四
五月二十七日、日曜日。
昨日寝る前にセットしたケータイのアラーム音で佐野は目が覚めた。眠気眼に彼のケータイ電話を開いてみると、画面に表示されている時刻は八時半。普段、休日は昼近くまで寝ている彼からすると異常なほど早い時間だ。
彼がここまで普段よりも早く起床したのにはわけがあり、それは件の女性が原因である。
(多分、あいつまた来るしな、朝飯食っておくか)
寝巻きであるジャージ姿のまま、佐野は冷蔵庫から取り出した食パンをトースターに入れてスイッチを押す。
普段着に着替え終える頃には食パンが焼き上がり、短く高い音と共に食パンがトースターから飛び出していた。
「ぱっぱと食ってあいつが来るのを待つとしようか」
何となくそう呟きながら佐野はトーストにかじりついた。
食パン二枚という簡素な朝食も終え、佐野が適当なバラエティ番組を見ていると、彼の部屋の外から誰かの足音が聞こえてきた。
件の女が来たのかと佐野が耳を澄ましてみると、足音はちょうど佐野の部屋のドアの前で消え、それからは何の物音も聞こえなくなってしまった。
昨日の女の立ち姿が彼の脳裏を過ぎる。
佐野は多少の冷や汗と苦笑混じりのため息を生み出しながら玄関に向かい、そのままドアを開けた。
「……おはようございます」
彼にとって案の定、三日前からの変わらない姿の彼女がそこには居た。それに佐野はつい大きめなため息を吐いてしまい、肩の力が抜けてしまった。さすがに四回目とも成ると慣れ始める物だ。
「いや、だからさ、チャイムぐらい鳴らせよ」
「寝ていらしたら迷惑かと思いまして。ところで昨日の封筒の中身は読んで頂けましたでしょうか?」
彼女の言葉に佐野は彼女に昨日渡され、破り捨てたくなった履歴書の様な物の内容を思い出し、再び苦笑いをしてしまった。
「……一応読んだよ」
「ありがとうございます。お手を煩わせて申し訳ございません。それで、私のことを分かって頂けたでしょうか?」
「いや、多分お前が渡した紙だけでお前の事情とか素性理解できるのは何かしらのプロフェッショナルだけだよ」
「……そうですか。では、どうすれば私の事情や素性を分かっていただけますか?」
どうやら彼女は何が何でも佐野のことを幸せにしたいらしい。彼女は自分がどの様な感情を佐野に与えているのか分かっていないのだろうか? 普通の情操教育を受けているのならば、自分が佐野と言う人物に恐怖と困惑を与えている事ぐらい分かる物だというのに。
佐野はさっさと彼女をこの場から立ち去らせたかったが、ここでこの三日間のように帰らせたとしても彼女はまた佐野を訪ね続けてくるのは明白である。そのため、彼は友人の金言どおり一度この女性と話してみる事にした。
「……聞くまでも無いけどさ、お前今日も暇だよな?」
「はい」
「んじゃ、適当な喫茶店で話そう。そこでお前の話を聞いてやるよ」
その一瞬、無表情のままだったが彼女は喜んだように佐野には感じられた。
「ありがとうございます」
彼女はまた礼儀正しく頭を下げた。
佐野は昨日宮代と来た喫茶店の適当な席に腰かけていた。その正面には彼が見慣れてきた青いワンピースの彼女が座っている。テーブルには昨日彼女が彼に渡した封筒とそれから出された履歴書のような紙が置かれていた。
「で、そっちの名前なんだけど幸で良いの? 出来れば苗字があるとそっちで呼びたいんだけど」
「はい。私は幸と呼ばれています。けれど申し訳ございませんが、私に苗字はありません」
彼女改め幸の妙な言い回しに佐野は変だとは思ったが、特に彼女に何か聞くようなことはしなかった。純粋に面倒くさく、彼女と関係を深めたくなかったのだ。
「じゃあ幸さん、一応俺も自己紹介して置こう。まあ、俺のところにここ数日訪ねるぐらいだから俺の名前ぐらいは知っているだろうけどね。俺の名前は佐野幸喜。この近くのS大学の理工学部に通っている大学一年だ」
「はい。記憶しました。あと、私のことは呼び捨てで構いません。幸とお呼びください」
幸の言葉に佐野は、彼女は自分から見たら完全に不審者であり今恐怖すら覚えている等の事を言おうとしたが、早く彼の本題に入りたかったため、彼女の言葉を聴くことにした。
「分かった。じゃあ幸、お前の話を聞こう。何で見ず知らずの俺を訪ね続けるのか? 何で俺を幸せにしたいのか? それについて話してくれないか?」
幸は少々考えをまとめるように口を閉じた。
「……私は人を幸せにするために生まれました。だから私はあなたを幸せにしたいのです」
何の説明にも成っていない。相変わらず佐野には幸という人間が何を言いたいのかが分からなかった。しかし、それでも何とか彼は会話をしようと口を開いた。他人との意思疎通には辛抱強さが大事であり、それはたとえ相手が訳の分からないデンパさんでも例外ではないはずだ。
「とりあえず質問だ。何で俺が幸せでは無いって思った?」
少しして幸は口を開いた。
「……五月十八日の金曜日、午後八時。あなたはこの近辺にあるT公園のベンチに腰かけ、ため息を何度も吐いていました」
その言葉に佐野は幸が言うその日のことを思い出した。