿を見るために部屋に押し入ったのに着いて行くと、少し痩せて疲れた姿のマリアが出迎えた。
「喧嘩でもしたのか?」
「サミュエルが口うるさくて困ってるんです…その、色々準備がありますから。用意に追われて全然寝れてませんの」
「大変だな」
「楽しいから良いのですけどね」
レイモンドのアリシアへの賛辞を聞き流しながらマリアは眠そうに瞼を擦った。アリシアもレイモンドの賛辞を聞き流してマリアに嬉しそうに言う。
「それにしてもマドック家とは、良い選択だな」
「有難うございます。気心知れた仲ですので、とっても居心地が良いんですよ」
アリシアが褒めるとマリアは微笑みながらも複雑そうな声色でそれを受け取った。そして言い聞かせるように続ける。
「私にとっても、家にとっても良いお話ですから」
「最近研究が疎かになっているのが不満だが」
「サミュエルによく注意しておきます」
侯爵はアリシアのお気に入りでもある。侯爵の有する研究や資金、才覚全てにアリシアは感服していた。アリシアにとって、お気に入りのサミュエルとマリアがくっ付くのは素直に喜ばしいことなのだ。
胸が痛い…心臓を握られたような痛みに耐えながら平気そうな顔でへらりと笑ってみせる。
「俺も付きまとわれなくなって清々したよ」
「…ご不便おかけしました」
マリアは綺麗な笑顔で答えた。まさに営業用の笑顔だ。話しかけないでと言わんばかりの仰々しさだった。部屋がしばし沈黙する。マリアは裾の長さを測るために屈んでアリシアの後ろに回った。
「も、もう脱ぐから出ていってくれるかしら」
リゼリアが突然大声でわざとらしくアリシアをじっくり眺めていたレイモンドを追い払った。レイモンドは不思議なものを見たように首を傾げながら素直に出て行く。アリシアもぎょっとした顔で足元を見て固まっていた。
「ジョシュアもよ!」
リゼリアに追い出され、仕方なくレイモンドと中庭に気晴らしに来た。去り際にアリシアがレイモンドに花でも摘んできてとお願いしたからだ。レイモンドは咲き誇る花を見比べた。
そして青紫の花に鋏を入れながら、また不思議そうに首を傾げた。
「マリアは幸せじゃないのか?」
「ん?お前がアリシア以外の人間に興味を示すのは珍しいな。好きなのか?」
「アリシア様がマリアに幸せになってほしいと願っているから、俺もそう思う」
レイモンドは摘み取った花を束ねた。レイモンドは嘘偽りのない本心でマリアの幸せも望んでいる。マリアが幸せだったならばアリシアも幸せになると思っている。そしてそれこそがアリシアの望みだと思っている。
「マリアは泣いていた」
「やめろよ」
心臓がどくりと跳ねた。
マリアが泣いていた?嘘に決まってる。マリアは今幸せなんだ。最高の恋人に巡り合えて、大切にされている。少々準備が忙しくても充実している。もしかしたら準備が忙しすぎて憂鬱になってしまっただけかもしれない。女性には結婚前に憂鬱になる期間だってある。
「いい加減にしないとアルフォンスに泣くまで殴られるぞ」
「お前それ経験ある?」
「ある」
「レイモンドでも泣いて謝ったのか?」
「全治2ヶ月だった」
騎士として体を鍛えているレイモンドですら全治2ヶ月…生き延びる程度にしか仕込まれていない体だったら死ぬかも…
「今でも冬になると肩の骨が軋む」
「どんな喧嘩したらそうなるんだよ」
「アリシア様の代わりに殴られたらこうなった」
「なんで俺はその件について知らないんだ?俺ずっと一緒にいたよな?」
「いなかった。理由は覚えていない。あの日はリゼもいなかった」
ざっと当たりを付けるが、レイモンドが2ヶ月も寝込んでいた記憶がない。2週間ほど寝込んでいたのは何度か。落馬するたびに寝込むのだから頻度が高いのだ。
「友達としても語り部としてもそのあたり詳しく聞きたいんだけど」
「アルフォンスが笑顔のままブチ切れるのは珍しくないことだし、アリシア様がアルフォンスを怒らせるのも別に珍しくないだろう」
「手が出るのは珍しいぞ」
「それはアルフォンスがお前の前だと遠慮するからだ」
「…俺友達だよな?」
「語り部だからだろう。アルフォンスは名声に拘る」
芝生に転がって流れる雲を見つめる。
薄青い空はサミュエルの瞳のようだ。尤も、絵画でしか見たことがないのだが。
「マリア、結婚するんだろうな」
「してほしくないなら止めたらどうだ」
「自分勝手にそんなことはできない」
「何故?」
「俺は…俺は、歴史の語り部だ。相応の伴侶が必要だ。マリアは相応しくない」
そう、マリアは相応しくない。
「歴史の語り部は、歴史に名を残してはいけない。マリアがもし語り部の一族になったら、それまでのことは別として、その後は存在を消してもらわなければならない」
「それが?」
「あのマリアがあっさり存在を消せると思うか?」
マリアは美しい。喩えるべき花がないほどに、太陽とも月とも形容できないほどに。神話の女神ですら並び立てないほどに。マリアは生まれながらに人の注目を集める女性だ。
それに、マリア自身注目を浴びていたいという欲求もある。マリアは人の中心にいるのが好きだし、なによりそれを楽しんでいる。
「それにマリアは記憶力のないアホだ」
語り部は全てを覚えねばならないから、マリアはその点、全く相応しくない。学院時代の成績を見るに、記憶力はほとんどなさそうだった。
「問題はそこではないと、俺は思う」
