災厄の始まり⑤
朝の空気にまどろむカルギアの街。その眠りを破壊するように、遠くから単車の駆動音が聞こえてくる。
近付く者とて誰もいない、高架道路の陸橋の根元。壁と見まごう巨大な橋脚には、地肌が見えぬまでに落書きが敷き詰められている。足元に転がるのは不法投棄された受像機や冷蔵庫、一世代前の電算機、それに紙屑や正体不明の粘液。
それら雑多なガラクタに混ざって、二人の人物が向かい合っていた。
一人は危うげな男だ。俯き気味の顔の奥で、橙色の瞳が鬼火の怪しさを宿して燃えていた。身にまとう臙脂色の装束も、乾いた血を連想させる不気味さ。男が幽鬼じみた身振りで体を揺らすたびに、腰に吊られた無数の金属柱が悲鳴のような演奏を奏でる。
もう一人は、容貌から特徴を摑むのが難しかった。どこにでもいる平凡な人物だ。体格は小柄と言えなくもない中肉中背で、服装も大量生産品。橋脚に背を預け、地べたに尻を下ろして、両脚を前方に投げ出している。
顔の特徴は判別しようもなかった。首から上がなかったので。
それはカルギア無差別殺人の、二十一人目の被害者だった。
死体を見下ろす男の瞳からは、既に興味の光が失せていた。手にした巨大な剣も、能力が解除されて無音で分解されていく。
男には目的がなかった。これからどこへ行き、何をし、生きるのか。そもそも生きている必要すらない気がする。男は全てを失ったのだから。
最近は食欲が湧かず、何かを口に運ぶ気すらしない。その所為で男はガリガリに痩けていた。
『もう止めようよ、こんなこと』
「黙れ、お前の指図なんか聞きたくもない」
男は心の底から枯れ果てた声を出す。《声》は一度だけ嗚咽を漏らして、沈黙した。
男は死体に背を向けて歩き出す。家族も、仲間も、寄る辺すらも失った男がカルギアの街に呑まれ、いつしか消えた。
後に残されたのは、男の狂気を示す首のない死体だけ。
「噂の無差別殺人犯に遭遇して、一時はどうなることかと思ったが……」
いや違う。誰の姿も見えぬその場に、しかし誰かの独り言が漏れていた。
「『お前の生きている理由を聞かせろ』か。実に意味のない問いだ」
呆れているでも、嘆いているでも、嘲っているでもなく、ただ無感情に、無感動に、誰かが笑っていた。
「私とて、私の存在理由を知っているわけではない。
だからこそ、誰も彼もが自分で自分に役割を与えて生きているのだ」
生きる理由を訊くのは、そのまま『お前は何者だ?』と問うているのに等しい。
だからこそ男は死体に尋ねた。自分で自分に課した役割を見失ったから、自分自身をなくしたから、誰かに聞かずにはいられなかったのだ。
そして男の望む答えが返ってこなかったがため、死体は首を失った。
「暇潰しもこれくらいにして、そろそろ行くか」
言って、人物は立ち上がった。橋脚から背を離し、地べたから尻を上げて。
「私が私に与えた、私という役割を果たしに」
朝の空気にまどろむカルギアの街。その眠りを破壊するように、首なし死体の笑い声が響いていた。