1.夜を駆けるパン屋
「うわ、今日はもうおしまい!?」
悲痛な声を聞きカリンは振り返った。
夕暮れ時より少し前。今日は早めに店を閉めているところだった。
「こんにちは、グレンさん」
「グレンでいいよ、カリン。そんで、店閉めるのか?」
「うん、ありがたい事に売る物がなくなっちゃって」
普段ならもう二時間ほどは営業しているのだが、今日はまとめ買いのお客様が重なり、パンが完売してしまったのだ。
「……あ。ひょっとして、買いに来てくれたの?」
「おうよ。今日は夜勤でね」
今から仕事なんだというグレンに「お勤めご苦労様です」と声をかける。
朝は早いけど、その分、夜も早いカリン。夜通し中、街の安全を守ってくれている騎士の皆さんには感謝するばかりである。
グレンは「ありがとう」と言いながら、先程カリンが裏返したドアプレートへ視線を向けた。
「この時間で完売かぁ……」
クローズの文字を見ながら気の抜けた声を出すグレン。
当てが外れたと、顔に書いてあった。
カリンはがっくりと肩を落とすパン好きの騎士様を微笑ましく見守った。
クラエスには他にもパン屋がある。なのに、カリンの店を贔屓にしてくれている事が嬉しいのだ。
「ねえ、グレン。まだ、お仕事までに時間ある?」
「ああ。店でパン買って、どっかで軽く食ってから行くつもりだったから」
「そう。なら、サンドイッチ作ろうか? 残り物で悪いんだけど」
「マジ!? すっげー嬉しいんだけど!!」
あまりの喜びように、カリンは一歩後ろに身を引いた。念のため「の、残り物でだよ?」と、言ってみたのだが彼のテンションは同じ。本当に喜んでくれているようだ。
「じゃあ、すぐ準備するから、お店の中で待ってて」
「おうよ!!」
フフ~ンと、鼻歌を歌いながら店へと入って行くグレン。
カランコロンと鳴ったドアベルもなんだかご機嫌だ。
こんなに喜んでもらえるなんて嬉しいな。
カリンは店じまいの準備をしながら、ニッコリと笑った。
◆◇◆◇
闇夜に浮かぶ細い影。
いつものように軽やかに。カリンは民家の上を飛ぶように舞う。
今日の依頼人は常連さんの男の子。
馴染みの女の子にもらったという、刺繍入りのハンカチだった。
そっけない言い回しながらも、見つかるかどうか真剣に聞いてきた男の子。
つまるところ、気になる相手からの贈り物だったようだ。
「まだ七歳なのに、おませサンだなあ」
ハンカチは葉の茂る木の枝とカブトムシの刺繍がしてあるという。
きっと男の子の喜ぶものを考えたのだろう。女の子の「使って欲しい」という想いが感じられる。多分二人は両想いだ。
カリンはこの小さな恋を応援したくて、シルビアに願った。
彼女も合点承知とばかりに、風に飛ばされてしまったと聞いていたハンカチの場所を見つける。
ハンカチは民家の天窓に引っ掛かっていた。
カリンは身軽さを武器に屋根へと渡り、優しくハンカチを手に取る。
「うん。どこも傷んでない。よかった」
軽く汚れを払い、丁寧にたたむ。
聞いていた通り、珍しい刺繍のハンカチだった。
花と違って虫は一般的な図柄ではない。きっと自分で図案から考え、心を込めて作ったのだろう。カリンにはとてもじゃないけれど真似できない事。だから尚更、ハンカチが見つかって本当に良かったと思った。
カリンはウエストポーチにハンカチをしまい、今度は男の子の住む家の方角を見る。
仕上げはシルビアの羽根とハンカチを交換。あと少しだ。
出先でハンカチを失くしたと言っていた男の子。彼の家はここから少し距離がある。カリンとしては屋根伝いに向かうか、ちゃんと道を歩くか迷う所である。
「――まあ、飛びますか」
結局カリンは早さ重視、屋根伝いに行く事にした。
風が舞い踊るかのように、カリンは次々と屋根の上を渡ってゆく。
幼いころから身体を動かす事が好きだったカリン。両親に叩き込まれるこの動きを遊びだと思って楽しく学んでいた。これならパンの配達も早くできるね。なんて言いながら。
言うまでもないが、こんな特技、普通のパン屋には必要ない。
むしろこの先、パンの配達に生かせることもないだろう。完全にシルビアの用件を満たす為だけの特技。
ただそれもなんだか悔しいので、絶対パン屋の何かに生かしてやろうとカリンは思っている。具体的な案は未だ一つも出ないけれど。
トン、と、軽く着地音を響かせてしまって、カリンは慌てて身を屈めた。
街はすでに寝静まっており、小さな物音でもよく響く。
息を潜めて一拍。
反応が返ってこないことにカリンはホッと胸を撫で下ろした。
――が、甘かった。
「そこに、誰かいるのか」
突然聞こえた声にカリンは息を呑んだ。
声は下の方から聞こえている。多分、夜回りの騎士だろう。
カリンは動けない。
少し不用心過ぎたと、心の中で自分を叱り。この状況をどう切り抜けるか考える。
――思いついたのは、一つだけだった。
「……みゃあ」
「なんだ、ネコか」
ナイスわたし!! ファインプレー!!
下からの気配が遠ざかる。
グッと拳を握りしめたポーズで制止していたカリンは、今度こそ辺りから人の気が無くなった事を確信すると小さく息をついた。
――両親から叩きこまれた秘儀、声真似。
これもパン屋には不必要な特技であった。
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