六
五月二十八日、月曜日。
午後十八時十分、今日の講義を終えた佐野は自転車を歩くようにこぎながらセセラギ荘への帰路についていた。その内心を占めるのはおそらく昨日の言葉通り彼の部屋の前で立っているだろう幸のことである。
(……俺、早くも幸改め変人に慣れてきたな)
そう思って苦笑しだして少し、佐野はセセラギ荘に着いた。彼は自転車置き場から彼の部屋202号室を見上げてみた。もはや見慣れ始めた青のワンピースが背筋を伸ばして彼の部屋の前で置物のようにこちらに背を向けて立っている。
軽めのため息を零しつつ、佐野は階段をいつもより早く上った。
幸は足音で佐野の存在に気づいたのか、階段を上ってくる彼に体を向け、彼が上りきると同時に頭を深く下げた。
「こんばんは、あなたを幸せにさせて下さい」
「断る」
幸は顔を上げて佐野を見る。その表情に落胆の色は無く、いつもの無表情だ。
「すいませんがもう夕食の予定は決まっているでしょうか?」
「いや、今から買い物行って何か作ろうと思ってるけど」
「……では、よろしければ私に夕食を作らせてくださいませんか?」
その申し出に佐野は沈黙した。確かに夕食を作らなくて良いのは手間も省けて彼としては嬉しいことだ。しかし、いくら幸という人間に慣れ始めたとはゆえ、夕食を作ってもらうのは何というか気が引ける。
「……ダメ、でしょうか?」
黙っている彼に幸の言葉が届く。無機質で、感情を孕んでいるとは思えない声だったが、何となく不安を孕んでいるように佐野には思えた。
「……分かった。じゃあ夕飯をご馳走になるよ」
「ありがとうございます。腕を奮わせてもらいます」
その言葉に少々の安堵が混ざっているように佐野は感じた。
「では、食材を買いに行ってきますので、どうぞ部屋でお待ちになってください」
幸はそう言い、佐野が材料費を渡そうとする間も無く、階段を下って、どこかに行ってしまった。相変わらず自由に行動する奴である。
「んじゃ、米でも炊いて待つとしますか」
彼はそう呟いた。本当に何となくだ。
バラエティ番組が佳境に入った頃、チャイムが鳴った。来訪者はほぼ間違い無く幸である。
玄関に向かい、ドアを開けると、いくらかの食材が見え隠れする一つのビニール袋を持った幸が居た。
「ただいま戻りました。さっそく作ります」
「……オーケー、んじゃ入って」
佐野が体を下げて、幸が入れるように空間を作ると、彼女は頭を軽く下げた。
「おじゃまします」
「……」
「どうぞ召し上がりください」
佐野が普段勉強や食事など様々なことに使っている机にはチンジャオロースと肉じゃがと鮭のムニエル、そして白米が盛られた茶碗という和洋中入り乱れた料理達が存在していた。明らかに作り過ぎている気がしないでもない。
「あ、考えたら幸は何処で食べるんだ?」
机は壁近くに設置され、椅子も一つしか無いため、佐野が座ってしまうと幸が座る場所が無くなってしまう。
佐野はそのことに食べる直前で気づいた。誰かが立っているのに自分だけ食事を行うというのは気まずい物だ。
「いえ、私のことはお気になさらず」
「いや、気になるから一緒に食べよう。俺はベットに座るからお前は椅子に座ってよ」
幸は横に顔を振った。それは拒否するといった態度だ。
「いえ、あなたをベットに座らせて私が椅子に座って食事などできません。私がベットに座ります」
佐野はそれを遠慮したかったが、幸の無表情だが譲る気が無いという雰囲気にため息をついて彼女の言うとおりにすることにした。無駄に疲れるのが嫌だったのである。
「分かった。じゃあ、ベットの上に料理を置くか」
「はい」
食事を終え、残った料理はラップを掛けて冷蔵庫に入れた。
「……今日はありがとうございました」
「お礼を言うのは多分俺の方だと思うのだが、どういたしまして」
幸はドアノブをまわしてドアを押し開けた。外気の少しだけ冷たい空気が彼らを撫で、黒い空にぽつぽつと星が瞬いている。何となくいつもより綺麗に佐野には思えた。
「では、失礼します」
「ああ」
幸はいつものように――そう、もはや日常と化しつつある――頭を下げた後、いつものように階段を下った。
佐野もその背をいつものように見送り、ドアを閉めた。閉める直前に視界の端に映った雲と星が妙に彼の印象に残った。