二
午後の講義も終わり、傘を叩く強めの雨音を聞きながら佐野は帰路についていた。時刻は夕方頃。そろそろ腹が減ってくる時間帯である。
むしむしと微妙に生暖かい空気が佐野の体を包んでいたが、佐野の頭の中にあるのは今日も部屋の前で彼の帰りを待っているであろう幸のことだ。
幸が佐野の家を訪れるようになって早十五日。もう二週間以上が経過している。最近は多少の雑談や夕食などを幸と共にするようになり、苦笑いをここ毎日連発しているが、これが自分の性分であると自覚しているため、佐野はため息しか出なかった。
佐野は基本的に他人に対してデレ易い人間なのだ。
自分に話しかけてくれる。自分の言葉を聞いてくれる。そんな事で佐野は簡単に相手との距離を短くしてしまう。
しかし、距離が短くなっただけであり、線引きは嫌と言うほどはっきりしているので、その点について佐野に心配は無かった。
まあ、線引きがあるにしても、佐野が幸という人間に悪感情を持っていないのは確かだ。
佐野から見て、幸はただ純粋に盲目的に佐野幸喜という人間を幸せにしようとしている。その行為に打算や布石などは一切感じられない。
とり憑かれたように自分へと尽す女。そこに理由を感じられたら恐怖なり何なりを持つ事が出来たのだろうが、まるで演じる様に幸は佐野へと尽すのである。
幸自身の利益を度外視して、彼女は佐野に尽しているように見えるのだ。いや、おそらく幸にとっての利益は誰かを幸せにすると言う行為その物なのだろう。佐野にはそう思えた。
(けど、本当に何で幸は俺を幸せにしたいんだ?)
その問いはもう両手では数え切れないほど繰り返した物で、その度に分からないと結論付けられた物だ。
佐野は幸と良く話すようになったが、彼女の何も知れていなかった。彼に分かっていることは幸という人間は普段から無表情である事と、誰かを幸せにしなければならないという、ある種の強迫観念の様な物を抱えていること、その二つだけだ。これだけの情報から他者の心の何を知ることが出来ようか。
「まあ、今日あたりまた聞いてみるか」
何となくそう呟いたところで、佐野はセセラギ荘へ着いた。
そして、ここ最近生まれた習慣である彼の部屋――二階にある202号室――を見上げる。
そこにはいつもの青いワンピースが人形のようにこちらに背を向けて立っている筈である。少なくともこの約二週間、その姿が無いことは無かった。
はたして、そこにはいつものように青いワンピースの姿の幸が立っていた。それはやはりここ最近、佐野がいつものように帰ってきたときに見る光景であった。
しかし、佐野がいつものようにそのまま階段を上りに行くには、今日の光景はいつもと違う箇所があった。
それは間違い探しの様に見過ごせる物では無い。
幸が着ている服は青いワンピース。それは佐野が彼女と会った時から着ている服であり、ワンピースという服は裾の部分が広がっている服だ。
このワンピースはもはや彼女のシルエットと化した格好で、涼しそうな姿がこれからの季節に合っている。
「…………」
けれど、その青いワンピースが彼女の全身に張り付き、裾の部分が尾びれの様に成っていた。
詩的な表現を使うなら、佐野は一瞬、人魚か何かかと勘違いした。
青い布が彼女の全身に絡みつくように纏われていたのだ。
回りくどい表現を無くし、簡潔に今の幸がどうなっているかを言ってしまえば、その全身が頭からつま先までグッショリと濡れていたのである。
事態を察するのに佐野は数秒の時間を要した。
「……はぁ!?」
佐野は急いで傘を閉じて階段をガンガンと音をたてて駆け上がり、彼の部屋の前で立っている濡れに濡れた幸へ駆け寄った。
幸はいつもより遥かに緩慢な動きで佐野の方へ体を向けた。
その眼はどこか虚ろであり、その息はどこか荒く、その体は細かに震えている。
「ああ、こん、にちは」
「馬鹿! お前何してんの!? 傘はどうした!?」
「カ、サ? ……ああ、傘ですか。すいません、忘れて、いました」
幸の体は左右へふらふらと動き、言葉も途切れ途切れだった。
彼女に一体何があったのか佐野は聞きたかったが、それよりも今彼が為そうとした事は目の前の倒れそうな女を何とかしようとすることだった。
「ああ、もう良いから俺の部屋入れ!」
けれど幸は首を傾げた。佐野が何を言っているのか理解していないようだ。
「ッ! 来い!」
佐野は彼女の腕を掴み、いつもよりも早く鍵を開け、部屋に入った。
距離が狭まった幸からは雨の匂いがし、その体からは温もりが失われ、彼が一瞬息を呑みそうになるほど冷え切っていた。