「というと?」
「マリアの決意や能力よりも寧ろ、お前の妥協の方が大切だと思う。もしマリアがお前が言った条件をクリアしていたら、お前はマリアの結婚を妨害するか?」
「今更と言われても仕方ないが、する」
レイモンドが鋏を止めて、手慣れた動作で花束にしてリボンで括り付けた。
「そうか。俺はもう行く」
レイモンドは花束を握りしめてアリシアの部屋へ大股で帰って行った。レイモンドの言葉は、よく分からなかった。でも聞き返すにもレイモンドは答えるつもりが全くなさそうだった。仕方なくレイモンドの後ろを追いかけるように立ち上がると、ちょうど帰ろうとしていたマリアと鉢合わせた。レイモンドは一瞬立ち止まってマリアに声を掛けようとしたが、大して仲の良くない2人はお互いに何を話せばいいのか思いつかなかったらしく、自然とまた歩き始めた。俺はそうはいかない。
「もう帰るのか?」
「はい。サミュエルと晩餐の約束がありますので」
「俺も行っていい?」
ついうっかり、口からそんな言葉が滑り出た。自分でも驚いて、バツが悪くて頭を掻いた。マリアも目を丸くして驚いているが、控えている侍女に小突かれて我に返った。
「8時にマドック家の屋敷です」
「礼服じゃないと悪いかな」
「ジョシュア様なら平服で問題ありません。サミュエルはマナーにうるさくありませんから」
「分かった、遅れないようにする」
マリアは小さく微笑んで足早に歩き去った。
俺、何してるんだろう…
自分で自分の傷を抉るような行為に絶望しながら、どこかでマリアと一緒にいられることを喜んだ。
「なあっ、レイ!」
さっさと歩き去った薄情者を後ろから呼び止める。鬱陶しそうな顔で振り返った美青年も、失恋の達人だ。
「お前はアリシアとミハエルがいちゃついてても平気だったのか?どうしたら平常心保てる?」
「死にたくなかったらその口閉じろ」
「歴史の語り部直々にいらっしゃるとは、僕は一体どんな偉業を成し遂げるんだろうね」
夜8時…とっくり陽も暮れた頃にサミュエル・サン・マドックの屋敷を訪れると、マリアとサミュエルが仲良さそうに揃って出迎えてくれた。晩餐の席には2人だけではなく、サミュエルの義妹になったルースがマリアの隣の席に着いており、座る時からマリアにマナーを口うるさく指摘されていた。サミュエルはそれを温かい目で見守りながら、一方で冷たい目をジョシュアに向けて攻撃を開始する。
「稀代のローズの旦那って記述だけにさせるなよ」
毒が口をついて出るとサミュエルは可笑しそうにクスッと笑って杯を掲げた。
「歓迎しよう、ジョシュア殿。僕はサミュエル・サン・マドック。サミュエルと気軽に呼んで構わないよ」
「そりゃどうも、俺はジョシュア。俺のことは今まで通り歴史の語り部殿と呼んでくれ」
表面だけの微笑みを浮かべて同じように杯を掲げる。同じタイミングで口をつけて、質の良い葡萄酒を飲み下した。
「ルース、それでは斜めに切れてしまいます」
「すみません、マリアお姉様」
料理が運ばれるとまずマリアがルースを監視し始めた。ルースの手元には斜めにナイフの入った最高級のステーキ。マリアが自分のステーキで美しく真っ直ぐに切って手本を見せると、ルースは尊敬の眼差しを向けた。
「妹はまだ慣れていなくてね」
「知ってるよ」
「それは良かった」
手元のステーキを乱暴に切って口に放り込む。サミュエルはマリアと同じくらいに完璧なマナーでステーキを口に入れた。皿を開けるとサミュエルは上品にマリアに微笑む。
「マリア、明日からの視察にルースも連れて行っていいかな」
「構いませんけれど、楽しくはないと思いますよ」
「たまに遠出すると気が晴れるだろう」
「私がいると気も晴れないと思いますけど」
「大丈夫、ルースはマリアが大好きだから。ね、ルース」
ルースはこくっと頷いて恥ずかしそうに頬を染めた。
「視察?」
マリアに問うと、マリアは非常に複雑そうな顔をしながら答えた。
「旧ラインラルド領です。アリシア様が手紙で正式に私の物になったと連絡してくださいました」
「私?マリア個人のものに?」
「ええ、私はマリア・ローズヒルズ・ラインラルド伯爵になったようです」
「ラインラルドね…」
「…が、私には荷が重いので管理はローズヒルズ伯爵…つまりエディお兄様にお願いしました。名ばかりの領主というわけです」
マリアの立場になってみれば、嫌な思い出しかないラインラルドの領地を無理やり押し付けられただけにすぎない。ジョシュアはアリシアからマリアに領地を与える話はそれとなく聞いていた。アリシアもそれなりの意味があってラインラルド領を与えたのだろうけれど絶望的なまでにその意図が誰にも伝わらない。秘密主義はアリシアの欠点の1つだ。
「それで明日視察に行くことにしました。エディお兄様がお忙しいのでサミュエルに手伝っていただこうと」
「俺、行くときは誘ってくれって言ったよな?」
マリアは気まずそうに目を逸らした。
「お忘れかと思いまして」
「まさか、俺も付いて行っていいよな?」
「ええっと…」
マリアは明後日の方向を見ながら眉を下げる。見かねたサミュエルが機嫌良く答えた。
「構わないよ、目の数は多い方が色んなことが判るでしょ」
「サミュエル…」
「じゃあ決定」
サミュエルはにっこり笑って食事を再開した。マリアはあれこれ言うのを止めて、ルースのマナーを注意深く見守り始めた。




