五
彼の記憶が正しければその日、佐野は彼の学科の飲み会の帰り、同級生達の空気にいつまで経っても慣れきれないことに落ち込み、帰り道何となく近場の公園に行ってベンチに腰かけたのだ。
確かにその場面だけを見たなら佐野はとても落ち込んだ青年に見え、幸せには見えなかったかもしれない。
けれど、その日のことは本当にそれだけのことであり、落ち込んではいたが、そこまでの不幸を感じていたわけではなかったのだ。
眉をひそめている佐野を気にせず、幸はそのまま話を続けた。
「私はその時ちょうど人を幸せにするという仕事を解雇されたばかりでした。けれど私は人を幸せにすること以外に価値の無い存在で、俗に言う途方に暮れていた状態でした」
「……もしかして、そんなお前がちょうど良い感じにベンチで幸せじゃない俺を見て、俺を幸せにしようと思ったのか?」
「はい。その通りです。お願いします、あなたを幸せにさせてください」
幸はきっぱりと断言し、佐野の眼を見据え、ここ数日彼が聞き慣れた言葉を発した。
彼女の言葉が完全に正しいとすると、要するに偶然だったのだ。
その日偶然落ち込んでいた佐野を、偶然途方に暮れていた幸が見つけ、変な言い方だが佐野に縋ろうとしただけだったのだ。
佐野は〝まずい〟と思った。これは本格的に宮代に言っていたヤンデレルートがあり得ると思ったからだ。
この幸という女の言葉が正しいならば、この女は偶然見かけた男に縋ろうとするような人間ということになり、そのような人間に縋られた場合それはもはや自らを縛り付ける鎖でしかない。
いっそこの女が佐野を騙そうと演技をしている方が遥かにマシだった。
少なくとも佐野幸喜と言う青年にとって、幸と言う相手は何処かおかしい人間と成った。それはつまり、本気で面倒くさい人間に自分が絡まれていることが発覚したことと成り、何か手を打つ必要があるということだ。
「……じゃあ、お前はどうやって俺を幸せにするつもりなんだ?」
「……すいません。分かりません」
その言葉はどこか重く、また暗かった。
「おいおい、散々俺を幸せにしたいって言っといてやり方が分からないのかよ?」
佐野は、幸の雰囲気が一瞬暗くなったことに気づいてはいたが、それを無視して苦笑した。彼女の変化に彼が言えることは何も無かったためだ。
「私には人がどうすれば幸せになるかわかりません。私が何をすれば人が心から笑ってくれるか分かりません。ですから私にできる全てを以って尽くします」
幸は佐野の目をあまりにもまっすぐに見つめ続けている。
歪んでいると、佐野は思った。彼女が本気で今の言葉を言っているのならば、ほとんど何も知らぬ人間を幸せにするためだけに自らの全てを差し出そうとするこの女は真っ直ぐに歪んでいる、そう彼には思えた。
それに居心地の悪さを感じつつ、佐野は眼を逸らすために頼んでいたミルクティーを飲んだ。そうしなければまた苦笑いをしそうだった。
何をどうしても幸が自分から意見を折ることはなさそうである。少なくとも佐野幸喜という青年にはそう見えた。
「じゃあ、お前から貰った履歴書? の年齢五歳って何?」
としあえず佐野は一度話題を変えてみることにした。
「私が生まれてからの時間ですが? 何か間違っているところがありましたか?」
幸という人物はどこをどう見ても高校生から大学生ほどの女性であり、どう考えても五歳の幼女には見えない。どうやら気にしたら負けというアレのようだ。
佐野はふと喫茶店の掛け時計を見上げた。それはそろそろお昼時であることを告げている。
それを意識したら途端に佐野は空腹を意識し始めた。感覚というのは不思議な物である。
「じゃあ、まあ、昼飯でも食いに行くか?」
「はい。分かりました。ご一緒します」
適当に目に付いたファストフード店で食事を終え、彼らは当ても無く軽い雑談をしながら歩き回っていた。雑談というより正しくは佐野が幸に質問し、幸がそれに答えるという形だったが。
「ところで幸は明日も俺を訪ねに来るつもりか?」
「はい。私はそうしようと思っています」
「それは俺を幸せにしたいからか?」
「はい。私があなたを幸せにすることを認めてくだされば、私は直ちにあなたを幸せにするために行動します」
何というか今更だが変な女である。そう思いながら佐野は彼女、幸と話すのに恐怖心が薄れてきた自分がいることに気づいていた。
たった半日弱である。それだけの短い時間共に行動してしまっただけで、佐野はこの不審人物に対しての警戒を弱くしてしまった。
佐野はそんな自分に多少危機感を覚えるが、どうやらこの幸という女は佐野に対し害をなすことはなさそうであると思ったのだ。いや、思ってしまったのだ。
この真っ直ぐに歪んでいる女は、おそらく害をなそうとしないだろうと思ってしまったのだ。
「じゃあ、俺がお前にもう来るなって言ったらどうするんだ?」
「私の存在があなたを不快にすると言うのでしたら、二度とあなたに会いません」
力強い断言だった。何処までも重い言葉で、それが嘘であるとは思えなかった。
その重さに佐野は一瞬言葉に詰まってしまった。
ここで、彼が幸にもう来るなと言う事は簡単で、当たり前なことで、そうすべき判断だった。それは彼にも分かっていた、けれど、何故だが佐野はその言葉を言おうとは思わなかった。いや、正確には言う気に成れなかった。
「もしかしてお前は、俺の言葉は何でも聞く気か?」
だから、言おうと思った言葉を変えてみた。
「あなたを幸せにさせてくださるならば、どのような事にでも私は従います」
それに幸は何の躊躇も無く即答し、そのことを期待した自分に佐野は気付いていた。




